夜が少しだけ優しかったから
人々に押し込まれる満員電車に揺られ、帰路に向かう。
湿ったコートの匂い、整髪料の匂い、どこかの香水の残り香が混ざり合った空気が、密閉された車内に漂っていた。
吊り革を握る手が、少しずつ汗ばんでいく。
誰とも目を合わせないまま、ただ前だけを見て、揺れに身を任せる。
乗り換えの駅に着いても、あと一時間半の電車旅が待っていた。
ホームに降りた瞬間、押し潰されていた体が少しだけ解放される。
それでも、次の電車に乗り込めばまた同じ光景が待っている。
このまま、大きな波もなく、下降気味の人生を送るのかと想像したら、あまりの恐ろしさに身震いした。
何も起きないまま、ただ時間だけが過ぎていく人生。
それが一番現実的で、一番あり得る未来だと、どこかで分かっている自分がいた。
ようやく座れた席に深く腰かける。
背もたれに体を預けると、全身の力が抜けていく。
イヤホンから流れる音楽に耳を傾けながら、目を瞑って無為に流れる時間を堪能する。
電車の走行音と、音楽と、眠気が混ざり合い、意識がゆっくりと溶けていく。
三日ぶりに、深夜の散歩に繰り出す。
三日前と同じルートを辿る。
特に理由があるわけじゃない。
ただ、あの夜の空気を、もう一度確かめたかった。
住宅街を抜け、駅を越え、飲み屋街を横切り、公園へ向かう。
足取りは、前よりも少しだけ軽かった。
また、あの人がいた。
ベンチの端に、前と同じように座っていた。
街灯の光に照らされて、輪郭が柔らかく浮かび上がっている。
「また会ったね」
不意の問いかけに、思考が停止する。
声は柔らかく、どこか余裕があって、少しだけ低かった。
耳に残る声だった。
思考し始めても、返す言葉が、見つからない。
心臓の鼓動だけがやけに大きくなる。
「そうですね」
振り絞った返答は、意味不明なものだった。
それでも、その人は気にした様子もなく、
「そうだね」
と、軽く笑った。
その笑い方は、どこか大人で、余裕があって、少しだけ悪戯っぽかった。
思わず、見惚れた。
フードを被っていないその姿を、初めてちゃんと見る。
肩にかかるくらいの長さの黒髪は、夜の光を受けて、柔らかく艶が出ていた。
整いすぎていない、少しだけ無造作な前髪。
その隙間から覗く瞳は、黒に近い深い色をしていて、街灯の光を静かに反射していた。
鼻筋は細く、唇は厚すぎず、薄すぎず。
笑うと、口元に小さな柔らかさが生まれる。
白すぎない、少しだけ血色のある肌。
夜風に触れて、ほんのり赤みを帯びている頬。
大人の女性特有の、整いすぎない完成度。
作り込まれていないのに、目が離せないタイプの綺麗さだった。
パーカーの下から覗く首筋は細く、鎖骨の影が淡く浮かんでいる。
ラフな服装なのに、どこか女性らしいラインが残っていた。
「この時間、よく散歩しているの?」
「三日前が初めてで、今日が二回目です」
「そうなんだ。私は、このくらいの時間に、ランニングしてる」
「毎日ですか?」
「ううん。気分が向いた時だけ」
その言い方が、妙に格好良かった。
自分の生活を、自分で決めている人の話し方だった。
この出会いを、ただの偶然だけで片付けたくなかった。
「君は学生さん?」
「はい。大学三年生です」
「若いね」
年齢を聞き返す勇気は、僕には無かった。
聞いたら、距離が変わってしまいそうな気がした。
「大学三年なんて、一番楽しい時だね」
「そうですね」
思っていることの逆の言葉を吐く。
喉が渇いてきた。
「今って何時? 家に携帯忘れてきちゃったんだよね」
ポケットから携帯を取り出して、電源を入れる。
暗闇の中で、画面の光がやけに明るく見えた。
「一時半」
今の時刻を、お姉さんに伝える。
「まだそんな時間か」
「いつもなら寝ている時間ですよ」
ニコッと口角を上げ、小悪魔のような笑みを浮かべた彼女は、僕に人差し指を向ける。
その仕草が、子供っぽくも見えて、
でも、どこか大人の余裕もあって、
妙に心臓がうるさくなる。
「まだまだ夜は、これからだよ」
その言葉を聞いた瞬間、
この夜が、
少しだけ特別なものに変わった気がした。
カーテンの隙間から差し込む光が、瞼の裏をゆっくりと照らしていた。
完全に目が覚める前の、
現実と夢の境目みたいな時間。
布団の中は、まだ少しだけ暖かかった。
外の空気は冷たいはずなのに、
体の奥に、昨夜の余韻みたいな温度が残っている。
ゆっくりと目を開ける。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
見慣れた朝。
特別なことは、何も起きていなかった。
枕元に置いていた携帯に手を伸ばす。
画面を点けると、まだ少しだけ早い時間だった。
通知は、特に増えていない。
世界は、僕が眠っている間も、
特に何も変わらなかったらしい。
小さく息を吐く。
体を横に向けて、布団の中に顔を半分埋める。
シーツの冷たさが、少しだけ現実を思い出させる。
昨夜のことを、ぼんやり思い出す。
街灯の光。
夜風。
あの人の声。
あの人の笑い方。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
でも同時に、
それが現実だったのか、
ただの偶然だったのか、
少しだけ分からなくなる。
ベッドの上で、小さく伸びをする。
肩と背中の筋肉が、ゆっくりと目を覚ましていく。
今日も、多分、
特別なことは起きない。
大学に行って、
講義を受けて、
電車に乗って、
また帰るだけ。
それでも。
昨日までとは、
ほんの少しだけ、
何かが違う気がしていた。
理由は、分からない。
ただ——
もう一度、あの夜を歩いてみてもいいかもしれない。
そんなことを、思っていた。




