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19/52

影は重ならない

翌朝。


目を開けると、

昨日の波の音が

もう遠い。


遠いのに、

耳の奥に残っている。


残っているものは、

たぶん音じゃない。


“残っていていい”って許可みたいなものだ。


 


天井が見える。


いつもの天井。


いつもの距離。


触れられない距離。


触れられない距離があるのに、

昨日は触れられそうだった。


触れられそうだったことが、

少しだけ怖い。


 


スマホに手が伸びる。


伸びて、

止まる。


通知はない。


ないのに、

心臓が一度だけ跳ねる。


跳ねた心臓が、

自分で自分に言う。


――期待するな。


期待するなって言い方が、

もう期待してる。


矛盾。


矛盾のまま、

僕は布団から出る。


 


キッチン。


湯気。


味噌汁の匂い。


昨日の湯気と同じ匂いじゃない。


同じじゃないのに、

似ている。


似ているものがあるだけで、

今日は少しだけ歩ける。


 


母が言う。


「昨日、どこ行ってたの?」


声は軽い。


軽いのに、

軽さが刺さる時がある。


「……海」


言うと、

母が少しだけ驚く。


「海? 寒くなかった?」


寒かった。


寒かったから、

嘘が減った。


でも、言わない。


言わないで頷く。


「……寒かった」


「風邪ひかないでね」


風邪。


身体。


また身体。


身体の話ばかりされると、

自分の中身の薄さが

余計に目立つ気がする。


目立つのが怖いから、

味噌汁を飲む。


熱い。


熱いから、

今は現実だ。


 


父は新聞をめくる音だけ出している。


音だけ。


言葉じゃない音。


言葉じゃない音が、

一番重いことがある。


 


「この時期、動かないと」


父が言う。


それだけ。


それだけで、

胃の奥が掴まれる。


動かないと。


“ちゃんと”の別の言い方。


僕は箸を動かす。


動かしているふりをする。


ふり。


ふりばかり。


昨日、海でやめたはずなのに。


やめたのは、

昨日だけだった。


分かってる。


分かってるから、

今は頷くだけにする。


「……うん」


うん、は便利だ。


便利すぎて、

何も言ってないのと同じになる。


でも、

何も言えない朝がある。


今日はその朝だ。


 


外に出る。


空が白い。


白いのに、

優しくない。


優しくない白さは、

“正しさ”に近い。


駅へ向かう道。


自販機。


街灯。


いつも通り。


いつも通りの中で、

昨日だけが浮いて見える。


浮いて見えると、

また大事にしそうになる。


大事にしすぎると死ぬ。


だから、

僕は昨日を

ポケットに入れたまま歩く。


落とさないように。


握りつぶさないように。


矛盾した持ち方。


 


大学。


蛍光灯。


机。


ペン。


講義の声が遠い。


遠いのに、

ノートに線を引く。


線を引くと、

何かをやった気になれる。


やった気になれるだけで

昼が越えられる。


越えられるなら、

今はそれでいい。


 


昼休み。


食堂。


ざわめき。


友人が言う。


「就活サイト、マジで広告えぐくね?」

「見てるだけで疲れるわ」


疲れる。


その言葉が軽い。


軽いのに、

僕の中では重い。


見てるだけで疲れるなら、

“やらなきゃ”はもっと疲れる。


でも、

疲れるって言えない。


言ったら、

自分の薄さがバレる気がするから。


僕は笑うふりをする。


「……分かる」


分かる、は便利だ。


便利すぎて、

僕の本音はどこにもいかない。


どこにもいかないまま、

胸の奥に溜まる。


溜まると、

腐る。


腐る前に吐きたいのに、

吐ける場所が少ない。


白い円が欲しくなる。


海が欲しくなる。


欲しがるのが怖い。


 


夕方。


バイト。


店は相変わらず

“始まり”の顔をしている。


初売り。

福袋。

「おめでとうございます」。


おめでとうございますを言うたびに、

口の中が乾く。


乾くのに、

笑う。


笑うふりをする。


ふりは上手くなる。


上手くなるほど、

自分が薄くなる。


薄くなって、

レジの裏で一度だけ息を吸う。


冷たい空気が肺に入らない。


店内の空気は温かい。


温かいと、

嘘が増える。


嘘が増えると、

息が浅くなる。


矛盾。


 


帰り道。


駅の階段。


足が重い。


重いのに、

ポケットの中のスマホが

まだ温かい気がする。


昨日の“またね”の熱。


熱は消える。


消えるのが怖い。


だから、

僕は触らない。


触ったら確かめる。


確かめたら崩れる。


崩れるのが怖い。


 


でも、

震える。


震えた瞬間だけは、

止められない。


千華さん。


短い。


「今日、しんどい?」


それだけ。


それだけで、

胸の奥がほどける。


ほどけるのが悔しい。


悔しいのに、

指が動く。


「ちょっとだけ」

「千華さんは?」


送信。


送ってから、

すぐに後悔する。


返事が来ない時間が怖いから。


怖いのに、

もう送ってしまった。


送ってしまったものは戻らない。


戻らないから、

僕は階段を上る。


上って、

ホームに立つ。


 


返事は、

電車が来る直前に来た。


「私も」

「今日はもう寝る」

「海、ありがと」


海、ありがと。


海は人じゃない。


でも、

海は確かに

僕らを一回だけ呼吸させた。


呼吸させたものに

ありがとうって言うのが、

彼女らしい。


僕は返す。


「こちらこそ」

「おやすみなさい」


おやすみなさいを打って、

少しだけ安心する。


安心の仕方が怖い。


でも、

安心しないと眠れない夜がある。


今日はその夜だ。


 


家に着く。


鍵。


いつもの匂い。


洗剤。

畳。

古い木。


そこに、

潮の匂いはもうない。


ないのが少し寂しい。


寂しいのが普通。


昨日、言われた。


普通。


普通って言葉を

自分の中で転がす。


転がすと、

少しだけ丸くなる。


 


湯を沸かす。


湯気。


熱い。


熱いから現実だ。


カップを持つ指が、

昨日よりちゃんと生きている。


生きている指で、

スマホを伏せる。


伏せるのは、

逃げじゃない。


今日は、

そういうことにする。


 


布団に入る。


目を閉じる。


波の音は、

もう鳴らない。


代わりに、

電車の音がする。


街の音。


昼の音。


昼の音は薄い。


薄いのに、

明日はまた来る。


来るのが怖い。


怖いから、

僕は口の中だけで言う。


――生き延びよう。


昨日より小さい声で。


小さい声でも、

声にできたら

まだ終わってない気がする。


 


眠りかけた頃、

スマホが一度だけ震える。


見ない。


見ないって決めた。


決めたのに、

震えが胸の奥まで届く。


僕は一度だけ息を吸う。


消えないように。

燃えすぎないように。


矛盾した呼吸。


そして、

スマホを見ないまま、

手だけ伸ばして

枕の下に入れる。


そこに入れれば、

熱は少しだけ逃げない気がした。


気のせいでもいい。


気のせいで

明日の昼を越えられるなら。


僕は目を閉じたまま、

次の白い朝に備える。



翌朝。


目を開けると、

枕の下の熱がもうない。


ないのに、

指がそこを探る。


探って、

触れて、

何もないことに安心して、

何もないことに少しだけ傷つく。


矛盾。


 


スマホを取り出す。


画面は暗い。


暗いのに、

僕の心臓は先に明るくなる。


先に明るくなるのが怖い。


でも、

見てしまう。


通知。


千華さん。


短い。


「ごめん」

「寝落ちしてた」

「明日、昼すぎなら少しだけ会える」


明日。


昼すぎ。


少しだけ。


その三つが並ぶと、

胸の奥が勝手に息をする。


息をしてしまうのが怖い。


でも、

息をしないと死ぬみたいな日がある。


今日がその日かもしれない。


 


僕は返す。


「大丈夫です」

「寝れてよかった」

「昼すぎ、行けます」


送信。


送ってから、

“行けます”の重さに気づく。


行けるって言った瞬間、

明日が形になる。


形は怖い。


でも、

形がないと溶ける。


矛盾。


 


キッチン。


湯気。


味噌汁。


同じ匂い。


同じ匂いが

今日は少しだけ薄い。


薄いのは、

僕の中が少しだけ違うからだ。


母が言う。


「今日は大学?」


「……うん」


父は新聞をめくる。


めくる音が重い。


重いのに、

今日は少しだけ耐えられる。


明日があるから。


明日があるから耐えられる自分が

また怖い。


怖いから、

味噌汁を飲む。


熱い。


熱いから現実だ。


 


大学。


蛍光灯。


机。


ペン。


文字を書く。


書きながら、

明日の“昼すぎ”を思い出してしまう。


思い出すのが怖い。


怖いのに、

思い出すと胸が少し軽い。


軽いのが怖い。


怖いことばかり。


怖いことばかりなのに、

生きてる。


 


講義が終わる。


友人が言う。


「今日さ、帰りにスタバ寄らね?」


寄らない。


寄ったら笑う。


笑ったら

僕の中の薄さがバレる気がする。


でも、

断る理由を作るのも疲れる。


「……ごめん」

「バイト」


「またかよ」

友人が笑う。


笑いが軽い。


軽いのに、

僕は救われる。


救われるのが、

少しだけ悔しい。


 


夕方。


バイト。


店内のBGMが

昨日と同じサビを回す。


回るサビは

僕の時間も回していく。


回って、

終わって、

外に出る。


冷たい空気。


肺が起きる。


起きた肺で、

僕は一度だけ立ち止まる。


明日、昼すぎ。


昼。


昼に会うのは、

夜より怖い。


夜は白い円があった。


昼は白い円がない。


白い円がない場所で、

僕はちゃんとしてるふりをしないといけない。


でも、

千華さんが“昼すぎ”って言った。


昼に会うって言った。


それは、

白い円がなくても

会うってことだ。


会うってことが、

怖いのに少し嬉しい。


 


家に帰る。


鍵。


いつもの匂い。


洗剤。

畳。

古い木。


そこに今日は、

少しだけ“明日”の匂いを混ぜてしまう。


匂いなんてないのに。


ないのに混ざる気がする。


気がするだけで、

僕は少しだけ速く息をする。


速くなった息を、

整える。


消えないように。

燃えすぎないように。


矛盾した呼吸。


 


夜。


スマホが震える。


千華さん。


「昼すぎ、どこがいい?」

「駅前は人多いから、海の近くの公園でもいい」


公園。


昼の公園。


白い円じゃない公園。


でも、

海の近く。


海の近くなら、

嘘が少ない。


僕は返す。


「海の近く、いいです」

「風、強いかもなので、温かいのも買いましょう」


送信。


送ってから、

自分が“未来の準備”をしていることに気づく。


準備。


準備してしまう自分が怖い。


でも、

準備しないと

僕はすぐ壊れる。


だから、

準備を許す。


今日だけじゃない。


明日も少しだけ。


 


眠る前に、

スーツのことを考える。


就活のスーツじゃない。


ただの服のこと。


何を着るかで、

“会える側の人間”に

なれる気がするから。


なれる気がするのが嫌だ。


嫌なのに、

クローゼットを開けてしまう。


開けて、

手を止める。


止めて、

結局、いつものにする。


いつものは逃げじゃない。


いつものは、

僕が溶けないための形だ。


そういうことにする。


 


翌日。


昼。


空が白い。


白いのに、

今日は少し眩しい。


眩しい白さは

“正しさ”に近い。


近いのに、

海の方へ向かう電車に乗ると

白さの質が変わる。


湿り気が混ざる。


潮の匂いが混ざる。


混ざると、

息が少しだけ深くなる。


嘘が減る。


 


駅に着く。


昼の駅は

夜よりうるさい。


うるさいのに、

僕の心臓も負けずにうるさい。


スマホが震える。


千華さん。


「着いた」

「公園の入口、木のとこ」


木。


木の場所は分かる。


分かるのに、

足が少しだけ遅くなる。


遅くなるのは、

会う前に

自分の薄さを確かめたくなるからだ。


確かめたら崩れる。


崩れたくない。


崩れたくないのに、

足は勝手に慎重になる。


 


公園。


昼の光。


白い円はない。


でも、

木の影がある。


影は正直だ。


正直な影の下に、

彼女がいる。


帽子を深めにかぶって、

コートの襟を立てて、

ベンチの端で

小さく背中を丸めている。


夜と同じ姿勢。


昼なのに。


昼なのに、

“終わってない顔”をしている。


僕は近づく。


近づくほど、

自分の中の言葉が減る。


減って、

最後に残るのは

一番小さい言葉だけ。


「……こんにちは」


彼女が顔を上げる。


目の下の影。


乾いた唇。


でも、

笑う。


ほんの少しだけ。


「こんにちは」

「来たね」


来たね。


迎えるでも責めるでもない。


事実の声。


僕は頷く。


頷いて、

隣に座らない。


少しだけ離れて座る。


離れるのは、

距離を取るためじゃない。


呼吸を残すためだ。


 


彼女が言う。


「昼、うるさいね」


「……うるさいです」


「夜の方が好き?」


夜。


白い円。


僕は少し迷って、

正直を少しだけ出す。


「……夜の方が、嘘が減ります」


千華さんが短く笑う。


「分かる」

「でもさ」

「昼も、たまに必要」


必要。


その言葉が

胸の奥に落ちる。


必要って言われると、

自分が少しだけ

生きてもいい側に寄る気がする。


寄るのが怖い。


でも、

寄らないと

ずっと遠い。


 


彼女がポケットからタバコを出しかけて、

やめる。


昼だからか、

人がいるからか、

それとも

僕の前だからか。


分からない。


分からないまま、

彼女は代わりに言う。


「……眠れてない」


「……大丈夫ですか」


大丈夫じゃないのに、

大丈夫って聞く癖。


癖は怖い。


でも、

聞かないと何も始まらない。


彼女は肩をすくめる。


「大丈夫じゃないけど」

「まぁ、生きてる」


生きてる。


その言葉が

海みたいに嘘をつかない。


僕は息を吐く。


白い。


昼の白い息は、

夜より薄い。


薄いのに、

確かに出る。


 


彼女が言う。


「和樹くん」


「……はい」


「就活の話」

「家、また言われた?」


僕は頷く。


頷いて、

言葉を探す。


探して、

短く言う。


「……動けって」


動け。


ちゃんと。


正しさ。


彼女が少しだけ眉を寄せる。


「しんどいね」


短い。


短いのに、

胸の奥がほどける。


ほどけるのが怖い。


でも、

今日は昼だ。


白い円がない。


白い円がないから、

ほどけすぎたら困る。


困るから、

僕はほどけた分を

自分で戻す。


戻して、

言う。


「……でも」

「……昨日、海があったから」

「……今日は、まだ大丈夫です」


彼女が目を細める。


「海、強いな」


「……強いです」


「私も、海があると助かる」


助かる。


その言葉が

二人の間に小さく置かれる。


置かれると、

昼のうるささが少しだけ遠くなる。


 


彼女が立ち上がる。


「ちょっと歩こ」

「座ってると、余計に眠くなる」


歩く。


歩けば、

言葉が散る。


散れば、

濃くならない。


濃くならないのが救いで、

濃くならないのが寂しい。


矛盾。


僕は立つ。


「……はい」


 


並んで歩く。


歩幅は合わせない。


少しだけずらす。


ずらすと、

呼吸が残る。


残った呼吸で、

僕は言う。


「……昼に会うの」

「……少し怖かったです」


言った瞬間、

自分の耳が熱い。


千華さんは笑わない。


笑って逃がさない。


代わりに、

風を見てから言う。


「私も」

「でも、怖い方が」

「嘘が少ない」


嘘が少ない。


それは、海の言葉だ。


僕は頷く。


頷いて、

風の音を聞く。


風は正直だ。


正直な風の中で、

二人の影が地面に伸びる。


影は重ならない。


重ならないから、

窒息しない。


 


彼女が小さく言う。


「……また、夜も行こ」


夜。


白い円。


でも、

昼もあった。


昼があったなら、

夜は終わりじゃない。


続きの形だ。


僕は短く返す。


「……はい」

「また、行きましょう」


 


そのまま、

公園の出口へ向かう。


出口は、

終わりの形みたいで少し怖い。


でも、

出口の先に

海の匂いがまだある。


匂いがあるなら、

今日は終わってもいい。


終わっても、

全部が消えない気がする。


消えないように。

燃えすぎないように。


矛盾した呼吸のまま、

僕は昼の中を歩く。


次の長い昼を

壊さないために。

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