またねの熱、潮の匂い
翌日。
目を開けると、
昨日より目が重い。
重いのに、
胸の奥は少しだけ軽い。
軽いのは、
「明後日」のせいだ。
明後日。
たった三文字の未来。
それだけで
今日の昼を越えられる気がするのが、
また怖い。
怖いから、
僕は未来を見ないふりをして起きる。
キッチン。
湯気。
味噌汁の匂い。
家の匂いは、
いつも同じで、
いつも逃げられない。
母が言う。
「今日もバイト?」
「……うん」
「身体壊さないようにね」
身体。
連れてきて、
胸の奥が少しだけ熱くなる。
熱いのが怖い。
怖いから、
僕は味噌汁を飲む。
熱い。
熱いから、
今は現実だ。
昼。
大学。
蛍光灯。
机。
ペン。
文字を書く。
書いても、
中身に入らない。
でも今日は、
「入らない」ことが少しだけ許せる。
明後日があるから。
明後日があるから許せる自分が、
情けなくて、
その情けなさを
ペン先に押し付けるみたいに書く。
講義が終わると、
友人が言う。
「年始って暇じゃね?」
「……バイト」
「えぐ」
笑いながら言う。
笑いながら言えるのが羨ましい。
羨ましいのに、
羨ましいって言うと
また自分が薄くなるから、
僕は頷くだけにする。
夕方。
バイト。
店は年始の顔をしている。
福袋。
初売り。
「おめでとうございます」。
“始まり”の言葉が多い。
始まりの言葉は軽い。
軽いのに、
僕の中では重い。
始まるってことは、
続くってことだ。
続く昼が怖い。
だから、
僕は手を動かす。
考える隙を潰す。
潰してる間だけは
自分が溶けない。
閉店後。
外。
冷たい空気。
肺が起きる。
起きた肺で
スマホを握る。
開かない。
開いたら、
何かを確かめたくなる。
確かめたら、
足場が崩れる。
崩れるのが怖い。
でも、
ポケットの中で震える。
千華さん。
「明後日、夕方」
「行けそう」
短い。
短いのに、
僕の中で音が鳴る。
行けそう。
“行ける”じゃないところが
彼女らしい。
彼女の限界の形。
僕は返す。
「了解です」
「無理なら無理で大丈夫です」
送ってから、
自分で自分を笑う。
大丈夫じゃないくせに。
でも、
大丈夫じゃないって言ったら
彼女を縛る。
縛りたくない。
縛りたくないのに、
縛ってしまいそうな指を
必死で抑える。
家に帰る。
鍵。
いつもの匂い。
洗剤。
畳。
古い木。
匂いがいつも通りすぎて、
胸の奥が少しだけ乾く。
乾くから、
僕は布団に入る。
眠りは浅い。
浅い眠りの中で、
海の音だけが
勝手に頭の奥で鳴る。
明後日。
朝。
空が白い。
白さが少し眩しい。
眩しいのに、
僕は今日だけ目を逸らさない。
逸らさないって決める。
決めないと、
また逃げるから。
昼。
大学はない。
年始の静けさがある。
静けさがあると、
逆に不安が聞こえる。
不安の音は、
自分の心臓の音に似ている。
似ているから、
僕はコートを着て外に出る。
歩く。
歩いて、
駅へ向かう。
夕方。
集合は「現地合流」。
その言葉が助かる。
三人で会うのに、
二人で会う直前の緊張を
持たなくて済むからだ。
それでも、
胸の奥は落ち着かない。
落ち着かないまま、
電車に乗る。
窓の外。
街の色が薄くなっていく。
薄くなると、
少しだけ息が深くなる。
海へ近づく色だ。
降りる駅。
潮の匂いが混ざる。
その混ざり方が、
嘘をつかない。
駅前の空気は冷たい。
冷たいのに、
どこか湿っている。
それが海の近さだ。
僕はポケットの中でスマホを握る。
通知。
榊さん。
「俺、もう着いた! 海やばい!」
「二人はどの辺?」
テンションが軽い。
軽いのが救いだ。
僕は返す。
「今、駅出ました」
「堤防の方行きます」
送信。
送ってから、
別の通知。
千華さん。
「いま向かってる」
「遅れたらごめん」
遅れたら。
その言葉が、
“来る”の前提になってる気がして、
胸の奥が少しだけほどける。
ほどけるのが怖い。
でも、
今日だけはほどけてもいい。
今日だけ。
白い円の代わりに、
海があるから。
堤防。
風。
強い。
強い風は、
余計な匂いを飛ばす。
飛ばして、
残るものだけを残す。
波の音。
遠くのカモメの声。
足元の砂利の音。
全部が正直だ。
正直すぎて、
僕の中の嘘が居場所をなくす。
嘘が居場所をなくすと、
胸の奥が少し痛い。
でも、
その痛みは
いつもの痛みと違う。
逃げたい痛みじゃなくて、
戻ってくる痛み。
榊さんが先にいた。
コートのポケットに手を突っ込んで、
海を見てる。
背中がやけに大きい。
振り返って、
僕を見つけると手を上げる。
「お、和樹!」
「風、えぐいな!」
その軽さに救われる。
救われながら、
僕は笑う。
笑える自分が少しだけ戻る。
「……寒いですね」
「寒い寒い」
「でも海、最高じゃね?」
最高。
その言葉の軽さが、
今日はありがたい。
少しして、
千華さんが来る。
遠くからでも分かる。
歩き方。
コートの揺れ方。
近づくにつれて、
顔が見える。
目の下の影はまだ薄くある。
でも、
今日はその影が
“生きてる”の影に見える。
死んでる影じゃない。
「……ごめん、遅れた」
「全然」
榊さんがすぐ言う。
「俺も今来たとこ!」
嘘だ。
嘘だけど、
嘘が優しい。
千華さんが笑う。
本物に近い笑い。
その笑いで、
僕の胸の奥が息をする。
息をしてしまうのが怖い。
でも、
今日は三人だ。
三人の空気が
濃さを薄めてくれる。
薄まるのが救いで、
薄まるのが寂しい。
また矛盾。
でも、
矛盾を抱えられるくらいには
今日は息ができる。
榊さんが言う。
「てか、海、嘘つかねぇな」
「風も波も、全部そのまま」
千華さんが頷く。
「ね」
「人みたいに、盛らない」
盛らない。
その言葉が、
僕の胸に刺さる。
僕はいつも盛ってる。
平気なふり。
大丈夫なふり。
ちゃんとしてるふり。
盛ることで生きてきた。
でも、
海は盛らない。
盛らないまま、
冷たくて、
優しい。
矛盾。
僕は言う。
「……ここだと」
「……ちゃんとしてるふり、しなくていい気がします」
言ってから、
少し恥ずかしくなる。
恥ずかしいのに、
千華さんが短く言う。
「うん」
「今日は、やめよ」
榊さんが首をかしげる。
「何の話?」
千華さんが笑って、
肩をすくめる。
「内緒」
榊さんが笑う。
「なんだよそれ」
「ま、いいや。寒いし、なんか飲む? 自販機あるぞ」
その現実的な提案がありがたい。
ありがたいから、
僕は頷く。
三人で歩く。
砂利の音が三つになる。
音が三つになると、
自分の心臓の音が
少し聞こえにくくなる。
それが救いだ。
救いなのに、
千華さんの隣を歩く距離が
少しだけ怖い。
怖いから、
僕は海を見る。
海を見れば、
嘘が減る。
嘘が減れば、
今の距離をそのまま持てる。
自販機。
白い光。
コインを入れる音。
温かい缶を握る。
熱が指先に戻る。
戻る熱が、
「生きてる」って感じに似ていて、
少しだけ安心する。
千華さんは同じやつを買う。
榊さんは甘いやつを買う。
「絶対それ甘すぎだろ」
千華さんが言う。
「甘いのが好きなんだよ」
榊さんが笑う。
その会話が、
普通すぎて助かる。
普通の中にいると、
僕も普通になれる気がする。
普通は、
今の僕には救いだ。
堤防に戻る。
海の前で、
三人で缶を開ける。
プシュ。
音が冷たい空気に吸われる。
千華さんが息を吐く。
白い。
その白い息を見て、
僕は思う。
白い円じゃなくても、
白いものはある。
白い息。
白い空。
白い波の泡。
白さは、
ここでは“正しさ”じゃない。
ただの呼吸だ。
千華さんが言う。
「…来れてよかった」
珍しく長い。
長いのに、
小さい声。
僕は返す。
「……僕も」
榊さんが間に入る。
「な、来て正解だろ」
「来年も来よ」
来年。
その言葉が少しだけ怖い。
でも、
怖いままでもいい。
今日があるなら。
僕は言う。
「……来年は」
「……春休みも、旅行、ですよね」
榊さんが目を丸くする。
「あ、それ!」
「三人旅行、マジでやろうな」
千華さんが短く頷く。
「うん」
「ちゃんと、生きてたらね」
ちゃんと。
その言葉が、
ここでは少しだけ軽い。
軽いまま、
胸の奥に釘みたいに刺さる。
刺さる釘があるなら、
また昼を越えられる。
風が強くなる。
髪が揺れる。
コートが鳴る。
波が少し荒れる。
海は嘘をつかない。
嘘をつかないから、
僕はここでだけ
少しだけ自分に戻れる。
戻れる気がするだけで、
今は十分だ。
僕は缶を握り直して、
息を整える。
消えないように。
燃えすぎないように。
矛盾した呼吸のまま、
海の前で立つ。
次の長い昼へ戻るために。
そして、
次の夜を壊さないために。
しばらくして。
榊さんが缶を揺らして言う。
「てかさ、指先死ぬ前に、どっか入ろ」
「このまま立ってたら、俺ら三人とも海の一部になるぞ」
海の一部。
冗談みたいで、
冗談じゃない。
風が容赦なく手袋の隙間を探して、
皮膚の奥まで冷やしてくる。
千華さんが短く笑う。
「それは、嫌」
嫌、と言える声が、
少しだけ丸い。
丸い声があるだけで、
今日の僕は助かってしまう。
助かってしまうのが怖い。
でも、
寒い。
寒さは嘘をつかない。
嘘をつかないものに引っ張られて、
僕は頷く。
「……どこか、行きましょう」
堤防を降りる。
足元の砂利が鳴る。
三つの足音。
三つの足音は、
二つの影より少しだけ安心だ。
安心の仕方が
いつもより健全な気がする。
気がするだけかもしれない。
でも、
気がするだけで十分な日がある。
近くの小さな店。
ガラス戸。
開けると、
暖かい空気が顔に当たる。
当たった瞬間、
肺が一度だけ緩む。
緩んで、
身体の芯の冷えがはっきりする。
寒かったんだ。
今さら気づく。
席に座る。
コートを脱ぐ。
榊さんが先にメニューを開いて、
勢いで言う。
「俺、ラーメン」
「味噌。絶対」
絶対。
この人の「絶対」は軽い。
軽いから、
怖くない。
千華さんが眉を上げる。
「この後、喉乾くやつ」
「乾くのがいいんだよ」
「冬って感じする」
冬って感じ。
その言葉が、
海の風と繋がっていて、
少しだけ笑ってしまう。
千華さんも笑う。
「……じゃあ、私も味噌」
榊さんが目を丸くする。
「え、まじ? 珍し」
「今日は、真似してもいい日」
真似。
その言葉が出るのが、
なんだか可笑しい。
僕は少しだけ間を置いて言う。
「……僕も、味噌で」
榊さんが声を上げる。
「え、全員味噌じゃん!」
「なにこのチーム感!」
チーム感。
その軽さがありがたい。
ありがたいから、
僕は笑う。
笑いながら、
胸の奥の小さい警報が鳴る。
――こういうのを大事にしすぎるな。
大事にしすぎると、
壊れた時に死ぬ。
でも、
壊れないように握ってたら、
最初から持てない。
矛盾。
矛盾のまま、
僕は湯気を見ている。
ラーメンが来る。
湯気。
匂い。
味噌の匂いは、
少しだけ土みたいで、
少しだけ安心する。
一口すする。
熱い。
熱いから、
目が覚める。
目が覚めると、
千華さんの顔がよく見える。
目の下の影。
でも、
さっきより少しだけ薄い。
薄くなったのは、
湯気のせいかもしれない。
でも、
湯気でもいい。
榊さんが箸を動かしながら言う。
「でさ、和樹」
「年始から働きすぎじゃね?」
働きすぎ。
その言葉が、
家の台所の「大変」と重なる。
重なって、
胃の奥が少しだけ縮む。
僕は笑って誤魔化しかけて、
やめる。
今日は、
ちゃんとしてるふりをやめる日だ。
全部じゃなくていい。
今日だけ。
「……働かないと」
「……昼が、きついです」
言った瞬間、
自分の声の弱さに気づく。
弱い。
弱いから、
言わなきゃいけなかった。
千華さんが笑わない。
榊さんも、箸を止める。
止められると、
逆に怖い。
でも、
千華さんが先に言う。
「うん」
「昼、きついよね」
それだけ。
それだけで、
僕の言葉が地面に落ちる前に拾われる。
拾われるのが救いで、
拾われるのが怖い。
怖いから、
僕はラーメンをすする。
熱い。
熱いから、
今は現実だ。
榊さんが咳払いみたいに笑って、
空気を少しだけ軽くする。
「まぁ、俺も昼きついけどな」
「仕事してるふり、めっちゃしてる」
ふり。
千華さんが目を細める。
「ふり上手そう」
「上手いよ?」
「だって大人だもん」
大人。
その言葉が、
少しだけ苦い。
大人の時間は、
撫でてすぐ離れるからだ。
でも、
今は店の中だ。
湯気がある。
箸の音がある。
現実がある。
食べ終わる頃には、
指先の感覚が戻ってくる。
戻ってくると、
さっきの海の冷たさが嘘みたいだ。
嘘みたいなのに、
海は嘘をつかない。
海が嘘をつかないのなら、
僕のこの「楽しかった」も
嘘じゃなくていい気がする。
言うのが怖い。
でも、
言わないままにすると、
また腐る。
腐る前に、
小さく言う。
「……今日は」
「……ありがとうございました」
榊さんが即答する。
「いいって!」
「てか、また来ようぜ。次、違う店も開拓しよ」
軽い。
軽いから助かる。
千華さんが短く頷く。
「うん」
「また、来よ」
“また”が
保証じゃないのは分かってる。
でも、
今日は“また”を信じてもいい日だ。
白い円の代わりに、
海がある日だ。
店を出る。
外はまた冷たい。
でも、
さっきの冷たさと違う。
体の中に熱が残っている冷たさだ。
熱が残っていると、
寒さが現実になる。
現実なら、
耐えられる。
駅へ向かう道。
榊さんが手を振る。
「じゃ、俺こっち」
「二人は気をつけてな」
二人。
その言葉が、
空気を少しだけ変える。
濃くなる気配。
濃くなるのが怖い。
怖いのに、
千華さんがあっさり言う。
「うん」
「ありがと」
榊さんが去る。
足音が二つになる。
二つになると、
心臓の音が少し戻る。
戻るのが怖い。
だから、
僕は歩幅を合わせない。
少しだけずらす。
ずらしたまま、
千華さんの隣を歩く。
信号で止まる。
赤。
彼女が息を吐く。
白い。
白い息が、
海の白さと繋がる。
彼女が言う。
「……今日、来れてよかった」
さっきも言った。
二回言うのは、
本音の回数だ。
僕は頷く。
頷くだけじゃ足りなくて、
短く返す。
「……僕もです」
それだけ。
それだけで十分だと思う。
十分だと思わないと、
また欲しくなるから。
ホーム。
電車。
乗る。
車内の暖房が、
少しだけ眠気を連れてくる。
千華さんがスマホを見る。
画面の光が頬を照らす。
「あ、やば」
小さい声。
現実が戻ってくる音。
僕は言う。
「……無理しないで」
言ってから、
また真似だと思う。
真似でもいい。
真似でも、
今は息がある。
千華さんは画面から目を離さないまま、
短く言う。
「うん」
「和樹くんも」
僕は小さく笑う。
笑うと、
少しだけ眠くなる。
眠くなると、
今日が終われる気がする。
降りる駅が近づく。
千華さんが立つ。
「ここで降りる」
「……はい」
一瞬だけ、
言葉が喉に引っかかる。
帰りたくない、みたいな言葉。
言ったら壊れる。
だから、
代わりに言う。
「……今日は、ほんとに」
「……ありがとうございました」
彼女が少しだけ目を細める。
「こちらこそ」
短い。
短いのに、
胸の奥がほどける。
彼女がドアの前で振り返って、
小さく手を振る。
「またね」
またね。
その二文字が、
今日も熱い。
熱いのに、
昨日みたいな熱さと違う。
依存の熱じゃなくて、
呼吸の熱に近い。
近いだけかもしれない。
でも、
近いだけでいい。
家に帰る。
鍵。
いつもの匂い。
洗剤。
畳。
古い木。
そこに今日は、
潮の匂いが薄く混ざっている気がする。
錯覚でもいい。
錯覚でも、
明日の昼を越えられるなら。
僕はスマホを伏せて、
湯を沸かす。
湯気。
熱い。
熱いから現実だ。
現実があるなら、
まだ大丈夫だと思える。
布団に入る。
目を閉じる。
波の音が、
頭の奥で少しだけ鳴る。
鳴る音は、
白い円じゃない。
海の音だ。
嘘をつかない音。
その音を、
消えないように。
燃えすぎないように。
矛盾した呼吸で抱えながら、
僕はまた、
次の長い昼へ沈んでいく。




