白い円の呼吸、海の約束
翌朝。
目を開けると、
昨日の夜より空が白い。
白いのに、
眩しくない。
眩しくないのは、
僕の目がまだ起きていないからだ。
起きていないのに、
スマホに手が伸びる。
通知はない。
ないのに、
昨日の「こちらこそ」が
胸の奥でまだ温かい。
温かいから、
布団から出られる。
出られるから、
また今日が始まる。
始まるのが、
少しだけ怖い。
キッチン。
湯気。
味噌汁の匂い。
家の匂いは、
年が変わっても変わらない。
変わらないから安心して、
安心するから苦しい。
箸を持つ。
噛む。
飲み込む。
口の中は温かいのに、
胸の奥はまだ乾いている。
「今日、予定あるの?」
母が言う。
声は軽い。
軽いのに、
この家の言葉はたまに急に刺さる。
「……バイト」
「年始も入ってるんだ」
「……うん」
「大変だね」
大変。
その言葉が、
昨日の「ちゃんとしてるふり」と重なる。
ふり。
僕は頷くだけにする。
頷くと、
父が新聞から目を上げる。
「就活、どうだ」
来た。
まだ一月なのに、
もう来る。
胃の奥が掴まれる。
掴まれて、
でも、逃げ場はない。
逃げ場は、
昨日の白い円にしかなかった。
白い円は、
今ここにはない。
「……ぼちぼち」
ぼちぼち。
嘘。
嘘だと自分が分かる嘘は、
喉が乾く。
父はそれ以上聞かない。
聞かないのは優しさか、
諦めか、
分からない。
分からないまま、
僕は味噌汁を飲む。
熱い。
熱いから、
目が覚める。
昼。
バイトへ行く。
駅前は、
昨日より人が少ない。
イルミネーションは消えて、
代わりに福袋の紙袋が増えている。
「正しさ」の点滅が、
少しだけ弱くなっている。
弱くなった分、
影も薄い。
薄い影の中で、
僕はスマホをポケットの上から握る。
握って、
開かない。
開いたら、
頼りたくなるから。
頼りたくないのに、
頼らないと息が浅くなるのが分かっている。
矛盾。
矛盾を抱えたまま、
店に入る。
忙しい。
忙しさは、
年が変わっても忙しさだ。
声が飛ぶ。
袋が増える。
「おめでとうございます」が混ざる。
笑い声が混ざる。
混ざるほど、
僕の中の言葉は減る。
減って、
体だけが動く。
動くから、
今日も終わる。
終わった後に、
全部落ちてくるのが分かっている。
分かっている通り、
裏口を出た瞬間に落ちてくる。
冷たい空気が肺に入って、
一気に静かになる。
静かになると、
昨日の白い円が戻ってくる。
戻ってきて、
勝手に息が深くなる。
深くなってしまうのが、
少し悔しい。
帰り道。
スマホが震える。
千華さん。
短い。
「起きてる?」
それだけ。
それだけで、
胸の奥がほどける。
ほどけるのが、
悔しいくらいに。
僕は歩きながら打つ。
「起きてます」
「おつかれさまです」
送信。
送ってから、
すぐにポケットに戻す。
待ちたくない。
待つと、
揺れるから。
揺れるのが怖い。
でも、
すぐに震える。
「今、少しだけ」
「歩ける?」
歩ける。
その言葉が、
昨日の「少しだけ」と同じ形をしている。
彼女の限界。
僕の救い。
救いにしてしまうのが怖い。
怖いのに、
指が動く。
「行けます」
送信。
送信してから、
心臓が跳ねる。
跳ねる心臓を、
僕は止められない。
公園。
白い円。
昨日より風が冷たい。
冷たいのに、
今日は空気が澄んでいる。
新年のせいじゃない。
街の点滅が消えたからだ。
白い円の端に、
彼女がいる。
ベンチに座って、
肩を落として、
息を吐いている。
吐く息が白い。
白い息は、
疲れの形だ。
「……来た」
彼女が言う。
迎える声でも、
責める声でもない。
事実の声。
僕は頷く。
「……来ました」
彼女は手袋を外して、
指先をこすり合わせる。
指先が赤い。
赤いのは寒さか、
睡眠不足か、
どっちもだ。
「……バイト?」
「……はい」
「正月から偉い」
偉い。
その言葉が軽い。
軽いのに、
胸の奥に残る。
褒められると、
居場所ができた気がしてしまう。
居場所を褒め言葉で作る自分が、
また怖い。
彼女がポケットからタバコを出す。
箱の角が潰れている。
チッ。
火。
赤。
吐く。
煙。
煙が白い円の中で
ゆっくりほどける。
ほどけながら、
彼女が言う。
「海さ」
「……はい」
「いつ行ける?」
いつ。
具体的な言葉。
具体的になると、
形ができる。
形は怖い。
でも、
形がないと溶ける。
矛盾したまま、
僕は考える。
「……僕、次の休み」
「……明後日、夕方なら」
彼女が少しだけ目を細める。
「明後日、夕方」
「榊さん、呼ぶ?」
その名前が出ると、
白い円の中の空気が少し変わる。
二人の濃さが、
薄まる。
薄まるのが救いで、
薄まるのが寂しい。
矛盾。
「……呼びましょう」
僕が言うと、
彼女が短く頷く。
「うん」
彼女はスマホを取り出す。
画面の光が頬を一瞬だけ照らす。
指が早い。
仕事の指じゃない。
誰かに連絡する指だ。
それが少しだけ救いになる。
救いになるのが、
また怖い。
しばらくして、
彼女が言う。
「送った」
「……ありがとうございます」
「返事来るまで、寒い」
その言い方が、
少しだけ子どもっぽい。
僕は返す言葉を探して、
結局、短いのにする。
「……ここ、風強いですもんね」
彼女が笑う。
本物に近い笑い。
それだけで、
今日の昼の薄さが少しだけ戻る。
戻るのに、
戻り方が彼女経由なのが怖い。
しばらく沈黙。
沈黙の中で、
遠くの車の音がする。
近くの自販機が、
機械の息をしている。
彼女が言う。
「和樹くん」
「……はい」
「正月、家、だるかった?」
だるかった。
その言葉が、
家の台所の匂いを思い出させる。
味噌汁。
新聞。
就活。
「……ちょっとだけ」
彼女は煙を吐く。
「そっか」
それだけ。
でも、
それだけで
僕の「ちょっと」が許される。
許されると、
少しだけ言える。
「……就活の話、されました」
彼女が笑わない。
笑って流さない。
煙を吐いて、
少しだけ目を細める。
「やだよね」
短い。
短いのに、
胸の奥がほどける。
「……やです」
「うん」
「……怖いです」
彼女は少しだけ首を傾ける。
「何が?」
僕は息を吸う。
冷たい空気が喉を通る。
言葉が現実になる。
「……ちゃんとしろって言われるのが」
ちゃんと。
昨日も出てきた。
「ちゃんと」って、
見えないのに重い。
彼女はタバコを指先で挟んだまま、
少しだけ笑う。
「じゃあさ」
「ちゃんとしてるふり、やめよ」
「……え」
「全部じゃなくていい」
「今日だけ」
今日だけ。
それは、
白い円の使い方だ。
僕は頷く。
頷くと、
彼女が短く言う。
「よし」
スマホが震える。
彼女が画面を見る。
「あ、返ってきた」
榊さん。
「行く行く! 夕方なら空いてる」
「現地で合流でいい?」
彼女が読む声が少し明るい。
明るいのが救いだ。
三人になる。
三人になれば、
二人の濃さが薄まる。
薄まるのが救いで、
薄まるのが寂しい。
また矛盾。
僕は答える。
「……合流で大丈夫です」
彼女がうなずく。
「うん」
「じゃ、決まりね」
彼女が言う。
決まり。
形ができる。
怖い。
でも、
胸の奥が少しだけ息をする。
息をしてしまう自分が、
また怖い。
彼女が続ける。
「明後日」
「海」
「絶対」
「……絶対」
僕が復唱すると、
彼女が少しだけ笑う。
「真面目」
「……すみません」
「謝るなって」
また同じやり取り。
同じなのに、
今日は少しだけ軽い。
軽いのが救いだ。
彼女がスマホを見る。
「あ、やば」
「また返信来てる」
現実が戻ってくる音。
彼女の夜は、
僕と違う速度で回る。
速度差は埋まらない。
埋まらないから、
言葉が必要になる。
短い言葉でいい。
息のある言葉がいい。
僕は言う。
「……帰ってください」
「ちゃんと」
ちゃんと。
その言葉を使うのが怖い。
でも、
彼女は笑って言う。
「それは、ちゃんと使っていいやつ」
ずるい。
ずるいから助かる。
彼女は立ち上がる。
コートの襟を直す。
タバコを揉み消す。
「じゃ、また」
「……また」
白い円の外へ出ていく背中は、
昨日より少しだけ軽い。
軽く見えるだけかもしれない。
でも、
軽く見えるだけで
今日の僕は助かる。
家に帰る。
鍵。
いつもの匂い。
洗剤。
畳。
古い木。
そこに今日は、
煙の匂いがほんの少し混ざっている気がする。
錯覚でもいい。
錯覚でも、
明後日の夕方まで越えられる。
越えるために、
僕はスマホを伏せて、
布団に入る。
目を閉じる。
海。
嘘をつかない静けさ。
矛盾の優しさ。
そこまで行けば、
少しだけ戻れる気がする。
戻れる気がするだけで、
今は十分だ。
僕は息を整える。
消えないように。
燃えすぎないように。
矛盾した呼吸で、
明日の昼を越える準備をする。




