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16/52

煙の匂いで越える夜

翌朝。


目を開けると、

天井が少しだけ近い。


近いのに、

触れられない。


昨夜の「ありがとう」が、

まだ胸の奥に残っているからだ。


残っているから、

起きられる。


起きられるから、

また昼が始まる。


昼は、いつも通り薄い。


薄いままでも、

昨日より少しだけ痛くない。


痛くないのは、

救いじゃなくて、

麻痺に近い気もした。


でも、

今はそれでいい。


 


大学。


蛍光灯。


机。


ペン。


文字を書く。


書きながら、

頭の片隅で

昨日の白い円を反芻する。


反芻してしまうのが怖い。


怖いのに、

それがないと

今の昼は持たない。


持たないから、

僕はまた息を整える。


消えないように。

燃えすぎないように。


矛盾した呼吸。


 


昼休み。


食堂のざわめき。


笑い声。


友人が言う。


「年末ってさ、バイトめっちゃ入るよな」


「……うん」


「俺、クリスマスも入れられたわ。最悪」


最悪。


その言葉が軽い。


軽いのに、

僕の中では別の重さで鳴る。


最悪なのは、

忙しさじゃない。


忙しさのせいで

会えなくなること。


会えなくなることで

自分が崩れそうになること。


それが、最悪だ。


 


夕方。


バイト。


店内のBGMが、

また同じサビを流す。


笑い声が増える。


袋が増える。


「ありがとうございます」が増える。


増えるほど、

僕の中の言葉が減る。


減っていく言葉の代わりに、

体が勝手に動く。


動くから、

考える隙がない。


隙がないから助かる。


助かるのに、

終わった後に

全部まとめて落ちてくるのが分かっている。


分かっているから、

終わりの時間が怖い。


 


終電が近い。


裏口。


冷たい空気。


肺が起きる。


起きた肺で、

スマホを取り出す。


画面を開く前に

一度だけ迷う。


開いたら、

今日の自分の薄さが

はっきり見えてしまう気がする。


でも、

開く。


千華さんの名前。


その二文字だけで

胸の奥が少しだけ息をする。


打つ。


「今日、少しだけ時間ある?」


送信。


送った瞬間、

自分の中に

何か小さな罪悪感が生まれる。


また頼ってる。


また夜に逃げてる。


逃げたくないと言っておきながら。


 


既読がつくのは遅かった。


遅い間、

僕は駅へ向かう道を歩く。


イルミネーションが点滅している。


「正しさ」が眩しい。


眩しいから、

影が濃い。


影が濃いのに、

届かない。


 


既読。


返信。


「ごめん」

「今日は無理」

「明日も怪しい」


怪しい。


その言葉は柔らかい。


柔らかいのに、

柔らかさが逆に刺さる。


無理、と同じ意味のはずなのに、

怪しいには期待の余白がある。


余白があるから、

僕は勝手に望んでしまう。


望むのが、

一番やっかいだ。


 


僕は返す。


「分かった」

「無理しないでね」


送ってから、

昨日の言葉を借りたことに気づく。


借りてる。


借りて、

支えてる。


支えられてる。


それが嬉しいのに、

少しだけ情けない。


 


家に帰る。


鍵。


いつもの匂い。


洗剤。

畳。

古い木。


今日はそこに

店の油の匂いも混ざっている。


混ざった匂いが、

僕の一日を雑にまとめる。


雑な一日。


雑なままでも、

眠らないといけない。


眠らないと、

また明日が壊れる。


壊れる明日が怖いから、

僕は布団に入る。


 


眠りかけた頃、

スマホが震える。


「公園、行けなくてごめん」

「海」

「年明け、行こ」

「和樹くんの好きな、冬の海」


年明け。


その二文字が

僕の胸の奥に釘みたいに刺さる。


刺さるから、

今夜が終われる。


今夜が終われるから、

眠れる。


僕は返す。


「うん」

「行こう」

「約束」


約束、と打ってから

少しだけ怖くなる。


約束は、

形だ。


形は、

壊れる。


壊れるのが怖い。


でも、

形がないと

僕は溶けてしまう。


だから

形を握る。


握りすぎないように。


矛盾した握り方。


 


年末は、

想像していたよりずっと早く来た。


バイトのシフトが

紙の上で真っ黒になる。


大学は

終わりの顔をして、

就活は

始まりの顔をしている。


世界はずっと

「次」を指してくる。


次。


次。


次。


僕だけ、

次が怖い。


 


公園へ行けない夜が増える。


千華さんのメッセージが短くなる。


「作業」

「寝る」

「ごめん」

「無理」


僕の返事も短くなる。


「了解」

「寝て」

「食べて」


短い言葉が増えるほど、

会えない夜の圧が増える。


圧が増えるほど、

会えた夜が重くなる。


重くなるほど、

また怖くなる。


 


ある夜。


僕はバイト帰りに

公園の前を通る。


通るだけ。


寄らない。


寄ったら、

いるかもしれないと思ってしまうから。


思って、

期待して、

期待が裏切られた気になって、

勝手に崩れてしまうから。


崩れたくない。


崩れたら、

彼女にぶつけてしまう。


ぶつけたくない。


だから、

通るだけ。


通って、

白い円を横目で見る。


円はそこにある。


でも、

誰もいない。


誰もいないのに、

そこに影がいる気がする。


僕の中の影だ。


 


家に帰る。


スマホを見る。


通知はない。


分かってる。


分かってるのに、

胸の奥がうるさい。


うるさいから、

僕は初めて、

スマホを握ったまま

画面を見ないで言う。


声に出さない。


声に出したら壊れるから。


ただ、口の中でだけ言う。


――生き延びよう。


それが、

誰の真似でもない言葉になるまで

僕は繰り返す。


 


年末の最後のバイト。


店のBGMは

もう何でもよくなるくらい耳が疲れている。


終わって外に出ると、

空気が痛い。


痛い空気が、

少しだけ救いになる。


現実は冷たい。


冷たいから、

嘘が減る。


嘘が減ると、

自分が見える。


見えるのが怖い。


でも、

今日は見る。


 


スマホが震える。


千華さん。


「やっと終わった」

「今から少しだけ」

「公園、来れる?」


来れる。


その言葉が

僕の中の何かを一瞬で起こす。


起きてしまう。


起きてしまうから

怖い。


でも、

今日は行く。


行ってしまう自分を

責めない。


責めないって決める。


決めないと

足が止まるから。


 


公園。


白い円。


彼女がいる。


ベンチに座って、

肩を落として、

空気を吐いている。


吐く息が白い。


白い息は、

疲れの形だ。


僕は近づく。


近づきながら、

言葉を探す。


探して、

結局、

一番小さい言葉にする。


「……おつかれさま」


彼女は顔を上げて、

ほんの少しだけ笑う。


「うん」


短い。


短いのに、

ちゃんと生きてる音がする。


 


沈黙。


沈黙の中で

彼女が言う。


「年明けさ」

「海、絶対行こ」


絶対。


その二文字が

いつもより強い。


強いのに

怖くない。


怖くないのは、

彼女の声が少しだけ震えているからだ。


震えているのに

言う。


言うから、

僕も言える。


「……行きましょう」


僕は座る。


白い円の中に

二つの影ができる。


二つの影は、

ぴったり重ならない。


重ならないから、

呼吸ができる。


重なりすぎたら、

きっと窒息する。


 


彼女がタバコを出す。


チッ。


火。


赤。


吐く。


煙。


煙がほどける。


ほどけながら、

彼女が言う。


「和樹くん」


「……はい」


「来年さ」

「ちゃんと、生きよ」


ちゃんと。


その言葉が

僕には一番難しい。


でも、

難しいままでもいい。


今日だけは。


僕は頷く。


「……はい」


それだけ。


それだけで

夜が少しだけ優しくなる。


 


白い円の外で、

街はまだ点滅している。


正しさが、

眩しいふりをしている。


でも、

白い円の中だけは

正しさじゃなくて

呼吸の場所になっている。


呼吸の場所があるなら、

昼も越えられる。


越えられるだけで、

今は十分だと思う。


年明けの海まで。


あの嘘をつかない静けさまで。


僕はまた、

長い昼を越えていく。



白い円の中で、

僕らは少しだけ息をした。


息をしたぶんだけ、

現実が戻ってくる。


彼女のスマホが震える。

通知の光が頬を一瞬だけ照らす。


「……ごめん」


言い訳じゃない声。


「まだ、返信残ってる」


仕事の言葉は、

いつも彼女の口から出ると

乾いている。


乾いているのに、

重い。


僕は頷く。


頷くしかできない。


頷くことでしか、

彼女を引き止めないと証明できない。


引き止めない。


引き止めたいのに。


矛盾したまま、

僕はポケットの中で手を握る。


 


「……じゃ」


彼女が立ち上がる。


タバコを揉み消す。


煙の匂いが残る。


残る匂いは、

いつもより薄い。


「……ありがとう」

「来てくれて」


「……こちらこそ」


言うと、

彼女は少しだけ眉を上げる。


笑うか迷って、

笑わない。


その迷いが、

今夜の彼女の本音みたいだった。


「年明け、海ね」


「……はい」


「絶対」


「……絶対」


僕が復唱すると、

彼女が小さく笑う。


その笑い方が、

少しだけ救いだった。


 


彼女は白い円の外へ出ていく。


暗い方へ。


暗い方へ戻っていく背中。


点滅する街の光が、

その背中を撫でる。


撫でて、

すぐに離れる。


離れるのが、

大人の時間みたいで怖い。


 


僕はベンチに残る。


すぐには立てない。


缶コーヒーを買っていないことに気づく。


買う余裕もなかった。


それでも、

今夜は少しだけ温かい。


温かいのは、

胸の奥だけだ。


胸の奥だけが温かいと、

逆に寒さがよく分かる。


冬は、

嘘をつかない。


 


家に帰る。


鍵。


いつもの匂い。


洗剤。

畳。

古い木。


そこに、

煙の匂いがまだ残っている気がする。


錯覚。


でも、

錯覚でもいい。


錯覚でも、

夜は少しだけ優しい。


スマホを見る。


通知はない。


でも、

待つ気持ちはさっきより薄い。


代わりに、

年明けの海が

小さな釘みたいに刺さっている。


刺さっているから、

眠れる。


 


翌日。


昼は相変わらず薄い。


大学はもう終わりに近い。

講義室の空気が

どこか終末みたいに乾いている。


みんなが年末の話をする。


帰省。

忘年会。

予定。


予定という単語が

僕には少し怖い。


予定は、形だ。


形は、崩れる。


崩れると、

痛い。


痛いのに、

形がないと

僕は溶ける。


だから僕は、

小さい形だけを握る。


年明けの海。


それだけ。


 


バイト。


年末のシフトは

想像よりきつい。


残業が増える。

人が増える。

笑い声が増える。


増えるほど、

僕の中から言葉が減る。


減って、

帰り道にだけ

言葉が戻ってくる。


戻ってくる言葉は

大体、同じだ。


――会いたい。


会いたいと認めたくない。


認めたら、

依存の輪郭がくっきりする。


くっきりした輪郭は、

恥ずかしい。


でも、

恥ずかしさより

息苦しさの方が先に来る。


息苦しいから、

僕はまた短い言葉を送る。


「今日、どう?」


送って、

すぐに後悔する。


返事が来ない時間が

僕を削ると分かっているのに。


 


千華さんの返事は、

夜の遅い時間に来ることが多かった。


「作業」

「寝不足」

「まだ終わらない」


短い。


短いのに、

そこに息がある。


息があるだけで、

僕は安心してしまう。


安心の仕方が怖い。


怖いから、

自分に言い聞かせる。


安心していいのは、

息があることだけだ。


会えることじゃない。


約束できることじゃない。


でも、

言い聞かせても

心臓は勝手に跳ねる。


勝手に跳ねる心臓を、

僕は止められない。


 


年末が近づくほど、

街の「正しさ」が強くなる。


年末は家族と。

年末は恋人と。

年末は誰かと。


誰かと。


その空気が、

駅前の看板みたいに光っている。


光が強いほど、

僕の影が濃くなる。


濃い影は、

僕の足元に貼り付いて

どこにも行けない。


行けないから、

夜に行きたくなる。


白い円に行きたくなる。


でも、

行けない日が増える。


行けない日が増えるほど、

行けた日の重さが増える。


重くなるほど、

また怖くなる。


 


クリスマスが終わっても、

忙しさは終わらない。


店は年末の顔になる。


「歳末セール」

「福袋」

「今年もありがとうございました」


今年も。


その言葉が

僕の胸に刺さる。


今年も。


僕の今年は、

何だった。


答えは出ない。


出ないまま、

レジを打つ。


バーコード音が

僕の今年を刻んでいく。


ピッ。


ピッ。


終わりの音みたいだ。


 


ある夜。


バイトの帰り。


終電に間に合うかどうか、

ぎりぎりの時間。


僕は駅へ走る。


走りながら、

スマホが震える。


千華さん。


「今、少しだけ公園出れる」


走っているのに、

心臓がもう一段うるさくなる。


出れる。


その言葉が、

僕の足を止めそうになる。


でも、

止まれない。


止まったら終電を逃す。


終電を逃したら、

明日のバイトが壊れる。


明日が壊れたら、

また彼女に寄りかかる。


寄りかかる自分が嫌だ。


だから、

走りながら打つ。


「ごめん」

「今、終電ぎりぎり」

「今日は行けない」


送信。


送ってから、

息が苦しくなる。


息が苦しいのは走ったからじゃない。


断ったからでもない。


断らなきゃいけない自分が、

また嫌いになったからだ。


 


返信はすぐ来た。


「そっか」

「了解」

「気をつけて帰って」


短い。


短いのに、

優しい。


優しいのに、

僕の中では

少しだけ痛い。


“了解”が

終わりの音に聞こえるからだ。


終わりじゃないのに。


終わりにしたくないのに。


 


家に帰って、

シャワーを浴びる。


髪を乾かす。


鏡の中の自分は、

目の下が少しだけ濃い。


濃いのは疲れだ。


疲れは現実だ。


現実が濃いほど、

夜が薄く感じる。


薄く感じるのが怖い。


だから、

僕は布団に入る前に

一言だけ送る。


「年明け、海」

「楽しみにしてます」


送って、

すぐにスマホを伏せる。


待たない。


待つと崩れる。


崩れないように、

目を閉じる。


 


返信が来たのは、

深夜だった。


「うん」

「私も」

「ちゃんと行こ」


ちゃんと。


その言葉が

僕の中で少しだけ温かい。


温かいから、

怖い。


温かいものは、

失ったときに冷たくなるから。


でも、

今は温かいまま持って寝る。


それしかできない。


 


そして、

大晦日が近づく。


店はもっと忙しい。


年末は

終わりのふりをして

実は一番始まりに近い顔をしている。


みんなが来年の話をする。


来年こそ。

来年は。


来年。


僕は来年のことを考えると

少しだけ息が詰まる。


来年は、就活が近い。


近い未来は痛い。


痛いから、

遠い海を思う。


遠い海は、

嘘をつかない。


嘘をつかないのに、

優しい。


矛盾の場所。


あそこに行けば、

少しだけ自分が戻る気がする。


 


大晦日前夜。


千華さんから

珍しく長いメッセージが来る。


長いと言っても、

三行。


「明日」

「夜、少しだけ」

「公園、来れる?」


明日。


夜。


少しだけ。


公園。


その単語の並びが

僕の胸の奥を揺らす。


揺れて、

すぐに怖くなる。


“少しだけ”は

彼女の限界の形だ。


限界の形を

僕が奪ってはいけない。


でも、

会いたい。


会いたいと思うこと自体が

もう奪ってる気もする。


矛盾。


矛盾のまま、

僕は返す。


「行けます」

「少しだけでも」


送って、

すぐにスマホを伏せる。


今日は

待つ時間を短くしたい。


短くしないと、

胸がうるさくなるから。


 


大晦日。


昼。


バイト。


店内のBGMが

“今年の最後”みたいなテンションで流れる。


客の顔が、

少しだけ焦っている。


年末は

みんなが何かに追われる。


追われているのに

笑っている。


笑っているから、

余計に怖い。


怖いけど、

僕も笑うふりをする。


「ありがとうございました」


言う。


言うたびに、

今年が一枚ずつ剥がれていく。


 


閉店後。


片付け。


外に出ると、

空気が痛いくらい冷たい。


冷たいから、

現実がはっきりする。


星が少しだけ見える。


街が明るすぎて

星は少ない。


でも、

少ない星でも

今日は少しだけ綺麗だ。


大晦日だからじゃない。


僕の目が

少しだけ起きているからだ。


 


家に寄らず、

そのまま公園へ向かう。


コートの襟を立てる。


息が白い。


白い息は、

生きてる証拠みたいで

少しだけ安心する。


住宅街。


街灯。


自販機。


いつも通り。


いつも通りの中に、

今日は少しだけ

年末の静けさが混ざっている。


人の気配が少ない。


車の音も少ない。


町が一瞬だけ

息を止めているみたいだ。


 


公園。


白い円。


……いる。


ベンチの端に

背中を丸めた影。


今日はいつもより

小さく見える。


僕は近づく。


近づくと、

彼女が顔を上げる。


目の下の影はまだある。


でも、

その影の中に

少しだけ光がある。


疲れが抜けた光じゃない。


“終わったふりができる”光。


「……来た」


彼女が言う。


今夜の声は

少しだけ柔らかい。


「……来ました」


僕も言う。


声が震えないように

息を整える。


消えないように。

燃えすぎないように。


矛盾した呼吸。


 


彼女は手袋を外して、

指先を息で温める。


その仕草が、

大晦日の人の仕草に見えない。


いつも通りの彼女だ。


いつも通りで、

少しだけ助かる。


助かるのに、

大晦日という言葉が

勝手に特別さを持ち込むのが怖い。


 


「……年末だね」


彼女が言う。


「……ですね」


「みんな、なんか、今日だけちゃんとしてる」


ちゃんと。


その言葉が

僕の胸に刺さる。


僕はちゃんとしてない。


ちゃんとしてないから

ここにいる。


ここにいることで

ちゃんとしたふりをしている。


彼女が小さく笑う。


「私も、ちゃんとしてるふり」


ふり。


その言葉に

僕は救われる。


ふりでいい。


今は。


 


彼女がタバコを出す。


チッ。


火。


赤。


吐く。


煙。


煙が白い円の中で

ゆっくりほどける。


ほどけながら、

彼女が言う。


「和樹くん」


「……はい」


「今年、ありがとう」


その言葉が

胸の奥に落ちる。


落ちて、

波紋が広がる。


ありがとう。


ありがとうは

終わりの言葉みたいで怖い。


怖いのに、

彼女は続ける。


「来年も、たぶん、しんどい」

「でも」

「海、行こ」


海。


その二文字が

終わりじゃなく

続きの形になる。


僕は息を吐いて、

言う。


「……行きましょう」


「絶対?」


「……絶対」


復唱すると、

彼女が少しだけ笑う。


「よし」


その“よし”が

妙に子どもっぽくて、

それがまた胸に刺さる。


 


少しだけ沈黙。


遠くで、

除夜の鐘が鳴っている気がする。


気がするだけ。


まだ早い時間なのに、

町がもう年を越す準備をしている。


彼女がスマホを見る。


「あと、少しで年越しだね」


あと少し。


さっきの“あと少し”が

別の意味で胸に響く。


あと少しで、

今年が終わる。


終わって、

来年が来る。


来年が来たら、

また昼が続く。


昼が続くのは怖い。


でも、

夜があるなら越えられる。


夜が彼女のことになりすぎるのが怖い。


怖いのに、

今夜だけは

その怖さを棚に上げる。


上げて、

僕は言う。


「……ここで、年越します?」


言ってから気づく。


特別にしてしまった。


特別にしたら、

壊れやすくなる。


でも、

彼女は少しだけ考えて、

頷く。


「うん」

「少しだけ」


少しだけ。


彼女の限界の形。


その形が

今夜はありがたい。


僕らが壊れないための形だ。


 


白い円の中で

二人で立つ。


寒い。


寒いのに、

胸の奥だけが温かい。


遠くで、

カウントダウンの声が聞こえる。


どこかの家のテレビ。

どこかの店のスピーカー。


「……三、二、一」


その声に合わせて

僕の心臓が勝手に跳ねる。


跳ねる心臓に

僕は言い聞かせる。


これは恋の跳ね方じゃない。


生存の跳ね方だ。


 


「……明けた」


彼女が言う。


「……明けましたね」


「おめでとう」


その言葉が

少しだけ照れくさい。


僕は小さく返す。


「……おめでとうございます」


言い方が堅くて、

彼女が笑う。


本物の笑いに近い笑い。


「和樹くん、真面目」


「……すみません」


「謝るなって」


笑いながら言う。


笑いながら言える余裕が、

今夜の奇跡みたいだった。


 


彼女が息を吐く。


白い。


白い息の向こうで

彼女が言う。


「来年さ」

「自分のこと、粗末にしないで」


またその言葉。


でも今日は、

お願いじゃなくて

新年の呪文みたいに聞こえる。


守れるか分からない。


守れないかもしれない。


それでも、

僕は頷く。


「……はい」


頷くと、

彼女は短く言う。


「よし」


そして、

少しだけ顔を背ける。


照れ隠しみたいに。


「……じゃ」

「帰る」


現実が戻ってくる音。


彼女の夜は

僕と違う速度で回る。


その速度差は埋まらない。


埋まらないから、

すれ違う。


すれ違うから、

言葉が必要になる。


短い言葉でいい。


でも、

ちゃんと息のある言葉がいい。


 


彼女は白い円の外へ出る。


暗い方へ戻っていく。


僕は一度だけ言う。


「……千華さん」


彼女が振り返る。


「ん?」


僕は息を吸う。


冷たい空気が喉を通る。


言葉が現実になる。


「……今年、ありがとうございました」


言うと、

彼女が少しだけ目を細める。


「こちらこそ」


短い。


短いのに、

胸の奥がほどける。


彼女は小さく手を振って

歩き出す。


点滅する街の光が

その背中を撫でる。


撫でて、

離れる。


離れるのに、

消えない。


消えないのは、

煙の匂いか、

「絶対」か、

それとも

白い円の中で越えた年の境目か。


 


僕はベンチに残る。


少しだけ。


空を見上げる。


星は少ない。


でも、

さっきより一つだけ

増えた気がする。


気のせいかもしれない。


でも、

気のせいでもいい。


気のせいで

明日を越えられるなら。


 


ポケットの中で

スマホが温かい。


通知はない。


でも、

待つ気持ちは薄い。


代わりに、

海がある。


年明けの海。


嘘をつかない静けさ。


矛盾の優しさ。


そこまで行けば、

少しだけ自分が戻れる気がする。


戻れる気がするだけで、

今は十分だ。


僕は立ち上がる。


寒い。


寒いから、

生きてる。


生きてるから、

また昼を越える。


次の夜へ向かうために。


そして、

次の海へ向かうために。

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