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白い円の中で、怖さを言った

長い昼を越える。


越えた、という実感はない。


ただ、

気づけば夕方になっていて、

気づけば空が暗くなっていて、

気づけば足が、家の玄関の前まで連れてきていた。


鍵を回す。


いつもの匂い。


洗剤。

畳。

古い木。


その匂いが今日は、

少しだけ「準備」の匂いに感じる。


夜が来る。

公園がある。

白い円がある。


そこに、彼女が来る。


来るかもしれない。

来ないかもしれない。


その曖昧さが、

僕の中で小さな炎になっている。


消えないように息をする。

燃えすぎないように息をする。


矛盾した呼吸。


 


着替える。


髪を整える。


意味はない。


意味はないのに、

整えると少しだけ「会える側の人間」になれる気がする。


そういう自分が、また嫌だ。


嫌なのに、やめない。


やめないまま、コートを羽織る。


ポケットに手を入れる。


スマホを触ってしまいそうになる指を、

握って止める。


今日は確認しない。


確認したら、

「いない」未来を先に想像してしまうから。


想像して、

勝手に萎むから。


萎んだら、

また「行けない理由」を作ってしまうから。


それは、逃げだ。


逃げはもう飽きた。


飽きたのに、

逃げが得意な足は

いつもよりゆっくり玄関を出る。


 


外は、冷たい。


冷たいから、

肺が起きる。


肺が起きると、

頭も少しだけ起きる。


冬の夜の匂い。


乾いていて、

薄くて、

でも確かに刺さる匂い。


住宅街。


街灯。


自販機。


遠くの車の音。


全部が、いつも通り。


いつも通りの中に、

今日だけの緊張が混ざっている。


公園が近づく。


足音が自分の耳に近づく。


いつもより大きい。


心臓がうるさい。


うるさいくせに、

誰にも聞こえない。


 


公園。


電灯の白い円。


……いる。


ベンチの端に、

小さく背中を丸めた影。


それだけで、

胸の奥がほどける。


ほどけてしまうのが、

悔しいくらいに。


彼女は僕に気づいて、

顔を上げる。


驚きじゃない。


安心でもない。


その間の、

薄い表情。


でも、

薄いままでもそこにある。


「……来た」


彼女が言う。


責める声じゃない。

迎える声でもない。


ただ、

事実を置く声。


僕は頷く。


頷いて、

一歩、白い円の中に入る。


円の中は少しだけ明るい。


明るいから、

彼女の顔がよく見える。


目の下の影。


乾いた唇。


髪の毛の少し乱れた感じ。


“やっと終わった”の後の顔だ。


終わったのに、

まだ終わっていない顔。


「……寒いね」


彼女が言う。


「……ですね」


それだけの会話。


でも、

それだけで

今日の僕は喋れなくなりそうになる。


喋ったら、

ほどけたものが全部溢れそうだから。


 


彼女がポケットからタバコを出す。


箱が少し潰れている。


指先が、少しだけ荒れている。


ライター。


チッ。


炎が揺れて、

頬の片側だけを照らす。


吸う。


赤が灯る。


吐く。


煙が白くほどけて、

円の外の暗さに沈む。


沈むまでが、

今日は少しだけ遅い。


「……忙しかった?」


僕が聞くと、

彼女は小さく笑う。


笑い方は薄い。


「うん。死んでた」


冗談みたいに言う。


冗談みたいに言えるところまで、

戻ってきた。


その「戻ってきた」が、

今日の救いだ。


 


沈黙。


僕は、その沈黙を壊したくない。


でも、

壊さないままだと

自分の中の言葉が腐ってしまう気がする。


腐る前に、

小さく言う。


「……千華さん」


「ん?」


煙の向こうの目が、こっちを見る。


僕は息を吸う。


冷たい空気が喉を通る。


それで少しだけ、

言葉が現実になる。


「……この前、ごめんなさい」


「どれ?」


彼女の声は軽い。

軽くしてくれる。


僕が崩れないように、

軽さで受け止めてくれる。


僕はその軽さに、

甘えそうになる。


甘えないように、

言葉を選ぶ。


「……終電で断った夜」

「……あのあと、勝手に」

「……終わるみたいに思って」

「……怖かったです」


最後の一言が

喉の奥で引っかかる。


怖かった。


その言葉は、情けない。


情けないのに、

ちゃんと僕の言葉だ。


彼女は少しだけ目を細めて、

タバコをもう一度吸う。


赤が灯る。


吐く。


煙が整う。


整った煙の間で、

彼女は言う。


「うん」


短い。


短いのに、

肯定だ。


「怖かったんだ」


確認するみたいに言って、

責めない。


責められないと、

今度は自分で自分を責めそうになる。


でも、

彼女が続ける。


「ごめんね」


その「ごめんね」が、

僕の胸の奥で音を立てて落ちる。


落ちて、

少しだけ波紋が広がる。


「……千華さんが謝ることじゃ」


言いかけて、

やめる。


正しさで返したら、

今の優しさが消えるから。


彼女は笑う。


ほんの少しだけ、本物の笑い。


「じゃあ、お互いさ」

「ごめんねって言える方が、勝ちってことで」


勝ち。


そんな言い方がずるい。


ずるいから助かる。


僕は小さく笑ってしまう。


笑えると、

胸の痛みが少しだけ薄くなる。


 


彼女がベンチの背にもたれる。


肩が落ちる。


落ち方が、

今日ここに来た理由の答えみたいだ。


「……和樹くん」


「……はい」


「年末さ」

「もうちょい、しんどいかも」


「……はい」


「会えない日、増えるかも」


増える。


その言葉が

また胸の底で鳴る。


でも今日は、

あの夜ほど刃じゃない。


理由が見えるからだ。


彼女が「言ってくれた」からだ。


言ってくれるのは、

距離じゃなくて

繋いでるってことだと思いたい。


思いたいだけかもしれない。


でも、

思いたいままでもいい夜がある。


僕はその言葉を、

自分の中で握り直す。


握り直して、

答える。


「……分かりました」


分かりました、は便利だ。


便利すぎて、

本当の気持ちが隠れる。


だから、もうひとつ足す。


「……寂しくなるかもです」


言った瞬間、

自分の耳が熱くなる。


言っちゃった。


寂しいなんて言う資格はない。


でも、言った。


言ったのに、

彼女は笑わない。


笑って逃がさない。


その代わり、

煙を吐いてから言う。


「寂しくなるの、普通」


普通。


その二文字が

僕を少しだけ救う。


特別じゃない寂しさ。


誰でも持つ寂しさ。


だから、

恥じゃない寂しさ。


「……たださ」


彼女が続ける。


「寂しいからって」

「自分のこと、粗末にしないで」


その言い方が、

いつもの「無理しないで」と似ている。


似ているのに、

今日は少しだけ違う。


お願いの色が混ざっている。


僕は頷く。


頷くだけじゃ足りなくて、

小さく言う。


「……はい」


 


彼女がスマホを見る。


通知の光が一瞬、頬を照らす。


「……あ、やばい」

「まだ返信残ってる」


現実が戻ってくる音。


彼女の夜は、

僕と違う速度で回っている。


その速度差が

僕らのすれ違いの正体だ。


僕は分かっている。


分かっているのに、

それでも今日会えてしまったから

また欲しくなる。


欲しがる自分を、

今日は少しだけ抑える。


抑えたくて、

代わりに言う。


「……海」

「……また行きましょう」


彼女の目が、

ほんの少しだけ柔らかくなる。


「うん」


短い。


でも、

そこにちゃんと約束の匂いがある。


「冬の海、いいんだよね」

「なんか、静かで」

「嘘つかない感じ」


嘘つかない。


その言葉が、

僕の中で海の色に結びつく。


「……嘘つかないのに」

「……優しいですよね」


僕が言うと、

彼女は笑う。


「それ、矛盾してる?」


「……矛盾です」


「矛盾が好きなんだよ、海って」


彼女がそう言う。


矛盾が好き。


僕らみたいだ。


言わない。


言ったら、

また何かが濃くなるから。


でも、

言わなくても

僕の胸の奥は少しだけ熱い。


 


彼女が立ち上がる。


コートの襟を直す。


タバコを揉み消す。


「……じゃ、行く」


「……はい」


歩き出す前に、

彼女が一度だけ振り返る。


ほんの一瞬。


「今日、ありがとう」


それだけ。


その一言が

僕の中で長く残る。


「……こちらこそ」


言うと、

彼女は小さく頷いて、

白い円の外へ出ていく。


暗い方へ。


でも、

暗い方へ消える感じじゃない。


暗い方へ戻っていく感じ。


彼女の生活へ戻っていく背中。


点滅する街の光が、

その背中を遠くで撫でる。


 


僕はベンチに残る。


すぐには立てない。


立てないまま、

空を見上げる。


星は少ない。


冬の空は澄んでるのに、

街が明るすぎる。


明るすぎる正しさが、

星を消す。


それでも、

さっきの「ありがとう」は消えない。


消えないから、

僕も立ち上がれる。


立ち上がって、

帰る道を歩き出す。


一人で歩く。


でも、

今日の一言が

ポケットの中でまだ熱い。


 


家に着く。


鍵を回す。


いつもの匂い。


洗剤。

畳。

古い木。


そこに今日は、

少しだけ「彼女の煙」の匂いが混ざっている気がした。


錯覚でもいい。


錯覚でも、

夜は少しだけ優しい。


スマホを見る。


通知はない。


でも、

待つ気持ちはさっきより薄い。


代わりに、

明日の昼を越えるための小さな釘がある。


海。


「粗末にしないで」


「普通」


「うん」


短い言葉たちが

僕の中で並んで、

かろうじて僕の輪郭を支える。


布団に入る。


目を閉じる。


明日もきっと、

蛍光灯は遠くて、

就活の文字は近くて、

世界は薄い。


それでも、

今日みたいな夜があるなら

“すれ違うかも”は終わりじゃない。


ずれたぶんだけ、

戻る努力が必要になるだけだ。


努力が怖い。


でも、

怖いままでもいい夜があることを

僕はもう知っている。


だから、

眠る。


眠って、

また昼を越える。


次の夜へ向かうために。

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