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点滅する背中

クリスマスが近づくと、

街は急に「正しさ」を装い始める。


優しくしろ。

笑え。

誰かと過ごせ。


そういう空気が、

看板のイルミネーションみたいに点滅している。


点滅しているだけならまだいい。

問題は、

その光が、影まで照らしてしまうことだ。


 


バイト先は、忙しかった。


店内のBGMが、

同じサビを何度も流す。


「恋人たちの〜」みたいな言葉が、

レジのバーコード音に混ざって耳を刺す。


人が多い。

袋が多い。

笑い声が多い。


多いのに、

僕はずっと一人みたいだった。


レジ越しに渡すのは商品で、

本当は、

自分の時間を渡しているだけだ。


気づけば、

手は動くのに心が動かない。


動かないまま、

疲れだけが溜まっていく。


溜まっていく疲れは、

筋肉じゃなく、

胸の奥に溜まる。


 


千華さんに会う回数が、

少しずつ減っていった。


減っていったというより、

減らさざるを得なかった。


僕が、夜を越えられない日が増えた。

彼女が、夜を空けられない日も増えた。


「今夜どう?」

そういうやり取りが、

いつの間にか、

「今週どこかで」に変わって、

「また連絡するね」に変わっていく。


“また”の中に、

保証はない。


保証がないのに、

僕はそれを信じたがる。


信じたがるから、

裏切られた気になる。


裏切られていないのに。


 


千華さんからのメッセージは短かった。


「今、修羅場」

「締切」

「ごめん」

「寝る」


短い文字の並び。


でも、そこに彼女の息があるのが分かる。

疲れてる息。

焦ってる息。

誰にも見せない息。


僕は返す。


「無理しないで」

「暖かくして」

「食べて」


自分でも笑えるくらい、

言う側の真似をする。


真似は、距離を埋める道具になる。

同時に、

距離があることを証明する道具にもなる。


埋まらないから、真似をする。


そういうことだ。


 


クリスマス直前。


バイトは、さらに忙しくなった。


夜のシフトが増える。

休みが削れる。

体力が削れる。


削れると、

余計なものが見える。


店の入口に並ぶケーキの予約用紙。

レジ前のチキンのポップ。

赤と緑と金色。


色が派手なほど、

僕の気持ちは無彩色に近づく。


あの海の色は、

確かにあった。


でも、

海の色は、ここにはない。


ここにあるのは、

明るさのふり。


幸せのふり。


 


その日の夜も、

僕はシフトだった。


ピークの時間を越えた後、

一気に疲れが落ちてくる。


落ちてきた疲れは、

床に落ちるんじゃなく、

肺の中に落ちる。


息が浅くなる。


終電が近づく。


「お疲れ様です」


一番好きな言葉を言って、

僕は裏口から外に出る。


外の空気は冷たい。


冷たいのに、

店内の熱がまだ皮膚に残っていて、

そのギャップが気持ち悪い。


夜は綺麗だ。

綺麗なのに、

僕の中は汚い。


汚いというより、

荒れている。


 


駅へ向かう道。


イルミネーションが点滅している。


木々に巻かれた小さな光。

看板の上の光。

自販機の白い光。


光が多い。


光が多いと、

影も濃くなる。


僕の影が、

アスファルトの上で伸びる。


長い。


長いくせに、

どこにも届かない。


 


スマホが震えた。


画面を見る。


千華さん。


「今から少しだけ、外出れる」

「公園、来る?」


一瞬、

心臓が跳ねる。


跳ねてから、

すぐに沈む。


僕は今、駅前。

終電が近い。

体は限界。

頭はぼんやり。


でも。


行きたい。


行けば、

今日が終われる。


行けば、

僕の薄さが戻る。


それが分かってしまう自分が、

怖い。


怖いのに、

指はもう動いている。


「行きたい」

と打ちかけて、

消す。


代わりに、

違う文字を打つ。


「今バイト終わった」

「終電近い」

「ごめん、今日は厳しい」


送信。


送信した瞬間、

胸の奥が冷える。


断ったから冷えるんじゃない。


断らなきゃいけない自分が、

嫌いだから冷える。


 


既読。


返事が来ない。


その沈黙が、

風より冷たい。


冷たいのに、

僕はスマホを見てしまう。


また見てしまう。


何度も見てしまう。


更新しても、

何も変わらない。


変わらないことが、

僕を責める。


 


ホームに立つ。


電車が来る。


乗る。


車内は空いている。


広告に、

クリスマスの言葉が並んでいる。


幸せを売っている。


幸せは売り物なのに、

僕はそれを買うお金がないみたいだ。


 


家に着く。


鍵を回す。


ドアを開ける。


いつもの匂い。


洗剤。

畳。

古い木。


それが安心で、

それが苦しい。


部屋に入る。


コートを脱ぐ。


スマホを見る。


通知はない。


分かっているのに、

胸の奥が痛い。


痛いのに、

それでも布団に入る。


眠れるはずがない。


 


そのとき、

スマホが震えた。


「そっか」

「了解」


たった二行。


いつもの彼女の短さ。


でも、

今日はその短さが刃みたいに見える。


了解。


それだけで、

終わった感じがする。


終わってないのに。


 


僕は返す。


「ごめん」

「明日、会える?」


送信。


すぐに既読はつかない。


夜が深くなる。


イルミネーションの光が、

窓の外で遠くに点滅している。


世界は明るいふりをしている。


僕の中は暗い。


暗いまま、

目を閉じる。


 


眠りかけた頃、

既読がついた。


そして、

返事。


「明日も無理かも」

「ちょっと、今無理」


無理。


その言葉が、

胸の奥に落ちて、

底で鈍く鳴る。


無理。


僕が言う側の無理と、

彼女が言う側の無理は、

同じじゃない気がする。


彼女の無理は、

“崩れる手前”の無理だ。


僕の無理は、

“逃げたい”の無理だ。


それを比べるのも最低だ。


でも、

比べてしまう。


最低だ。


 


翌日。


昼は、相変わらず長い。


講義。

就活。

友人の未来の話。


全部遠い。


遠いまま、

夕方になる。


バイトへ向かう。


街は浮かれている。


でも、

浮かれている街の中で、

僕だけが沈む。


沈むのに、

助けを求める先が見えない。


 


休憩時間。


コンビニに寄る。


バイト先の近くの小さなコンビニ。


入口の自動ドアが開くと、

暖かい空気と匂いが流れ出す。


揚げ物の油の匂い。

甘い菓子パンの匂い。

レジ横の肉まんの湯気。


クリスマス限定のケーキが棚に積まれて、

赤い箱が、誇らしげに並んでいる。


「予約受付中」の文字が、

やけに眩しい。


眩しいほど、

僕は腹が減っていることに気づく。


空腹は、心を正直にする。


僕は唐揚げを取る。


ホットスナックの紙袋は熱い。


その熱さが、

今の自分の体温よりちゃんとしている。


缶コーヒーも取る。


いつも、千華さんと公園で握っていたやつ。


握ると、

指先が少しだけ思い出す。


白い息。

電灯の円。

煙の匂い。


 


レジに並ぶ。


前の客が笑っている。


隣の棚に、

ペアのマグカップが置いてある。


「大切な人へ」


そういうコピーが、

僕を軽く殴る。


大切な人。


いる。


確かにいる。


でも、

その人に近づくほど、

遠くなる。


意味が分からない。


分からないまま、

会計を終える。


コンビニを出る。


夜の風が冷たい。


紙袋の熱がありがたい。


 


その帰り道。


駅前の交差点。


人が多い。


イルミネーションが点滅している。


そして。


見覚えのあるコート。


見覚えのある歩き方。


千華さんだった。


一瞬、

世界の音が小さくなる。


耳鳴りみたいな静けさ。


彼女はスマホを片手に持って、

少し早足で歩いている。


目の下が薄く影になっている。


顔色が、

夜の光に負けている。


“しんどい”の形が、

そこにある。


僕は立ち止まる。


声をかけるべきか迷う。


迷っている間に、

彼女の方が先に僕に気づいた。


目が合う。


ほんの一秒。


その一秒で、

彼女の表情が変わる。


驚き。

そして、

少しだけ、

困った顔。


「……和樹くん」


名前を呼ぶ声は小さい。


街の音に消えそうな声。


僕は近づく。


近づくと、

彼女の疲れが匂いで分かる。


香水じゃない匂い。

タバコでもない匂い。

紙と目と夜更かしの匂い。


「……大丈夫ですか」


言った瞬間、

自分の声が軽すぎる気がする。


大丈夫じゃないのに。


彼女は笑おうとして、

笑えない。


「……ごめんね」

「返事、そっけなかった」


「……いや」


いや、じゃない。


でも、言葉が出ない。


僕の中の期待が、

この場に立ってしまうと邪魔になる。


邪魔だから、

飲み込む。


飲み込むと、

胸が痛い。


 


信号が赤になる。


人の波が止まる。


二人だけが止まるみたいに感じる。


現実は、

ただの信号なのに。


彼女が言う。


「今、ちょっとだけ時間ある」

「でも、ほんとにちょっと」


“ちょっと”が、

彼女の限界の形だ。


僕は頷く。


頷くだけで、

何かが許された気になる。


許されてないのに。


「……公園、行きます?」


言ってから後悔する。


公園は、

僕らの逃げ場だ。


逃げ場に連れていくのは、

彼女を甘やかすことになる。


でも、

甘やかすことが悪いとも言い切れない。


彼女は、少しだけ迷って、


「……うん」


と答えた。


うん。


その一文字が、

今夜のすべてみたいに重い。


 


公園へ向かう道。


歩幅が揃わない。


いつもなら揃うのに、

今日は揃わない。


彼女が少し早い。

僕が少し遅い。


彼女は急いでいて、

僕は追いかけている。


それが、

今日の関係そのままだと思ってしまう。


思ってしまって、

胸が痛い。


 


公園の電灯。


白い円。


いつもの場所。


でも、

今日はいつもと違う。


彼女が座る前に、

深く息を吐く。


吐く息が白い。


白さが、いつもより濃い。


寒いからじゃない。


疲れているからだと思う。


彼女はタバコを出す。


箱を開ける手が少しだけ震える。


震えを誤魔化すみたいに、

早く一本抜く。


ライター。


チッ。


火。


炎が揺れる。


彼女の指先が赤く照らされる。


彼女が吸う。


赤が灯る。


吐く。


煙が、いつもより乱れる。


夜に溶けない。


溶けないで、

どこかで引っかかる。


「……ごめんね」


彼女がまた言う。


「最近、余裕なくて」


余裕。


その言葉が、

僕の中で別の言葉に変換される。


余裕=僕に割ける部分。


それが減っている。


それは当然だ。


当然なのに、

僕の心は勝手に寂しがる。


寂しいなんて言う資格はない。


でも、

寂しい。


 


僕は、紙袋を差し出す。


さっき買った唐揚げ。


「……これ、温かいです」


彼女が袋を受け取る。


指先が少し触れる。


その一瞬だけ、

彼女の体温が分かる。


冷たい。


冷たいのに、

僕はほっとする。


まだ、そこにいる。


彼女は小さく笑う。


「優しいね」


その言葉が、

僕を救う。


同時に、

僕を縛る。


優しいね。


僕は優しさでしか、

ここに居場所を作れない気がする。


それが怖い。


 


彼女が唐揚げを一つ口に入れる。


咀嚼する。


飲み込む。


それだけの動作が、

やけに丁寧に見える。


「……うま」


その一言が、

今日初めての“生きてる”に聞こえる。


僕は笑う。


笑ってから、

急に真顔になる。


聞きたいことがある。


でも、聞いたら壊れる。


壊れるのが怖い。


でも、壊れないままでも、

すり減っていく。


すり減って、

いつか勝手に壊れる。


それも怖い。


 


「……千華さん」


呼ぶ。


彼女がこちらを見る。


煙の向こうの目。


少しだけ赤い。


泣いたわけじゃない。

寝てないだけの赤。


「……昨日、“無理”って言ったじゃないですか」


言ってしまった。


彼女は目を逸らさない。


「うん」


「……僕、あれで」

「……なんか、勝手に」

「……勝手に、終わるみたいに感じて」


情けない。


情けないのに、

止まらない。


彼女はタバコを吸って、

ゆっくり吐く。


煙が、

今度は少しだけ整う。


「終わらないよ」


短い。


短いのに、

胸の奥がほどける。


「ただ、今は」

「ほんとに、余裕がない」


「……はい」


「だから」

「すれ違うかも」


すれ違う。


彼女がそれを言う。


ちゃんと、言う。


言ってくれる。


それがありがたい。


でも、

すれ違う未来が確定したみたいで怖い。


 


彼女は笑う。


いつもの薄い笑い。


でも、

今日はそこに少しだけ疲れが混ざっている。


「和樹くん、優しすぎ」


褒め言葉みたいに言って、

釘みたいに刺す。


優しすぎ。


それは、

踏み込むなってことかもしれない。


頼るなってことかもしれない。


頼れってことかもしれない。


分からない。


分からないまま、

僕は頷く。


頷くしかできない。


 


時間が過ぎる。


彼女がスマホを見る。


「あ、やば」


短い声。


現実が戻る音。


彼女は立ち上がる。


コートの襟を直す。


タバコを小さく揉み消す。


「ごめん。行かなきゃ」


「……大丈夫です」


大丈夫じゃない。


でも、

大丈夫って言うしかない。


彼女は少しだけ迷って、


「……またね」


と言う。


いつもより、

少しだけ弱い声で。


 


彼女が歩き出す。


イルミネーションの光が、

彼女の背中を点滅させる。


点滅するたびに、

そこにいるのか消えたのか分からなくなる。


それが、

今の僕らみたいだと思ってしまう。


 


僕は一人でベンチに座る。


手の中の缶コーヒーが冷えている。


冷えているのに、

開ける気にならない。


今日は、

温かいものを飲むと、

泣いてしまいそうだから。


 


すれ違う。


その言葉が、

胸の奥で反芻される。


すれ違っても終わらない。


終わらないためには、

何が必要だ。


僕の優しさ?

彼女の余裕?

それとも、

ただの運?


分からない。


でも、

分からないままでも、

夜は進む。


クリスマスは近づく。


繁忙は続く。


彼女の締切は迫る。


僕のシフトも増える。


会えない夜が増える。


会えない夜の分だけ、

会えた夜が重くなる。


重くなると、

また怖くなる。


 


それでも。


彼女が最後に言った「またね」が、

僕の中でまだ熱い。


熱いから、

明日も昼を越える。


越えて、

またすれ違って、

それでも、

どこかで同じ夜に戻れると信じてしまう。


信じるのが、

一番みっともない。


でも、

みっともないまま生きるしかない。


僕はもう、

それを少しだけ覚え始めている。

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