余白の約束
翌朝の光は、昨日の夜よりも薄かった。
薄いのに、刺さる。
「無理しないで」
その短い文字は、胸の奥でまだ熱を持っているのに、
現実の方は冷えて硬いままだった。
講義は相変わらず頭に入らない。
就活という単語は相変わらず胃の奥を掴む。
電車の窓に映る自分は相変わらず薄い。
でも、薄いままでも、
昨日の夜の“ふり”がある。
世界が優しいふりをする夜。
そのふりに慣れたら、
昼がもっと残酷になる。
分かっているのに、
僕はそのふりを求めてしまう。
昼はいつも、長い。
長いくせに、何も残さない。
講義の終わりのチャイムが鳴っても、
僕の中では、何かが終わった気がしない。
むしろ、
「まだ続くのか」という感覚だけが積み上がる。
食堂の笑い声が遠い。
友人の話が遠い。
未来の話は全部、遠い。
僕は、遠いものに囲まれている。
だから、
夜だけが近い。
スマホの中の一行だけが近い。
その日の夕方、
バイト先から出たとき、
空はクリスマス前の顔をしていた。
飾り付けられた街。
無理に明るいBGM。
人の歩く速度だけが妙に速い。
焦りが伝染してくる。
僕の中にも、焦りがある。
でも、
焦る方向が分からない。
何を急げばいいのかも分からない。
分からないから、
帰り道の途中で立ち止まる。
立ち止まったまま、
冷たい空気を吸う。
肺が痛い。
痛いのに、
少しだけ生きてる気がする。
家に帰る。
いつも通りの匂い。
洗剤と畳と、少しだけ古い木。
それが安心で、
それが苦しい。
机の上のシフト表が目に入る。
大学のレポートの締切が目に入る。
「やらなきゃいけないこと」が並んでいる。
並んでいるだけで、
やってないことが増えていく。
増えていくのに、
体は動かない。
動かない自分に腹が立つ。
腹が立つのに、
動かない。
最悪だ。
気づけば、
スマホを手に取っていた。
千華さんの名前。
名前があるだけで救われるのが、
もう怖い。
怖いのに、
画面を開いてしまう。
送らないと決めていたはずの指が、
勝手に文字を打つ。
「今夜、会える?」
短い。
分かりやすい。
みっともない。
送信した瞬間、
心臓がぎゅっと縮む。
期待が膨らむ。
期待が恥になる。
返信が来ない時間が、
僕を責める。
返信は、遅れて来た。
「ごめん。今夜は無理。ちょっとだけ、しんどい」
たったそれだけ。
それだけなのに、
胸の奥が熱くなる。
しんどい。
彼女がそう書くのは珍しい。
いつもは「無理しないで」って言う側なのに。
今日の彼女は、
言う側じゃなくて、
言われる側に立っている。
それが嬉しいわけじゃない。
でも、
嬉しいみたいに胸が動く。
最低だ。
僕は返す。
「大丈夫? 無理しないで」
文字が、彼女の真似になる。
真似をして、
彼女に近づいた気になる。
それもまた怖い。
送信。
既読はつかない。
夜が深くなる。
部屋は静かになる。
世界が薄くなる。
薄くなるほど、
僕の中の海が濃くなる。
あの砂浜。
あの風。
あの沈黙。
そして、
千華さんの「海、また行きたい」。
約束の形をしていない言葉。
でも、
僕は勝手にそれを、
約束にしてしまっている。
その夜は、
公園へ行かなかった。
行かなかったというより、
行けなかった。
会えないと分かった途端に、
外に出る理由が消える。
夜に出るのは、夜が好きだからじゃない。
彼女がいるからだ。
それに気づいた瞬間、
自分の輪郭がもう一段薄くなった。
寝る前、
スマホが震えた。
「ありがとう。明日なら、少し歩けるかも」
短い。
短いから、
余白がある。
その余白に、
僕は息を吸い込む。
「明日、会えるかも」
それだけで、
今日が終われる。
終われるから、
眠れる。
僕は、こんなことで眠れる。
こんなことで生きている。
翌日。
昼を越える。
越えるたびに、
心臓が擦り減る。
でも、
夜があると思うと、
擦り減る速度が少し遅くなる。
自分が自分でなくなる前に、
夜が来る。
それだけで、
なんとかなる。
千華さんが言った「なんとかなる」が、
僕の中で別の意味になっていく。
頑張ればなんとかなる、じゃない。
耐えればなんとかなる、でもない。
“夜まで生き延びればなんとかなる”。
それは、生存戦略だ。
夜。
公園。
電灯の白い円。
彼女は、いつもより遅く来た。
コートの襟を少し立てて、
ポケットに手を突っ込んで、
早足で近づいてくる。
歩き方が、少しだけ乱れている。
「……ごめん、待った?」
「……大丈夫です」
大丈夫じゃない。
待った時間よりも、
来たことが嬉しくて、
その嬉しさが怖い。
彼女はベンチに座る。
座った瞬間、
肩の力が落ちる。
その落ち方が、
今日の“しんどい”の答えみたいだった。
タバコを出す。
箱の角。
指の動き。
ライター。
チッ。
火。
炎が頬を照らす。
その一瞬だけ、
夜の中で彼女の顔が鮮やかになる。
吸う。
赤が灯る。
吐く。
煙が白くほどける。
今日の煙は、いつもより遅い。
伸びて、
揺れて、
ほどけるまでに時間がかかる。
まるで、
言えない言葉を引き延ばしているみたいに。
「……昨日、ちょっとだけ、しんどかった」
彼女が言う。
ちゃんと、言う。
その事実が胸に刺さる。
「……何が?」
聞いていいのか分からない。
でも、聞かなかったら、
彼女はもう言わない気がした。
彼女は煙を吐いてから、言う。
「仕事。締切。あと、全部」
全部。
全部という言葉は便利だ。
便利だから、そこに本当が隠れる。
彼女は笑う。
笑い方が、いつもより薄い。
「私さ。自由に見えるでしょ」
「……見えます」
「自由って、逃げ場ないんだよね」
その言葉が、
僕の中の何かを叩く。
逃げ場がない。
僕も、逃げ場がない。
でも、彼女は逃げ続けているって言った。
逃げ続けた先に自由があって、
その自由に逃げ場がない。
そんなの、
どうすればいいんだ。
「……和樹くんは、今日どうだった?」
いつも通りの質問に戻る。
戻るのが、優しい。
僕も、戻る。
「……同じです」
「そっか」
「……就活、嫌でした」
今日も言ってしまう。
でも今日は、
昨日よりも言葉が出る。
「怖いです」
言った瞬間、
喉の奥が熱くなる。
「何が怖い?」
彼女が聞く。
聞き方が、真面目だ。
笑って逃がさない。
その真面目さが怖い。
でも、
逃げるよりはましだ。
「……自分が、働いてるの想像できない」
「うん」
「……何もできないまま、終わりそう」
彼女はタバコを吸って、
赤を灯して、
ゆっくり吐く。
「終わりそう、って思うときってさ」
「だいたい、始まってもないんだよね」
「……始まってもない」
「始まってないから、終わりようがない」
彼女は笑う。
今度は、少しだけ本物の笑い方。
「ズルい言い方だけど」
「でも、ほんとだと思う」
ズルい。
彼女はそういう言葉を選ぶ。
綺麗な正論で殴らない。
僕が崩れないように、
角を丸くする。
その丸さが、
余計に胸に刺さる。
彼女が言う。
「ねえ、海。今度こそ行こ」
前より少しだけ真剣だ。
お願いみたいじゃなく、
確認みたいな声。
「……行きましょう」
僕は即答する。
即答できることが怖い。
でも、止められない。
彼女は少しだけ目を細める。
「榊さん、いるかな」
「たぶん」
「会いたいな」
その言い方が、
榊さんのことじゃない気がして、
胸の奥がざわつく。
会いたい。
その言葉が、
夜の煙と混ざって、
僕の中に残る。
数日後。
海へ行く日が来る。
その日までの空白は、
相変わらず空白だった。
講義。
バイト。
家。
でも、空白の中に小さな釘が打たれている。
“海”。
その二文字が、僕を引っ張る。
引っ張られるのが怖い。
引っ張られないと動けないのも怖い。
矛盾したまま、
僕は昼を越える。
海へ向かう朝。
駅のホームは冷たい。
電車はいつも通り来て、いつも通り扉が開く。
でも、
今日は“いつも通り”が少し違う。
隣に、千華さんがいる。
同じ車両。
同じ揺れ。
同じ窓。
同じなのに、
世界が少しだけ濃い。
「……寝れた?」
彼女が聞く。
「……まあ」
「ふーん。よかった」
よかった、の言い方が優しい。
それだけで、
胸の奥が少しだけ軽くなる。
軽くなると、
また怖い。
海の駅に着く。
ホームに降り立った瞬間、
潮の匂いが肺に入る。
冬の匂い。
冷たい、乾いた匂い。
千華さんが息を吸う。
「……これだ」
それだけ言う。
“これ”。
彼女が求めてたものが、
その一言で分かってしまうのが怖い。
僕は頷く。
言葉がいらない。
言葉があると壊れる。
砂浜。
人は少ない。
風が強い。
きめ細かい砂が、
靴の周りに小さく溜まる。
「静かだね」
「そうですね」
同じ会話。
でも、同じじゃない。
同じ会話の中に、
昨日の夜の弱さが混ざっている。
だから、
景色が少しだけ違って見える。
人工物の上。
二人で歩く。
冬の海は穏やかで、
穏やかだからこそ怖い。
穏やかなものは、
いきなり壊れるから。
そんなことを考えた瞬間、
「今日は一人じゃないみたいだね」
声。
榊さん。
いつもの笑顔。
でも今日は、
その笑顔が妙にありがたい。
二人きりじゃない。
三人になる。
三人になれば、
二人の間の何かが少しだけ薄まる。
薄まるのが救いで、
薄まるのが寂しい。
矛盾する。
僕の心はいつも矛盾する。
三人で海を見る。
さざ波。
風。
遠くのカモメ。
時間が溶ける。
溶けるから、
自分が何者でもなくなる。
何者でもない時間が、
一番楽だ。
僕はそれを知ってしまった。
砂浜に名前を書く。
波が消す。
消える。
消えるのに、
残る。
それが海だ。
それが僕らだ。
そして帰り道。
今日は二人きりになる。
榊さんと別れて、
駅へ向かう足音が二つになる。
二つになると、
また世界が濃くなる。
濃くなるほど怖い。
怖いけれど、
今度は逃げない。
逃げないで歩く。
歩きながら、
千華さんが言う。
「ねえ」
「……はい」
「今日さ、来てよかった」
それは感想みたいに聞こえて、
告白みたいにも聞こえる。
でも、
どっちでもない気がした。
生存確認。
今日、ここに来て、ちゃんと息ができた。
そういう意味の「よかった」。
僕は言う。
「……僕もです」
それだけ。
余計なことを言うと壊れる。
でも、
言わなさすぎると消える。
消えるのも怖い。
だから、
小さくでも言う。
夜はまた来る。
会える日も、会えない日も来る。
クリスマスは近づく。
疲労が溜まる。
千華さんは笑うだろう。
たぶん、同じ顔で。
でも、
一瞬だけ弱い顔も見せる。
その一瞬を、
僕は見逃さない。
見逃さないで、
隣にいる。
それだけができるように、
僕はまた昼を越える。




