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会えない夜に灯る

翌朝。


目が覚める。


起き上がる前に、

昨日の夜の文字を思い出す。


無理しないで。


たったそれだけの言葉が、

まだ胸の奥に引っかかっている。


引っかかっているから、

起きられる。


起きられるから、

また今日が始まる。


それが、

少しだけ憎い。


少しだけありがたい。


顔を洗う。


水は冷たい。


指先から、

現実が戻ってくる。


鏡の中の自分は、

相変わらず冴えない。


でも、

冴えないままでも、

昨日より少しだけ息ができる。


昨日の夜みたいに、

世界が優しいふりをしたからだ。


優しいふりでもいい。


今は。


駅まで歩く。


空気が乾いている。

冬の匂いが強い。


マフラーの繊維が、

喉元を少しだけくすぐる。


電車に乗る。


人の匂い。


整髪料。

洗剤。

香水。


他人の生活の匂いの中で、

自分の輪郭が薄くなる。


薄くなるのに、

どこかだけ熱い。


スマホの中の短い言葉が、

まだ熱い。


大学。


講義。


教授の声。


意味は分かる。


でも、

心には入らない。


心は、

別の場所に立っている。


海の駅のホームとか。

冬の砂浜とか。

公園の電灯の円とか。


そういう場所に立ってしまう。


昼。


食堂。


笑い声。


友人が言う。


「最近さ、就活やってる?」


その一言で、

空気がひび割れる。


「……ぼちぼち」


嘘。


ぼちぼちなんてやっていない。


「説明会、今週多いよな」


「……そうだね」


言葉が軽い。


軽いのに、

胃の奥が重くなる。


世界は、

未来の話をする。


僕だけ、

今日の話もできない。


できないから、

海の話をしてしまう。


逃げる。


逃げ続けて、

海に辿り着いたみたいに。


その日も、

講義が終わる頃には、

身体の中が空洞になる。


空洞になると、

風が通る。


風が通ると、

寒い。


寒いと、

帰りたくなる。


帰りたい場所が、

一つだけある。


夜。


公園。


でも、

今日は行くべきか分からない。


行きたい。


でも、

行ったら、

また頼ってしまう。


頼ったら、

昼がもっと耐えられなくなる。


そんなことを考えながら、

電車に乗る。


窓に自分の顔が映る。


薄い。


薄いまま、

夜に寄っていく。


 


家に帰って、

夕飯を食べて、

風呂に入る。


当たり前の生活が、

僕を包む。


包まれると、

少し苦しい。


外に出たくなる。


でも、

昨日みたいに疲れているわけじゃない。


疲れていないのに、

足が止まる。


怖いのは、

疲労じゃない。


期待だ。


会えるかもしれない。

会えないかもしれない。


その二択に、

自分が振り回されるのが怖い。


それでも、

気づけば靴を履いている。


ドアを開ける。


冬の夜が、

肺に入る。


冷たい。


冷たいから、

目が覚める。


目が覚めたまま、

歩く。


住宅街。


街灯。


自販機。


公園。


いつもの円。


いつもの影。


彼女がいる。


それだけで、

胸の奥がほどける。


悔しいくらいに。


「……昨日、来なかったじゃん」


責める声じゃない。

確かめる声。


「……ごめん。疲れてた」


「そっか」


それ以上は聞かない。


その優しさが、

ありがたくて、

少しだけ痛い。


彼女は、

コートのポケットから箱を出す。


タバコ。


ライター。


チッ。


火。


炎が小さい。


小さいのに、

夜を少しだけ明るくする。


彼女が顔を寄せる。


頬に火の色が映る。


その瞬間だけ、

大人の顔になる。


吸う。


赤が灯る。


吐く。


煙がほどける。


白くて、

薄くて、

夜に消える。


消えるのに、

匂いだけは残る。


「……今日は、どんな日だった?」


答えに困る。


どんな日だった。


講義。

食堂。

就活。

薄い自分。


全部を言うと、

長くなる。


長くなると、

みっともなくなる気がする。


「……同じ」


「そっか」


それだけ。


でも、

それだけで、

自分が否定されない。


否定されないから、

少しだけ言える。


「……就活って、嫌だ」


言った瞬間、

自分で驚く。


こんな本音、

誰にも言ったことがない。


彼女は笑わない。


煙を吐いて、

少しだけ目を細める。


「……嫌だよね」


その言い方が、

自分の嫌さを許すみたいで、

胸の奥がじわっとする。


「……でも、みんなやってる」


「みんなは、みんな」


彼女は、

タバコをもう一度吸う。


赤が灯る。


「和樹くんは、和樹くん」


その名前を呼ばれるだけで、

自分の輪郭が戻る。


戻ると、

少しだけ泣きたくなる。


泣かない。


泣いたら、

何かが壊れる気がする。


彼女が言う。


「ねえ、今度さ」


「……うん」


「海、また行きたい」


それは約束みたいに聞こえない。

お願いみたいに聞こえる。


軽い声なのに、

どこか必死だ。


「……行きましょう」


言ってしまう。


言ってしまうから、

次ができる。


次ができるから、

生き延びられる。


僕らは、

約束で生きる。


そんなふうに、

思ってしまった。


 


海に行く日まで、

空白の日常が続く。


大学。


バイト。


家。


どれも同じ。


でも、

同じの中に、

小さな目印ができる。


次の海。


次の夜。


次の短い言葉。


それだけで、

僕は今日を越える。


越えながら、

依存の形が変わっていくのを感じる。


前は、

夜に会えればそれでよかった。


今は、

会えないと、

昼が薄すぎる。


薄すぎて、

呼吸が浅くなる。


自分が、

自分じゃなくなる。


それが怖い。


怖いのに、

やめられない。


 


年末が近づく。


空気がさらに乾く。


町が少しだけ浮かれる。


コンビニの入口に、

クリスマスケーキの予約用紙が並ぶ。


駅前のBGMが、

やけに明るい。


明るいほど、

自分の影が濃くなる。


土日のどちらかはバイト。


もう片方は、

彼女の部屋。


炬燵。


みかん。


ドラマの再放送。


オレンジ色の西日が、

部屋を染める。


僕は、また聞いてしまう。


「僕たちの関係って、何なんですかね」


彼女は、笑って答える。


「親友以上恋人未満」


その言い方が軽くて、

軽いから救われて、

救われるから苦しい。


軽さの中に、

触れてはいけない場所がある。


そこに触れたら、

全部終わる気がする。


終わりたくない。


でも、

続け方も分からない。


 


ある深夜。


公園で缶コーヒーを握って、

二人で息を白くする。


彼女が唐突に言う。


「和樹くん、就活進んでる?」


胸がきゅっとなる。


「……進んでないです」


彼女は笑わない。


「そっか」


それだけ。


それだけで、

責められていないのが分かる。


僕は反射的に聞き返す。


「千華さんは、何の仕事してるんですか」


彼女は、少しだけ間を置く。


吐く息が白い。


「私? イラストレーター」


その単語が、

夜の空気の中で妙に鮮やかに響く。


「……え」


僕は彼女を見る。


いつもと同じ顔。


でも、

どこか遠い。


「意外?」


「……意外です」


彼女は小さく笑う。


「生活には困らない程度にはね」


羨ましい。


羨ましいという言葉の中に、

憧れと嫉妬と、

救いを求める気持ちが混ざる。


「……すごい」


「すごくないよ」


彼女は缶を持ち替える。


指が少し赤い。


「人の下で働くのが嫌で、逃げ続けただけ」


逃げ続ける。


その言葉が、

自分の胸に刺さる。


僕も逃げている。


でも、

逃げ切れていない。


逃げ切れないから、

余計に苦しい。


彼女が言う。


「心配しなくても、なんとかなるよ」


無責任に聞こえるはずなのに、

今の僕には救いに聞こえる。


「……そんなものですか」


「そんなもの」


彼女は笑う。


月光が、

彼女の横顔を薄く照らす。


神聖に見えるのに、

どこか脆い。


脆いから、

目を逸らせない。


 


そして、

クリスマスが近づく。


バイトが忙しくなる。


店内の音楽が、

何度も同じサビを流す。


笑っている客の顔が、

なぜか怖い。


疲労が溜まる。


心臓が小さくなる。


夜の散歩に行けない日が来る。


行けないと決めた瞬間、

胸の奥が冷える。


でも、

今日は本当に無理だ。


僕はメッセージを開く。


短く打つ。


「ごめん、今日は行けない」


送信。


返信が来るまでの時間が、

やけに長い。


冷たい天井が、

近い。


世界が、

薄い。


スマホが震える。


短い。


「了解。無理しないで。あったかくして寝て」


それだけ。


それだけで、

また泣きそうになる。


彼女の言葉は、

いつも短い。


短いから、

余白が残る。


余白に、

僕の願いが入り込む。


本当は、

会いたい。


本当は、

触れてほしい。


本当は、

名前をつけてほしい。


でも、

言わない。


言ったら、

壊れる。


だから、

僕も短く返す。


「ありがとう」


そして、

スマホを伏せる。


 


布団に入る。


眠りの入口で、

海が揺れる。


波が砂を撫でる。


三人の名前が消える。


消えるのに、

残る。


残るから、

怖い。


怖いのに、

温かい。


僕は思う。


次に会ったら、

今日言えなかった分だけ、

もう少しだけ本音を言おう。


就活が怖いとか、

昼がしんどいとか、

そういうみっともないやつを。


そして、

もし彼女が、

一瞬だけ弱さを見せたら。


僕は、

隣にいるだけでいい。


抱きしめる言葉も、

慰める言葉も、

まだ持っていないから。


隣にいるだけ。


それができたら、

少しだけ大人だ。


そう思いながら、

目を閉じる。


錯覚みたいに、

スマホが震えた気がする。


震えていない。


でも、

その錯覚が嬉しい。


世界が、

ほんの少しだけ、

優しいふりをしたから。


今日も。


ぎりぎりで。


僕は、生きている。


そして、

次の海へ向かうために、

また、昼を越える。

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