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会えない夜に残る海

部屋の匂いは、

いつも通りだった。


洗剤。

畳。

少しだけ古い木の匂い。


それなのに、

今日だけは、

そこに海が混ざっていた。


潮の気配。

乾いた風の感触。

砂の粒の、あの微かなざらつき。


服を脱いでも、

手を洗っても、

消えない。


胸の奥にだけ、

ずっと残っている。


ベッドに横になる。


天井は暗い。

けれど、

暗さの中で、

さっきまでの景色がやけに鮮明だった。


冬の海。

人の少ない砂浜。

さざ波。

白い息。

隣の横顔。


あの人と並んで座って、

何も言わなかった時間。


言葉がなかったから、

形が崩れなかった。


そんな気がした。


スマホを手に取る。


指先が、

勝手に画面を点ける。


通知はない。


分かっているのに、

毎回、少しだけ落ち込む。


誰かの返信を待つみたいなことを、

今までの自分はしなかったはずなのに。


画面を消す。


暗闇に戻る。


呼吸だけが聞こえる。


耳を澄ますと、

家の中の音がある。


冷蔵庫の低い唸り。

廊下のどこかが軋む音。

遠くの、誰かの寝返り。


世界はちゃんと続いている。


それが、

少しだけ苦しい。


目を閉じる。


眠れない。


今日を、

終わらせたくなかった。


終わらせてしまったら、

明日が来る。


明日が来たら、

また「昼」だ。


就活という言葉。

労働という現実。

何も変わらない時間。


今日の海が、

薄まっていく。


それが怖かった。


だから、

眠れないふりをする。


眠れないままでいると、

今日がまだここにいる気がする。


窓の方を見る。


カーテンの隙間。

外は、静かな夜。


星が、

少しだけ出ていた。


海の上にも、

同じ星があるんだろうか。


ふと、

千華さんの顔が浮かぶ。


今日の帰り道の沈黙。

「上、寄ってく?」の、軽い声。

僕の「大丈夫です」の、曖昧な返事。


あれは、

優しさだったのか。


逃げだったのか。


自分でも分からない。


分からないまま、

僕は布団を肩まで引き上げる。


寒い。


冬が、

皮膚の外側にいる。


でも、

胸の内側だけは、

まだ今日の温度を持っている。


それが、

唯一の救いだった。


 


朝になる。


寝たのか寝ていないのか分からない、

そんな時間を通り抜けて、

気づけば、目が開いていた。


窓の外は白い。


冬の朝は、

色が少ない。


色が少ないのに、

現実だけは濃い。


スマホを見る。


時間は、ちゃんと進んでいる。


誰も僕を待たないのに、

時間だけが僕を追い立ててくる。


大学へ行く。


電車に乗る。


人の匂いが濃い。


整髪料。

柔軟剤。

香水。

昨日の夜の残り香。


全部、

他人の生活の匂いだ。


僕の匂いは、

どこにあるんだろう。


吊り革を握る。


冷たい金属の感触。


逃げ場はない。


追い詰められてもいない。


ただ、

逃げたい気持ちだけがある。


大学。


講義室。


蛍光灯は、

昼の残酷さを増幅させる。


光のはずなのに、

そこに救いがない。


ノートを開く。


ペンを持つ。


講義は分かる。


分かるのに、

心に入らない。


文字は書ける。


文字だけは整っていく。


紙の上の整然さが、

逆に、自分の中の散らかりを目立たせる。


休み時間。


友人が話しかけてくる。


入学式の席が隣だった、

あの縁だけで繋がっているやつ。


「最近、来てなかったけど、何かあった?」


「ごめんごめん。ちょっと体調が悪くて」


当たり前みたいに嘘を吐く。


本当は体調なんて悪くない。


悪いのは、

心の方だ。


でも、

心が悪いって言葉は、

どこにも出せない。


「そういえば、今日の就活説明会行く?」


就活。


その二文字を聞いただけで、

喉が乾く。


逃げていた言葉が、

いつの間にか背後まで来ていた。


他人事みたいにしていたのに、

他人事じゃなくなっている。


「今日は、ちょっと……」


曖昧な返事で誤魔化す。


逃げ続ける。


逃げるほど、

追いかけてくる。


世界は残酷で、

寛容だった。


僕が何をしなくても、

世界は進んでいく。


進んでいくから、

僕は置いていかれる。


置いていかれるのが怖いから、

何かしなきゃいけない。


でも、

何をすればいいのか分からない。


分からないまま、

今日も終わる。


 


昼。


食堂の笑い声。


恋愛の話。

内定の話。

誰かの未来。


みんな、

未来の話をしている。


僕だけ、

今日の話しかできない。


今日さえ、

重いのに。


午後。


窓の外は青い。


何も約束しない青。


この空は、

海の上にもある。


海の方が、

もっと広い。


だから、

海へ行きたくなる。


でも今日は行けない。


理由は単純だ。


行ったら、

戻れなくなりそうだから。


戻れなくなることが怖い。


戻る場所が、

必要だ。


僕には、

戻る場所がまだない。


夜にだけ、

ある気がするだけ。


 


夕方。


帰りの電車。


窓に自分の顔が映る。


ぼんやりした顔。


目の奥が、

まだ眠っている。


昨日の海を見た顔とは、

少し違う。


今日の僕は、

薄い。


薄いまま、

家に帰る。


 


夜。


部屋の電気を点ける。


現実が濃くなる。


机の上のノート。

レポートの締切。

バイトのシフト表。


一つずつが小さいのに、

全部集まると重い。


スマホを見る。


通知はない。


分かっている。


でも、

体の奥が少しだけ冷える。


会えるかもしれない。


会えないかもしれない。


その境界線に、

自分の心が置かれている。


気づけば、

時間は遅くなる。


気づけば、

外は静かになる。


夜が深くなると、

救いの匂いがしてくる。


あの公園。

電灯の白い円。

二つの影。


行けば、

会えるかもしれない。


行けば、

今日が少しだけ終わる。


靴を履きかけて、

手を止める。


ふと、

疲れが来る。


どこかの筋肉じゃなく、

心臓の奥に、

疲れが溜まっている。


今日は、

行けない。


そう思った瞬間、

胸の奥が少しだけ痛む。


行けない理由が、

体力じゃなくて、

気力だからだ。


気力がない自分を、

自分が一番嫌っている。


スマホを手に取る。


画面を開く。


千華さんの名前。


そこに名前があるだけで、

少しだけ救われる。


指が迷う。


送るべきか。

送らないべきか。


送ったら、

期待してしまう。


送らなかったら、

何も残らない。


どちらも怖い。


それでも、

僕は打つ。


短く。


「今日は、行けないかも」


送信。


一秒。


二秒。


返信は来ない。


当たり前だ。


千華さんも、

夜を生きている。


僕の都合だけで動くはずがない。


分かっているのに、

胸がざわつく。


スマホを置く。


天井を見る。


今夜の天井は、

昨日より遠い。


遠いまま、

時間が過ぎる。


 


しばらくして、

スマホが震える。


音は小さい。


でも、

心臓には大きい。


画面を見る。


短い返信。


「そっか。無理しないで」


たったそれだけ。


優しいだけ。


なのに、

泣きそうになる。


無理しないで。


その言葉が、

誰かから自分に向けられたことが、

久しぶりすぎた。


息を吐く。


胸の奥が少しだけ軽くなる。


軽くなると同時に、

怖くなる。


この軽さに慣れたら、

もう戻れなくなる。


戻る場所のない昼に、

耐えられなくなる。


そんな未来が、

少しだけ見える。


でも、

今はそれでもいいと思ってしまう。


今だけは。


 


返信を打つ。


「ありがとう」


それだけ。


余計なことは書かない。


書いたら、

今のこの小さな均衡が崩れる気がする。


送信。


そして、

スマホを伏せる。


それだけで、

夜が少しだけ優しくなる。


 


布団に入る。


今日は、

公園の電灯も、

潮の匂いもない。


代わりに、

短い文字がある。


無理しないで。


それだけで、

世界が少しだけ、

僕を許してくれる気がする。


目を閉じる。


眠りの入口に、

昨日の海が立っている。


千華さんの横顔。

榊さんの笑い方。

波が消した三つの名前。


消えていくはずのものが、

胸の奥に残っている。


残っているから、

明日も何とかなる気がする。


何とかなる。


その言葉は、

今まで嫌いだった。


無責任で、

曖昧で、

逃げみたいだから。


でも、

千華さんが言う「無理しないで」は、

逃げじゃなくて、

生き延びるための言葉に聞こえた。


生き延びる。


そのために、

僕は今日、

会えない夜を選んだ。


それは、

少しだけ大人になったってことなんだろうか。


それとも、

ただ弱くなっただけなんだろうか。


分からない。


分からないまま、

意識が遠のく。


 


最後に思う。


次に会ったら、

今日会えなかった分、

すこしだけ、

ちゃんと話してみたい。


海のことじゃなくて。


就活のことでもなくて。


「今日、しんどかった」


そういう、

どうでもいい本音を、

一つだけでも。


そしてもし、

千華さんが、

ほんの一瞬でも弱さを見せたら。


そのときは、

僕はどうするんだろう。


抱きしめるのか。

笑って誤魔化すのか。

何も言わず隣にいるのか。


まだ分からない。


でも、

分からないままでいい夜があることを、

僕は少しずつ覚えていく。


 


眠りに落ちる直前、

スマホがもう一度震えた気がして、

僕は目を開けかける。


でも、

震えていなかった。


ただの錯覚。


それでも、

その錯覚が、

少しだけ嬉しかった。


世界が、

思っていたより、

少しだけ優しい気がした。


今日も。


ぎりぎりで。


僕は、生きていた。

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