静かな世界の端っこで
何かに追われている気がしていた。
けれど、何から逃げたいのかは分からなかった。
朝、目を覚ます。
特別なことは何も起きない。
スマホを手に取って、時間を確認して、もう一度目を閉じる。
そんな日を、何度繰り返したのかは覚えていない。
世界は、思っていたよりも静かで、
思っていたよりも優しくて、
そして思っていたよりも、どうでもよかった。
それでも——
僕は、生きていた。
特別になりたいわけじゃない。
成功したいわけでもない。
誰かに勝ちたいとも思わない。
ただ、
幸せになりたいと思っていた。
その願いが、どれくらい贅沢なものなのかも知らないまま。
大学三年の冬。
吐く息は白く、
夜はやけに長く、
未来の話になると、胸の奥が少しだけ重くなった。
何かを選ばなければならない年齢で、
何も選べずにいる自分だけが、
少しだけこの世界から取り残されている気がしていた。
あの頃の僕はまだ、知らなかった。
夜の公園で出会うこと。
海が、逃げ場所になること。
誰かといるだけで、救われる夜があること。
そして——
好きになった人と、
好きになれない距離のまま、
それでも一緒にいる時間が、
この世界で一番やさしいものになることを。
その日も、いつもと同じ夜だった。
今日も、ベッドに寝転びながら、人肌程に温かくなっている携帯をいじっている。
布団の中に溜まった自分の体温と、携帯の微かな熱が、妙に安心感を与えてくる。
部屋の天井をぼんやり見上げながら、特に何かを考えるでもなく、ただ指だけを動かしていた。
何度も再生したお気に入りの動画を見終え、次に見る動画を指でスワイプして探す。
特別見たいものがあるわけでもない。
ただ、何かを見続けていないと、時間の流れに置いていかれるような気がしていた。
しばらく指を動かし続けると、ふと気になる動画を見つけて指を止めた。
何が気になったのか、自分でもよく分からない。
それでも、画面をタップして、動画を再生させる。
小さな液晶に映るのは、どこかの町の深夜の姿。
BGMも無く、静かで、どこにでもある風景が流れていた。
看板の明かり、人気のない道路、遠くを走る車のライト。
それだけなのに、なぜか目が離せなかった。
しかし、他の動画に行く気にはなれず眺め続けた。
何も起きない映像を、ただ眺め続ける。
時間を無駄にしている感覚と、どこか満たされる感覚が、不思議と同時に存在していた。
行動力の欠片も無い男が、この時は小さな好奇心に突き動かされた。
理由なんて、後付けでしかない。
ただ、この夜の空気を、少しだけ自分の肌で感じてみたくなった。
まだまだ暑い昼間とは違い、真夜中の空気は涼しい。
外に出た瞬間、昼間とは別の世界に足を踏み入れた気がした。
暗闇は、世界そのものの印象を変える。
見慣れているはずの住宅街が、まるで別の場所のように感じられる。
夜の世界は、静かだ。
静かすぎて、自分の存在だけが浮き上がってくる。
行く当てもなく住宅街を歩く。
足音だけがこだまする。
アスファルトを踏む音が、やけに大きく感じた。
自然と駅の方に足が向く。
理由は分からない。
けれど、明るい場所を求めていたのかもしれない。
住宅地が多くある最寄りの駅。
シャッターはみな降り、コンビニの光だけが夜を照らしていた。
無機質な白い光が、やけに優しく見えた。
駅の西口側から東口側に歩く。
意味もなく、ただ歩く。
東側は、居酒屋等が立ち並んでいる。
看板の光と、どこからか漏れてくる笑い声が、現実を思い出させる。
深夜の飲み屋街で、大きく息を吸い込んだ。
アルコールと油とタバコが混ざった空気。
それでも、深呼吸が、気持ちがいいことを思い出した。
飲み屋街に飽きた僕は、近くの公園に向かった。
少しだけ、静かな場所に行きたかった。
公園内のベンチに腰掛ける。
夜風が、体の熱をゆっくり奪っていく。
それが、少しだけ心地よかった。
ふと、横を見ると、先客がいたことに気づいた。
パーカーに身を包み、フードを被っている人だった。
体格からして、女性だろうかとぼんやり思う。
特に理由もなく、その人を視界の端で見ていた。
その人はフードを脱ぎ、髪をかき上げた。
街灯の光が、髪を淡く照らす。
見ているこちらに気づいたのか、僕の方に顔を動かした。
公園の電灯に照らされたのは、綺麗な大人のお姉さんだった。
一瞬、思考が止まる。
夜の空気が、少しだけ重くなった気がした。
見ていたことを気づかれた後ろめたさと、
僕に向けられた綺麗な顔への気恥ずかしさで、
思わずその場から立ち去った。
逃げるように、公園を出る。
振り返ることは、出来なかった。
そのまま、家に帰った。
こうして、初めての深夜散歩は終了した。
この時は気づいていなかったが、
間違いなくこの日、
僕の人生は少し違う方向に向いた。
本当に、ほんの少しだけ。
だけど、確かに。




