6.天使との再会
ラウルは気が付くと、パリの歓楽街まで逃げていた。
振り返るのが怖くてひたすら前しか見ていなかったが、ここまでくれば深夜だというのに出歩いている人間もいる。
そのため、彼は勇気を出して後ろを振り返ると……追ってくるものなど何もいなかった。
振り切った。
彼は安堵すると、橋を渡ってさらに移動して、セーヌ川のほとりにあるベンチへと腰かけた。
だが、足の震えは止まっていない。手もよく見れば震えている。
なんでこんなに怯えているのだろう。
もしかしたら、これがベアトリスのいう嫌な空気というものなのだろうか。
彼女に聞いてみるか……?
いや、そんなことしたら、だから言ったのにから始まり、そこまで恐怖を感じているということは、何かとてつもない危険地帯に足を踏み入れたのだ、と怒られるに決まってる。
あくまでも自分は、夜の世界を無邪気に楽しんでいるその住人として振る舞わなければならないのに。
何より、他の異形から逃げ惑っていた情けない事実を彼女には伝えたくない。
と、ラウルは先ほど遭遇した恐ろしい出来事を黙っていることにした。
しかし、本当にあれは一体なんだったのだろう。
今いるここだって、目の前の対岸には”聖なる母”と呼ばれる大聖堂が聳え立っているじゃないか。
ベアトリスは見るのも嫌だと近寄ろうとしないが、自分はこの壮麗な建物を見ても何とも思わないのに。
むしろ、中に入って信者と一緒に神へ祈りを捧げたり、讃美歌を歌うことすら怖くも何ともない。
そう思いながら、ラウルその聖なる母に向って、どうしてだろうと肩を竦めた。
だが、急に目から生暖かいものが流れ出ている事に彼は気づいた。
口に入れば塩辛いそれ。
拭っても、拭ってもそれはなぜかとめどなく溢れ出てくる。
おかしい。なんで出てくるんだ。
美しく壮麗な建物に感動して泣いているのかと言ったらそうではない。
自分は何となく原因はわかってる。
この涙の訳はーーー
家族との断絶だ。
今まで、彼は心の中のどこかでいつでも自分は戻れると思っていた。
今日はたまたま日が悪かっただけで、別日にまた行けば……と空想したが、先ほどの怪物との対峙を思い出すと、足がすくむどころか体全体が震えだす事に彼は気づいた。
これでは今後も近寄ることができない。
すなわち、自分はもうあそこには戻れないのだ。
……皆、一体どうしているのだろう。
状況がわからない上、急に会えないとわかった瞬間、自分一人を残して家族全員が死んでしまったような、突然の孤独感にラウルは襲われていた。
もしかしたら、これは人を殺す生き物となった自分への神からの天罰なのかもしれない。
邪悪な自分は神の家に入る事は出来ても、家族の元に戻る事は神から許されていないのだ。
なんと酷い事をするのだろう。そうだとしか考えられない。
家出して、双子の兄弟であるエルから会いたくないと拒絶された瞬間、もうこの先どうだって良いと思っていた筈なのに。
自分が会いに行けないから逆に彼らを呼び出したとして、勝手に出て行ったものなど知らぬとエルのようにまた断られてしまったら……その時は自分はどうなってしまうのだろう。
いつの間にか、ラウルはベンチの上に両膝を乗せて両腕で抱え込むと、まるで子供が泣きじゃくるように先ほどよりも多くの涙を流していた。
自分には泣く資格なんて無いはずなのに、と思いながら。
するとーーー
そんな彼に対して、左側方向から歩いてきた黒髪の若い男が声を掛けた。
「もしかして天使君? 天使君なんじゃないか? 久しぶりだね。僕のことを覚えている?」
穏やかな声で話すその男に、懐かしさを覚えたラウルはハッと顔をあげると、目の前には赤茶色の瞳を持つ男がいた。
忘れもしない。そうだ、弱虫だった自分にいつも優しくしてくれたのは……
「……ファビアン?!」
とラウルは名前を呼び、口を半開きのまま彼の事を見つめた。
「うん、そうだよ。覚えててくれたんだね。すっかり大人びてるのに、相変わらず泣いてるなんて。もしかしてと思って声をかけたんだ。やっぱり君だったんだね」
微笑みながらそう話す彼の言葉は、決して嫌味から来るものではなかった。
ただ、懐かしい。それだけだった。
「でも僕は天使じゃないよ。ラウルだよ」
「ああ、ごめん。どうしてもそっちの呼び名の方が印象深くてそう呼んでしまった」
ファビアンはそう言うと、泣いているラウルの横に腰をかけた。
本当に懐かしいな、とファビアンは再度ラウルに向かって微笑んだ。
彼らは学校のクラスこそ違ったが、三年飛び級した者がいると、ラウルが入ってきた時にファビアンのクラスでも話題になっていたのだ。
そして、ファビアンはラウルを初めて見た時に、彼こそがその人物だろうとすぐに理解した。
なぜなら、背丈は他のクラスメイトよりも断然低く、髪の毛は少し癖が入った柔らかそうな毛質の金髪で、肌の色はミルク色、頬はまだ丸みの残った形をしている。
さらに、瞳はくりくりしてまつ毛は長く、声もまだ変化してしておらず、同年代と比べても高かったため、実は女の子が男装して入ってきたんじゃないかとファビアンのクラスでは言われているほど、異質だったのだ。
一方、ファビアンはそんなラウルの事を女の子というよりも、天使のようだと印象を持ったらしい。
そのため、彼はラウルの事を心の内で天使君と呼んでいたのだ。
そんな彼らが知り合うきっかけになったのは、両クラス合同での授業が行われる際だった。
所用で別の塔から一人で移動していたファビアンは、ふと外をみると校舎裏で座り込んでいるラウルを見かけた。
もう少しで授業が始まるのに、移動しなくていいのだろうか。疑問を持ちつつもそのまま無視して、彼は移動することが出来た。
でも、何となく気になったのと、ラウルという人物がどういう人間だったのか興味があったので、思い切ってファビアンは外に出ることにした。
彼はラウルに近づき話かけようとすると……なんと膝を抱えて泣いていたのである。
「もうすぐ次の授業だよ。行かないとまずくないかな?」
優しくそう声をかけるも、ラウルは泣いたまま首を横に振った。
「クラスメイトから揶揄われるから行きたくないんです」
そう言って、ラウルはさらに泣きじゃくった。
時計塔の針を見れば、あと2、3分で授業が始まることを示している。
ファビアンはどうしようか……と思ったが、そのままラウルの横に座り、一緒に授業をサボる事に決めた。
すると、ラウルの方が
「あ、あの。行かなくて良いんですか?」
と彼を心配して声をかけた。
「うん。あの先生の授業よりも君の方に興味があるからね」
ファビアンがそう返すと、ラウルはとても驚いた顔をした。
「僕はファビアンて言うんだ。よろしくね」
そう言って自己紹介をしたのが、二人の出会ったきっかけだった。
「そう言えばあの後、二人して先生に説教されたね」
思い出し笑いをしながら、ファビアンはそう語った。
全く! 君たち二人は成績が優秀だからと言って、私の授業など聞かなくていいと思っているのか!
罰として明日までにレポートを仕上げて来なさい!
そう怒られて、自分は徹夜でレポートを仕上げたのも良い思い出だと、ファビアンは笑った。
「そう言えば、君は学校を辞めた後、どうしてたの。ずっと心配していたんだけど……」
ファビアンは長年の疑問をラウルにぶつけた。
ラウルは膝をおろし、袖で涙を拭うと、辞めた後は自分の家で勉強をする事にして、今は諸事情で資産家の女性と一緒に外国を巡っており、所用でパリに帰ってきたのだと伝えた。
「そうか。それならまあ、また泣いてるみたいだったけど、元気そうで何よりだよ。自分の兄弟のせいで君を酷く傷つけてしまったからね」
とても恥ずかしい事をした、とファビアンは言った。
実は、ファビアンと出会った後も、ラウルは揶揄われたり、教科書を隠されたり、小突かれたり、わざと腕を傷つけられたり、と続いていじめを受けていたのだ。
しかも、その首謀者はファビアンの兄弟であるディミトリだった。
合同で授業がある時は、ファビアンはラウルと一緒にいてくれたのだが、ある日、ラウルが授業に来ない事があった。
今日は休みなのだろうか? そう思って、ラウルと同じクラスの人間に聞いてみると学校には来ているはずだという。
それなら、来ないのはおかしい。
彼は、授業の小休憩時に外に出て、ラウルが居そうなところを探した。
すると、校舎の目立たないところにある小屋から叫び声が聞こえた。
急いでそこに向かって扉を開けると、藁の上で全裸にされて手と足を縛られていたラウルがいたのだ。
ファビアンに発見されたラウルは、わんわんと大泣きをした。
口は猿轡をされていたのだが、なんとか外して叫ぶことが出来たみたいだ。
なぜ、こんな事になっている? まさかと思ってラウルから話を聞くと、ディミトリ達に捕まってこうされたと、彼は答えた。
本当に男なのか確認させろと服を脱がされた。
しかも、学校が終わった後、子供好きの変態にここの小屋に来るようにと頼んだので、あとはその変態との情事を楽しめと。
これには温厚なファビアンもなんと酷い事をするのだと怒り、教師に伝えると揉み消される可能性があるので、ラウルと一緒にメリディエス邸に帰宅して事情を先に説明した。
そして、ラウルの閉じ込められていた場所で、メリディエス家の人間が待ち構えていると、その変態が実際に現れたため、その変態を捕縛して、暴行されそうになった証拠だと学校長に突きつけたのだ。
その結果、ラウルは学校に行くことが怖くなり、自主退学をする事にした。
父であるアーロンはその報復措置として、ディミトリとファビアンの父であるトリュフォー氏の商会とは永久に取引停止することまで考えたらしい。
しかし、助けてくれたのはファビアンであることをラウルが訴えたのと、トリュフォー氏も自分の教育が間違っていたと真剣に謝罪したため、この件については、ディミトリに学校から退学処分を出す事で話が落ち着いた。
ラウルは、ファビアンが謝ることではないと言った。
「僕の事はともかく、君のほうこそ最近はどうしてるの? それに、君は大学に行くことを目指してると言ってたよね。そろそろ卒業なんじゃない?」
それになんで、こんな時間にこんな所をほっつき歩いているのだろう、と。
そう尋ねられたファビアンは、少し気まずそうな顔をしてこう答えた。
「実は……大学は辞めたんだ」