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4.放蕩息子の帰還

 パリに着いてから数日後。


 ベアトリスとラウルは、華やかな街で夜の散策を楽しんでいた。


 ラウルにとっては、久しぶりに訪れた故郷パリ。

 彼はなんとなく夜空を見上げた。風が少し吹いている。


 過去の事を思い出しそうで、今までパリに戻る事を嫌がっていたが、もう夜の住人として慣れてしまった現在では、ここに到着しても特に何も感じる事は無いと彼は思っているようだ。


 もう過去には振り回されない。そう確信したからだろうか。

「ねえ、ベアトリス。今日はここで解散して別行動をとってみない?」


 ラウルはもう自分は狩りにも慣れているし、獲物だってここならわんさかいる。

 追い詰めるために、わざわざ一緒に行動する必要もないだろうと彼女に言った。


「それは構わないけど……でも、あなたは強烈な仲間がいても感じ取ることが出来ないのだから、くれぐれも油断してはだめよ。少しでも空気が変だと思ったら逃げなさい」


 ベアトリスは可愛い弟にいつもの注意事項を伝えると、決まり文句の夜明け前には必ず隠れ家に戻るように、ということも付け加えてその場を離れていった。


 全く心配症なんだから。偉大なるお姉様、その事はもうとっくに心得ております、とラウルは心の中で呟いた。

 しかし、それよりも今から行く場所を思い浮かべると、彼の中ではいつもは感じることがない緊張感を微かに覚えていた。



 メリディエス邸。

 二年前に自分が出て行ったきりの屋敷。そこには自分の家族が住んでいる。


 自分は17歳でベアトリスから闇の洗礼を受け、不死の肉体に生まれ変わってからは、一度も踏み入れたことがない場所だ。


 あそこに今でも住んでいる父、兄、おじたち、そして過去の自分を振った彼女は今どうしているのだろう。

 憐れな自分の犠牲者から、赤い命の雫を奪う前に聞き出してみると、まだ彼らはそこにいる事だけは確認ができたのだが。


 屋敷の背の高い門を潜り抜け、分厚い玄関の扉を開けて、家出していた自分が突然現れたら、彼らは果たしてなんと言って迎えるのか。


 よく戻ってきてくれたと涙を流して歓迎してくれるのだろうか。

 それとも、ほとんど怒られたことも、ましてや自分を殴った事のない父から散々心配させて、と平手打ちを喰らうのだろうか。


 特に、自分を溺愛していた兄は何と言って出迎えてくれるのだろう。


 一方、自分のことはともかく、父は今は確か60を超えているかいないくらいのはずだ。

 不思議と病気になっているのを見たことない人物だが、もし、病気か何かで余命がいくばくもない状態になっていたら……自分はどう思うのだろう。


 涙を浮かべて、神に父がなんとか回復しますようにと祈るのか。

 あるいは、父を喪う事への拒否感から、ベアトリスから教えてもらった闇の洗礼を施したくなるのか。


 もしくは死の予兆が訪れているのが父ではなく、兄、おじたちだったとしたら……


 でも、それを施されれば、人間の命を糧にして生きる夜の住人へと生まれ変わることになる。

 いくら家族だからと言って、その事実を告げたらそれを受け入れてくれるのだろうか。


 それ以前に、自分がもう彼らとは違う異形のものなのだと明かしたら、彼らはなんと思うのだろう。

 それでも構わない、お前を愛していると言ってくれるのか、はたまたは拒絶されて化け物と罵られるのか……


 いや、むしろ、罵られる方がまだ関心があるという事だからマシなのかもしれない。

 そもそも、自分がいなくなったところで彼らは悲しみ、探そうとしてくれたのかさえもわからないのだ。


 まだ人間だった頃、誰もが認めるとても優秀な兄と比べたら、自分は何一つ秀でるものもなかった。

 そんな奴が戻ってきたところで何の役に立つと言うのだろう。

 あんな泣き虫で、社交的でもなく勉強以外は何にもない奴が居なくなって、厄介払い出来たとせいせいしているのではないか……


 ラウルは過去にも思い浮かべた空想を再び描いたが、色々考えても意味がないし、ただ虚しくなるだけだと感じたので、首を横に降りそれ以上考えることは止めるようにした。



 彼は無心を心掛け、普通の人間には分からぬ速さで、踊るように建物の屋根伝いを移動して行った。


 何度も通った懐かしい光景が広がっていく。

 それからとうとう、屋敷の屋根が見える地区までたどり着いた時だった。


 目の前には木々が広がっている。

 続くようにしていた建物がそこで切れたため、ラウルは屋根から道に舞い降りると、風にのって漂ってきた、少しつんとするようなハーブの香りが彼の鼻孔を刺激した。


 この香りを自分はよく知っている。

 名前は知らないが、これは屋敷に自生しているハーブの一種だ。間違いない。


 あの頃は何とも思わなかった、何も感じなかった。

 しかし、今日はなぜか言い表わすのが難しいが、この香りが懐かしいと感じさせるどころか、とてつもなく不快なものに思える。


 しかも、だんだんと強さが増す香りに比例して、緊張感とでも表現すればよいのか、動くはずのない心臓の鼓動が早くなるような妙な錯覚にラウルは見舞われた。


 ……そんなはずがない。これは気のせいだ……


 ラウルは首を横に振って、そんなことはないと否定した。だが……


 ドクン。


 ありえない。きっと空耳なんだとまた首を振った。


 ドクン。ドクン。


 それでもなお、空耳は収まらない。


 ラウルはする必要もない深呼吸をするような素振りをして、自身を落ち着かせようとした。

 しかし……

 

 ドクン。ドクン。ドクン……

 

 と聞こえるはずのない心臓の音は止まらない。

 かくはずのない、汗もうっすらにじんでいるような気がする。

 

 ちがう。そんなことはあるはずがない! と、ラウルは再び気にしないようにして、木々がある以外には何もない十字路に差し掛かった時だった。


 突如、体中の血管という血管に氷水を注入され、頭の中はパンパンに張り詰めて、それ以上の新しい思考を一切受け付けず、さっきまで考えていた事も何も考えられなくなってしまったような感覚に彼は襲われた。


 ……なんなんだこれは。頭を締め付けるような感じまでしてきたな……


 香りを嗅ぐまでは何ともなかったのに。

 頭の中の血管もズキンズキンと鳴り響いているように感じる。

 痛みなど感じるはずがないのに、ラウルは片手で頭をおさえると自然とその場に膝をついた。


 そうだ。この感覚はまるで風邪をひいて高熱を出した時に近い。そう彼が思った瞬間だった。


 目の前の光景が、人間だった頃によく見ていた、ただ暗く灰色でしかない夜の風景へと急に変わった。

 たとえ漆黒の闇の中にいたとしても、今の自分は夜目が異常に冴えているため、明かりがなくとも輪郭だけではなく色もしっかりと見えるはずなのに。


 その上さらに、十字路の風景が一瞬歪み、もとに戻ったと思ったらまた歪むという、夢とも現実ともわからない現象が彼を襲った。


 これは一体何を意味しているのだろう、とラウルが不可思議な現象をただ見つめているとーーー


 ……立ち去れ


 微かだがそのような声が彼の耳に届いた。

 だが、それでもラウルがその場から動かないでいると、今度はもっとはっきりとした声で


 立ち去れ! 立ち去れ! 立ち去れ! 立ち去れ! 立ち去れ! 立ち去れ! 立ち去れ! 立ち去れ! 立ち去れ! 


 と、合唱でもするかのように、男か女かもわからない声でその言葉が聞こえてきた。


 これはもはや気のせいではなさそうだ。明らかに何かが自分を排除しようとしている。

 正体不明の何かに、人間だったら恐れ慄くだろう。

 声に共鳴するかのように、相変わらず心臓からは聞こえるはずのない心音が聞こえている。


 でも、それがなんだと言うのだろう。

 今の自分はその人間を脅かす存在なのだ。同じ超自然的な部類ではないか。

 だったらどうなるか、仲間として最後まで見届けてやる……

 

 半ば意地になったラウルは、そう思いながらその場から去らないでいると、今度は歪んだ十字路から何か地響きするような音が聞こえてきた。


 その音にラウルは全身がピリつくような感覚を覚えると同時に、十字路の左右の道側から何か白い点のようなものを目で捉えた。


 なんだあれは。

 と彼がよく目を凝らすと……


 それは指先を動かしている白い人の手だった。

 十字路の隅に植った木を這う様に現れたかと思うと、上下に這わしたり、叩いたり、指を曲げたりと意味不明な行動をとっている。


 しかも、気持ちが悪い動きをするその手は、また白い点が増えたかと思うと、いつしか二つ、三つとなり、四つとなり、どんどんと数が膨れ上がっていった。

 気がつけば、木の幹全体をその白い手が這っているだけではなく、木と木の隙間を塞ぐように手を繋ぎ、まるで白い布で覆うように見せた。


 ふん。

 それがなんだというのだろう。


 ラウルはその手の動きを鼻で笑った。


 今度は聴覚ではなく視覚に訴えるというのか。

 生理的嫌悪を呼び覚ますために、ただひたすらに気持ちが悪いというだけじゃないか。

 もし、自分に近づき触れようとしてみろ。全て切り刻んでやる、と。


 だがーーー


 ズリ……ズリ……

 今度は地面をずり這うような音が聞こえ始めた。


 続いて、十字路の右手側から黒く波打ちバサバサした糸の束のようなものが現れた。

 その束が道いっぱいに広がったかと思うと、今度はツヤのない灰色の肌に、閉じた瞼、妙に広く高いワシ鼻、そして大きく縦皺の入った唇が見えてきた。


 それは這いずる音をゆっくりと立てながら、十字路の中央に到達すると動きを止めて、閉じていた瞼をゆっくりと開けた。

 その目は血走っており、黒目の部分は焦点が合わず、左右それぞれ違った方向に向けられている。


 つまり、右手側の方から、巨大で不気味な顔がゆっくりと這いながら出てきたのだ。

 男か女か人種さえも判別がつかない、まさしく得体の知れないという言葉が相応しい顔だった。


 ピクリ。

 予期せぬそれとの出会いにラウルは目を見開いて固まった。


 これは……


 今まで自分を散々苦しめてきたものだ。


 小さい頃にその姿を本で見てしまったせいで、悪夢を見るたびに出てくるようになった魑魅魍魎の一種じゃないか、と。


 何故、夢ではなく今ここに現れたんだ……?!

 現実世界に現れる筈のないそれに、ラウルは釘付けになっていると、突然、どこかから夜の静けさを切り裂くような銃声が鳴り響き、同時に彼の頬を何かがかすめていった。


 手を当ててみれば、ぬるりとした感触がする。血が出ているのは明らかだった。

 再び聞こえるはずのない心音がドクドクと体を駆け巡る。


 手についた血を実際に見た瞬間、彼はすぐに


 恐怖


 という、すっかり忘れ去さっていた二文字の言葉を思い出した。


 そして、この怪異は大きな声を出して笑いながら、自分のことをしつこくどこまでも追いかけてくるのだということも。

 

 途端にラウルの体中に戦慄が走った。


 怪異が口元を緩ませ始めたのを見逃さず、自分の頬を傷つけた原因が何かを探るのかも忘れて、ラウルは屋敷に背を向けると一目散にその場を引き返して行った。

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