3.愛しい貴方と
ジュリエットは仕事をしながら、ふうとため息を吐いていた。
この前の日曜日、思いがけないファビアンとの逢瀬で、彼と会話することが出来た。
話をしてみると、本当に見た目もその声も穏やかな人だった。
もしかしたら、今まで出会った人の中で最も優しい人なのかもしれない。
また、お会いして話すことは出来るだろうか……
彼女はそう思いながら、仕事に従事していると待望の日曜日がやってきた。
教会のミサに来た彼女はこっそりと、どこかの席にファビアンが座っていないかと出入り口付近からあたりを伺った。
しかし、今日はどうやら彼は来ていないようだ。
そうこうしているうちに、ほかの信者も集まり始めたため、立っていると邪魔になってしまうので彼女は落胆しながら、空いていた前方列の硬く冷たい木のベンチに着席した。
……お会いできると思ったのに……
実は同じ館に居ながら、先週のこのミサで会って以来、彼女はファビアンに会うことは無かったのである。
それというのも、彼女は食事の用意は担当していても、彼の身の回りのことは他の女中がやっていた。
日中は彼は大学の方に行ってしまっているし、夜は遅くなる事もあるので、そもそも顔を会わす機会がなかったのだ。
唯一のチャンスに恵まれず、ミサの終了後、彼女は顔を曇らせながら出入り口に向かっていた。
しかし、出入り口付近から数えて二列目の座席あたりで、その顔は霧が晴れたのかのようにパアっと明るくなった。
なぜなら、出入り口で佇んでいるファビアンを見つけたからだ。しかも、彼はジュリエットの方のことを見つけると微笑んで軽く手を振ってくれた。
「なんだか少し顔色が悪いようだけど、仕事で疲れているのかな? 大丈夫?」
教会から出た後、ファビアンがそう尋ねると、彼女はいえいえ! そんな事ありませんと首を横に振った。
「ご心配いただきありがとうございます。でも、そんなことはありませんから大丈夫です。それよりも本日もいらしてらっしゃったんですね。お見かけしなかったから、今日は欠席しているのかと……」
顔色が悪いと言われてしまったため、ジュリエットはなるべく明るく見えるように努めてそう返した。
すると、ファビアンは軽く笑って
「ああ、少し寝坊してしまったから遅れてきたんだ。何とか間に合ったけどね」
と返した。
どうやら、彼は昨晩遅くまで論文を書いていたため、寝るのが遅くなってしまったらしい。
「ファビアン様も夜遅くまでお勉強だなんて。学校に通うのも大変なのですね……」
先週も二人で歩いた森の小道をゆっくりと歩きながら、ジュリエットは彼にそう声を掛けた。
自分は修道院で読み書きと簡単な計算は教えてもらえたが、本格的に勉強はしたことがないため、ファビアンがどのようなことを学んでいるのかは全くわからない。
もしかしたら、ファビアンは本当はもっと知的な会話がしたいのでは……と彼女は一瞬そう不安に駆られた。
「まぁ、それについては僕の調査不足もあったんだったんだけど。厳しい分、鍛えられているのは実感しているよ」
彼は面白そうな授業だったため選択してみたのだが、それを担当している教授が思いのほか手厳しく、裏では課題の悪魔と呼ばれていることを後で知ったと答えた。
「だけど、それも来年までの話なんだ。来年になったらいよいよ僕も卒業だからね」
あぁ、そして僕もとうとう楽しかった学生生活が終わり、働かなければ……と言って、ファビアンはわざとらしく大きくため息を吐いた。
卒業して働く。
ジュリエットはその言葉にあることが気になった。
「あの……失礼な質問でしたら申し訳ありません。聞いてもよろしいでしょうか?」
「なんだい? 別に構わないから言ってごらん」
「ファビアン様は卒業されたら、どうなさるおつもりなのでしょうか。やはり、ディミトリ様の元で働かれるのでしょうか」
すると、ファビアンはそう来たか! てっきり卒業できるのかと聞かれると思ったのにと微笑んだ。
「いや、そのつもりはないよ。もし、僕にその気があったとしてもイレーヌが猛反対するだろう」
彼によると、実はすでに右腕として働かないか、と別の商会の長から声が掛かっているらしい。
しかも、その商会には後継ぎがいないため、彼の事を後継者としてみていると。
だからまだ誰にも言っていないが、実は自分もそのつもりですでに動いていて、卒業と同時にあの家を出ていくつもりだと言った。
「そんな……! ご自分の家ですのに」
ファビアンの言葉に、ジュリエットはとても驚いた。もちろん、その驚きにはファビアンが居なくなってしまうという悲しみも含んでいた。
「もし、父が生きていたら結果は違ったけどね。大学に通っているのだって、本当は僕をあの商会に継がせるつもりで通わせていたのだから」
けれど、その父は自分にその命をきちんと伝えることなく天へと昇ってしまった。
正直言って、ディミトリともソリが合わないし、あの商会だって興味はあるけど彼と一緒に働くのは……
それだったら、自分を必要としてくれている別のところに行く方が、自分にとってもディミトリ達にとっても好都合だろうと彼は言った。
「そう言えば、話が変わるけど、さきほどジュリエットは勉強をしたことがないと言っていたけど、興味自体はあるのかな?」
「ええ。機会があれば」
「そう。それならとても分かりやすい歴史書を貸すよ。戯曲もあるけど、僕としてはそちらの方が読みやすいと思う。どうかな」
まさか、自分にとっては本という高価なものを貸してもらえるなんて。なんてありがたい事だろう。
思いもよらぬファビアンの提案にジュリエットは本当ですか? ありがとうございます! と言って顔を明るくした。
それから彼らは、いつの間にか日曜日のミサの後、遠回りして一緒に帰るのが慣例となっていた。
季節は暖かい季節から肌寒い季節へと移り変わり、緑深かった森の木々も赤や黄色に変化していた。
「それにしても今日は風が強いな」
まるで悲鳴のように音を立てて風が吹いている。
その風に煽られ、はらはらと舞い落ちる葉を見つめるようにして、ファビアンはふと立ち止まった。
「もうすぐ本格的な冬になりそうですね」
ジュリエットがそう答えて同じく立ち止まっていると、一枚の枯葉が彼女の髪にくっついた。
しかし彼女は気づいておらず、そのまま歩き出そうとしたため、ファビアンはそのまま動かないでと言って彼女を引き留めた。
「葉を取り払わないと」
ジュリエットにまとわりついている葉は、彼女の髪の毛に絡んでしまっており、簡単には取れなさそうだ。
そのため、彼はジュリエットの髪の毛を左手で押さえると、右手で髪の毛を引っ張らないように気をつけながらゆっくりとそれを取り除いた。
ファビアンが自分の髪に触れている。
その瞬間、彼女は紅葉にも負けないくらい顔を赤くした。
心臓の音がとてもどくどくと鳴り響いている。
この音がファビアンにも伝わってしまうのではないかと思ったジュリエットは、思わずファビアンから目を背けた。
しかしーーー
彼女は急に自分の体が何かに押さえつけられているのを感じ取った。
そして寒い風とは対照的な暖かさを感じた。
「嫌なら嫌と言って遠慮なく突き放して欲しい。君の髪に触れ、どうしても気持ちが抑えられなくなった」
急にファビアンから抱きしめられたジュリエットはとても驚いた。
だが、ファビアンがそのまま紳士らしからぬ行動にでる人間ではないと彼女はわかっている。
それに自分自身の気持ちも……
彼女の選択肢の中には、彼の手を振り解くことなど全く含まれていなかった。
「いいえ、どうかこのままで……あなたの胸の中にいさせて下さい」
それが彼女の答えだった。
ジュリエットの返答にファビアンは微笑むと、僕の愛おしい人と囁いて、より一層彼女のことを強く抱きしめた。
「だいぶ前、僕は家を出て行くと行った。その決意は今も変わっていない。でも、君が嫌では無ければ哀れで孤独な僕と一緒に来てくれないか」
そう言われたジュリエットは顔を上げた。
「ファビアン様、それって……」
抱きしめていた両腕をファビアンは解くと、彼は片手をジュリエットの頬に添えて、潤んでいる彼女の目を見つめた。
「ああ。あの館を一緒に出たあとは僕と結婚して欲しい。こんなにも女性に惹かれたことは初めてなんだ。あまり贅沢はさせてあげられないかもしれないけど」
ジュリエットは信じられないと言った表情で、一筋の涙をこぼした。
もちろん、それについては答えはひとつだ。
しかし、あまりに喜びが大きすぎて、彼女はうまいこと言葉が出てこなかったため、代わりに無言のまま何度も頷くことで、彼に承諾の意思を見せた。
ファビアンはまたしても微笑むと、愛おしい彼女を引き寄せて、その可愛らしいピンク色の唇に自分の唇をそっと重ねた。
二人はその瞬間、今までの人生の中で最も幸福な時間だと感じていた。
ずっと、側にいたい。
そう思う気持ちも同じだった。そしてそれは永遠に続くとも。
しかし、そんな愛が通じ合った二人の事を、遠くから悪意を込めた目で見つめている人物がいるまでは、彼らはそのとき露にも思わないのだった。