2.切なさを覚えて
ジュリエットが館にやってきてから、一週間が経とうとしていた。
今日も言いつけ通り、彼女はファビアンの部屋に夕食を届け、用が済んだあとはすぐに台所の方へ戻って行った。
すると、彼女は作業台にあるものが置きっぱなしになっている事に気づいた。
「やだ、すぐにお届けしないと!」
思わずそう声を上げたジュリエットの視線の先には、盆に乗せようとしてナプキンの上に置きっぱなしのままのスプーンがあった。
彼女は大急ぎでそれを手に持ち、ファビアンの部屋へと急いだ。
部屋の前に到着すれば、扉横にはまだ回収されていない盆と料理がそのままになっている。
良かった、まだ間に合ったと一安心して、彼女が盆にそれを置こうとすると……
ガチャリ
と音がして、部屋の中の人物、つまりファビアンが盆を取ろうとその扉を開けた。
初めて目にしたその人物に、ジュリエットは釘付けになった。
豊かな黒髪をリボンで束ねており、目の色は赤茶色、そして丸々としたディミトリとは異なって体形はすらっとしており、背も想像していたよりも高い。
女中頭の言っていた通り、慈悲深い性格を表すかのように顔つきも穏やかそうな人物だった。
「申し訳ございません!」
彼女はとっさに頭を下げ、スプーンを盆に置くとファビアンが何か声をかける前にその場をすぐに立ち去った。
台所に戻っている最中、彼女は奇妙な感覚を胸に感じていた。
……驚いてしまったせいからかしら。心臓がとてもどきどきしているわ……
彼女は自分でも気が付いていないようだったが、その両頬は赤く染まっていた。
◆◆◆
その出来事があってから迎えた日曜日のこと。
ジュリエットは館を出ると、うーんと背を伸ばし、久しぶりの館の外の空気を彼女は楽しんだ。
実は彼女、日曜日は近所の教会で行われるミサに参加することを許されていたのだ。
教会に着くと、今日はいつもより人が多いらしく、席がほぼ埋まりつつあった。
彼女は何とか空いている席を見つけ、隣に座っていた人物にこちらの席に座ってもよろしいでしょうか? と声をかけた。
すると……
なんとそれは、彼女が働いている館の主であるファビアンだった。
思わず彼女は
「失礼しました! 別の席に移動いたします!」
と頭を下げて詫びたが、ファビアンは連れはいないし、隣に座っても構わないと彼女に返した。
ミサが始まり、皆が歌詞の書かれた紙を見ながら讃美歌を歌っている中、彼女はこっそりと主人の横顔を見つめた。
この前は薄暗くて細部まではわからなかったが、よくよく見ればまつ毛は長く、鼻筋は通っている。
全体的に各部分のパーツは大きいのだが、不思議と下品に思えないのは性格の良さのおかげだろうか。
声も初めて聞いたが、男性らしい低い声だがしゃがれてはおらず、清流のように澄んだ優しい声だった。
そうやって伺っているのをファビアンも気付いたのか、ジュリエットの方にふと視線を送ると、彼女は慌てて紙の方を見て歌っているフリをした。
ミサが終わった後、ジュリエットが席を立とうとすると
「良かったら一緒に帰らない? どうせ方向は同じなんだし」
とファビアンの方が彼女に声をかけた。
その提案に彼女はとても驚いた。だが、それと同時に困惑の色が彼女の顔に出た。
そんな所をもし奥様に見られたらなんて言われるか……
しかし、それを見越したのか、ファビアンは微笑みながらこう言った。
「あの人達なら、毎週この時間はどこかに行ってて夕方まで戻ってこないよ。それに、せっかく外出出来たんだ。少しくらいは気晴らしに寄り道したって罰は当たらないと思う。もし誰かに何か言われたら、説教がとてもとても長い神父なんだと返せば良い。ミサに出てるのは僕くらいなんだから、本当のことはわかりはしないさ」
ユーモアを含んだ彼の言葉にジュリエットは思わずくすりと笑った。
また、夕方までに戻って来ないという言葉にも安堵すると、わかりました。ご一緒させていただきますと言って、彼と一緒に教会を出た。
ファビアンはわざと館に帰るのを遅くするためか、館からは遠回りとなる、細い一本道だけが続く森の中にジュリエットを連れて行った。
この季節特有の日差しの柔らかさと、それを反射する青々とした木々が美しい森だ。
「仕事はだいぶ慣れたかい?」
話しかけられたジュリエットは、ええ、初日に比べましたらと答えた。
「まあ、あの女中頭は見た目も仕事も厳しいけど、本当は優しい人だから。もし、たまにキツく感じる事があっても、君を否定しているわけではないと思うよ」
話し方も穏やかなファビアンに、ジュリエットは無言で頷いた。
それにしてもイレーヌたちに冷遇されているというのに、どうしてこうも穏やかでいられるのだろう。
卑屈になってもおかしくないのに、と彼女は心の中で呟いた。
「そういえば、名前をまだ聞いていなかったね。なんて言うの?」
「ジュリエットと申します」
「そう。ジュリエットと言うんだね。女性と話すのは正直慣れていないから、気に障ったら申し訳ないけれど、何というか君の雰囲気によくあった名前だと思う」
彼の目には、一体どのように自分は映っているのだろうか。
一瞬ジュリエットはそれが気になったが、でも穏やかなファビアンのことだ。
悪意を含んだ意味合いではないとだろうと理解した彼女は、彼に向って微笑んだ。
彼らが他愛ない話をしていると、気が付けば森を抜け出てもう少しで館に着くというところまで来ていた。
するとファビアンは
「ちゃんと家まで送り届けるのが礼儀だとは思うけど、ここでお別れしよう。先に館に戻ってくれるかい?」
と彼女に告げた。
「この後、何かご予定があるのですか? もし女中頭に何かお伝えすることがあるのなら伝言いたしますが……」
ジュリエットがそう尋ねると、彼は首を横に振った。
「いや、そうじゃない。もし、君と僕が一緒に帰っているところを館の誰かに見られてしまったら、後で君がイレーヌからなんて言われるかわからないからね。まあ、そんな告げ口をするような事をする人間はいないと思うけど。僕は少し遅れてから館に戻るよ」
念には念を。
あくまでも君はあの館で真面目に仕事に取り組んでいて、こうやって僕と接点を持っていることはないんだと振舞わなければいけないからねと彼は言った。
その言葉に、ジュリエットは切なさを覚えた。
しかし、彼女にはそれを拒否できる権利はない。
「……承知いたしました。では、失礼いたします」
ジュリエットはファビアンに頭を下げると、館の門へと向かった。
そして、その門を閉めるとき、まるでファビアンとの先ほどまでの関りを断ち切るような感覚を覚え、なお一層胸が針で刺されたように彼女は感じていた。