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16.彼を愛する者たち

 普段であれば落ち着き払っているはずのファビアンも、さすがに今日は体全体に緊張が走っていた。


 実は今日、彼はかの地についに謝罪に行く予定となっていた。


 本来なら、彼がこの商会のトップに就任して早々に真っ先に行くべきだったのだが、先方に連絡したところ、今は忙しくて時間が取れない、と少し時間の経った今日を指定されたのだ。


 口に出すのも憚るようなあんな事を自分の兄弟と継母にされて、取引停止にするといっている相手だ。

 かつて自分が令息を助けたからと言って、今回の件とはそれは全く関係がない。


 少し時間を置いた今であっても、どれほど怒っているのだろう。絶対に失敗は許されない。

 ファビアンはそう重圧を感じていた。

 これが失敗すれば、自身だけではなくその下で働く者たちも路頭に迷うことになるのだから、と。



 彼は効果があるかわからないが、手入れの行き届いた上着に合わせるようにした同色のキュロットを履き、相手に失礼がない服装を心がけていた。


 大きな鏡の前に立って、さらに他にも抜かりないかと確認をしていると、妻のジュリエットが大丈夫ですよ、と微笑みながら声を掛けてきた。

 彼女の顔からは、全体を覆っていた黒いヴェールはすでに取り払われていた。


 彼らは薔薇の館に戻ってきたあと、約束していた通り、ついに結婚したのだ。

 ファビアンの家族は、もう誰もいないに等しかったため反対するものはおらず、むしろ屋敷で働いている人間からは、女中頭を筆頭に心からの喜びを伝えられた。


「とても緊張なさっているんですね。でも、普段通りになされば、ファビアン様の誠実さは通じるはずです。きっと、大丈夫ですよ」

「ありがとう、ジュリエット」


 ファビアンは愛する妻の額に口付けをし、そうだ自分を信じようと抱擁し合っていると、部屋の外から馬車の準備が出来ましたと女中頭が声を掛けてきた。


「それじゃあ、行ってくるね」

「ええ、どうぞお気をつけて」


 彼女達に見送られながら、ファビアンは秘書を従えて馬車に乗り込んだ。御者によってバタンとその扉が閉められる。


 規則正しい蹄の音を立てて馬車が走り出し、見送るジュリエットと離れた途端、また不安と緊張が彼を襲い始めていた。

 大丈夫だ。真摯に謝ればきっと伝わるはずだ。

 そう思いながら、再び自身を襲ってきた恐怖を取り払うかのように、彼は左指に嵌められた真新しい金の指輪を右手の指でなぞった。



 馬車はパリの街並みをどんどん過ぎていき、壮麗な邸宅が立ち並ぶ高級宅地へと出ていった。

 その中でもとりわけ大きな屋敷が、今日彼が約束している人物と会う場所だった。


 その屋敷に時間通りに到着し、馬車を降りると彼は執事に迎えられて、約束の人物がいる執務室へと案内された。

 コンコンと執事が扉をノックし、ファビアンが来た事を伝えると、どうぞと威厳のある声で中へ入る許可が下された。


 執事によって開けられたその扉の先にはーーー


 腰掛けていた椅子から立ち上がり、目を少し伏せて唇を平行に結びながら、机の前に出てきた赤毛の男性がいた。


 彼は老齢に差し掛る年齢なのはずなのだが、特有の弱々しい感じは一切なく、背が高いのと身のこなし方のせいか、実年齢よりも若々しさを感じさせる雰囲気をもっていた。


 すっきりした鼻筋に、少し窪んだような目元も特徴的で、今のように口元を結んで平行にしていると、とても冷酷で神経質そうな人物に見える。

 しかし不思議なことに、少し目線を上の方に変えたり、目尻を下げると彼の印象は穏やかそうな人物へと急に様変わりするのだ。


 それが彼の魅力であるのか、初めて彼に会った人間はたちまち彼に興味を抱かずにはいられなくなってしまうようだ。

 特に若い頃はきっとその目元がむしろ可愛らしい、と映っていたに違いない。とりわけ女性からしてみれば。


 また、決して威圧的ではないのだが、静かに堂々としている空気を纏っているため、彼の事を知らぬ人間であっても、彼がすぐに大物だというのが見てとれた。


「久しぶりだね、ファビアン君。どうぞ中に入って。それにしても、君も色々と大変だったみたいじゃないか。話は聞いている」

 彼はファビアンに向かってそう声を掛けると、平行にしていた口の両端をあげ、目元にはシワを寄せた。


「こちらこそご無沙汰しておりました。アーロン氏」

 ファビアンは秘書と共に中に入ると、緊張したままそう返答をした。


 続いてアーロンがさっと手を出してきたため、ファビアンは急いでその手を握りしめると、アーロンはまあ、そんなに固くならずに、と声を掛けた。


 緊張を払い除けるためか、ファビアンは手を離したあと少し息を呑んで、こう言葉を続けた。

「お忙しいところ、お時間をいただき本当にありがとうございます。改めてまして、本日は先日の件についてお詫びを申し上げに参りました」


 ファビアンはディミトリとイレーヌの起こした事件について、トリュフォー家ならびに商会を代表してアーロンに謝罪した。


 そして、この件で迷惑をかけてしまった他の商会の要望も含めて、トップを自分に交代させて、ディミトリ側についていたものは刷新させた、と彼は新たな組織体制について伝えた。


 彼の行った事に対して、アーロンはなるほどと言って頷いた。

「かなり大胆に行ったものだ。私からは異議がない。だがもし、納得ができないという商会がいるなら私に声を掛けなさい。私から説得しに行こう」


 その提案に、ファビアンはお礼の言葉を述べたが、アーロンは少し眉間に皺を寄せ、こうも付け加えた。

「ただし、君は人が良すぎる部分がある。それは君の長所でもあるのだろうが、事実、今回はそれを利用されてしまった上で起きた出来事だ。きっとこの先も今回のように自らの欲や利益のために、君や商会を貶めようとする人間に遭遇することはあるだろう」


 そのためには、そう言った輩を瞬時に見抜き、深く関わらないようにすることが肝心だ。

 逆に言えば、これからは今までのように、なかなか直ぐには人を信用する事が出来なくなるがね。

 そうなると自分は変わってしまったのかと戸惑うこともあるだろう。だが、それは仕方ないことだと割り切りなさい。

 

 そして、気を付けていたとしても相手から騙されてしまった場合は、それまでその人物がどんなに親しくしていようと、功績を上げていようと、冷静に冷酷に感情に左右されず判断しなければならない。

 もちろん、判断を下された側からは場合によっては恨まれる事もある。

 とはいえ、それもトップに立つための覚悟として必要なことだ、とアーロンは言った。


「……とまあ、何だか説教臭くなってしまったな。だが、その残酷な判断は怒りだけならまだしも、時に君の心を大いに傷つける事もあるだろう。しかし、君には幸運にもパートナーがいるようだね」

 そして、彼はファビアンの左指に嵌められた指輪を一瞬見つめた。


「私は連れ合いをすでに亡くしているが、良き伴侶というのは本当に辛い時の心の支えになってくれる。そう言う時は、決して一人では抱え込まないように。お互いに支え合うことが大切だ」

 アーロンがファビアンにそう言い終えた時だった。

 

 コンコン、コンコン、と誰かが執務室の扉をノックした。


「ああ、失礼……入りなさい!」

 突然の訪問者に、アーロンはファビアンにそう断って入室を許可したのだが、相手は中々入ってこようとしなかった。


 そして、その訪問者はあろうことか、彼に向かってこう返答をした。

「えー! 無理! どうせそっちの方が手が空いてるんだから、そっちが開けてくれ!」


 随分と砕けた言葉遣いもそうだが、仮にも大商会のトップに扉を開けろと命令するとは。一体何者だろうとファビアンは少々驚いた表情を見せた。


「……息子だ」

 依頼されたアーロンは小さくため息を吐いて首を横にふると、つかつかと扉の方に歩いて行き、顔を顰めながら扉を開けた。


 すると、天井まで届くのではないかと思うくらい山になった大量の書類を落とさないように、何とかして執務室に運び入れようとする金髪の男が現れた。


 彼はその書類の山を崩さないように、慎重に執務室の机に置いた。


「よし、これで任務完了! では、父上。失礼します」

 金髪の男は書類に向かって笑みを浮かべながら、その場を去ろうとした。


 ところが、アーロンの横に見知らぬ若い男がいたため、途端に真顔に戻って、やってしまったという顔をした。来客中だったのかと。

 片や、来客者であるファビアンは入室してきた彼の事を見て、顔を一気に明るくした。


「あぁ! もしかして、天使君なんじゃないか?」

 彼は久しぶりじゃないか! 随分と見た目も変わったようだ、と少々声を大きくしながらそう言って、再会を喜んだ。


 だが、喜んでいるファビアンとは対照的に、金髪の男は困惑した表情で片眉をあげるだけだった。

「……ごめん、誰?」

「僕だよ。ファビアンだよ! ……もしかして、覚えてない?」


 金髪の男はそう言われものの、さっぱりわからないと言ったように顔を顰めた。

 だが、ある事に彼は気がついた。

「もしかして、俺の事をラウルだと思ってる?」


 その言葉に、今度はファビアンの方が戸惑いを見せた。ラウルだと思ってるとはどう言う事だろう。目の前にしているのは、すっかり背の高くなったラウルではないのだろうか。


 彼には兄がいるはずだが、その兄はだいぶ雰囲気が異なる、いやそもそも外見がかなり違うはず……


 ファビアンはどういう事だろうと、ますます困惑した表情を見せると、金髪の男が自分のことを説明し始めた。

「残念だけど、俺はラウルじゃないよ。俺はあいつの双子の兄なんだ。あいつなら、2年前にこの家を出て行ってそれっきりだよ」


 自分には事情があって、赤ん坊の頃からずっとラウルとは離れて田舎で暮らしていた。こちらで暮らしていた事もあるが、それはほんの一時だけ。

 でも、また色々とあってこちらへ戻って来た。だから、ラウルに双子の兄、つまり自分がいる事を知らない人間がいても当然だけど。


 ラウルの双子の兄はそのように語ったため、ファビアンは驚きの声を小さく上げた。


 一方、双子の兄の方は、ファビアンはきっとこう反応するだろうと予想していた。

『そうですか。違ったんですね。大変失礼しました』と。


 そして、ラウルの行方を心配するような言葉を発したあと、肩を落とし、それ以上自分には用はないというように関心を失うのだ。


 これは仕方ないとしても、正直言って自分が否定されているようで、あまり気分のいいものではないと彼は感じていた。


 実は先日、ラウルだと思い込んで愛人宅から戻ってきた兄のユリエルに、彼はそのような反応をされたのだ。

 溺愛していたラウルがようやく戻って来たと思ったのに、目の前に現れたのは確かに弟ではあるが、エルネストの方かと。


 違うと言った時のユリエルの顔は悲痛そのものだった。放ったらかしにしている妻のクリスティーヌにも全く関心を寄せなかったため、尚更不愉快に彼は感じていた。


 さらにそれだけではない。


 つい最近、ある舞踏会に参加したおり、見知らぬ女性から突然声をかけられ、ラウルと勘違いされた上、実はずっと好きだったが言えなかったと告白をされたのだ。


 もちろん、その女性には自分はラウルではないと伝えた。

 すると、彼女はショックでその場で泣き出してしまい、しかもその場面をよりによってクリスティーヌに見られてしまったのだ。


 また、気落ちしている彼女を慰めるため、彼女を踊りに誘って踊っていたのだが、それがクリスティーヌの中で何かが気に食わなかったらしい。


 別に下心なんてないとクリスティーヌには釈明をしたのだが、彼女の機嫌は戻らず、帰りの馬車の中は言うまでもなく、重苦しいような何とも言えない空気に包まれていた。

 突き詰めて言えば、浮気現場を見られ、相手を傷つけないように優しくしている所を見られてしまったような、そんな雰囲気に近かった。


 別に彼はクリスティーヌとは付き合っている訳ではないのだが。


 そのような訳で、きっとこのファビアンと名乗る男性も、彼らと同じように違うと知って失望するのだとエルは勝手に思っていた。


「そうなんですね。それは大変失礼しました……まさかそんな事になっていたなんて。ラウルがこの場にいないのはとても残念です。彼の無事をただ祈るばかりです」


 やはり、そうだった。

 ファビアンの顔には何とも言えない色が浮かんでいる。きっとこの後は特に会話する事もなく終わるのだ。そうエルは予測した。


 ところが、その予測は大いに外れた。


「では、改めてまして、僕はファビアン・ルイ・オーギュスト・トリュフォーと申します。どうぞよろしくお願いします」

 ファビアンはエルに向かってそう挨拶した後、彼にもう一人の兄が居たなんて驚いたと言って微笑んだ。


「あと、なんだかすごく不思議な気分なんです。あなたがラウルではないかと思ったのも、何だかつい最近、こうやってラウルに実際に会って、話した事があるような気がしたからなんです……初めてお会いしたというのに」

 もし、この場にラウルも居たら、どんな会話をしていたんでしょうと彼は言った。


「さあ。昔の友達が来てくれた事に感動して泣いて、会話にならないんじゃないかな。それもあいつらしいけど……俺の方も申し遅れましたが、エルネストと言います。でも、この名前は何だか気に食わないから、みんなからにはエルって呼んでもらっています」


 エルも自分自身の事を紹介すると、彼らを見守るようにして立っていたアーロンがファビアンに向かってこう声をかけた。

「ファビアン君。よければ、この子とも友達になってもらえると私は嬉しい。この子はこちら側にはあまり知り合いがいないからね」


 するとファビアンは再び微笑み、ええ、こちらこそ是非。すごく嬉しいです。どうぞよろしくお願いしますと言って、エルに手を差し出した。

 エルも嬉しそうに微笑み返し、彼らは互いに握手を交わした。


 長年片思いをしている女性もいるし、こんな性格のいい友達もいたのに。本当にラウルはどこに行ってしまったのだろう。

 それに、きっと今の自分なら、あの庭先で彼を傷つけてしまったような真似をする事はないだろう。

 

 もし、ラウルが戻って来たら、追い返してしまった事を今度こそちゃんと謝ろう。そして、恐れず自分の真実を伝えよう。


 エルはファビアンの手を握りしめながら、そう思っていた。

片思いされている話をもう少し掘り下げて書いてみました

「私の後悔-あの時素直になれたのなら-」

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