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15.天使の唄声、私を泣かせてください

 今日は朝から一段と冷えている。


 彼女は井戸から水を汲むため、白い息が煙のように昇る中、日も完全に上がらぬうちに外へと出た。


 彼女の仕事は、水回りが中心だった。

 なかなかの重労働であるため、他の季節に比べて手のあかぎれが更に増えている。


 だが、ここに来れたことは自分にとっては幸福な事だったのだ、と彼女は思うようにしていた。

 

 顔の傷が原因で、勤め先での仕事が出来なくなったと育った修道院に相談しに行くと、修道女達は彼女を哀れんではくれたが、あいにく紹介できるような所は今いるここしかないと伝えられたのだ。


 しかし、彼女にそれを断る選択肢は無かった。

 顔の傷を隠すために、黒いヴェールを被った姿で働く事を認めてくれる所なんて他に無かったのだから。


 ヴェールを取れば、嫌でも焼け爛れた自分の肌が目につく。

 その姿を見たものは、可哀想にといったり、怖がったり、不快感を露わにした。

 彼女はその度に悲しい顔をしたが、その顔を見られることもより一層耐え難いものだった。

 

 一通り仕事を終えた後、彼女は休むために仕事部屋の椅子に腰を掛けた。

 どっと疲れが出て、嫌でも瞼が落ちてくる。

 彼女はそれに抗うことができずに眠りに落ちてしまった。


 気がつけば、彼女は何もない暗闇の中にいた。


 しかし、その中で突然、一筋の光がさすように自分の名前を呼ぶ優しい声が聞こえた。

「……ジュリエット」


 彼女は閉じていた目を開けると、明るい陽射しの中で黄色く色づいた木々と、その木から落ちた葉で覆われた大地が広がる光景が見えた。


「ジュリエット。こちらへおいでよ」

 再びその声が彼女の耳に届く。


 彼女が視線を投げた先に佇んでいるのは、いつも優しい笑顔で微笑んでくれるあの人だった。

「ジュリエット。僕と一緒に行こう」

 

 あの人は自分に手を差し伸べる。

 そうだ、今日は二人でとうとう館を出る日を迎えたのだ。


「ファビアン様……」

 ジュリエットはそう言って、彼の元に駆け寄ると嬉しそうに彼の手を握り返した。


 だがーーー


「ちょっと! いつまで寝てるんだよ! 早く起きてちょうだい!」

 荒々しい女性の声が、ジュリエットの事を叩き起こした。


「まったく、次の仕事があるっていうのに。寝てないでさっさとやっておくれよ!」

 そう言って、先輩女中は彼女に次の仕事を押し付けるようにして、部屋から出ていってしまった。


 ……またあの人の夢を見てしまった……


 これで何度目だろう。

 ジュリエットは自ら薔薇の館を出ると決断したのに、時折、こうやってファビアンの夢を見ていたのだ。


 気がつけば、目から熱い液体が出ている。


 去年までいた、あの薔薇の館でファビアンと過ごし、ミサの帰りに秘密のデートをしていた日々は自分が思い描いた幻だったのだ。

 自分にとっては今いる場所だけが現実で、あちらの方はただの空想でしか無かったのだ。


 ヴェールをつけていれば自分が泣いていても、他の人間に気付かれることはない。

 もたもたしているとまた怒られてしまう。現実逃避はやめて、早くいかねばと彼女は椅子から立ち上がった。



 それから数日経ったある日のことだった。

 いつも通り不機嫌そうな先輩女中が、彼女に来客だと伝えに来た。


 来客? 自分を訪ねてくるなんて一体誰だろう。

「どなたが来ているのでしょうか?」

 そう彼女が訪ねると、先輩女中は割と年のいっている女性だという。


「とにかく、さっさと行って用を済ませてくるんだ! こっちは仕事がまだあるんだから!」

 はぁと急かす様に大きなため息を先輩女中はついたため、ジュリエットは急いで来客が待っているという屋敷の外に向った。


 彼女を待っていたのは―――


 なんと薔薇の館で働いていた時の女中頭だった。手を組み、背筋をピンと伸ばして黒い服を着た彼女の傍には、カーテンの閉まった黒い馬車が停まっている。


「どうしてここに私がいるとわかったのですか?!」

 ジュリエットは女中頭の名前を呼んだあと、驚き叫ぶようにしてそう尋ねた。

 ここに来る事は伝えていなかったのに、と思いながら駆け寄ったものの、女中頭はいつもの冷静な様子のままだった。


「そんなことよりも、こちらではかなり苦労されているようですね。前よりも痩せたのでは?」

 彼女のしゃべり方は相変わらずだが、彼女を見つめる目には本心から心配しているという色が伺えた。


 修道女達には、自分の行き先を誰かに聞かれても絶対に教えないで欲しいと伝えていたが、もしかしたから親切心から教えてしまったのだろうか。


 だが、なぜ彼女がわざわざここへ訪ねてきたというのだろう。なんだか嫌な予感がする、と胸騒ぎを覚えたジュリエットは女中頭に再び尋ねた。

「……まさか、ファビアン様に何かあったのですか?!」

 その顔はヴェールに隠されているが、必死そのものだった。


 その問いに、女中頭は少々無言になった。


 しかし、ヴェール越しのジュリエットの目を見つめるようにして、女中頭はこう言った。

「あなたは自分で出ていったというのに、あの方のことが気になりますか? てっきり、もうそんな気持ちはないのかと思っていましたが」

 彼女は少し呆れているという風な態度を見せたが、その口元は少し上がっていた。


「まあ、何かあったかと言えば、色々大変だったんですよ。ファビアン様は大学をお辞めになり、さらにお屋敷までも出ていかれてしまって……」

「そんな、辞めるなんて。どうしてですか?! まさか……奥様に無理やり辞めさせられたのですか?! それで、その後ファビアン様はどうなったんですか?」


 ジュリエットは取り乱した様子で、ファビアン様のその後の事を教えてください! と大きな声を出して思わず彼女の両腕を掴んだ。


 だが、女中頭は必死なジュリエットを見て、どうか落ち着いてと静かに言った。

「私個人としては、あなたももう少し素直になった方が宜しいと思いますよ」


 その言葉のあとに女中頭はなぜか微笑んだ。

 そして彼女は馬車の方を振り返ると

「私達の会話が聞こえていらっしゃるのでしょう、ファビアン様」

と、そう声を掛けた。


 馬車の扉がゆっくりと開かれる。

 中から黒髪に赤茶色の目が印象的な男性が、静かな足取りでステップを降りてきた。


 大地に降り立った彼は少し不安そうな顔をしていたが、彼女を見た途端に安堵したという顔に一気にかわった。

「ジュリエット……本当にここに居たんだね」

 その穏やかな話し方も相変わらずだった。


「ずっと、探していたし、会いたかったんだよ。僕達と一緒に帰ろう」

 そう言って、彼は笑みを浮かべた。

 

 ファビアンを見たジュリエットは、訳が分からずどう言うことですか? という声を二人に向かって漏らしていた。


「ファビアン様が直接呼び出すと、あなたはきっと出てきてくれなかったでしょう。ですから私も付いてきて欲しいと頼まれたんです」

 女中頭はそう言ってジュリエットに向かって再び微笑んだ。


「でも、ここに来た事は誰にも教えていなかったのに、どうやってわかったのでしょうか。それに、館にはディミトリ様達が……」

 ジュリエットの脳裏には、ディミトリとイレーヌの姿が映り、たちまち恐怖が彼女を襲った。


 だが、すぐにファビアンはそれを否定した。

「ああ、それについてはもう心配することはないよ。彼らの方こそ居なくなったんだ。僕は確かに大学も辞めたし、屋敷も出て行った。でもまた、館の主は僕という事になって戻ってきた」


 ファビアンはディミトリ達が事件を起こし、遺言の件も偽物だとわかり、商会についても正式に自分が継ぐ事になったと彼女に伝えた。


「あと、とても不思議なことが起きてね……」

 彼によると、昨晩、なぜか名前も姿もよく分からない人物と彼は執務室で会った後、気がつけば朝を迎えていたそうだ。

 取り次いだ女中頭も、奇妙なことにどんな人物だったか思い出せないと言っている。


 そして、机には"ここを必ず尋ねよ。探しているものはここにある"と書かれたカードが置かれており、すぐにでも行かないとと思って訪ねたという訳だそうだ。


「そんな不思議な事があったんですね……まさか、天使が来たのでしょうか」

 ジュリエットのその言葉にファビアンは微笑んだ。


「ああ。きっとそうだと思う。いや、そうに違いない。だから……もう一度言うけど、僕と一緒に帰ろう」


 ファビアンはそう言って、ジュリエットに近寄ると両手を広げて彼女を強く抱きしめた。

 いつしか感じた彼の温もり。

 これは夢ではないのだ、とジュリエットは涙を流した。


◆◆◆


 彼女はその日、いつもよりも早起きをして、トレードマークの黒いドレスではなく、肌の色によく合う青を基調としたドレスに袖を通していた。


 化粧はいつもより丁寧に行い、頬紅を差して付けぼくろもつけ、麝香ではなく花の香を身に纏えば、その辺りにいる貴婦人となんら変わりは無かった。


 もちろん、そう見せるために、人によっては不自然に感じてしまう自身の肌の青白さを隠すのと、あまりに感動しすぎて失神しないようにと、事前に食事をしっかりとっていたのもあるようだ。


 今日は自分にとって特別な日。

 たまたま、こちらへやって来ているだけだが、さすが大都市部。彼に会えるとはなんて幸運な事なのだろう。


 ライバルが多数いるなか、なんとか人気の桟敷席も取ることができた。こんなに心が踊るのはいつぶりのことか。


 そんな風にして喜びに溢れている彼女が今いるのは、パリのオペラ座だった。


 建物の中は着飾った男女で溢れている。

 シャンデリアにはたくさんの蝋燭が並べられており、夜でも一段とここは華やいだ場所となっていた。


 そして、今日の演目はイタリアからやってきた演奏楽団とカストラート達という組み合わせで、なかでも彼女の目当ては、トリも兼ねているヴェネツィア出身の著名なカストラートだった。


 彼女は彼のことをイタリアの大都市部で行われた、デビュー時から知っていた。


 当時、彼はベテランのカストラートとの共演でデビューしたのだが、彼の実力にベテランが敗れてしまうと恐れ慄いたベテランカストラートのファンが、彼に赤っ恥をかかせて自信喪失させようと公演最中なのに嫌がらせをするほど、大注目されている新人だった。


 その実力というのは、高音域は最も有名と言われるカストラートに相当すると言われており、傲慢な性格で知られるカッファレッリですら、彼には素直に賞賛を送るほどだった。

 芸名もカストラートにありがちなあだ名ではなく、本名に近い貴族的な名というのも自信の表れかと、生意気に捉えられたようだ。


 しかし、彼が舞台で歌声を披露すれば、彼に向かって罵声を浴びせていた連中ですら、一瞬で虜にされてしまった。実は彼女もその一人だったりするのだが……


 それはともかく、本日の演目はただのオペラではなく、数あるオペラの曲の中からとりわけ人気の曲だけを演奏し、普段彼らが歌わない曲も歌ってくれるという、とても稀有な催しなのだ。


 そのため臨時席も設けられており、会場の外にはどうにか彼の声を聞くことが出来ないだろかと、おこぼれにあずかろうとする人間たちが立ち並んでいた。

 

 だが、このような皆が見たいと必死に押し寄せる催しだというのに、約束の時間になっても彼女のツレはやって来ようとはしなかった。


 事前に大切な人に会いに行ってくるとは言われていたのだが、ここまで遅くなるとは。

 その相手と盛り上がっているのか?

 一方で、きっとこちらには興味ないということなのだろうが、桟敷席にポツンと残される女の気持ちを想像することは、彼にはまだ難しいのかもしれない。

 それにしては、あからさま過ぎやしないだろうか。


 そう思いながら彼女はため息をついたが、前奏が止まり幕が上がった途端、その恨めしい気持ちは跡形もなく吹っ飛んだ。

 辺りのおしゃべりしていた声もピタッと止み、入れ代わるようにして、わぁっと女達の歓声が上がる。


 彼女も同様に思わず歓声をあげて、その一部となった。

 なぜなら、舞台にはずっと会いたかった彼の姿があるのだから。

 どうして上品に黙ったままでなどいられよう。



「遅れてごめんね」

 男がそう声をかけて桟敷席に入ってきたのは、今日の演目の最後の曲になってからだった。


 普段は落ち着きがあり、その冷静さがより一層彼の美しい顔を引き立てていると言うのに、心なしか今日の彼はどこか弱々しく、目元もなんだか荒れているように見えた。


「今までどこにいたのというのかしら。どの曲もすごく素晴らしかったというのに。もう、これで今日はおしまいよ」

 少し不機嫌そうにしている彼女に向かって、男は苦笑いを浮かべた。


「そんなに怒らないでよ、ベアトリス。今日の君はなんて華やかで美しいのだろう。普段の君と全く違うから、会場内を探すのに時間がかかったんだよ」


 そう弁明してくるラウルに向かって、ベアトリスはいつもは地味で綺麗じゃないってことかしら? と棘のある言い方で返した。


「……まあ、いつも以上って事だよ。それよりも、君がそんなはしゃいでる姿なんて初めてみた。その方が驚きだけどね」


 いつもは至って冷静で、どんな楽しそうな舞踏会に出たとしても、獲物を淡々と狙うだけだと自分は思っていたのに。

 今の君の姿は、久しぶりに恋人に会えたと喜んでいる女性そのものじゃないか、とラウルは微笑んだ。


「それにしても、この会場にいる女性達も凄い熱気だね。僕からしたら、なぜカストラートはこんなに人気なのか良くわからないのだけど」


 もちろん、ラウルは自身もヴァイオリンを習っていたので音楽に興味が無かったわけでは無いし、父や兄に連れられてオペラを観に行く事は多々あり、屋敷や他家で開かれる音楽会でもカストラートが歌っている所は幾度も見ていた。


 それ故に、カストラートを知らないという訳ではないのだが、なぜこんなにも女性達が関心を寄せているのかは不思議でたまらないらしい。


 彼らと自分の共通点と言えば、お互いに永遠に刻が止まっている事だ。彼らは少年のままの声を、自分は命と肉体を。

 女性達がカストラートに惹きつけられるのは、その神秘性故だろうか?

 と彼は一瞬頭の中で呟いていた。


「ところで次は何のプログラムなの?」

 彼がそう尋ねた途端、舞台の幕が上がり再び拍手と歓声が沸き起こった。


 登場したカストラートは、チェンバロの音と共にある曲の前台詞となるレチタティーヴォをイタリア語で歌い始めた。


 その内容は、相思相愛である許嫁の元から無理やり奪われてしまった娘が、自分を連れ去った魔女と自分に横恋慕した男に向かって、なんて酷い仕打ちを自分にするのだろうというものだ。


 それを聞いた途端、ラウルは顔を顰めると

「ああ、よりによってこのタイミングで、まさかこの(アリア)を歌われるだなんて……最悪だ」

と言って、両手の肘を脚に置き手のひらで顔を覆った。


 娘が魔女と男に向かって言い放つ最後の部分が終わった後、絢爛豪華なこの大きな会場には、カストラートの美しい歌声が静かな伴奏と共に、子守唄のようにゆっくりと流れ始めた。


「Lascia ch'io pianga mia cruda sorte……」


 その瞬間、ここは一気に娘が囚われている館へと変わった。控えめな伴奏と共に、娘の悲痛な思いが静かに響く。


「……e che sospiri la libertà」


 そして天へくるくると駆け上るかのように、一瞬声を高くあげた後に、今娘が一番求めているものが静かに歌われる。


「e che sospiri la libertà」


 さらに、穏やかな波が、高い波が岸へと何度もうち上がるように、カストラートの高音が会場内に響き渡り、聞くものの心を揺さぶる。


「Il duolo infranga queste ritorte de' miei martiri sol per pietà」


 短い歌詞の繰り返しでありながら、カストラートは持てうる限りのテクニックを駆使して、情緒たっぷりにこの歌を歌い続けている。


 カストラートらしい天使の声が不思議と憂いを感じさせ、今、悲劇に見舞われているのだ、というのを歌詞の内容を知らない者にもわかりやすく感じさせた。


 そう感じさせるのは、数千人の中で一握りしか開花できない才能だからなのか、それともマエストロ達による厳しい指導と血の滲むような努力からなのか、はたまた、彼らは永久に本物の男に戻れない残酷な運命を背負っているからか……


 そして、最後のメロディーラインをなぞる伴奏が流れて曲が終わると、観客達は皆一斉に立ち上がった。

 カストラートに向かって惜しみない拍手を送り、ブラーヴォ! ブラーヴォ! と叫んではその後には彼の名前が続き、女性たちは沢山の花を彼に向かって投げ入れている。


 もちろん、ベアトリスもこの例に漏れず、拍手をしながら立ち上がって、何度も素晴らしい! 素晴らしい! と普段上げることのない、少女のようにはしゃいだ声で喝采を送った。


 だが、一瞬、冷静さを取り戻した彼女は、拍手もせず静かにしているラウルの事を横目で見た。

 彼はこの催しがつまらない、或いは退屈に感じているのかと思ったのだが……どうやらそうではないらしい。


 ラウルは先ほどファビアンに施してきた"魔法"の事を思い出していたのだ。

 彼を真の意味で救済するためには、自分はああするしかなかったのだ、と。

 

「あの晩に復讐を願ったことは忘れるんだ」


 君の周りで起きた出来事は、神が本来の君の歩むべき人生にシナリオを戻しただけだ。

 君が願っていたのでは死ではなく、愛する人を迎えに行くことなんだ。

 そして、どうかもう二度と僕と出会ったことは思い出すこともなく、会うこともないように。


 そう願ってしまうのは……君と再会して再び優しい声を聞いたら、今度こそ君を仲間にしたいという誘惑に僕は負けてしまう気がするんだ。


 だから、君は闇の中に落ちた僕が近寄れないように、光に包まれた世界で愛する人と共に生きるんだ。


 僕も君に近寄らないように、君の中に僕という存在は無いと思うようにするから……


 ラウルは椅子に座り、うなだれている姿のファビアンにそう囁いていた。


「……あら? 何で? どうしたの?」

 ベアトリスがそう声をあげるのも無理はなかった。


 なぜなら隣にいるラウルは、手すりに両手を掛けて顔を下に向けると、肩を震わせて嗚咽しながら泣き始めてしまったのだから。


 他の観客たちがそろそろ帰ろうとしている段階ですら、彼はまだ泣き止まないため、見かねたベアトリスは彼にハンカチを差し出して、自分たちも席を立たないとと声を掛けた。


 彼を見かけた他の観客は、あの男性はなぜ泣いてるのだろう? と不思議な顔をするものもいれば、きっとカストラートの歌声に感銘を受けたのだと囁く者もいた。



「まさか、曲の題名通りに泣いてしまうなんてびっくりよ」

 オペラ座を出たあと、ベアトリスはラウルと人通りの少ない通りを歩きながら、まだ少し涙が目に残っている彼に向かってそう言った。


 遅れてきた理由がようやくわかった。

 自分が彼のことを見つけた時とそっくりそのままだと。

 いや、今はなんだか男に振られた女友達を励ましているような気分に近いかもしれない、と彼女は思っていた。


「それで、また誰かに振られちゃったから泣いてるの? でも孤独なのは私たちにはつきものよ。短期間なら仲良くなれても、ずっといる事は無理なの。人間は歳もとるし寿命というものがあるから」

 大切な人っていってたものね。それなら傷つくのは当然よ、と彼女はさらに同情を寄せているが顔は笑っている。


 そんな訳ないよ? 振られたぐらいで泣くなんて、過去の弱い自分じゃないんだから馬鹿馬鹿しすぎる、と彼女はラウルがてっきり返すと思っていた。


 だが、意外な事に彼は、うん。そうだねとあっさりそれを認めた。

「あぁ、でも正確に言えば振られる前に、別れを告げてきたという方が正しい」

 そうなると、振られていることにはならないか、と彼は返した。


 これは彼の精一杯の強がりだろう。

 ベアトリスはそれ以上、詳しい話を聞かないのも優しさかと思って、深くは追求しようとはしなかった。


 通りをさらに歩いていたところで、彼女はふと、ある重要な件を思い出した。


「そういえば、私達がここに来た目的は新しい支援者を見つけ出す事でしょう? あんな気持ち悪いことをさせられたのだから、彼らから小切手くらいは巻き上げてきたのよね?」

 そう言って、ベアトリスはディミトリとイレーヌからいくら取れたのかと金額を聞いてきた。


 この質問にラウルはぴたりと足を止めて、目を瞬かせたあと泳がせ、彼女に向かって作り笑いをした。


「ええと、それについては……0だよ」


 ラウルの回答に、はぁ? とベアトリスは大きな声をあげた。

 自分は気持ち悪い男の、物凄く気持ち悪い部分まで触ったというのに、0? 0ですって?! 信じられない! と声を荒げた。


「うん、彼らの蓋をあけてみたら、財産なんて無かったんだよ。正当な財産権は別の人間が持っていたみたいなんだ。だから盗れなかった」

「はぁ、もう……あれ以外にも色々協力したというのに、こちらのほうが泣きたくなる気分よ!」


 ベアトリスは大きくため息をついている。

 しかし、ラウルは微笑みながら、でも心配ないよと答えた。

「実はツテは彼らだけじゃないんだ。もっと他にも沢山いる」


 彼の脳裏には、ディミトリの後ろにひっついて彼をいじめていた連中の姿があった。


 しかも、その連中だけではない。

 自分がいじめられているのを止めもせず、ディミトリ達がやっているのをただ薄ら笑いをして傍観していた者達も同罪だ。

 彼らを含めたら、なかなかのものとなるだろう。


 数年経っているため、皆多少は姿が変わっているだろうが、彼らの顔と名前はしっかりと覚えている、とラウルは真顔になりながら頭の中で呟いた。


「さて、次は誰にしようかな。彼らにはぜひ役に立ってもらわなきゃ。わざわざパーティで金持ちを探す手間なんてかけたくないもの。本当、良家や金持ちの子息しか通えない名門校に入れてくれた僕の父様には感謝しかない」


 ラウルは先ほどのアリアを鼻歌で歌い"支援者"の選定に考えを巡らしながら、再び歩き始めようとした。

 しかし、ベアトリスは彼に付いて行こうとはしなかった。


「あっそう。じゃあ、私はあなたと別ルートで探すわ。あなたはあなただけでやってちょうだい」

「えっ……?」

 ラウルは目が点になって足を止めた。


 ベアトリスは何でもかんでも自分が手伝うと思わないで、という顔をしている。

「当然でしょう? また手伝ったのに何もなかったら嫌だもの。それじゃあね」

 彼女はそう言ったあと、文字通りその場からフッと闇に溶け込むかのようにその場から去ってしまった。


 一方でその場に残されたラウルは、軽いため息をついた。

 仕方ない。彼女に手伝ってもらえないとなると、もっときちんと作戦を練らねば……と。


 顎に手を添えて頭を働かせようしていると、彼は急に飢餓感に襲われ始めた。だが、彼は運が良かった。ちょうど良い獲物が側にいたのだ。


「ずっと、僕たちの事をつけてたよね?」


 彼は振り返って、自分を尾行していた若い男に向かって微笑んでそう声をかけた。

 男は今までラウルと一緒にいたベアトリスが突然消えてしまったため、自分は幽霊を見ているのかと腰を抜かしている。


 気づかれてしまった男は、来るな、来るな、化け物! と腰を抜かしたまま叫んでいるが、ラウルは微笑んだままお構いなくじりじりと彼に近づく。

 彼の手には錆びついたナイフが握られていた。


「君だって、その手に持ってるナイフでいつもやってるように、僕と彼女の喉を切り裂くつもりだったんでしょ? いいよ、出来るものならやってみなよ。ただし僕よりも早く動けるならね」


 そう言って、ラウルは尾行していた物取りの胸ぐらを息をつく間もなく素早く掴むと、服の襟を引き裂いて口から牙を覗かせた。



 事が終わった後、彼は動かなくなっている亡骸をその辺の道端に紙屑でも捨てるかのように投げ捨てて、手をぱっぱと払った。


 こういった扱いをしたところで、ここでは貧しい者の死体が転がってることなんて日常茶飯事だし、誰も驚くことはない。

 

 それにしても、今日はまだ自分の中での飢えが治まらないようだ。先ほど涙を思った以上に流してしまったからだろうか?


 でも、ここはパリだ。自分がまだ人間だった頃、間違っても足を踏み入れなかったような治安の悪い場所に行けば、馳走はたっぷりと用意されている。


 失恋した時は美味しいものを食べろって聞くもの。前よりも少しだけここが好きになった気がするよ、とラウルは空に輝く青白い月に向って微笑んだ。

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