14.罪の告白と嘆きの天使
薔薇の館に戻ったファビアンは、早めの夕餐を取ったあと、かつて父が使用していた執務室で椅子に腰かけ、深くため息を吐いていた。
連日の事を思い出しながら、このところは天と地がひっくり返るような出来事に見舞われた、と彼は思っていた。
話はその起点になった日へと遡る。
彼がいつものように仕事をしていると、来客が来たから急いで対応するようにと商会の長から伝えられた。
なんだろうと思いながらその来客のもとに行くと、尋ねてきたのはトリュフォー商会のものだった。
なぜ自分のところへ? と驚いていると、彼らはファビアンに向ってこう伝えた。
ディミトリとイレーヌが事件を起こして逮捕された。
それと時を同じく彼らが取り調べを受けている間、罪の重さに耐えかねたという理由で、ある偽造士が自ら出頭してその罪を自供した。
その中には、ディミトリとイレーヌがトリュフォー氏の遺言の偽造を依頼したというものも含んでおり、警察がそうなのかとその件についても取り調べたところ、彼らはそのことをなぜかあっさり認めたそうだ。
また、イレーヌが取り調べされていた中で、さらに衝撃の事実が判明した。
なんと彼女はファビアンの母親を階段から突き落として、転落死させたことを自白したそうなのだ。
かつて愛人だった際、自分にも子供が出来て育てているというのに、トリュフォー氏は思ったよりも贅沢させてくれず、ある日舞踏会に出席したところ、偶然にも居合わせたファビアンの母が華やかな宝石を身に着けているのを見かけて、嫉妬に狂い階段から突き落とした、と。
だが、ファビアンの母がそれを身につけられていたのは、トリュフォー氏が彼女にだけお金をかけていたのではなく、彼女は資産家の娘で華やかな宝石はもともと彼女の手持ちのものだった、とイレーヌは結婚後に知ったらしい。
そして、逮捕されてから彼女は毎晩亡霊にうなされており、きっと本当の事を言うまで亡霊に付き纏われると思い告白した、とのことだった。
余談ではあるが、今回の件を受けてディミトリについては、婚約破棄されて破談になったことも彼らは話した。
相手先にはかなりショックが広がっているそうだが、事前にそういう人間だとわかり、むしろ将来が傷付かずに済んだじゃないかという声も出ているという。
ジュリエットに対しての暴行についても告白しているそうで、二人は相応の刑が下るだろうとファビアンに伝えられた。
また、現時点では一部のものしか知らないが、彼らの起こした事件があまりに刺激的すぎる上、追い出されたファビアンに対しては同情が広がっているので、世間にも知られるのも時間の問題だと。
さらに話はこれだけでは終わらなかった。
尋ねてきた彼らにとってもある問題を抱えていた。というより、むしろこちらの方が本題だった。
ディミトリとイレーヌが大商人たちに恥をかかせて怒らせてしまったため、彼をそのままトップに据え置いて置くのはもちろんあり得ない話だが、彼を調子づかせた現体制も変えない限り、今後一切取引を彼らは行わないと言ってきているのだという。
特に最も腹を立てているのは、過去の出来事もそうだが、大事な接待で面子を潰されてしまったメリディエス商会なのだと。
そのため、商会の人間達はだれを次の後継者にするかと揉めに揉めたそうだ。
最終的には、大商人達を納得させることを優先し、過去にメリディエス家のラウルを救ったことがあるファビアンに、体制をまるっきり変える意思の証として白羽の矢を立てることで決まったそうだ。
「どうか我々を救うために戻ってきていただけませんか」
彼らはせめて自分たちにできることとしてと言って、ディミトリとイレーヌがでっち上げた偽物の遺言の撤回と、ファビアンに館の所有権と財産権を戻すよう弁護士に依頼したと伝えた。
ファビアンは彼らの切実な顔に悩みに悩んだ。
その結果、今働いている商会の長に、家業の方に戻らなければならなくなった。世話になっておきながら申し訳ないと彼は頭を下げた。
しかし、商会の長は
「なに、本当はもともと君が継ぐのが筋だったんだ。それが本来の形に戻ったんだからいいことじゃないか」
と笑ってファビアンのことを快く許してくれた。
自分は家族には恵まれなかったが、そうでない人達にはとても恵まれていたのだ。
彼は財産も地位も元に戻ったことも含めて、これらは神に感謝すべき事なのだと思った。
だが、それと同時に、どうしても埋め合わすことのできない虚無感を彼は覚えていた。
……その原因は……わかっている……
ぼぅっとそのまま外を見つめていたファビアンに、女中頭から名前を教えてくれないのだが、古い友人だと名乗るという人物が会いに来ている。怪しいから断るかどうか判断して欲しいと伝えられた。
その正体がすぐに誰であるか察した彼は、断らずに執務室に招くよう彼女に依頼した。
◆◆◆
その人物が部屋に入ってきた途端、ファビアンは
「やはり君だったか。説明は省くけど……まさか僕の身の回りで最近起きた一連の出来事については、本当に君がやったことなのか?」
と、相手が挨拶をする間もなく尋ねた。
彼の視線の先には、いつかの晩に人を殺したくなった事はないかと問うた人物、つまりラウルが立っていた。
ラウルは無言のまま頷き、彼の座っている机の前まで移動すると、あぁ、そうだよ、と涼しい顔をしながらそう答えた。
「ファビアン。僕は実は堕天使、いやヴァンパイアになったんだ。そうだよ、君に再会してから起きた全ての出来事は、僕が仕組んだことだよ」
君が願った彼らを殺すという事は、今の僕にとってとても容易いものだ。
いつもどおり襲って、その血を啜ればすぐ終わるからね。
でも、自分のためならともかく、それだとあまりにあっけなすぎて君のための復讐にはならない。
だから、あえて生き恥をかかせて罪を裁かせるのは人間たちに任せる、つまり社会的な死を与える事にしたんだ。
と彼は言った。
それと同時に、あんな事をするなんて流石に酷すぎる! 君には心がないのか! とファビアンから非難される事も覚悟して。
だが、ファビアンの反応は全く違ったものだった。
「そうか……」
彼は静かな声でぽつりと呟くだけだった。
「もしかして、やっぱり怒ってるの?」
自分は人の感情が読み取れる筈なのに、この時のファビアンの様子は読めなかったため、ラウルは一瞬顔を歪めた。
しかし、ファビアンは首を振った。
「いや。僕のためにやってくれたんだね。ありがとう」
いつもの優しい目をしながら、彼はラウルにお礼を述べた。
もちろん、この言葉に皮肉めいたものなどは一切なかった。
「ところでラウル。変な話だけど、お礼は何がいいんだろう。君だって色々大変だったはずだ。一番いいのは……やっぱりこれかな」
ファビアンはそう言うと、机の引き出しから小切手を取り出した。
「僕はそう言ったことが疎いからよくわからないけど、いくらくらいが妥当……」
そう言ったところで、ラウルは彼の手に自身の冷たい手を重ねて、それを切るのを止めさせた。
「言っただろう。僕は残酷なヴァンパイアなんだ。そんなものは要らないよ」
僕にお礼をするならばーーー
君の血が欲しい、とラウルは彼の目をじっと見つめてそう言った。
「……そう」
ファビアンが小さな声でそのように呟くと、二人の間に一瞬の沈黙が訪れた。
だが、ファビアンはおもむろに小切手を持った手を襟元に移し、ラウルをまっすぐに見つめたまま素直にジャボを外して襟元を緩め、それならどうか僕の血を一滴残らず飲んでくれないかと彼に願った。
普通であれば、堕天使だの、ヴァンパイアだのと告げた時点で大抵のものは吹き出し、笑い、冗談だろう! と大きな声を上げるはずだ。
あるいは醜悪な化け物め! と罵るか、叫び声を上げて恐怖に怯えるか。
たが、ファビアンの目にはそのような類の感情が見えず、至って彼のいう事を真剣に、素直に認めているようだった。
「正直に話すと、自分に財産や地位が戻ってきたというのに全く嬉しくなかったんだ。彼女の事だけが大きく穴のように抜け落ちていることには変わりないのだから。むしろ、ここに戻ってきた事で彼女がもういないという現実が尚更叩きつけられて、喪失感が前よりも日増しに大きくなっているんだ」
彼女が居なくなってから、毎日、朝を迎えるたびに僕は絶望していた。
この世界から消えてしまいたい、いっそ目が覚めなければいいのにと思っていた。
もちろん、僕の事を必要だと言ってくれる人には感謝している。彼らのために、彼らの期待に応えなければと。
だけど、それが今は僕をこの陰鬱で虚構じみた世界に縛り付ける鎖となり、逃げ出したいと思っている自分がいるのも事実なんだ。
僕の気持ちなんてわからないくせに! 押し付けないでくれ! と身勝手に振る舞って、怒り、拒否することが出来るならばなんて楽なことか。
けれど、そんな事をしたら彼らの悲しむ顔を見ることになるし、途端に僕も後悔に打ちのめされるだけに決まってる。
……ただ……僕ももう、限界なんだ。
いつまで苦しめば、この暗闇は終わるのだろう。
いつになったら、僕はこの明かりのない迷宮から解放される?
今すぐに終止符を打つとするならば、そんなの自ずと答えは決まってる。
でも、自分にはそれをする勇気はない。
そんな行動力がない自分がとても情けないし、かと言ってそれをすれば神に背く事にもなる。
それに、人を殺したいと思ってしまった自分もとても怖い。
だから君が本当にヴァンパイアだというのなら、僕の血を飲み、いっそそのまま殺してくれないか。
きっとそれが、神ですら救えぬ絶望からの脱出する僕の唯一の手段なんだよ、きっと。
君への御礼なら、どうかこの命ごと奪い去ってくれないだろうか。君になら喜んでこの命を差し出そう。
ファビアンは本当に辛そうで、今にも泣き出しそうな顔をしながら、ラウルにそう願いを告げ終えた。
すると、ラウルは何も言わない代わりに、指をぱちんと鳴らした。
途端に部屋の蠟燭の明かりが全て消え去り、部屋の中の明かりは窓から差し込む月明りだけとなった。
この現象はラウルはもう人間ではないという証明だったが、ファビアンは彼に怯える素振りは全く見せなかった。
ラウルは窓側の方へ移動して、座っているファビアンの前に佇んだ。
逆光になるため、彼の表情は暗くファビアンからはシルエットしかわからない。
彼は無言のままファビアンのシャツに手を伸ばすと、襟元をより一層を広げて彼の首筋をあらわにした。
ファビアンは息を呑んで微かに喉を動かして、覚悟を決めたというように目を瞑った。
しかし、ラウルは口を開いたもののファビアンが望んだ行為には及ばず、代わりに本音を静かに語り始めた。
「君が望みを言ったのだから、僕だって自分の望みを言っても許されるはずだよね? 僕は確かに君の血が欲しいと言った。でもそれは、君を君が今いる黒く染まった世界からこのまま連れ去りたい。という意味なんだよ」
実は僕もこうなる前は君と同じだったんだ。状況は異なるけれど。
決して恋をしてはいけない女性に恋をして、自分の半身からは拒絶されて、絶望して死を願った。
でも結局、人としての死は迎えたけれど、代わりに不死者へと変わっただけだった。
けれど、案外この生き方も悪く無い。
鳥籠にいた小鳥は大空に飛んでいき、狙う敵もいないから自由に飛び回っている。いや、小鳥から鷹や鷲に変身してしまった。だからそれが出来る。そんなところかな。
だから、僕と同じ永遠を生きる仲間として君を加えたいと思ったんだ。
自分としてもこんな感情が芽生えるのは不思議だし、そんな風に思った事自体が初めてなのだけど。
ここまでラウルは語ると急に押し黙った。
彼は迷っているようだが再び口を開いた。
「……でも、そんな事をしたとして、君はきっと喜んではくれないだろうね」
もし、僕が君に同じことを施したら、きっと僕に向けてくれていた笑みは絶え、変わりに僕のことをひたすら憎み、軽蔑することになるのは目に見える。
君は自分のために、他の誰かを犠牲にすることにひたすら苦しみそうなんだもの。
それが例え、平気で人を殺すような極悪人だったとしても。
大体は飢えに抗えないため、本能を受け入れるそうだけど、君の場合は襲うくらいなら飢えの方を選ぶに違いない。
そうやって、受け入れられないものの末路はどうなるかというとね、大体は自分の牙を自身に刺して気が狂っていくか、わざと太陽に焼かれに行くらしいんだ。
あるいは、家畜に手を出すか、ネズミなんかに手を出してひもじい思いをするか。
もしくは、闇を知らなかった君は僕以上にもっと深い部分まで堕ちてしまって、善人も悪人もお構い無しに、ふざけた欲望のままにただ獲物を貪る悪鬼になってしまうか。
もちろん、僕はそんな君の残忍で惨めな姿を見たくない。君が苦しむほど喜びを得る訳ではないのだから。
それに、神から本当に愛されている人間もいるそうなんだ。
仲間にする儀式を施したところで、何も変化が起きずに安らかな眠りにそのままついてしまうらしい。
だから、君に施したところで本物の天使が舞い降りてきて、僕が握った君の手を無理やり振りほどき、どのみちそのまま天国へ連れて行ってしまいそうな気がする。
だって、君はどんな状況でもこの世界を愛そうとしていたじゃない。そんな君を神が愛してくれないのだとしたら、神ってなんなんだろう。
僕は今思えばきっとこの世界を憎んでたんだ。君との大きな違いは多分そこなんだろうね。
僕は絶望と憎悪に取り憑かれて、そのまま静寂の闇に堕ちてしまったけれど。
あと、再会した時に、君が死にたがっているのは実はわかっていたんだ。
あんな夜間に出歩いて、たまたま出くわした強盗に、いつか刺してもらえるんじゃないかっていう思いも。
僕らの仲間に遭遇しなかったことも本当に奇跡だと思う。
長々と語ってしまったけど、結局のところ僕は君に絶望を抱えたまま死んで欲しくは無かった。
だから、個人的な怨みもあったけど、全てを失ってしまった君の代わりに彼らに復讐したら、君が死に恋するのを思い留まるんじゃないかと思ってやってみたんだ。
「……でも、やっぱりそれは無理だったみたいだね。それでも君の願望は変わらなかったみたいだから」
ラウルはファビアンの首筋に冷たい手を添えた。
いつのまにか彼は目を開けていたが、その目には相変わらず死に憧れる思いが溢れ出ていた。
「君は僕のことを天使だと言ったけど、君のほうこそ僕にとっての天使だったんだよ。覚えてないのだろうけど。君は辛かった僕を何度も救ってくれた」
……何故、あの時、僕が世界から拒絶されてしまった時、君の元にも向かわなかったんだろう。
もしかして、あの時に君に出会っていたら、僕は今頃人としてまだ生を歩んでいたのかな。
そんな事を思っても僕はすっかり変わってしまったから、無意味な空想でしか無いけれどね。
その言葉のあと、ラウルは再び少し黙った。
しかし、いよいよ彼の決意も決まったようだ。
「……いいよ。君の心から望む事を叶えよう。でも、見つめられながらするのはやりにくいから、目を瞑ってくれるかな?」
ファビアンは彼を見つめた後、目を瞬かせて微笑んだ。
「あぁ、わかった。そして、どうか罪悪感は抱かないで欲しい。君は僕を助けてくれるんだからね。僕のわがままを聞いてくれてありがとう。君は本当に僕の良き友人だ。最期に出会えてよかった」
そうお礼を述べた後、ラウルのいう通りにファビアンは目を瞑った。
冷たい手が顔に添えられ、少し左下を向くように優しく押されるのを彼は感じていた。
「出会えて良かったのは僕もだよ。それじゃあね」
身を屈ませて、ラウルが最後の言葉を述べる。
今まで彼が犠牲者を襲う時は、大体楽しんでいるか、無心か、怒っているかくらいだった。
だが、今の気持ちは彼の中で初めて感じるものだった。
これをすればファビアンとはもう会えなくなる。
自分の中の誰かが、止めるんだと囁いてくる。
だが、止めたところで……
ラウルはそれ以上考えることは止めて、自分の本能に任せる事にした。
目の前には自分の大切な誰かいるのではない。ただの獲物でしかないのだ。
その証拠としてズキズキと脈が痛むように、彼のそれを欲しているじゃないか。
そう、いつものようにやればいいんだ。
自分は血に飢えた獣なのだから、と。
ラウルは目線をファビアンの首筋に移して唇を近づけると、口を開け、鋭く尖った二本の犬歯をそっと彼の肌に突き立てた。
微かに彼の呻く声が聞こえたが、ラウルは指に力を入れて肩を押さえつけた。
自分の冷たく渇いた身体に、彼の温かく赤い血が流れて細部まで染み渡っていく。
穢れを知らぬ血。
無垢なる血。
天使の血。
なんて甘美な時間なのだろうか。
永久にこのまま夜は明けずに、刻が止まってくれればいいのに……
ラウルはそう願わずにはいられなかった。
◆◆◆
事が終わったあと、椅子には目を瞑ったまま項垂れているファビアンの姿があった。
彼はあまり痛みを感じずに済んだのだろうか?
普段は犠牲者の事なんて、これっぽっちも気にする事ないのに。
今回ばかりはいくら本能に任せても、自分のまだ残っていた人間らしい感情に支配されてしまう……
彼の姿を焼き付けるように見つめたあと、ラウルは部屋を出て扉をそっと閉めた。
そして、扉に寄りかかると、ため息を大きく吐いて俯きながらこう思っていた。
さようなら。ファビアン。君とはもう二度と会う事はないんだね、と。