13-1.邪悪なる者の目的
男が男を……だなんて。やはり都会は恐ろしい。
エルは先ほどの話ですっかり顔色を悪くしながら、背の高い窓から屋敷の庭がよく見えるホールへと戻っていった。
ホールには、長椅子に腰掛けているミカエルとラファエルがいた。
ミカエルは優美な装飾が施された嗅ぎタバコの箱を手にしながら、諦めはついたか。ザラキエルから大体何を言われたのか想像はつく、とニヤついた笑いをしており、ラファエルはだから言ったのにと大きくため息をついている模様だ。
ラファエルはカップに入った紅茶を飲む手を止めると、その件もありますがと言って、エルに向かってお小言を開始した。
「今回はお遊びではないのですから、連れていって貰えないのは仕方ないことです。相手をいかに喜ばせて、他の商人とも関係を上手く行くようにするのが主催の務めなんですよ。あくまでも主催は裏方に徹して、成功するように事を運ばなければならないのですから」
大体あなたは……と、さらにそれが続きそうになったため、見かねたミカエルがまあまあとエルも気落ちしてるんだからその辺にしてあげよう、とラファエルを止めさせた。
「この子が心配だからこそ、そう言いたくなる気持ちはよくわかる。あの方だって、そういう気持ちももちろんあるだろう。でも私はエルをいつまでも子供扱いするのは、それもどうかと思うぞ」
ミカエルは渋い声で、何年か後にはこの子だってユリエルの支えにならなければならないのだから。
ある程度の振る舞いや嗜みを教えてやらなければ、と言った。
「なあ、エル。だから今度村に戻って、ごく身内だけで狩猟を行ってみよう。領主だって我々がやりたいと言ったら快諾してくれるはずだ。なんなら、自分も参加するっていうだろう」
さらにミカエルは長椅子から立ち上がり、エルの肩に腕を掛けて
「あと次いでに最近歓楽街の方に良い女が現れたらしいから、今度連れて行ってやる」
と耳打してきたため、エルは先ほどの表情をガラリと変えて、両手を挙げて喜んだ。
むしろ、狩りよりもそっちの方に行きたい。
なんなら今日の晩にでも連れて行ってくれないか、とミカエルに頼み込むほどだった。
「コホン。それは結構なことですが、あまり女性面で派手なことをしていると、クリスティーヌの耳にも入るんじゃないですかね」
まったく、すぐ調子に乗る。とでも言いたげに、軽く咳払いしたラファエルからそう釘を刺されると、エルは目を瞬かせて姿勢を正した。
◆◆◆
それから所用を済ませたあと、エルは暇になったので自室に戻る事にした。
あとは何しようか。このまま昼寝でもするか、馬でも乗り回しに行くかと考えたが、ふと部屋の隅に置かれていたヴァイオリンのケースが目に入った。
そうだ。久しぶりに弾いてみるか。
そう思った彼は、ケースをテーブルに置いて開けると、ヴァイオリンの微調整を始めた。
愛器を手にして窓辺に立ち、構えて弓を弾く。
彼が選曲したのはヨハン・ゼバスティアン・バッハのG線上のアリアでもなく、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ・パルティータ第2番 (いわゆるシャコンヌ)でもなく、2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調だった。
この作曲家は過去の人物として、世間ではとうに忘れ去れている。
しかし、エルにヴァイオリンを教えてくれた師が、この作曲家を時代遅れだと言うなんてとんでもない! 自分は愛して止まないと言うのに!
小川などではなく大海だ! 宇宙だ! 神の領域だ! なぜ世間は理解しようとしないのだ! と拳を握って振り上げながら毎度大絶賛しており、色々な曲を彼に教えてくれたのだ。
最初の音を気持ち強めにし、まるで歌うかのように奏で始める。
低音部は囁くように、高音部は喜びを表すかのように。
リズムは人によってはゆっくり奏でる事もあるが、彼は少し早めのテンポでいくことにしたようだ。
そして、最後の転調部に行くと、先ほどよりもより一層強めに音を出して第一楽章を弾き終えた。
だが、演奏したあと、彼はため息をついた。
この対位法を用いた美しい曲は、やはり一人だけで弾くのは曲に厚みがないし、立体感がでない。
二台で奏でれば、音は螺旋のように上下し、追いかけながら溶け合うように交わり、かと思えば光が雨となり降り注いでるようにも感じるこの曲。
どちらかが主役や脇役、光と影ではなく、二台がそれぞれ主役となるこの曲。
二人で今度一緒に弾いてみよう。
そんな話をしていた矢先、自分はラウルに対して事件を起こして逃げるように田舎に帰り、彼が尋ねてきた時には、また同じ事をするかもしれない恐怖で冷たく追い返してしまった。
それ以来、ラウルはこの屋敷に戻ってくる事は無かった。
一体、今どこで暮らし何をしているんだろう。
どうか、無事でいて欲しい……
ラウルの事を思い出せば、毎度のことだがそう願わずにはいられない。
思いを馳せるように外を見つめたエルは、穏やかな第二楽章には手をつけずに、もっと激しい曲を弾こうとヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲 第四番「冬」を演奏しようとした。
ところが、なぜか狩りに向かったはずの馬車の列が戻ってくるのが見えた。
戻ってくるには早すぎる。
どうしたんだろうとエルはヴァイオリンと弓をテーブルに置き、駆け足で階段を降りて玄関へと向かった。
馬車からは、珍しく機嫌が悪そうにしているアーロンが先に降りてきて、慌てて出迎えた執事に対してすぐに出かけると言ってどこかに行ってしまった。
続いてザラキエルが降り、彼に手を添えられてハンカチを口元に当て、顔色を悪そうにしているクリスティーヌが降りてきた。
エルは彼女達の元に急いで駆け寄り
「急に戻ってくるなんてどうしたんだ? クリスティーヌは具合が悪そうだけど」
と、声を掛けた。
すると、彼女はごめんなさい! 私の口からはとても言えないのと言って、最後に馬車から降りてきた侍女のジャンヌと共に自室に行ってしまった。
一方、ザラキエルはやれやれと言った表情をしている。
まさか……と思ったエルは、ザラキエルに
「おい! まさか行く前に話してた変な将軍にクリスティーヌが手を出されたとかじゃないよな?!」
と、彼の胸ぐらを掴みそうな勢いで叫んだ。
「まあ、そう怒るな」
彼はそう言って、冷静にエルに向かって落ち着けと諭した。
「彼女がショックを受けたのはそのせいではない。私が代わりに話そう」
ザラキエルはエルの他、何事だと集まってきたミカエルとラファエルにもホールの長椅子に座るように求めた。