庭園ドミノ
インターフォンを押す。
「こんにちは、倒山です」
「あ、倒山さん。はいはーい、今行きまーす」
返答のあと少しして、玄関の内部で靴をこするような音が聞こえた。それに犬の鳴き声も。ほんとにいるんだ、犬。
玄関の扉が開く。
「ウォンっ」
という鳴き声とともに、柴犬が私の胸に飛び込んできた。本物の犬だ。かわいいかわいいかわいい。毛色は明るい茶色。鼻をくんくん言わせて私の鎖骨のあたりを匂ってくる。柴犬は首の下をなでてやるとふやけた顔を見せた。
「こらっ、ムギ。いきなり飛びかかるなんてダメでしょ」
「いいの。名前、ムギって言うんだ」
ムギ、ムギと名前を呼びながら体中を撫でまわす。ムギの毛並みはおどろくほどなめらかで手に気持ちいい。
「家の中で飼ってるんだ?」
「そうだよ。ウチの庭、あんまり広くないし、それにムギは暑いのも寒いのも苦手だからねー。夏は扇風機の前に陣取るし、冬は炬燵の中で丸くなるし。あ、でも、どんなに暑くても寒くても、散歩には絶対行こうとするんだー」
並川さんがそう言うと、さっそくムギが吠えだした。
「え? 散歩? 今から?」
「私は別にいいけど」
というか行きたい。
「よしじゃあ行こう」
慣れた手つきでムギの首に首輪をつける並川さん。
「せっかくだから、倒山さんが持ちなよ」
私はうなずき、リードの輪の中に手を通す。玄関の扉が開く。瞬間、ぐんっと引っ張られた。ムギが駆けだしたのだ。私はよろめきながらついていく。電柱から電柱へダッシュするムギ。閑静な住宅街を抜けると、河川敷に出た。市を二分する大きな川が、水面に陽光を反射させては、絶え間なく流れている。河川敷を吹き渡る春風が甘い。なんて平和な日曜の午後だろう。私は時々立ち止まり、しゃがみこんでは、ムギの顔を撫でてやる。
「倒山さん、ほんとに犬、好きなんだね。倒山さんチも何かペットとか飼ってたりするの?」
「ううん。何も飼ってない。ウチ、ペットとか禁止だから」
「誰か家族に動物アレルギーの人とかいるの?」
「いない。でも禁止。絶対ダメ。特に走り回るような動物は」
「なんで?」
「とにかくダメなの」
「ふーん」
納得しきらない様子の並川さんがうってかわってとびきりの笑顔を見せた。
「なんか興味出てきたかも。今から倒山さんチ行っていい?」
「はあ?」素っ頓狂な声を出してしまう私。
「ムギも行ってみたいよね、倒山さんチ」
口で息をしながらしっぽを振るムギ。
「ダメ」
「どうしても?」
「どうしても」
「じゃあもうムギには会わせない」
「え?」
並川さんは私からリードを奪い取ると、
「ここでムギと別れるのと、一緒に倒山さんチに行くの、どっちがいい?」
といたずらっぽく笑った。
「ひ、卑怯よ。それに卑劣」
「じゃあ交渉決裂ってことで、帰ろっか、ムギ」
歩き出した並川さんの手首をつかむ。
「そっちじゃない。私の家はこっち」
「やったー。ムギ、いいって。家まで案内してくれるって」
私はため息をつく。もうどうにでもなれ。
河川敷から橋をわたり、大通りを外れてなお進むと、だんだんと古い民家が増えて来る。木塀が延々とつづく、石畳の古風な通り。とある門の前で足を止める。表札を見て並川さんが声を上げる。
「ここ?」
「そう。でも今日は表からは入らない」
「なんで?」
「ウチ、ペット禁制って言ったでしょ」
屋敷の裏に回り込む。赤く錆びついた鉄門を軋ませて忍び込む。
並川さんからリードを受け取り、ムギに言い聞かせる。
「いい? 走り回ったりしたらダメだからね」
途端、ムギは「ワンっ」と吠えて走り出した。ものすごい力でぐんぐん引っ張られる。
「うわっ、ああっ、ちょっと、まっ」
引っ張られるままに庭まで来てしまった。
「うわー、立派な日本庭園。ってえ?」
素っ頓狂な声をあげ、庭を指さす並川さん。
「何? ドミノ? ドミノだよね、これ。すごい。ドミノがたくさん」
なだらかな起伏をおりなす苔の上に並ぶ薄緑色のドミノ。飛び石の上にも、石灯籠の笠の上にも、池の中にも、ドミノはあり、総計数千を超える数のドミノ牌が庭に立ち並んでいる。
「これ全部倒山さんが並べたの?」
「お母様とおばあ様と一緒に並べたものよ。ウチはドミノの大家だから、家中の到るところにドミノが並んでる」
「へー」
ぐるりと辺りを見回して、並川さんは無邪気な瞳を私へ向ける。
「いつ倒すの?」
「は?」
「この庭のドミノ。いつ倒すのかなって」
「倒す予定なんてないわ」
「ドミノって倒すために並べるんじゃないの?」
「一般的にはそうかもしれないけど、ウチのは違うの。あくまで観賞用」
「ふーん」
そのとき、鹿威しがコンッと鳴った。その音にびっくりしてムギがあらぬ方向へとダッシュした。叫び声を上げる暇もなかった。ムギは苔むした庭に突進し、ドミノを蹂躙した。リードを全力で引いてムギをドミノが並んでいない安全地帯へと引き戻す。が、今もドミノは倒れて行ってる。
「な、並川さん、ドミノ、止めて」
「わ、わわわ」
並川さんが倒れていくドミノを追いかける。ドミノを止めることに慣れてないから追いついてもうまく止めれない。何度かトライし、ようやくストップをかけれたときには、庭園ドミノの三分の二は倒れてしまっていた。
「ごごごごめんなさい。ほら、ムギも謝って」
私は深いため息をつく。
「こういうことになるから、ウチはペット禁止なの」
「家の人に見つかったらまずいよね」
「元に戻すのは私がやっておくから、今日はもう帰りなさい」
「私も並べるよ。飼い犬のしでかしたことは、飼い主の責任だもん」
正直、足手まといでしかない。でも、並川さんはドミノ部に入ったんだし、これも練習になるか。
「わかった。ちょっと待ってて」
庭の外れにある蔵に入り、ほこりをかぶった箱の中から庭園ドミノの設計図を取り出し、並川さんのもとに持っていく。黄色く変色し、ところどころ虫に食われた紙の設計図と庭とを交互に指さしながら、どこにどうドミノを並べていくか、説明する。
「了解。じゃあ私、あっちから並べていくね」
「じゃあ私はあっちから。わからなくなったら呼んで」
「オッケー。あ、ムギはここに縛りつけとくね」
そう言って並川さんは縁側のそばの柿の木にリードを巻きつけた。
ムギと少し戯れてから、私はドミノの復元にとりかかる。庭の奥の方から屋敷に向かって素早く正確に牌を立て直していく。倒山家に生まれた者はドミノを極める運命にある。十四歳までひたすら修行を積み、十五歳でようやく人前でドミノを並べることができる。雨の日も雪の日も台風の日も、私はドミノを並べてきた。でも、失敗した。日の目を見るはずの大舞台で。ドミノはもうしないと決めた。なのに今、ドミノを並べている。
「おーい」
並川さんが手を振っている。コースがわからなくなったか。それとも何かアクシデントが発生したか。私が歩き出そうとした瞬間、並川さんは言った。
「けっこう並べたよー、そっちはー」
「別に。まあまあよ」
「え? なんて」
「まーあーまーあって言ったのよ。無駄口叩いてないでさっさと並べなさいよ」
「はーい」
ほんとに変な子。並川七実。呑神狂鳴は、やたらと並川さんを評価しているようだけど、私から見れば並川さんのドミノは凡庸そのものだ。何も光るところがない。
さて、と。この辺りの復元は終わった。次は池の周りをやろう。並べる、並べる、並べる。単純作業に耐えるために私は心を冷たくする。何も考えないようにする。無心になる。機械になったつもりで、淡々と並べていれば、いつかは完成する。だからそれまで、心を殺して並べつづける。
「おーい」
「もうっ。なによっ」
「楽しいね」
並川さんはそんなことを言った。
「ドミノは楽しくなんてないわ」
私はそう呟いてドミノを並べる作業へと戻った。ドミノが楽しい。そんなわけない。並川さんはどうかしている。ドミノはただ辛いだけの作業だ。ひと段落ついたところで、並川さんの様子を見に行く。腰を低くして石灯籠の周りにドミノを並べている並川さん。私が近づいても集中は揺らがない。一牌ずつ丁寧にドミノを並べていく。けど、それだけだ。技術はたいしてない。根気とひたむきさがあるだけ。それでは選手権で勝てない。私もその場にしゃがみこみ、並川さんが並べたドミノをミリ単位で動かし、きれいに見えるように整える。
「あ、倒山さん」
「あなたはそのまま並べていって。整えるのは私がやるから」
「自分ではきれいに並べたつもりだったんだけど、やっぱり見る人が見ればゆがんでた?」
「うん。でも、あなたはまだ初心者だから、今は見栄えよりも数並べることの方が大事だと思う」
「はい、師匠」
「師匠じゃない」
「何と呼べば?」
「これまで通り倒山さんって呼んだら? 知らないけど」
一呼吸間があり、
「うん、そうする」
と並川さんはドミノ並べを再開した。
時々、指の震えや爪先が当たったりしてドミノが倒れることもあった。そのたびにまた並べ直す。お茶を淹れてきて縁側で休憩したりもした。でも、ほとんどの時間、私と並川さんは、二人で、ドミノを並べつづけた。時間はあっという間に経ち、春の空が夕暮れてきた。
鹿威しが鳴った。
「一花、そちらの方はお客様?」
縁側から冷ややかな声が放たれた。見ると、着物姿のお母様が立っていた。
「はい。高校で知り合いました、並川さんです」
並川さんがあわてて頭を下げる。
「お邪魔してます。並川七実です。えっと、倒山さんの友人? です。多分」
「そちらの柴犬は?」
「わーっ。すみませんすみません。ペットダメだって倒山さんはちゃんと言ってくれたんですけど、私が無理言って入れてもらったんです。庭のドミノまで倒しちゃって本当にすみません」
「そんなに謝らなくてもいいのよ。でも、もう日が暮れてきたから、お帰りになられた方がいいかもしれないわ。帰りが遅くなると親御さんが心配なさるといけないし」
「はい、そうします。あ、でも、まだドミノが――」
「ご心配には及びません。あとは私がやっておきましょう」
そう言うとお母様は草履をはいて庭に出てきた。腰を落とし、低い姿勢になって滑るように移動しながら、ドミノが倒れている場所を撫でていく。すると音もなくドミノは起き上がり、直立する。お母様なら五分もしないうちに庭園ドミノを元の完璧な状態に戻せるだろう。
「行きましょう、玄関まで送るわ」
「う、うん。お邪魔しましたー」
「またいらっしゃい」
お母様は薄氷のような笑顔を浮かべてそう言った。そしてすぐに倒れたドミノを撫で立たせ始めた。
表玄関で、ムギのリードを並川さんに返した。
「今日は楽しかった。ありがとう」
「いや、こっちこそだよ。あ、ていうか、大丈夫? 倒山さん、あとであのお母さんに怒られたりしない?」
「大丈夫。あの人、説教長いタイプじゃないし、そもそも最近は会話らしい会話もしてないし」
「ふーん。あ、そうだ。今度はウチ来て。家の中でムギがどれだけ暴れてるか、見せてあげるから」
「うん。ムギ、じゃあね」
手を振ると、ムギはしっぽを振った。
「それじゃ、私たち、そろそろ行くね。今日はほんとにありがと。また明日、学校で」
うなずいて、並川さんとムギの影が小さくなるのを見送る。
ふと、並川さんが振り返り、足を広げて叫んだ。
「またねー、一花ちゃーん」
それだけ言うとすごい勢いで走り出し、すぐに曲がり角に消えてしまった。
「バイバイ、七実」
一人呟いて家に戻る。庭のドミノは以前よりも美しく並べられていた。が、あと一牌足りないような気もする。やっぱり足りない。池のそばにたたずんでいたお母様がこちらを振り返り言う。
「愉快な子だったわね」
「すみません」
「いいのよ。高校で友達ができたのはいいことだわ。あなた、学校のこと何も話さないから心配だったけれど、少し安心したわ。そうそう、青龍高校にはたしか、選手権を三連覇した呑神狂鳴さんがいらっしゃるわね。もう会った?」
「はい」
「部活はどこに入るかもう決めたの?」
「いえ」
「そう」
お母様が歩いて来て、私の手にそっとドミノ牌を一つ握らせた。
「庭園ドミノの最後の一牌よ」
「これを置いて完成させろと?」
うなずくお母様の圧力に押し出されるように私は庭の中を進み、飛び石の上にしゃがみこみ、苔の上に牌を置こうと手を伸ばす。なんてことはない。ただ一牌置くだけのこと。なのに、腕が、手が、指先が震えてくる。このまま置いても倒れるだけ。置けない。最後の一牌が、どうしても。
お母様のため息がかすかに聞こえたそのとき、すり足の音とともにおばあ様が縁側にやってきた。
「夕飯できたよ」
おばあ様は目じりを下げて言う。
「一花ちゃん、それは私がやっといてあげるから、食卓の準備お願いできるかい?」
「はい。お願いします」
私はしずしずと戻り、おばあ様に牌をわたした。その場を去ろうとした私にお母様は言った。
「ドミノ部だけはやめておきなさい」
私は目を伏せ返事もせずに立ち去った。