煙
ふー…。
深呼吸をするかように、絢香は白い煙を吐き出した。
年々、喫煙者にとっては肩身の狭い世の中になっていると感じる。その後ろめたさも手伝ってか、“同類”しか集まらない喫煙所の居心地の良さは、時と共に増すばかりだ。
しかし困ったことに、今は真冬なのである。
ここの喫煙所は屋外だった。凍えるような寒さと天秤にかけて、それでも煙草を取ってしまう自分に対して、呆れる気持ちがないと言ったら、嘘になる。
それでも、今の自分にはこの時間が必要なのだと、絢香は痛いほどに感じていた。
…東京の寒さは独特なのだと、“彼”から聞いたことがあった。いわゆる寒冷地のそれとは異なり、“嫌な寒さ”なのだと、彼の人は言っていた。
絢香は東京以外の土地に住んだことはないが、寒冷地出身の人間が口を揃えて「東京は寒い」と顔をひそめながら言うところを見てきたので、その言葉に深く頷いたものだ。
みんなきっと、東京が嫌いなんだな。
「森本」
声がした方向に向き直ると、見知った顔が近付いてきた。
「お前、吸うんだな。意外」
「…坂下はいかにも“吸ってそう”な感じだね」
「見た目通り、素直でいいだろ。委員長?」
そう笑いながら、坂下は自分の煙草に慣れた手つきで火をつける。自分と同じように白い煙をゆっくり吐き出す姿を、絢香はぼんやりと眺めていた。
「高校の頃のお前が知ったら卒倒するんじゃない?なに、スレちゃったわけ?」
「別に、そんなことないよ。今も変わらず私は“優等生”ですから」
そう言って肩を竦めて見せると、坂下は大袈裟な程に眉をひそめた。
「うっわ。思ってたとしても自分で言うか?そういうこと」
「聞かれたから正直に答えただけだよ」
「”そんなことないよ”とか、普通、言わねえ?うわー、お前に対する印象変わったわ、今日で」
「…そうね」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ坂下を無視して、絢香は言葉を紡ぐ。
「人の想像力なんて、所詮その程度かもしれないね。…あの頃の私たちのうち誰が、樋口がこうなるって予想してた?」
絢香の言葉を聴いた坂下が、ふっと無表情になる。
彼へ言葉を放った刹那、淡い後悔が絢香の胸に押し寄せてきて、静かに目を伏せる。そして手にした煙草を吸い、深く、呼吸をした。
吐き出された白い煙が、空へと上ってゆく。
「どうして、死んじゃったんだろうね」
ぽつり、と絢香は呟いた。
「…お前が言った通りだろ。誰も予想してなかったようなことなんだから、理由なんか、誰にもわからない」
先ほどとは打って変わって、坂下が静かに答える。その顔は真剣というより、表情が読めないと表現する方が適切な気がした。
「そうだよね」
絢香は、短くなってしまった煙草を携帯灰皿へ押し付けた。備え付けのスタンド灰皿もあったのに思わずそうしてしまったのは、自分がそこそこのヘビースモーカーである事の証左である気がして、また微妙な気持ちになった。
…樋口には、こんな風に深く息ができる場所が、なかったのかもしれない。
でも、そんな想像に何の意味があるのだろう。
「…生きてるとさ」
絢香は、静かに沈黙を破った。
「歳を重ねるごとに、人との別れが増えていく。生きてる時間が長くなればなるほど、見送る回数がどんどん、増える。私はそれに、慣れない。慣れたくもないけど」
絢香は、新しい煙草を取り出したものの、火はつけずにそれを指で弄んでいた。
「毎回いちいち傷ついて、毎回いちいち思い悩む」
坂下は、今度は何も答えなかった。ただ、聞いてるよ、という雰囲気だけを纏って、自分の煙草をくゆらせていた。最も、それも話を聞いてもらいたいと感じていた絢香の、ただの思い込みかもしれない。
絢香がふと空を見ると、立ち上る一筋の煙を見つけた。それは、絢香や坂下が吐き出した煙のような頼りないものではなく、はっきりとした白線を描いていた。
高みへ、高みへ、白線が伸びていく。
…ねえ、樋口。
東京の空は、寒いでしょう。
返事のない問いを、空へ投げかける。
涙は出ない。しかし、心のどこかがひび割れたような鈍い痛みを、絢香はずっと感じていた。
手にした煙草に火をつけて、深く呼吸する。
…やはり、私にはこの時間が必要なようだ。
霧のような煙が、白線を引く煙に合流するように上ってゆく様を、絢香は静かに見つめ続けた。