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たかつきおにく(たんぺんのすがた)

進んだり、止まったり

作者: たかつきおにく

今年は寒冷化の影響で3月だというのに畑や公道に雪が積もっていた。

俺はガウンを羽織り、待ち合わせ場所であるいつものファミレスへ急いだ。何も珍しくない、黄色い看板が目印の全国区のチェーン店ファミレスだが、おいしいフレンチの一店舗もない郊外の町に収まるには十分であった。野菜畑を縫うようにできた公道を抜け古ぼけたファミレス店に入ると、学生、主婦たちのガヤに交じって底抜けに明るい声が響いた。

「山岡くん、こっち。もう、遅いよー」

彼女の松村友里が手をふってにっこりと笑った。

手を振るたびにセミロングの黒髪がふわりとゆれる。

「ばか、東京大学の合格発表まであと3時間もあるじゃないか」

「だってきんちょーして家になんかいれないよ、だいたい待ち合わせ時間決めたの山岡君でしょ?意地悪だよ」

松村が小さく舌を出した。手に持ったスマホには東京大学のサイトが映し出されていて、大学の先輩たちが母校を魅力的に語るページが映し出されていた。どうやら俺がくるまでの間に東京大学の下調べをしていたらしい、手元の女の子らしいファンシーな手帳には見学したいクラブや大学周辺の美味しいランチの店が細かくチェックされていた。


東京大学は東京にある最難関の有名国立大学だ。東京大学への入学は小さいころからの俺の目標だった。俺は小学校から優等生で通ってきた。模試だってA判定を落としたことはなかったし、スポーツにも打ち込んできた。恋愛だってそうだ。妥協することで俺が俺でなくなりそうな感覚がたまらなく怖かったのだ。

俺と松村は高校のテニス部で知り合って、付き合った。高2の秋のことだった。もともと勉強が得意ではなかった彼女に俺の志望校が東京大学であることを打ち上げると彼女も東京大学に志望校を定めた。それからは毎日放課後にファミレスで勉強をつづけた。校内で中の下であった彼女の成績もみるみる上がり、新学期の進路志望で彼女の志望校に懐疑的だった担任に冬の模試のA判定を突き付けたときには2人で涙を流して喜んだものだ。


そこからは俺と松村はちょっとした思い出や大学生活のことなどを話し合って、緩やかに運命の時を待った。

今の合格発表では昔のように掲示板の前に立つ必要がない。スマホから特定のサイトに自分の受験番号を記入すると合否がわかるのだ。

二人でスマホに東京大学の合格発表ページを表示して机の上に置いた。

「私、受かってるかな……」

彼女のまっすぐな瞳が俺を見つめていた。不安からかスマホを持つ手が震えていた。

「ねえ、私が不合格だったとしても一年待ってくれる?」

「二人で合格しようって誓っただろ、俺は友里がどんなに努力してきたか知ってる。きっと結果は裏切らないよ」

俺は思わず口を開いた。

「そうだよね、ありがと……結果見よっか」

松村が強がりの笑顔を見せた。


「3・2・1、せーの」

カウントダウンに合わせて更新ボタンを押すと画面が切り替わり、結果が表示された。


俺のスマホに映し出されたのは冷酷にも‘不合格’の三文字だった。

理解が追い付かず頭が熱くなった。視界はぼやけ、胸中に様々な感情が渦巻く。

「なんで……」

反射的に肺に残った空気を押し上げかろうじて現実に抵抗すべく言葉を吐き出すが、吐き出された言葉はあまりにも弱弱しく小さかった。


「山岡君、私受かったよ!!」

自身の合格を確認した彼女の嬉しそうな声が数コンマをくれて聞こえたが、まるでどこか遠い国の言葉のように聞こえて、理解までに少し時間を要した。

「うそ…なんで山岡君が…」

俺の自失茫然とした状況を察した松村が声をかけたが、なにも聞こえなかった。いや、聞こえていたが理解したくなかったのだろう。

俺の手に何かが触れる感触があった。

「私、1年間待ってるよ。山岡君」

涙を溜めた瞳が俺を見据えていた。そうだ、松村はどんな時でもひたむきで優しい女の子だ。

そして俺はこの彼女の性格に惹かれて好きになったんだ。

「ありがとう」

気が付けば俺は泣いていた。

色んな感情がまじりあって、心から出た感謝の言葉は熱を帯びていた。

そしてそれを確かめるようにもう一度、小さく、ありがとう。と呟いた。


俺は地元の予備校に通うことになり、松村とは長距離恋愛の関係となった。

俺と松村は毎日ラインのやり取りをした。話す内容はお互いの近況、思い出話と様々だった。松村はテニスサークルに入部したらしく、リアルな大学生活を詳細に語ってくれた。彼女の話は俺の大学への興味を一層に掻きたてた。

5月の連休時、勉強がひと段落したので俺は東京へ日帰り旅行に行くことにした。東京大学の下見と彼女に会いに行くためだ。

俺は夜行バスに揺られながら東京を目指した。

夜行バスの終着駅は東京駅だ。そこで彼女と合流してから東京大学を案内してもらう予定だった。しかし松村は待ち合わせ時間になっても現れなかった。

ラインを確認するとメッセージが一件。

『ごめんねー、ちょっと遅れるかも_(._.)_』

俺は東京駅の中央にあるベンチで待つことにした。はじめこそ英単語帳で時間をつぶしていたがしばらくすると単語にも飽きてきたので、悪趣味だが東京駅に出入りする人間を観察することにした。

都会だけあって人の往来はすさまじい。出勤する会社員、学生、派手な格好をした若者から老紳士風のお年寄りまで様々だ。

しばらく眺めていると駅から等間隔ごとに同じ人間が出てくることに気づいた。誰かが駅で迷ってしまい同じところをぐるぐると回っているのだろうか? そんなことを考えているとスマホのラインが鳴った。確認すると彼女が駅に着いたとのことだ。俺が自分のいる場所を説明すると、松村の白いフィットは俺を見つけたらしくロータリーを転回しゆっくりと俺の前についた。

「もっと早く来られたらよかったんだけど、渋滞にあっちゃって」

車に乗り込んだ俺に松村が弁解するが、陳腐な言い訳と彼女の悪びれの無い物言いが少しいら立った。

「なあ、遅れるにしても限度があるだろ? 1時間も遅れんなら連絡して来いよ」

「そんなこと言ったって私だって忙しいの、今日だってテニスの練習休んで山岡君に付き合ってんだから」

「そんなこと理由にならないだろ」

「はあ? 私車出してるし、感謝されど避難される筋合いはないと思うけど?」

明らかにいら立っていた、お互いに押し黙る。平行線だ。

「……ごめん、強く言い過ぎたな」

「ごめん、私も言い過ぎた」

そして、間をおいてからの謝罪。心からではなく、この場面は形式的に謝ったほうがいいのだろうという打算からの行動だ。

再び訪れた沈黙に誰かのため息が車の中で聞こえた。

車の中はお世辞にも奇麗といい難く、お菓子の袋が乱雑していた。バックミラーをのぞくと俺に指定席を奪われ後部座席に雑に放り投げられた巨大なぬいぐるみが俺を恨めしそうににらんでいた。

それから松村の案内で東京大学を案内してもらった。

講堂、研究室を一通り回って、スポーツ施設についたとき、松村を呼ぶ声があった。

「ごめん友達に呼ばれちゃった。ちょっと待っててね」

松村はテニスコートの方へ小走りでかけていった。

「ねえ、あれ誰?」

「私の彼氏、ほらこの前大学を案内してほしいって連絡があったって話した……」

「へー彼が例の? 思ったより地味系。友里ってもっと派手な男子が好みだと思ってた」

「えーもー、里沙、冗談辞めてよ~」

「てゆーか、佐野先輩に雰囲気似てない?」

「ちょっとわかるかも」

松村とその同級生の笑い声が聞こえたとき、俺はあれだけ楽しみにしていた大学見学を終わらせて今すぐこの場から消えてしまいたい衝動にかられた。


遅めのランチは松村が予約してくれた大学の近くのフランス料理店で食べた。

地元にはおしゃれなフレンチなんてなかったので地元のファミレスとどうしても比較してしまう。

看板一つとってもそうだ。なにかの流木を流用した洗練された意匠を見ると地元でよく見る黄色くてテカテカした看板を思い出してため息が出る。

店内に入るとカラランという音とともに小気味よいジャズがあふれ出した。背の高い店員に案内されて俺と松村は日差しの当たる二人掛けの席に腰かけた。


「それにしても、お前垢抜けたよな」

「ん、そうかな? メイクも特に変えてないし、このコーデだってみんな来てる服だよ」

「そうか?」

「そうだよ(笑)むしろ山岡君の服装ってちょっと芋っぽいよ。東京じゃ浮いてる」


小皿に盛られたスズキのムニエルが運ばれてくる。ほのかに酸味のかかったソースと絡ませて口へ運ぶとするりと喉を通った。

「うん、美味しい」

「よかった! そうだ、この白ワインと一緒に飲んでみてよ。この前先輩に魚料理に合うお酒なんだって教えてもらったの」

でね、リブに合うワインはこれ。と、ジュースしか飲めなかったはずの彼女がアルコールメニューを指さして、楽しそうにフレンチに合うお酒のうんちくを語っていた。


続けて、シュリンプサラダが運ばれてきた。ぷりぷりとした触感に自然と手が進む。

松村はお冷を一口飲むと、事無さげに言った。


「吉井和哉君、覚えてる?」

少し時間を要したが、頭の中の人物図鑑と照らし合わせ思い出した。身長が低くて、いつもおどおどしていた暗い感じの子だったはずだ。詳細に思い出そうとするがモヤがかかる、どうも彼に関する記憶は薄い。

「確か小学校の同級生にそんな子がいたな。それがどうした?」

「吉井君大学のゼミで一緒なのよ。この前、山岡君の通ってた小学校の名前が話にでて地元トーク盛り上がっちゃった」

「そうなんだ」

「何、山岡君妬いてる?」

「ちげーよ」

急にほかの男のことを嬉しそうに話す意図もわからなかったし、なぜ妬いてるかなんて聞いてくるのかもわからないし考えたくもない。

適当な相槌を打ったが、正直この話題は深堀したくなかった。


ティラミスが運ばれてきた。ウエハースの飾りとミントを添えて、上から織り込むようにヘーゼルナッツのソースを絡ませていた。

サービスでコーヒーか紅茶が付くというので、俺と松村はコーヒーを頼んだ。

繊細な工芸品のような見た目だが、口に含むとほろほろと崩れビターな甘さが広がった。コースの締めにはもってこいだ。

「ねえ、このティラミス、地元のと全然違うでしょ」

松村が興奮気味に身を乗り出した。

「お前、昔からスイーツ好きだもんな。俺も美味しいと思ったけど、そんな違うもんなのか?」

「山岡君、一概にスイーツといっても色々だよ。フレンチのデザートはメインじゃなくてあくまで引き立て役なのよ。つまり、甘いだけじゃダメ、全てを引っ張て行く大人の苦さが必要なの」

「…そんなもんなのかな」

「そうだよ、全然違うよ」


フォークを使ってティラミスのかけらを口に運んでいく、ほろ苦い甘さを味わいながら、俺は唐突に確かめてみたくなった。

「なあ、俺が大学落ちた時お前がしてくれた約束って覚えてる?」

「当然でしょ。私、ちゃんと山岡君のこと待ってるよ」

松村は条件反射じみた速さで言って、最後のティラミスの一かけらを頬張った。


東京観光を経てから俺と松村のラインのやり取りは自然に減っていった。特に喧嘩をしたわけではない。前みたいに話が弾まなくなった。話すことがあっても未読のまま放置され、返信に数日を要することもあった。


夏も終わりに近いていたある日、俺はいつものファミレスで勉強に励んでいた。

平日の塾終わりに浪人仲間数人と通うのがほぼ日課だったが、休み期間になるとは集まりが悪い。ラインの謝罪メッセージを流し読みし、今日集まる浪人仲間は誰もいないことを確認して、一人ため息をついた。

「山岡君、久しぶり」

ふいに声をかけられた。

顔を上げるとツーブロックの顔立ちの整ったイケメンがこちらを覗いていた。

「えっと……」

「俺のこと誰だかわかる?」

こちらが返答を逡巡していると相手が名乗った。

「吉井和哉、小学生の時同級生だった…」

吉井和哉、どこかで聞いた名前だった。

「わー、久しぶり。吉井君めっちゃ雰囲気変わったな」

「山岡君は全然変わってないな。ファミレスに入ってすぐに気づいたぞ」

「そうか?」

お決まりのやり取りを挟んで吉井は言った。

「なあ、山岡君が良ければ同席していいか?」

「ああ、いいぞ」

ごそごそと広げていた参考書を端に寄せ一人分のスペースを作った。

本音を言えば松村のことで警戒していたが、彼の口調から敵意は感じず純粋に再開を喜んでいるようだった。そうなるとこちらが一方的に拒絶するのも申し訳ない……と思った。

「なあ、聞いていいか」

「なんだ?」

「どうして急に俺に会いに来たんだ?」

「なんていうか、山岡君に会いに来たというよりは昔の知り合いに来たというのが正しいかな」

吉井は少し考えるようなそぶりを見せて言った。よどみない言い方から基となる原稿を相手に合わせて頭の中で校正していたのだろうか。

「どういうことだ?」

「大学っていうのは人生の一つの節目だろ、大学生になって自分の人生に一区切りがついて漠然と将来のことを考えたとき、過去っていうか自分の痕跡みたいなものを再確認したくなるんだ。そうすると色んな知己に会って色々話すのが手っ取り早い」

「そんなことしているのは吉井君だけだろ」と俺が言うと、「そうかもしれない」と彼は笑った。

「ところで山岡君はお酒飲める?」

「強くはないけど、付き合って飲むくらいなら」

互いにアルコール類を頼むと、自然と会話が弾む。お酒のつまみに同級生の近況を聞くのはたのしく、勉強のことを忘れて懐かしい話にふけった。


吉井は地元の中学校に進学、家の都合で高校には行けなかったが通信高校で認定を取得、バイトを掛け持ちしながら勉強の末、大学に進学したらしい。

俺が「苦労したんだな」というと、吉井は「別に悪いことばかりじゃないさ」といった。


「松村から聞いたから会いに来たのか?」

「そんなとこだ、帰省がてら会いやすかったのもある。ホントはアポ取るつもりだったんだが、何となく店に来たら見つけてしまったんだ。運が悪かったと思ってくれ」

吉井の枝豆をむさぼる手が危なっかしい軌道を描く、だいぶアルコールが回ってきているようだった。

「正直いうと俺は小学生のころ山岡君にあこがれてた」

「なんだよ、男に口説かれるのは好きじゃないぞ」

「本心だよ、‘あの頃’の山岡君は勉強もできたしドッジも強かった」

吉井が口の端をあげて、軽薄な笑みをつくるのを見た…気がした。

大学見学の時の嫌な感情を思いだして、慌ててジョッキのチューハイをあおる。


「ところで松村さんとはまだ付き合ってるのか?」

唐突に話を振られた。

「なんでそんなこと聞くんだ?」

「大学じゃ聞かないんだ、彼女から山岡君の話。それに君も彼女の話をしていない」

俺はこいつと話したことを後悔しだしていた。鼓動が早くなる。

できるなら吉井が何か喋る前に、一方的に勘定を済ませて店から飛び出したかった。

だが遅かった。


「つまり…、もう好きじゃないんだろ? 彼女のこと」

瞬間、自分の胸の中に閉じ込めていた何かがドロリと落ちていった。


限界だった。家に帰った俺はたまらなくなりメッセージを送った。

『話したいことがあるんだけど、時間いい?』

『なに?』

ここ数日未読だった幾つかのメッセージが一気に既読に変わり、俺は思わず苦笑した。


「俺たちもう別れない?」

「そっか…うん、わかった…」

松村は特に否定したり、慌てたりするそぶりを見せなかった。スイッチを切れば明かりが消えるといった、当然の事実を再確認したような冷静さだった。

永遠に思えるほど長い数秒の沈黙のあと松村が言った。

「私って…ずるいよね」

カチンときて、イヤミの一つ言ってやろうかと思ったが言葉が胸につっかえたまま出てこなかったので、何も言わず通話を切った。


ベッドに身を投げ出す。

頭も体も動かない。いっそこのまま地の底まで沈んでいけたらどんなにいいだろうと思った。

視線を天井から部屋の隅に移動させると、松村とのツーショットを張り付けたコルクボードが目に入った。何か言えよと言ってみたが、当然答えるものはいない。少しして誰かの舌打ちが聞こえた。


夕食の用意を告げられたので、しぶしぶリビングに向かうと俺を見たお袋がびっくりして、いたく心配してくれた。

事の成り行きを話すとお袋は俺に家から少し離れた場所にある納屋の掃除を申し付けた。納屋は10年前のトタン製の建物で、所どころ錆びているがまだまだ現役だ。これが結構な大きさで一人で事を済まそうとすると優に数時間かかる。

気が済んだら帰っておいでとのことだ。俺はお袋の配慮に感謝した。


換気のためにサッシを上げると、驚いた虫たちがゴソゴソと逃げていった。次に納屋の約半数の敷地を占める段ボールの整理だ。段ボールには簡単な用途と荷造った日付が記してある。俺がガキの頃の思い出の品や親父のコレクションの東南アジア風の置物のつまった段ボールを棚に上げ、作業机の下に入り込んだゴミや埃やらを一気にかき集める。数回繰り返したとき、運んでいた段ボールの底が抜けた。ガムテープの補強が弱かったのだろう。使い古した教科書やら当時流行っていたグッズやらが散乱した。しまった。と思いすぐに回収に向かったが、その中にカバーを付けたままのテニスラケット見つけ、ハッとした。高校の時に松村と買ったペアルックのラケットだ。


高校2年秋のことだった。県大会が近いのでガットを張りなおそうと町のスポーツ専門店に出向いた時だ。松村とは当時付き合い始めたばかりで、その頃何かにかこつけて二人で出かけていた。その店はキャンペーンをやっていて対象のラケットを2つ買うと幾分か安くなるということだった。いわゆるワゴンセールの類だが、付き合い始めで浮かれていた二人は同じデザインのラケットを2つ買ってたいそう喜んだ。

あとで分かったが通常、ラケットにはいくつか規格があって、買ったラケットは県大会の規定を満たしていなかった。当時の顧問に大目玉をくらった後、「このラケット、いつ使えばいいんだろうね」と二人で散々愚痴りあい、顔を見合わせてたくさん笑った。


俺はおもむろにそれをつかむと地面に思いっきりたたきつけた。何回かたたきつけているとポキリと音がして柄が折れ曲がり、そのままバランスを崩してへたり込んでしまった。

顧問がみたら確実に殺されるだろうな、そんなことを考えている自分がなんだか滑稽で可笑しかったので大声で笑おうとして、バカみたいな声で泣いていた。


その後、しばらく眠れない日が続いた。

俺はストレスで頭痛持ちになり、日中自分を非難する幻聴が聞こえ、稲妻のようなバチバチとした幻覚まで見えた。

自暴自棄になり自殺未遂を起こしたこともあった。

初めは心配してくれていた浪人仲間や友達も次第に気味悪がり次々と離れていった。


月日は流れ、あっという間に3月になっていた。

そして気が付けば東京大学に合格していた。

合格を知った両親は泣いて喜んでくれたが、俺にとって合格の事実はどこかの遠い国のニュースのようで当事者である実感がなかった。というのも思い返してもここ数か月の記憶がスッポリ抜け落ちて出てこないのだから仕方がない。

ただ、憑き物が落ちたかのように心の底から晴れやかな気分になった。

精神面で崩壊していた俺がそれでも勉強を続けていたのはほとんど執念のようなものだったのかもしれない。

しばらくすると幻聴や幻覚が収まり日常生活が戻ってきた。すると、俺が普通に戻りつつあると知った友人も多少戻ってきてくれた。


ある日のことだ。電車の中でスマホを見ていると、合格を機に何気なく開設したインスタグラムにダイレクトメッセージが届いていることに気づいた。確認するとあのクソ女からだ。ラインを拒否していたのでこちらにダイレクトメッセージを送ったのだろう。しぶしぶリクエストを承認してメッセージを見た。


『色々あって大変だったみたいだけど合格おめでとう。大学で会ったらよろしくね』


気になって彼女のインスタグラムを覗いてみると、彼氏とディズニーランドに行ったストーリーが投稿されていた。写っているのは吉井ではないのかと期待したがよく見ると全く知らない人だったので「お前は誰なんだよ」と呟いた。


しばらく彼女のインスタグラムを覗いていたが電車の乗り換え案内が聞こえたので、スマホを切って慌てて電車を飛び出した。

今日は快晴だ。駅に降り立つと線路沿いの桜並木が蕾を蓄えて風にふわりと揺れているのが見えた。

タイミングよく快速電車が入ってきたのでその勢いのまま乗り込んだ。このまま行けば目的地まで快速で5分とかからないだろう。

飛ぶように流れていく山や畑は次第に住宅街や商業施設へ変わっていく、そんな景色をよそに、俺は、そういえば自分が買いたいものは他になかっただろうか?と考えた。


なんたって今日は大きなデパートのある都市部へ向かうのだ。入学式用のスーツのついでに買っておいても損はないだろうから。


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