唐梅と砂漠蔵 「出して」
「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどういう意味であれ」
――「ピーナッツ」より。
ゴミが散乱している。
『電脳世界研究の最高峰、サイバーセカンドの提供する電子空間、同名サイバーセカンド!』
CMの音声が校内に響く。ゴミが散乱している。
『サイバーセカンドでは、実験に参加する先行被験者の方々を募集しています。参加したもっとも優秀な”コンビ”には賞金1億円!』
連日放送されているサイバーセカンドのCMだ。校舎の外壁にへばりつく大型モニターが、狂ったように垂れ流す。ゴミが散乱している。
『ゲームの世界観を表現した最新の電子空間で、君は剣士に、魔術師に、悪の覇者に、ヒーローになれる!』
目の前に立つ女子生徒は、こちらから目を離し、窓から覗くその映像に見入っていた。それにしてもゴミが散乱している。
「……君、出るのか。その実験」
こちらの問いには答えず、女子生徒は近くのゴミ箱を持ちあげた。頭上で逆さにされる。再びゴミが落ちてくる。
ゴミが大散乱するついでに、視界に濁った液体が垂れてきた。どうやら、メガネのレンズの内側を伝っているようだ。――ゴミの汁が。
「砂漠蔵さん……やめようよ」
女子トイレの入り口から、優しい声が聞こえる。砂漠蔵がそれに答える。
「うん……ごめんね。……すぐ終わるから」
派手な見た目とは裏腹に、砂漠蔵は穏やかに話す。
相手を選んでいる。視界の悪い中、彼女を見あげて静かに思う。
薄暗い、高校の女子トイレ。窓から差しこむわずかな光が、砂漠蔵の緩くウェーブした長い金髪に反射した。キラキラと光って、神々しくさえある。
対して自分はいつものように呼びだされ、女子トイレの壁際で砂漠蔵に追いつめられていた。黒髪に黒縁メガネ、黒い学ランを着た生真面目とからかわれる格好で、ただ座りこんでいる。
対照的な二人の生徒が、ゴミが散乱した女子トイレで一方は立ち、一方はゴミと仲よく埋もれている。これを見て「あれ」だと思わないものはいないだろう。他人事のように考える。
向こうには、怯えながらも勇気を振りしぼって止めに入ってくれたクラスの女子生徒たちの姿。
まさに「あれ」だと判断したのであろうクラスメートに、うずくまった姿勢のまま目配せする。大丈夫、というように強くうなずいてみせる。
ためらい、何度も振り返り、クラスメートは教室に戻っていった。
「……唐梅。あんた、何も言わなくなったね。……なんなの」
壁際に座りこみ、唐梅はじっと耐えるように膝を抱え、動かない。
二人きりの女子トイレ。窓から見える隣校舎のモニターからは、新しい世界を喧伝する音声が流れている。にもかかわらず、ここだけ時が静止したかのようだ。
ゴミが音を吸収し、停滞する世界で、砂漠蔵が長い爪を立て、金に艶めく髪をなで続ける。
「もっと切れてなかったっけ。前は。あんた、黙ってるタイプじゃないでしょ」
「……」
「さすがの”きまじめ”も疲れちゃった? 更生しろとかって突っかかってきてたけど、やっぱあんたでもキツいんだ? 私くらいの悪人になると」
「……」
「……それか、あれで私が変わるとでも思ったの? 残念だったね。いいことしたのに報われなくて」
「そんな理由でやったんじゃない!」
強く反論してしまう。はっとするが、砂漠蔵は動じていない。
砂漠蔵はあの日のことを言っている。だが、それじゃあまるで、この”じゃれ合い”をやめさせたいがために僕が砂漠蔵を救けようとしたかのような口振りじゃないか。それは気に食わない。
「続けろ、砂漠蔵。僕は平気だ」
うつむいた姿勢に戻り、ひざを抱える。強い意志のこもった声で告げる。
「ストレスでも孤独でも、ゴミでもなんでも僕にぶつけるといい。その様子じゃ、更生しちゃいないんだろう。君の家族」
「……。虐待家庭ってはっきり言えば」
きっ、と砂漠蔵をにらむ。それは、唐梅が絶対に口にも出すまいと決めている、おぞましい言葉の一つだ。絶対に口になど出すものか。
「やり方を変えるよ。君の家族が行いを改め、更生し、君が更生するまで僕がはけ口になってやる。ことにした。感情的になってもダメだとよくわかったんだ」
あの日の対応を振り返り、冷静に続ける。砂漠蔵もすました顔で聞いている。
「君は存外いい子だ、砂漠蔵。相手をちゃんと選んでる。誠実だとすら言っていい」
誠実、という言葉に反応したのか、砂漠蔵が少しだけ顔を歪めた。
「ぶつけたきゃ僕にぶつけろ。家庭のストレスでも、孤独でも、ゴミでもなんでも。僕は君のような孤独な生徒を救うんだ。これで君が救われるんなら――僕は一生相手してやる」
狂気的とも言える唐梅の目が、レンズの奥で光る。ゴミに埋もれ、異様な状況の中、それでも埋もれていない。
同じ生徒の立場でありながら、自分は違うかのようなことを言う。その目は、真面目な少年、などという段階の目ではない。
この底冷えた世界を知っている。しかし、何かを信じて疑わない。信じるもの以外のものなど見えないし、見るつもりもない。頑固な目。もはや盲目。
「どうした、砂漠蔵。やれよ。それで早く救われろ」
正義を盲信する瞳。それににらまれ、砂漠蔵の呼吸が止まる。反論が出てこない。
「やれよ」
「……」
「やれ」
「……」
「――やれ!!」
立ち上がり、唐梅が砂漠蔵のシャツを思いっきり掴んだ。
ビクン、と反応し、立ちつくしていた砂漠蔵が目の表情を変える。すうっと氷点下まで冷え、夜の砂漠の色に瞳が凍っていく。
学ランを掴み返し、唐梅を洗面台のほうへ強引に引っぱる。バラバラとゴミが落ち、砂漠蔵にされるがままに、唐梅は洗面台へ顔を突っぷした。
「出して」
「……えっ」
突然のことに、意味がわからず目を泳がせる。砂漠蔵が背中に抱きついてきて、細い腕が腹に絡みつく。
発言と体勢だけに、見るものによっては勘違いされそうな光景だ。しかし、生真面目な唐梅には思いもよらない。行動の意味を必死に考える。
砂漠蔵が腹の、胃腸が入っているであろうあたりを強く押さえ始めた。ぐ、ぐ、と長い爪に力を入れていく。
まさか。
理解した途端、あれだけゴミにまみれても平気だったのが、急に気持ち悪くなってきたような気がして、心底慌てる。
「ち、ちょっと待て、砂漠蔵!」
なんでもぶつけろなどと大見得切ったものの、砂漠蔵のこの新しい”じゃれ合い”にはさすがに抵抗感を抑えきれない。
「僕の昼食の内容を知りたいなら、教えてやる。そう、普通に! 教えてやる」
「出して」
「いやだから、何も出して見せる必要が――」
「あんたの吐くところ、見たいの」
ぎょっとする。
吐かせようとしているのは察した。が、予想外にシンプルな動機に、どう反応していいかわからない。
鏡に映った砂漠蔵の顔を見る。風のない、静かで冷たい夜の砂漠の目がそこにある。あの日から、何も変わらない砂漠の夜が。
「出して。早く。――出せ」
下腹部にひと際力が入る。うぐっ。爪に圧迫される腹。
ブチン。
腸が切れた音がした。いや、違うな。腸じゃない。これはつまり――堪忍袋の緒が切れた音。
「……さぁばくらああああっ!!」
これまでの高尚とも言える発言をさっぱり忘れ、唐梅が抵抗を始める。互いに押し合いの引っぱり合い。もみくちゃになりながら、砂漠蔵の細い体を力任せに押しこめる。
「僕が、僕が君のためを思って、今までの方針を変えてまで我慢してやってるってのにぃい!」
「変えなくていいし」
「この問題児が、いい加減更生しろおおおおっ!」
問題のある生徒がいたら、はっきり怒る。更生させる。それが唐梅の方針であり、性分だ。
しかし、砂漠蔵との過去の一件で考え直し、感情的になるのはやめようと決めた。――のだが、ばっさりやめる。感情的になることをやめることをやめる。
衝動のままに砂漠蔵を封じこめていく。男の力にはさすがに敵わないらしい砂漠蔵が、抵抗しながらも無力にうぐぐとこらえている。完全な形勢逆転だ。
「こらあ、何やってるんだ!」
「唐梅くん!? 君、いったい何して……!」
そこへ教師たちが駆けつけた。後ろにはさきほどの女子生徒たち。自分のために助けを呼んでくれたのか。だが、間が悪すぎる。
なぜならそこには、一見真面目そうな男子生徒が金髪の女子生徒を暴行しているという、ちぐはぐな図が繰り広げられていたからだ。これではどっちが問題児なのかわかったもんじゃない。
「し、しまった!」
何がしまっただ、何が。これで完全に悪いのは僕に見えてしまうではないか。ついて出る自分の口を慌てて押さえこむが、明らかに遅い。
「君たち、ここでいったい何を」
「……別に。私が呼びだしたの。見たらわかるでしょ。”あれ”だよ、”あれ”」
砂漠蔵が髪をなで、乱れた服を整えながら説明する。意味深な説明に、教師たちが凍りつく。
あくまで自分が呼んだのだと訂正してくれたようだが、その説明では誤解を生んでしまう。僕たちの関係は「あれ」などでは決してないと説明しなくては。
「違うんです、先生! 砂漠蔵は別に、僕に何もしてません。これは僕がやったんです。僕なりの”教育指導”で……!」
さっと教師たちが青ざめる。
おや? 唐梅も首をかしげる。何かまずいことを言っただろうか。教師たちは砂漠蔵の乱れた服を見ている。
「か、唐梅くん……君、教育学部を志望してたのは、そういう動機、で……」
「え? はい! もちろんです! 僕は孤独な生徒を救うために、教師に――」
「唐梅、あんたやけに濡れてない?」
ゴミの汁だ。砂漠蔵は知っているはずだが、なぜ今さら指摘するのか。
「何言ってるんだよ……。これは、君が僕に汁をかけたんじゃないか――」
唐梅のついて出る口が止まらない。
おや? 砂漠蔵の様子がおかしい。そうそう笑顔を見せないクールな砂漠蔵が、クスッ、と笑っているのだ。なぜ機嫌がよくなっているのか。
教師たちは脂汗をかいている。女子生徒たちも同様だ。自分の思う「あれ」と周りの捉えた”あれ”が違うものであることに、生真面目な唐梅は思いもよらない。
「唐梅くん……このやり方は間違ってるな」
「え? 何を言って……まあ、一度は僕もそう感じて、自分の方針を変えてみたりもしましたよ。でも、それこそ間違いだったんです。僕のやり方は間違ってなどいない。何より、性じゃない。第一、あなた方に人のことが言えるんですか。僕に構ってる暇があったら、砂漠蔵のような生徒のことをもっと見――うわあああ! 何っ、何するんだよおおお!」
案の定、担ぎあげられる。教師が数人がかりで連行を始める。
「く、くそ! 離せ! 離せよおお! 表面しか見ないあなた方行政に、僕のやり方の何がわかるんですか!」
怒りからつい口汚くなる。横顔だけ見せる砂漠蔵が、ニヒルに口角を上げている。何かを呟く。
「さっさと出さないからでしょ」
ビキッ。唐梅の血管が切れる。最後のその発言に、教師たちは疑いようのない確信を抱く。
緒が切れ、血管が切れ、体の何もかもが切れたのではないかというとき、一度は抑えようと決めた感情を、唐梅は完全に開放した。
「砂漠蔵ぁあああああ!!」
こうして問題児は連行された。
一見真面目そうな生徒が、裏で教育指導と称してクラスメートに”あれ”をしていたという噂が校内に広がり、新世界の喧伝を横へ押しやると、その日一日の話題をかっさらった。
ゴミが散乱している。そう、ゴミだ。腐敗し、腐りきり、この世界はゴミにまみれ、同化しているのだ。
怒りに燃える、赤い正義がゴミに沈む。校舎裏のゴミステーションに自ら体を突っこみ、唐梅はその日を過ごした。隠れたのではない。ふがいない自分への罰だと称して。
……果たして、本当にそうなのか?