泉 鏡花「海神別荘」現代語勝手訳 七
公 子:蛇身になった。美しい蛇になったのだ。
美女、瞳を睜る。
公 子:その貴女の身に輝く宝玉も、指環も、人間の目には、紅や紫の鱗の光として輝くだけです。
美 女:あれ。
(椅子から落ちる。侍女の膝で、袖を見、背中を見、手を見つつ、わなわなと震える。雪のような白い指尖で、思わず鬢に触れ、スッと立ちながら)
いいえ、いいえ、いいえ、どこも蛇にはなってはおりません。一、一枚も鱗はありません。
公 子:一枚も鱗はない。無論、どこにも蛇にはなっていない。貴女は美しい女です。けれども、人間の眼、人の目というものは……。故郷に姿を顕す時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の、全国の、貴女を見る目には、誰の目にも残らず大蛇と映る。ものを言う声は、ただ、炎の舌が閃くばかりで、吐く息は、煙を渦巻く。悲歎の涙は、硫黄となって流れ、草を爛らせる。長い袖は、腥い風を起こして樹を枯らす。悶える膚は鱗を鳴らしてのたうち蜿る。ふと、肉親のものの目にだけ、その丈より長い黒髪が三筋、五筋、幾筋か髪を透かして、大蛇の背に引くのが見える。それが、なごりと思うが可い。
美 女:(髪が乱れるほどに頭を掉る)嘘です。嘘です。人を呪って、人を詛って、貴方こそ、その毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇に姿を変えるなどあろう筈がない。遣ってください。故郷へ帰してください。親の、人の、友だちの目でもって、尾のない、鱗のない私の身であることを確かめたい。遣ってください。故郷へ帰してください。
公 子:大自在の国だ。勝手に行くが可い。そして、試すが可かろう。
美 女:どこに、故郷の浦は……どこに。
女 房:あれ、あそこに。(廻廊の燈籠を指す)
美 女:おお、(身震いする)船の沈んだ浦が見える。
(飜然と飛ぶ。……乱れる紅、炎のごとく、トンと床を下りるや、颯と廻廊を突切る。途端に五個の燈籠が皆消える。廻廊は暗い。美女はその暗い中に消える。舞台の上段のみ、やや明るく残る)
公 子:おい、その姿見の蔽を取れ、陸を見てみよう。
女 房:困った御婦人です。しかし、お可哀相なものでございます。
(立つ。舞台は暗くなる。――やがて明るくなる時、花やかに侍女が皆揃っている)
公子、椅子に凭れ掛かっている。――その足許に、美女が倒れ伏している――既に早くから帰ってきていた様子。髪はすべて乱れ、袂は裂け、帯は崩れている。
公 子:(玉の盞を含みながら、悠然として)故郷はどうでした。……、どうした、私が言った通だろう。貴女の父の少い妾は、貴女のその恐ろしい蛇の姿を見て気絶した。貴女の父は、下男とともに、鉄砲を持ってその蛇を狙ったではありませんか。渠等は第一、私を見てさえ、蛇体だと思う。人間の目とはそういうものだ。そんな処に用はあるまい。泣いては不可ん。
美女、悲しんで泣く。
公 子:おい、泣くのは不可ん。(眉を顰める)
女 房:(背中を擦る)若様は歎悲むのがお嫌いです。短気でいらっしゃいますから、御機嫌に障ると悪い。ここは楽しむ処、歌う処、舞う処、喜び、遊ぶ処ですよ。
美 女:ええ、貴女方は楽しいでしょう、嬉しいでしょう、お舞いなさい、お唄いなさい、私、私は泣いて、泣いて、泣き通して死ぬんです。
公 子:死ぬまで泣かれて堪るものか。あんな故郷に何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。ここでは悲哀のあることは許さんぞ。
美 女:お許しいただけないのなら、どうにでもなさってくださいませ。ええ、故郷のことも、私の身体も、皆貴方の魔法に違いありません。
公 子:どこまで疑う。(忿怒の形相)お前を蛇体と思うのは、人間の目だと言うのに。俺の……魔……法、だと! 許さんぞ。女、悲しむものは殺す。
美 女:ええ、ええ、お殺しなさいませ。もう、活きられる身体ではないのですから。
公 子:(憤然として立つ)黒潮等は居らんか。この女を処置しろ。
言うが早いか、床板を跳ねて、その穴から黒潮騎士が大錨をかついで顕れ
る。騎士二、騎士三、続いて飛び出る。美女を引き立て、一の騎士が倒に
立てた錨に縛りつける。錨の刃の背後から、乱れた黒髪を引き掴んで仰向かせる。長槍の刃が鋭くその頤に光る。
女 房:ああ、若様。
公 子:止めるのか。
女 房:お床が血に汚れはいたしませんか。
公 子:美しい女だ。花を挘るも同じことよ。花片と蕊とが、ばらばらに分かれるだけだ。あとは手箱に蔵っておこう。――殺せ。
(騎士、槍を取り直す)
美 女:貴方、こんな悪魚の牙では可厭です。御卑怯な。見ていないで、御自分でお殺しなさいませ。
(公子、頷いて、無言でつかつかと寄り、猶予わず剣を抜き、颯と目に翳し、つっと引いて斜めに構え、美女と顔を見合わせる)
美 女:ああ、貴方、私を斬る、私を殺す、その顔のお綺麗さ、気高さ、美しさ、目の清しさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました。位の高さ、品の可さ、もう、故郷も何も忘れました。早く殺して、ああ、嬉しい。(莞爾する)
公 子:縛めを解け。
騎士等、美女を助けて、片隅に退く。公子、剣を手に提げたまま、
公 子:こちらへおいで。
(美女、手を曳かれる。ともに床に上る。公子、剣を軽く取る)
公 子:終生を盟おう。手を出せ。(手首を取って腕に刃を引く。一線の紅血、玉の盞に滴る。公子、返す切尖で自らの腕を引く。紫色の血が盞に滴る)さあ飲め、二人で呑もう。
盞をかわして仰いで飲む。廻廊の燈籠が一斉に点り輝く。
公 子:あれを見よ。血を取り交わして飲んだと思ったら、お前の故郷の浦の磯に、岩に、紫と紅の花が咲いた。それとも、星か。
(一同、見入る)
公 子:あれは何だ。
美 女:見覚えのある花ですが、私はもう忘れました。
公 子:(書を見ながら)博士、博士。
博 士:(登場)……お呼びなされましたか。
公 子:(指す)あの花は何ですか。(書を渡そうとする)
博 士:存じております。竜胆と撫子でございます。新夫人のお心が通いまして、折からの霜に、一際色が冴えました。若様と奥様の血の俤でございます。
公 子:人間にはそれが分かるか。
博 士:心ないものには分かりますまい。しかし、詩人、画家には気づかれることでございましょう。
公 子:お前、私の悪意ある呪詛でないのが分かっただろう。
美 女:(うなだれて)お見棄てくださいませんよう、いつまでも久しく。
一 同:――万歳を申し上げます――
公 子:皆の者、休むがよい。(一同退場)
公子、美女と手を携えて、一歩踏み出す。美しい花が降る。もう一歩進み、フト立ち停まる。三歩目を踏み出す時、音楽が聞こえる。
美 女:一歩に花が降り、二歩には微妙な薫り、今、三歩目に、ひとりでに楽しい音楽が聞こえます。ここは極楽でございますか。
公 子:ははは、そんな処と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極楽に男は居らんぞ。
(鎧の結び目を解きかけて、音楽に合わせてゆっくりと、少し斜めに立ちながら、その龍の爪を美女の背中に掛ける。雪のように白い振袖が紫の鱗の端に仄に見える)
公 子:そして、男の行く極楽に女は居ない。
――幕――
今回で「海神別荘」の現代語勝手訳は終了しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
現代語訳に関して。
この時代の作品には、今ではほとんど使用されない、漢語が多く使われている。
たとえば、この作品の冒頭には
「森厳藍碧なる琅玕殿裡。黒影あり」とある。
この「琅玕」をどう訳すかについては、特に悩んだ。
底本にした「泉鏡花集成 7」の(注)には、「半透明で暗緑色・青碧色の美しい宝石」とあるが、文中にもよく出てくる「琅玕」を一々そんな風には置き換えられない。
余程、敢えてそのまま「琅玕」に統一しようかとも考えたが、現代語訳にする時、どうもしっくりしない。
現在殆ど使用されていない、しかも、説明するのが難しい言葉をどう処理すればいいのか。現代語訳の問題の一つである。
(注)を付ければいいのかも知れないが、それを極力避けたいと考えている筆者は、いつも頭を悩ませている。
もう一つは「当て字」の問題である。
当て字には、成程! と思わせる言葉が多く、それを棄てるにはもったいない気がして、また当時の雰囲気を出すため、振り仮名を付けて、できるだけそのままにしておいたが、現代語に替える時には、やはり通常の言葉に変えた方がいいのか、悩むところでもあった。
なお、この作品では、当て字ではないけれど原文で「陸」という文字に「くが」とルビを振って、読ませる箇所がいくつも出てくるが、これに関しては、独断で敢えて「くが」とは振り仮名を振らなかった。
送り仮名についても、現代とは違う形となっているが、これもできるだけ原文を尊重してみた。しかし、統一し切れていない部分もあり、本来、こういうアンバランスも、もっと気にしなくてはいけないのだろうと反省をしているところである。
全体的に、不勉強、浅学のため、現代語訳において、色々と過ちを犯している部分もあるかと思う。少しずつでも誤りは訂正していきたいと考えている。
※ この作品は、実際舞台でも上演されているようで、ネット検索してみれば、いくつもヒットする。
昔、源氏物語を読んだ時、面白がって、キャストを考えたものだが、この「海神別荘」でも、誰をどの役に当てるか、色々考えてみるのも面白いと思った。