泉 鏡花「海神別荘」現代語勝手訳 六
公 子:勝手な情愛だね。人間のそんな情愛は私には分からん。
(頭を掉る)
が、まあ、情愛としておこう。
美 女:父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚の砂に、父の倒れ伏しました処は、あの、ちょうど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました処なのです。そして、後の歎きは、前の喜びにくらべまして、何十倍も大きかったことでございましょう。
公 子:じゃ、その枝珊瑚を波に返して、約束を戻せば可かった。
美 女:いいえ、ですが、もう、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代わり、家蔵に代わっていたのでございます。
公 子:そうであれば、その金銀を散らして、施し、棄て、蔵を壊し、家を焼いて、もとの破れ蓑一つ、網一つという貧しい漁民となって、娘の命乞いをすれば可かった。
美 女:それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のような黒い人が、夜ごと夜ごと、天井を覗き、屏風越しに、また壁襖に立って、責め続け、催促をなさいます。今更、家蔵に替えましたと言ったって……、とそう思ったのでございます。
公 子:貴女の父は、もとの貧民に成り下がるから娘を許してください、と、その海坊主に掛け合ってみたのですか。そうはしなかったろう。そして、貴女を船に送り出す時、磯に倒れて悲しんだりしたかも知れないが、結局、新しい白壁、艶ある甍を山際の月に照らさせて、多くの召使いに取り巻かれながら、最近呼び入れた若い妾に介抱されていたのではないのか。なぜ、それが情愛なのです。
美 女:はい。……(恥じて首低る)
公 子:貴女を責めるのではない。もしも、それが人間の情愛ならば情愛で可い。私とは何の係わりもないから、ちっとも構わん。が、私の愛する、この宮殿にいる貴女が、そんな故郷を思って歎いては不可ん。悲しんでは不可んというのです。
美 女:貴方、(と、向き直る。声に力を籠めて)私は始めから決して歎いてはいないのです。父は悲しみました。浦人は可哀れがりました。ですが、私は――約束に応じて宝を与え、その約束を責めて女を取る、――それが夢ならば、船に乗っても沈みはしまい。もし、事実として、浪に引き入るものがあれば、それは生あるもの、形あるもの、言うまでもなく心があり、魂があり、声があるものに違いない。その上、威があり、力があり、栄と光あるものに違いないと思いました。ですから、人はそうして歎いても、私は小船で流されますのを、それほど慌て騒ぎもしなかったのです。もしも、船が沈まなければ無事なのです。生命はあるんですもの。覆す手があれば、それは活きている手なのです。その手に縋って、海の中に活きられると思ったのです。
公 子:(聞きながら莞爾とする)
やあ、(と、女房に)……この女は豪いぞ! はじめから歎いておらん。慰め賺す必要はない。私は、しおらしい、哀れな花を自らの手で活けて、ながめようと思った。が、違う! これは楽しく歌う鳥だ。面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。
手を挙げる。と、たちまち闥が開き、三人の侍女が二罎の酒と、白金の皿
に一対の玉盞を捧げて出てくる。女房は盞を取って、公子と美女の前に
置く。侍女退場。女房は酒を両方に注ぐ。
女 房:召し上がりませ。
美 女:(御辞宜して)私はお酒は少しも……。
公 子:(品よく盞を含みながら)貴女、これは少しも辛くない。
女 房:貴女の薄紅のお酒は桃の露、あちらは菊花の雫です。お国では御存じありませんか。海では最上の飲物です。お気分が清しくなりますよ。召し上がれ。
美 女:まあ、……これが桃の露?
(見物席の方へ、半ば片袖を蔽って、うつむき加減で飲む)
はっ。(と、小さい呼吸をする)何という涼しい、爽やかな――蘇生ったような気がします。
公 子:蘇生ったのではないでしょう。更に新しく生命を得たんだ。
美 女:嬉しい、嬉しい、嬉しい。貴方、私がこうして活きていますのを皆に見せてやりとう存じます。
公 子:別に見せる必要はありますまい。
美 女:でも、人は私が死んだと思っております。
公 子:勝手に思わせておけばい可いではないか。
美 女:ですけれど、ですけれども。
公 子:その情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。
美 女:ええ、父をはじめ、浦のもの、それから皆に知らせなければ残念です。
公 子:(テーブルに凭れかけるように胸を乗り出して)帰りたいか、故郷へ。
美 女:いいえ、この宮殿、この宝玉、この指環、このお酒、この栄華、私は故郷などへなど帰りたくはないのです。
公 子:では、何を知らせたいのです。
美 女:だって、貴方、人に知られないで活きているというのは、活きているのじゃないですもの。
公 子:(顔色がはじめて翳る)むむ……。
美 女:(微酔の瞼は花やかに)誰も知らない命は、生命ではありません。この宝玉も、この指環も、人が見なくては、ちっとも価値がないのです。
公 子:それは不可ん。(テーブルを軽く叩くようにして立つ)
貴女は今の、この贅沢な生活振りを見せびらかせたいのだな。そりゃ不可ん。人は自己、自分で満足をせねばならん。人に価値をつけさせて、それに従うべきものじゃない。(美女に近寄り)人は自分で活きれば可い。生命を保てば可い。しかも、愛するものとともに活きれば、少しも不足はなかろうと思う。宝玉もその通り。手箱にこれをしまっていれば、宝玉そのものだけの価値を保つ。人に与える時、十倍の光を放つ。ただ、人に見せびらかす時、その艶は黒くなり、その質は醜くなる。
美 女:ええ、ですから、……ここに来る時お庭に敷き詰めてありました、あの宝玉一つも、この上お許しをいただけるなら、きっと慈善として施して参ります。
公 子:ここには用意した宝の蔵がある。皆、貴女のものです。施すのは可い。が、人知れずでなければ出来ない。貴女の名を顕し、姿を見せて施すことはならないのです。
美 女:それでは何にもなりません。何の効もありません。
公 子:(顔色がやや険しくなる)随分勝手なことを言う。が、貴女の美しさに免じて許そう。歌う鳥が囀るのだ。雲雀は高く飛んで、星を凌ぐ。しかし、星は好きなようにさせて、雲雀を蹴落さない。声が余りにも可愛らしいからです。
(女房に)おい、注げ。
(女房酌をする)
美 女:(怯えた弱気な態度で)もう、もう、決して、虚飾を張ったり、見せびらかしたりはしようと思いません。あの、ただ、活きていることだけを知らせとう存じます。
公 子:(冷ややかに)止した方が可かろう。
美 女:いいえ、唯今も申します通り、故郷へ帰って、そこに留まる気は露ほどもないのです。ちょっとお許しを受けまして、生命のありますことだけを。
公子は無言で頭を掉る。美女は縋るように近寄る。
美 女:あの、お許しはいただけませんか。ちょっとの外出もなりませんか。
公 子:(爽やかに)ここは牢獄ではない。大自由、大自在な領分だ。歎くもの、悲しむものは無論のこと、僅かの憂い、不平のあるものさえ、一日も一人たりともこの国に置かない。が、貴女には既に心を許して、秘蔵の酒を飲ませた。海の果て、陸の終、思って行けない処はない。故郷なんぞ、一飛で、瞬きをする間に行くことが出来る。
(愍むようにしみじみと顔を視る)が、気の毒です。
貴女に、その驕と虚飾の心さえなかったら、一生聞かなくても済む、また聞かせたくないことだった……。貴女、これ。
(美女、顔を上げる。その肩に手を掛ける)ここに来た貴女はもう、人間ではない。
美 女:ええ!(驚く)
つづく。
次回、最終話の予定です。