泉 鏡花「海神別荘」現代語勝手訳 五
公 子:よく見えた。(無造作に座を立って、卓子の周囲に近づき、手を取ろうと、すっと腕を伸ばす。美女、椅子から崩れるよう降りて、床に伏せる)
女 房:どうなさいました。貴女、どうなさいました。
美 女:(声は細いが、判然とした声で)はい、……覚悟をしては来ましたけれど、余りと言えば、可恐しゅうございますもの。
女 房:(気がついて)おお、若様。その鎧をお脱ぎくださいませ。驚きなさいますのもごもっともでございます。
公 子:脱いでも可い。(と、結び目に手を掛け、思案する)が、脱がなくても可かろう。……最初に見た目はどこまでも附絡うもの。
(美女に向かって)貴女、おい、貴女、これを恐れては不可ん。私はこれがあるから強いのだ。これがあるために力があり、威がある。今さっきもこれによって、召し使う女が入道鮫に噛まれたのを助けたのです。
美 女:(やや面を上げて)お召し使いが鮫の口に……、やっぱり、ここはそんな恐ろしい処なんでございますか。
公 子:はははは、(笑う)貴女、敵のない国が、世界のどこにあるんですか。敵は、恨みは……、仇は至る処に満ちている。――ただ一人の娘を捧げて……そうやって海の幸を得る。――貴女の親は既に貴女の敵、仇ではないのですか。ただその敵に勝てば可いのだ。私は、この強さ、力、威あるが故に勝つ。閨に二人だけでいる時でも、私はこれを脱ぐまいと思う。私の心は貴女を愛して、私の鎧は敵から、仇から、世界から貴女を護る。弱い者のために、私は強いのです。毒龍の鱗を絡い、爪を抱き、角を枕にしていても、いささかも貴女の身体を傷けない。共にこの鎧に包まれる内は、貴女は海の女王なんだ。思うがまま、大胆に、誰からも束縛されず、我が儘に、心のままに振る舞って差し支えない。鱗に、爪に、角に、一糸纏わぬ裸身を抱かれ、包まれて、広大な渡津海の中を散歩しても、世に憚ることなどなにもない。誰の目にも触れはしない。人は指をしない。人がたまたま見たとしても、沖のその影は、真珠の光としか見えず、喩え、指す者がいたとして、それは須弥山の山頂にある喜見城の幻景なのかと迷うばかりです。女の身として、優しいもの、媚びるもの、従うものに慕われたとして、それが本当に望むことですか。私は鱗をもって、角をもって、爪をもって、そう、私のすべてでもって貴女を愛するのだ。……鎧は脱ぐまい、と思う。
(ゆっくりと椅子に戻る)
美 女:(起き直り、会釈する)
……父へ、海の幸をお授けくださいました時の津波のお強さ、船を覆して、この遠い海の中にお連れなさったお力。また、道すがらは、お使者の方から、この金剛石の襟飾り、宝玉のこの指環も頂戴いたし、(嬉しげに指環を見る)貴方の御威徳はよく分かりましたのでございます。
公 子:何、津波位、家来どものしたことなど些細なこと。さあ。そこへお掛け。
女房、介抱して、美女、椅子に座り直る。
公 子:頸飾りなんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けている、それは珊瑚だ。
美 女:まあ、父に下さいました枝より、何倍も。
公 子:あれは草です。較べるなら、ここにあるのは大樹だ。椅子の丈は陸の山よりも高い。そうやって坐っている貴女の姿は、夕陽で影となった峰に雪が消え残ったように映るだろう。そして、少しだけ離れた私の兜の龍頭は、城の天守の棟に飾った黄金の鯱ほどに見えるだろうと思う。
美 女:あの、人の目に、それが見えるのですか、貴方?
公 子:譬喩です。人間の目には何にも見えん。
美 女:ああ、見えはいたしますまい。お恥ずかしい人間の小さな心には、ここで見れば私が今、裳を曳きます床は美しい翡翠の一枚岩ですが、こうした御殿があることは、夢にも知らないのでございますもの。情けなく存じます。
公 子:いや、そんなに謙遜することもない。陸には名山、佳水がある。峻岳がある。大河がある。
美 女:でも、こんな御殿はないのです。
公 子:あるのを知らないのです。海底のこの宝石で出来た宮殿の、宝蔵の珠玉金銀は虹に透いて美しく見えるけれど、更科の秋の月、錦を染めた木曾の山々はこれに劣りはしない。……峰には、その錦葉を織る龍田姫がおいでなのだ。人間は知らんのか、知っていても知らない振りをするのだろう。知らない振りをして見ないのだろう。――陸は尊い。景色は得難い。今も、道中双六をして遊ぶのに、五十三次の一枚の絵さえ手許にはなかったのだ。絵も尊い。
美 女:あんなことをおっしゃって。絵には活きたものは住んでいないではありませんか。
公 子:いや、住居をしている。色彩は皆、活きて動く。けれども人間は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても、見ない振りをしているのだから、決して人間の凡てを貴いとは言わない、美しいとは言わない。ただ、陸は貴い。けれども、我が海は、この水は、一畝りの波を起こして、その陸を浸すことができるのだ。ただ、貴く、美しいものは亡びない。……中でも貴女は美しい。だから、陸の一浦を亡ぼして、ここへ迎え取ったのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎え入れて、かつ愛し、かつ守護するのです。貴女は、喜ばねば不可ない。嬉しがらなければならない。悲しんではなりません。
女 房:貴女、若様がおっしゃる通りでございますよ。途中でも私が、お喜ばしい、おめでたいことだと申しましたでしょう。決してお歎きなさることはありません。
美 女:いいえ、歎きはしません。悲しみはいたしません。ただ、歎きますもの、悲しみますものに、私の、この容子を見せてやりたいと思うのです。
女 房:人間の目には見えません。
美 女:故郷の人たちには?
公 子:見えるものか。
美 女:(やや勢い込んで)あの、私の親には?
公 子:貴女は見えると思うのか。
美 女:こうして、活きておりますもの。
公 子:(語気を強めて)無論、活きている。しかし、船から沈む時、ここへ来るのに、どういう決心をしたのですか?
美 女:死ぬのだと思いました。故郷の人も皆そう思って、とりわけ親は歎き悲しみました。
公 子:貴女の親は悲しむことなど、少しも無かろう。はじめからそのつもりで、約束の財を得た。しかも満足だと言った。その代わりに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。
美 女:けれども、そこには父娘の情愛というものがございます。
つづく