泉 鏡花「海神別荘」現代語勝手訳 四
公 子:皆、先ほどは少し窮屈だったな。
侍女等、親しげに皆、公子の前後に斉眉き寄る。
公 子:私はせっかちだからな。――女を待つしばらくの間、退屈を紛らわしたい。誰か、あの国の歌を知らないか。
侍女三:存じております。「浪花津に咲くやこの花冬籠、今を春へと咲くやこの花」
侍女四:若様、私も存じております。浅香山を。
公 子:いや、そういうのではない。(博士が置いていった書物を披きながら)
女の国の東海道の道中の唄だ。何とか言うのだった。うむ、この書物はいくらか覚えがないと、文字が見えないそうだからな。
(呟くように)姉上は貴重な、しかし、少々意地悪な御本をお作りになったよ。ああ、何とか言ったな、東海道の……。
侍女五:五十三次の、でございましょう。私が少し存じております。
公 子:歌ってみないか。
侍女五:はい。(朗らかに優しく、かつしみじみと唄う)
「都路は五十路あまりの三つの宿、……」
公 子:おお、それだそれだ、今、字書のように、江戸紫の色で都路と標目が出た。
(書物を展く)その後を。
侍女五:「……時得て咲くや江戸の花、浪静かなる品川や、やがて越え来る川崎の、軒端ならぶる神奈川は、早や程ヶ谷に程もなく、暮れて戸塚に宿るらむ。紫匂う藤沢の、野面に続く平塚も、もとのあわれは大磯か。蛙鳴くなる小田原は。……(極まり悪げに)……もう後は忘れました」
公 子:可、ここに緑の活字が、白い雲の枚に出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教えてやろう。この歌で五十三次の宿を覚えて、お前たち、あの道中双六というもので遊んでみないか。上りは京都だ。姉の御殿に近い。誰か一人が上がって、双六が終わる頃、この女も(姿見を見ながら)ここに着くだろう。最初に上った者には、瑪瑙の莢に紅宝玉の実を装った、あの造りものの吉祥果を遣る。絵は直ぐに間に合わぬから、この室を五十三に割って、双六の目に合わせて、一人ずつ身体を進めるのが可かろう。……賽が要る。持ってこい。
(侍女六、侍女七、俯いて、ともに微笑む)――どうした。
侍女六:姿見をお持ちいたしました時。
侍女七:二人して盤の双六をしておりましたので、賽は持っているのでございます。
公 子:おもしろい。向こうの廻廊の端へ集まれ。そして順番に始めるが可い。
侍女七:賽は床へ振るのでございましょうか。
公 子:この賽は気持ちが通じてか、こちらが招かないのにこの場所にやって来たように思える。賽にも魂がある。寄越せ。(賽を受け取る)
卓子の上へ私が投げよう。お前たち、一から七まで、目にしたがって順に動くのだ。さあ、集まれ。
(侍女七人、いそいそと、続いて廻廊のはずれに集まり、貴女は一、私は二と
こう口々に楽しげに取り決め、意気込みながら賽を待つ)
公 子:いいか、(片手に書を持ち、片手で賽を投げる)――一は三、神奈川へ。
(侍女一人進む)二は一、品川まで。(侍女一人、また進む)
三は五だ、戸塚へ行け。
(こうして、順々に繰り返し、次第に進む。歳が最も若い第五の侍女が、一人皆から離れるように、賽の目の数通りに進んで、正面突き当たりの窓際に行き、他の侍女達と大分隔たりが出来る。公子はこの時、姿見を見詰めていたので、賽の目と宿の数を算え淀む。……この時、うっかりした拍子に書物を落とす)
公 子:まだ、誰も上がらないか。
侍女一:やっと一人、天竜川まで参りました。
公 子:ああ、まだるっこしい。賽を二つ一緒に振ろうか。(と、手にしながらまた姿見に見入る。侍女たちも皆、姿見を凝視する)
侍女五:きゃっ!(叫ぶ。と、同時に、その姿は窓の外へ裳を引いて颯と消える)あぁれぇ~!
侍女等口々に、あれ、あれ、鮫が、鮫が、入道鮫が、と立ち乱れ、騒ぎまくる。
公 子:入道鮫が? 何だと? (窓にすっと寄る)
侍女一:ああ、黒鮫が三百ばかり。
侍女二:取り巻いて、群がりかかって。
侍女三:あれ、入道が口に銜えた。
公 子:外道、外道、その女を返せ、外道め。(叱りつけながら、窓から出ようとする)
侍女等、公子に縋りついて留める。
侍女四:落ち着いてくださいませ、若様。
公 子:放せ、あれを見よ、外道の口の間から、女の髪が溢れ落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙が喰入る。ええ、油断した。……骨も筋も断れてしまうようだ。ああ、手が悶えている。裳が煽られて……。
侍女六:いいえ、若様、私たち御殿の女は、身体は綿よりも柔らかです。
侍女七:蓮の糸を束ねたようなものですから、鰐の牙が脊筋と鳩尾へ噛み合いましても、薄紙一枚透いている内は、血にも肉にも障りはいたしません。
侍女三:入道も、その仲間も、女の色を漁るのでございます。生命はしばらく助かりましょう。
侍女四:そのうちに、そのうちに。まぁ、御静まり下さいませ。
公 子:いや、俺の力は弱い者のためにあるのだ。生命に掛けて取り返す。――鎧を寄越せ。
侍女が二人、素早く出て行き、引き返してくると、二人して一揃えの鎧を捧げ、背後から颯と肩に投げ掛ける。公子はそれを上に引いて、頸から連なっている兜を載せる。角を生やした毒龍で、凄まじい頭となる。その頭を乗せる時に、侍女等、鎧の裾を捌く。すると外套のように背から垂れて、紫の鱗、金色の斑点が連なり輝く。
公子はまた、袖を取り、肩から回して自ら喉に結ぶ。この結び目は左右一双の毒龍の爪である。素早く身を固め、立ち直るや否や、剣を抜いて、頭上に翳し、ハタと窓の外を睨む。
侍女六人、皆公子の左右に片膝を立てて坐り、手に手に匕首を抜き連ね、キラキラと輝かせながら敵に構える。
公 子:外道、逃げるな!(凝と視て、剣の刃を下に引く抜く)
よし、虜を放した。受け取れ。
侍女一:鎧を召されただけで、御気迫に恐れて引き下がりました。
侍女二:長くて太い数百の鮫が重なって、蜈蚣のように見えたのが、ああ、散り散りに、散り散りに。
侍女三:メダカのように遁げて行きます。
公 子:おお、丁度、黒潮等が帰ってきた。帰ってきたぞ。
侍女四:ほんに、おつかい帰りの姉さんが、丁度虜を抱取ってくださった。
公 子:介抱してやれ。お前たちは出迎えろ。
侍女が三人ずつ、一方は闥の中へ、もう一方は廻廊に退場。
公子は真ん中にすっくと立ち、静かに剣を納めて、右手にある白珊瑚の椅
子に凭れる。騎士五人、廻廊まで登場。
騎士一同:(槍を伏せて踞り、口を揃えて)若様。
公 子:おお、帰ったか。
騎士一:今ほどは、もっての外な事態で。
公 子:何でもない。私は無事だ。皆、御苦労だったな。
騎士一同:はっ。
公 子:途中まで、出向いていった僧都はどうした。
騎士一:残りの我ら夥間を率いて、入道鮫を追いかけて行きました。
公 子:よい相手だ。戦闘は観ものであろうな。――皆は休むが可い。
騎 士:槍は鞘に納めますまい。このまま御門を堅めまするわ。
公 子:そこまでせずとも大丈夫だ。休め。
騎士等、礼拝して退場。侍女一登場。
侍女一:ご安心くださいませ。疵を受けたとは言えないくらいでございます。ただ、酷く驚きまして。
公 子:可哀想に、よく介抱してやれ。
侍女一:二人が附添っております。
(廻廊を見やって)
ああ、もう、御廊下までお越しになっておられます。
(公子の指図により、姿見に錦の蔽を掛け、闥に入る)
美女、引率の女房に片手を曳かれて登場。姿静に、深く差俯向いて、少し、やつれた顔つきではあるが、そんなに気後れするような様子はなく、ゆっくりと廻廊を進んで、床を上段に昇る。昇る時も裾捌きは静である。
侍女が三人、燈籠二個ずつを二人で、一個を一人、合計五個の燈籠を提げて、附添う形で出てくる。そして、一人一人燈籠を廻廊の廂に架け、そのまま引き返す。侍女等が燈籠を置き終わるまでに、女房は美女をその上段にある紅い枝珊瑚の椅子まで導く手順である。女房は公子に一礼して、美女に椅子があることを示す。
女 房:お掛けになってください。
美女はそのままの状態の椅子に腰掛ける。女房はその裳裾に跪く。
美女は俯いたまましばらく無言。皆無言となる。やがて顔を上げ、真正面から公子と見向かう。瞳を据えて瞬きせず。――間あり。
つづく