泉 鏡花「海神別荘」現代語勝手訳 三
公子、椅子をテーブルに向き直し、姿見の傍にいる。向かって右の上座で
ある。左には赤い枝珊瑚の椅子があるが、人は座っていない。その椅子から
斜めに下がったところに、沖の僧都が坐っている。この椅子は黒い珊瑚の小
さい椅子である。同じ小型の椅子に、向かって正面に一人、およそ唐代の頃
の儒教の学者の服装をした髭の黒い人物が一人いる。博士である。
侍女七人、花のようにその間に装い立つ。
公 子:博士、お呼び立てをしました。
博 士:(敬礼する)
公 子:これをご覧なさい。(姿見の面を示す)
切り立つ崖を重ねた、漆のような波間を、幽かに蒼い灯に照らされて、白馬の背に手綱を手にした人は、この度、ここに迎え入れる私の思い人なのです。陸では獅子や虎が狙うのと同じように、ここでは、入道鰐や坊主鮫の連中が、美女とみれば、途中で襲いかかって、黒髪を吸い、白い乳房を裂き、美しい血を呑もうとするので、その警護のために、手配できただけの少数の黒潮騎士をこの旅さきに附き添わせました。彼らは白刃を携えておるのです。
博 士:この上ない結構な取り計らいだと思いまするが。
公 子:ところが、敵に備えるここの守備を出払わしたので、宮殿が不用心じゃ、危険であろうと僧都が言われる。……それは恐れん。私がいれば問題はない。けれども、また、僧都の言われるには、白衣に緋を襲た女子を馬に乗せて、黒髪を縫うばかりに先の鋭い槍を支え持つというのは、彼の国で引廻しとかいう罪人の姿に似ている。私の手元に迎え入れるものを、不吉だ、忌まわしいと言うのです。
これが事実、不吉だというのであれば、途中の警護は他にいくらでも手段があるというもの。それは構わないが、私はまったく不吉などとは思わん。忌まわしいとも思わない。
これを見て欲しい。私の領分に入った女の顔は、白い玉が月の光に包まれたのと同様に、ますます清い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の紅は冴えて、いささかの窶れもない。憂えておらん。清らかな衣を着、新に梳って、露の点滴る花のような装をして、馬に乗ったその姿は、彼の国の花が咲き乱れる野を錦鮮やかな奥深い山の中から抽き出したよう……歩行より、車より、駕籠に乗ったよりも一層鮮麗なものだと思う。その上、選び抜かれた屈強の黒潮騎士の精鋭達に、長槍でもって四辺を払わせて通るのです。娘には、誇らしい図だと思っていいのではないですか。
僧 都:(頻りに頭を傾ける)
公 子:引廻しと言えば、恥を晒させるのでしょう、苦痛を与えるのでありましょう。しかし、槍で囲み、旗を立て、淡く清く装った誇らしげな人を馬に乗せて市中を練るように引廻し、やがて刑場に送って殺した処で、――殺されるものは平凡に疾病で死ぬよりも愉快でしょう。――それが何の刑罰になると言うのですか。陸と海という風に国が違い、人情が違っても、まさか、そんな刑罰はあるまいと思う。僧都はうろ覚えながら、確かに記憶にあると言われる。……でもって、博士、貴下をお呼びした次第です。ちょっとお験べを願いたいのです。
博 士:今おっしゃられました記憶は私にもありますで。しかし、念のために験べまするで。ええと、陸のすべての刑法の記録でありましょうか、それとも。
公 子:面倒です。後はどうでもいい。ただ、女子を馬に乗せ、槍を立てて引廻したという、そんなことがあったかという、それだけでいいのです。
博 士:正史ではなく、小説とか浄瑠璃の中を見てみましょうで。時の人情や風俗は、史書を繙くより、むしろこの方が適当でありますので。
(と言いつつ、光り輝く美しい洋綴の書物を展く)
公 子:(卓子に腰を掛けて)
大変気の利いた書物ですね。
博 士:これは仏蘭西の大帝奈翁が、西暦千八百八年、西班牙遠征の途にありました時に、必要だと言うことで、かねて世界有数の読書家である当時の図書館長バルビールに命じて製らせました。函入新装の一千巻、一架の内容は、宗教四十巻、叙事詩四十巻、戯曲四十巻、その他の詩編六十巻、歴史六十巻、小説百巻と言うデュオデシモ形と申す有名な版本のことを……お聞き及びなさいまして、御姉君、乙姫様が御工夫をされたものでございます。蓮の糸一筋をおよそ枚数にして千頁に薄く織り拡げて、一万枚が一折、一百二十折を合わせて一冊に綴じましたものでありまして、この国の微妙なる光りの下でに展きますると、森羅万象、人類をはじめ、動植物、鉱物、一切の元素が、一々(ひとつ)ずつ微細なる活字となって、しかも、各々(おのおの)五色の輝きを放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、句読、いずれも個々別々、七彩に照って、こう開きました真っ白な枚の上へ、自然と染め出されるものでありまして……。
公 子:姉上が、それを。――さぞ、御秘蔵のものでしょう。
博 士:御秘蔵ではありますが、若様の御書物蔵へも、整然と姫様がお備え付けておられますので。
公 子:では、私の所有ということですか。
博 士:若様はこの冊子と同じものを、瑪瑙に青貝の蒔絵の書棚、五百架、御所有でおられます次第であります。
公 子:姉がいて幸福です。どれ、(書物を取って披く)……。
これは……ただ白紙だね。
博 士:は、恐れながら、それぞれの予備知識がございませんと、自然のその色彩ある活字は、ペエジの上には写り兼ねるのでございます。
公 子:これは恥ずかしいね。
博 士:いやいや、若様は武術に優れた勇ましいお方でございます。入道鰐とか黒鮫が襲ってきた時には、御訓練をされておられる黒潮、赤潮の騎士、そして、若様の御手による剣がなくては、追い払うことができないのであります。けれども、それにしても姉姫様の御心づくし、折々には御閲読いただきますようお勧め申し上げる次第であります。
僧 都:私も、同じく、お勧め申し上げる次第でござります。
公 子:(頷く)まあ、今の引廻しのことを見てください。
博 士:確かに。(書を披く)
手近に浄瑠璃がありました。ああ、これにあります。……若様、これは大日本の浪華の町人、大経師以春の若い女房で、美女で有名な『おさん』。奉公人の茂右衛門と不義が見つかり、これにより引廻し、磔になります処が書かれたものでありまして。
公 子:お読み。
博 士:(朗読する)――紅蓮地獄で井戸掘りを 焦熱地獄で釜作り させられるとは思いつつ 急がぬはずがいつの間に 越える我が身は死出の山 死出の山からほととぎす 野辺から先を見渡せば 冬至を過ぎた冬枯れの 木の間木の間にちらちらと 抜身の槍の恐ろしや――
公 子:(姿見を覗きながら、かつ聞きながら)
ああ、いくらか似ている。
博 士:――また冷返る夕嵐、雪の松原、この世から こんな地獄の苦しみを 背負い背負って凶日に 島田乱れてはらはらはら 顔に薄ら化粧して 縛られた手の冷たさは 我身一人が寒の入り 涙は指の爪伝い 袖に氷を結びけり。……
侍女等耳を傾けている。
公 子:ただ、いい姿です。美しい形です。世間はそれでその女の罪を責めたと思っているのだろうか。
博 士:まず、そう見えますので。
僧 都:さようでござります。
公 子:馬に乗った女は、殺されても恋が叶い、思いが届いて、さぞ本望であろうと思うがね。
僧 都:――袖に氷を結びけり。涙などと、歎き悲しんだようにござります。
公 子:それは、その引廻しを見る、見物人の気持ちではないのか。私には分からん。(と、頭を振る)――博士、まだ他に例があるのですか。
博 士:(朗読する)
……この世で儚い身の上となってしまった。今日は神田のくずれ橋に恥をさらし、または四谷、芝、浅草、日本橋に人がこぞって、是が非でも見ようとする。これを思うと、仮初めにも人は悪いことはしてはならない。……天がこれを許すことはないのである。
公 子:(眉をひそめる。――侍女等皆、同じように不思議そうな顔をする)
博 士:……この女は思い込んでいるので、身の細ることもなく、毎日も昔と変わらず普段通りに、黒髪を結って、美しい風情。……
公 子:(表情が和らぐ。侍女等もホッとした様子)
博 士:中略をいたします。……聞く人は、一入胸を痛めつつその姿を見送ったが、限りある命も、夕暮れの鐘が撞かれる頃には、品川の道芝の辺で、珍しい火あぶりに処され、その身は悲しいかな儚く煙となった。人は皆、いずれにしても死ぬことからは逃れられないが、これは特に不憫というものであった。――こういうことで、鈴ヶ森で火刑に処せられるまでを、確か江戸中を棄札…罪人を処刑する際、氏名、年齢、罪状などを記した高札…に槍を立てて引廻した筈だと理解しておりますので。
公 子:分かりました。それはお七という娘でしょう。私の大好きな女なんです。御覧なさい。どこに当人は歎き悲しみなどしたのですか。人に惜しまれ、可哀がられて、女自身は大満足で、取り乱さずに、平常心のまま火に焼かれた。お七は満足していると思うべきではないのですか。なぜそれが刑罰なんだね。もし、刑罰にするのであれば、単なる叩いて終わる、恵の杖、情の鞭だ。実際、その罪を罰しようと思うなら、そのまま殺さずに置いておき、平凡に愚図愚図と生存らえさせて、皺だらけの婆にして、その娘の生涯を終わらせるのが可いと私は思う。……そんなことで、とりわけ、現在、そのお七の命は、姉上が海へお引き取りになった。刑場の鈴ヶ森は自然の海が近かった。姉上は御覧になったのだ。鉄の鎖は手足を繋いだ。燃え草は夕霜を置き残して、その肩を包んだ。煙は雪のように白い振袖を燻し燃やした。炎は緋鹿子を燃え抜いた。緋の牡丹が崩れるより、虹が燃えるよりも美しかった。恋の火の白熱は、凝って白玉となる。その膚を氷った雛芥子の花に包んだ。姉の手によって甘露が沖を曇らせて注がれたのだった。そのまま海の底へお引き取りになって、現に、姉上の宮殿に、今も十七のまま、紅の珊瑚の中に、花のような結綿の髪を結うているではないか。
男は死ななかった。存命て坊主になって老い朽ちた。姉上は、それさえお引き取りになった。けれども、その魂は途中で牡の海月になった。――時々、未練に娘を覗いて、赤潮に追い払われて、醜く、ふらふらと生白く漂って失せる。哀れなものだ。
娘は幸福ではないのですか。刑罰としての火にしても水にしても、火は虹となり、水は滝となって、その生命を飾ったのです。抜き身の槍の刑罰が、今、馬の左右に、その誉を輝かすのと同じように。――博士いかがですか。僧都も。
博 士:しかし、しかし若様、私は慎重にお答えをいたしまする。身はこの職にありながら、事実、人間界の心も情も、まだ少しも分からないのでありまして、若様がただ今仰られたこと、それはすべて海の中だけに留まることになろうかと思われまするが。
公 子:(穏和に頷く)姉上も、以前お分かりにならないと言われた。その上、貴下がお分かりにならなければ、これはもう、誰にも分からないのです。私にも分からない。しかし、今回は事情も違う。彼女を迎える道中のこの(と、また姿見を指す)馬上の姿は、別に不吉なものではあるまいと思う。
僧 都:ただ今、仰せになられましたことを承りますに、条理は理解出来ず、僧都にも分からないことではござりまするが、ただ、黒潮の抜身ので囲みました件は、別に忌わしいことではござりませんと、この老人にも、合点が行った次第でござります。
公 子:可、しかし、僧都、ここの蓮華燈籠の意味も分かった。が、一つ見馴れないものが見えるぞ。女が黒髪と、あの雪のように白い襟との間――胸に珠を掛けているが、あれは何かね。
僧 都:はあ。(テーブルに伸び上がって姿見を見る)はは、なるほど。いや、若様、あれは水晶の数珠にございます。海に沈みまする覚悟に際し、冥土に参る心構えとして檀那寺の和尚が授けましたのでござります。
公 子:ここが冥土?……それこそ不埒というもの。そして何か厭な光を放っている。あれは……水晶なのか。
博 士:水晶とは言いながら、近頃は専ら硝子を用いますので。
公 子:(一笑して)私の恋人ともあろうものが、そんなものは無ければ可いのだ。しかし、硝子とは何事ですか。金剛石、あるいは真珠が綺麗に揃ったのが可い。……贈るのに相応しい頸飾をお検べください。
博 士:畏まりました。
公 子:そして、指環の珠の色も怪しい。お前達はどう見たか。
侍女一;近頃は、カンテラの灯の露店で、、紅玉石、緑宝玉と称して、貝を売っていると聞いております。
公 子:お前達の化粧の泡が波に流れて渚に散った、あの貝が宝石か。
侍女二:金襴の服を身に纏い、青い頭巾を被りました立派な玉商人の売りますものにも偽物が多いとのことでございます。
公 子:博士、ついでに指環を贈ろう。僧都、すぐに出迎えて、遠路ではあるが、途中、早速、硝子とその擬い珠を取り棄てさせてください。お老寄にはご苦労であるけれど。
僧 都:(苦笑する)若様には、新夫人がまだ海に馴れておられず、御到着の遅いことばかりを気になされて、この老人がここに姿を消せば、瞬く間もなく、お姿見の御馬の前に映ります神通をお忘れなされて、老寄に苦労などと、これまた心外な御言葉を頂戴いたしますわ。
公 子:ははは、(無邪気に笑う)これは、失礼しました。
博士、僧都、一礼した後、廻廊から退場する。侍女等は慇懃に見送る。
つづく




