泉 鏡花「海神別荘」現代語勝手訳 二
舞台が転じて、しばし暗黒。静寂の中に大きな波の音が聞こえてくる。やがて一個、花白く、葉の青い蓮華燈籠がゆらゆらと波に漂うようにして顕る。続いて、花が赤い同じ燈籠が中空のような高い処に出る。またもう一つ、今度は低いところに出る。またもや、もう一つ、少し高いところに。その数が五個になる時、波が幾重にも重なった舞台が顕る。美女、髪を島田に結っている。白い振り袖、綾の帯、紅の長襦袢、胸に水晶の数珠をかけ、両袖で襟を包み隠すようにして、波の上に雪のような白い龍馬に乗せられている。およそ手綱くらいの間を隔てて、一人、下髪の女房が旅の扮装で、素足に小袿の褄を端折り、片手に市女笠を携え、片手に蓮華燈籠を提げている。最初に見えた燈の影はこれである。黒潮騎士が美女が乗っている白龍馬の周りをひしひしと囲んで、両側を二列体制で進む。およそ十人。皆黒人の形相。手に手にすらりとした槍を立てる。穂先が白く、キラキラとして、氷柱を倒にしたような鋭い先は美女の黒髪を縫わんとするばかりである。あるものは燈籠を槍に結んでいて、高い位置にあるのはこれである。あるものは手にし、またあるものは腰に提げている。
女 房:貴女、お疲れでございましょう。一休みなさいますか。
美 女:(夢見るようにその瞳を睜く)
ああ、(と、ため息をつき)
もし、誰方ですか。……私の身体は足を空にして、(馬の背で裳裾を掻き抱き)倒に落ちて、落ちて……、波に沈んでいるのでしょうか。
女 房:いいえ、お美しいお髪一筋、風にも波にも、お縺れにはなってございません。何で、お身体が倒などと、そんなことがございましょうか。
美 女:いつか、いつですか、昨夜か、今夜か、前の世ですか。私が一人、楫も櫓もない舟の筵に乗せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ捕らえられて行く私への供養のためだと言って、船の左右へ、また前後に、波のまにまに散って浮く……蓮華燈籠が流れました。
女 房:それは、水に目がお馴れではない貴女には道しるべ、また土産にもと思いまして、ほら、これが(手に翳す)その燈籠でございます。
美 女:まあ、灯も消えずに……
女 房:燃えた火が消えますのは、油の尽きる、風の吹く陸だけのことでございます。一度この国へ入りますと、ここには風が吹きません。ただ、花の香りがほんのりと通うばかりでございます。紙細工も珠に替わり、葉が青いのは暗緑色の見事な翡翠に、花片の紅白は、真玉、白珠、紅宝玉になるのでございます。燃える灯も、ほら、瞬きながら消えない星でございます。ご覧ください。貴女。お召しものが濡れましたか、お髪も乱れはしておりますまい。何で、お身体が倒でございましょう。
美 女:最後に一目、故郷の浦に近い峰に、月がかかっているのを見たと思いました。しかし、ただそれきりで、後は底へ引かれるように船が沈んで、私は波に落ちたのです。ただ幻に、その燈籠のような蒼い影を見て、胸を離れて遠くに行ってしまう自分の魂か、はたまた導く鬼火かと思いましたが、ふと見ますと、前途にもあれあれ(彼方を指す)、遙か下の方だと思われるところに、月が一輪、同じ光りで見えますもの。
女 房:ああ、(その遠くの光りを見やって)あの光りは、いえ、月影ではございません。
美 女:でも、貴方、雲が見えます。雪のような。また、瑠璃色の空が見えます。そして、真白な絹糸のような光が射します。
女 房:その雲は波、空は水。一輪の月に見えますのは、これから貴女がおいでになる海の御殿でございます。あそこへお迎えするのです。
美 女:そして、そこへ行って、私の身体はどうなるのでございましょうねぇ。
女 房:ほほほ、(笑う)何も申しますまい。ただお嬉しいことなのです。おめでたく存じます。
美 女:あの……、捨小船に流されて、海の贄として取られていく。あの……、(辺りを眗す)これが、嬉しいことなのでしょうか。めでたいことなのでしょうかねぇ。
女 房:(再び笑って)貴女のお国ではいかがでございましょうか。私たちの故郷では、もうこの上もないくらい嬉しい、おめでたいことなのでございますもの。
美 女:あそこまでの道程は?
女 房:貴女のお国でたとえれば、難しい……。おお、そうそう、五十三次というものがあるとうかがいますが、その東海道を十度ずつ、三百度、往還りを繰り返して、三千度いたしますくらいでございましょう。
美 女:ええ、そんなに。
女 房:お乗りの龍馬は風よりも早いのでございます。お道筋は黄金の欄干、白銀のお廊下、ただただ花の香りのする中を行けば、やがてお着きなさいます。
美 女:潮風、磯の香、海松、海藻の……、海の中は咽喉を刺す硫黄の臭気が溢れているとところだと思っていましたが……本当に清しい、佳い薫り。
(柔らかに袖を動かす)……ですが、時々悚然する腥い香りがしますのは?
女 房:人間の魂が貴女を慕うのでございます。海月が寄るのでございます。
美 女:人の魂が? 今、海月とおっしゃいました?
女 房:海に参ります醜い人間の魂は、皆、海月になって、ふわふわ彷徨って歩行くのでございます。
黒潮騎士:(口々に)――煩い。しっしっ。――(と、姿は見えないが、龍馬の周りに寄ってくる海月を叱りつける様子)
美 女:まあ、情けない、お恥ずかしい。(袖で顔を蔽う)
女 房:いえ、貴女は、あの御殿の若様の新夫人でいらっしゃいます。もはや人間ではありません。
美 女:ええ!(驚き、袖を落とす――舞台が転じて、真っ暗になる)
女 房:(声だけ)急ぎましょう。美しい方を見ると、黒鰐、赤鮫が襲います。騎馬が前後を守護しましたので、ご心配はありませんが、いざ争いになりますと、斬り合い、攻め合いの修羅場をお目にかけなければなりません。――騎馬の方々、急いでください。
燈籠が一つ行き、続いて一つ行く。漂うようにして高く、低く、奥の方へ深く進む。
舞台は燦然と明るい。前方に半透明で青碧色の美しい宮殿が顕る。
つづく