表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

泉 鏡花「海神別荘」現代語勝手訳 二

舞台が転じて、しばし暗黒。静寂の中に大きな波の音が聞こえてくる。やがて一個(ひとつ)、花白く、葉の青い蓮華(れんげ)(どう)(ろう)がゆらゆらと波に漂うようにして(あらわれ)る。続いて、花が赤い同じ燈籠が中空のような高い処に出る。またもう一つ、今度は低いところに出る。またもや、もう一つ、少し高いところに。その数が五個(いつつ)になる時、波が幾重にも重なった舞台が(あらわれ)る。美女、髪を島田に結っている。白い振り袖、(あや)の帯、(くれない)長襦袢(ながじゅばん)、胸に水晶の数珠をかけ、両袖で襟を包み隠すようにして、波の上に雪のような白い(りゅう)()に乗せられている。およそ手綱(たづな)くらいの間を隔てて、一人、下髪(さげかみ)の女房が旅の扮装(いでたち)で、素足に小袿(こうちぎ)(つま)を端折り、片手に市女(いちめ)(がさ)を携え、片手に蓮華燈籠を()げている。最初に見えた(ともしび)の影はこれである。黒潮(こくちょう)騎士が美女が乗っている白龍馬の周りをひしひしと囲んで、両側を二列体制で進む。およそ十人。皆黒人の形相。手に手にすらりとした槍を立てる。穂先が白く、キラキラとして、氷柱(つらら)(さかさま)にしたような鋭い先は美女の黒髪を縫わんとするばかりである。あるものは燈籠を槍に結んでいて、高い位置にあるのはこれである。あるものは手にし、またあるものは腰に提げている。


女 房:貴女(あなた)、お疲れでございましょう。一休みなさいますか。


美 女:(夢見るようにその(ひとみ)(みひら)く)

ああ、(と、ため息をつき)

もし、誰方(どなた)ですか。……私の身体(からだ)は足を空にして、(馬の背で裳裾を掻き抱き)(さかさま)に落ちて、落ちて……、波に沈んでいるのでしょうか。


女 房:いいえ、お美しいお(ぐし)一筋、風にも波にも、お(もつ)れにはなってございません。何で、お身体が(さかさま)などと、そんなことがございましょうか。


美 女:いつか、いつですか、昨夜(ゆうべ)か、今夜か、(さき)の世ですか。私が一人、(かじ)()もない舟の(むしろ)に乗せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ捕らえられて行く私への供養のためだと言って、船の左右へ、また前後(あとさき)に、波のまにまに散って浮く……蓮華(れんげ)(どう)(ろう)が流れました。


女 房:それは、水に目がお馴れではない貴女(あなた)には道しるべ、また土産にもと思いまして、ほら、これが(手に(かざ)す)その燈籠でございます。


美 女:まあ、(あかり)も消えずに……


女 房:燃えた火が消えますのは、油の尽きる、風の吹く(おか)だけのことでございます。一度この国へ入りますと、ここには風が吹きません。ただ、花の香りがほんのりと通うばかりでございます。紙細工も珠に替わり、葉が青いのは暗緑色の見事な翡翠(ひすい)に、花片(はなびら)の紅白は、真玉(まだま)(しら)(たま)(こう)宝玉(ほうぎょく)になるのでございます。燃える()も、ほら、瞬きながら消えない星でございます。ご覧ください。貴女。お召しものが濡れましたか、お(ぐし)も乱れはしておりますまい。何で、お身体が(さかさま)でございましょう。


美 女:最後に一目、故郷の浦に近い峰に、月がかかっているのを見たと思いました。しかし、ただそれきりで、後は底へ引かれるように船が沈んで、私は波に落ちたのです。ただ幻に、その燈籠のような蒼い影を見て、胸を離れて遠くに行ってしまう自分の魂か、はたまた導く鬼火かと思いましたが、ふと見ますと、前途(ゆくて)にもあれあれ(彼方を(ゆびさ)す)、遙か下の方だと思われるところに、月が一輪、同じ光りで見えますもの。


女 房:ああ、(その遠くの光りを見やって)あの光りは、いえ、月影ではございません。


美 女:でも、貴方、雲が見えます。雪のような。また、瑠璃(るり)(いろ)の空が見えます。そして、真白(まっしろ)な絹糸のような光が射します。


女 房:その雲は波、空は水。一輪の月に見えますのは、これから貴女がおいでになる海の御殿でございます。あそこへお迎えするのです。


美 女:そして、そこへ行って、私の身体はどうなるのでございましょうねぇ。


女 房:ほほほ、(笑う)何も申しますまい。ただお嬉しいことなのです。おめでたく存じます。


美 女:あの……、(すて)小船(こぶね)に流されて、海の(にえ)として取られていく。あの……、(辺りを(みまわ)す)これが、嬉しいことなのでしょうか。めでたいことなのでしょうかねぇ。


女 房:(再び笑って)貴女のお国ではいかがでございましょうか。私たちの故郷(ふるさと)では、もうこの上もないくらい嬉しい、おめでたいことなのでございますもの。


美 女:あそこまでの道程(みちのり)は?


女 房:貴女のお国でたとえれば、難しい……。おお、そうそう、五十三次というものがあるとうかがいますが、その東海道を十度(とたび)ずつ、三百度、(ゆき)(かえり)りを繰り返して、三千度いたしますくらいでございましょう。


美 女:ええ、そんなに。


女 房:お乗りの龍馬は風よりも早いのでございます。お道筋は黄金(こがね)の欄干、白銀のお廊下、ただただ花の香りのする中を行けば、やがてお着きなさいます。


美 女:潮風、磯の香、海松(みる)海藻(かじめ)の……、海の中は咽喉(のど)を刺す硫黄(いおう)臭気(におい)が溢れているとところだと思っていましたが……本当に(すず)しい、()い薫り。

(柔らかに袖を動かす)……ですが、時々悚然(ぞっと)する(まなぐさ)い香りがしますのは?


女 房:人間の魂が貴女(あなた)を慕うのでございます。海月(くらげ)が寄るのでございます。


美 女:人の魂が? 今、海月とおっしゃいました?


女 房:海に参ります醜い人間の魂は、皆、海月になって、ふわふわ彷徨(さまよ)って歩行(ある)くのでございます。


黒潮騎士:(口々に)――(うるさ)い。しっしっ。――(と、姿は見えないが、龍馬の周りに寄ってくる海月を叱りつける様子)


美 女:まあ、情けない、お恥ずかしい。(袖で顔を(おお)う)


女 房:いえ、貴女は、あの御殿の若様の新夫人(にいおくさま)でいらっしゃいます。もはや人間ではありません。


美 女:ええ!(驚き、袖を落とす――舞台が転じて、真っ暗になる)


女 房:(声だけ)急ぎましょう。美しい方を見ると、黒鰐(くろわに)(あか)(ざめ)が襲います。騎馬が前後を守護しましたので、ご心配はありませんが、いざ争いになりますと、斬り合い、攻め合いの修羅場をお目にかけなければなりません。――騎馬の方々、急いでください。


  燈籠が一つ行き、続いて一つ行く。漂うようにして高く、低く、奥の方へ深く進む。

  舞台は燦然と明るい。前方に半透明で青碧色の美しい宮殿が(あらわれ)る。


つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ