泉 鏡花「海神別荘」現代語勝手訳 一
泉鏡花の戯曲「海神別荘」を現代語訳してみました。
泉鏡花の現代語訳については、 白水銀雪氏が精力的に行っておられますが、魅力的なこの作品を自分なりに現代語訳してみようと考えました。
一応、原文の流れに沿って、訳してはいますが、自分の訳したいように現代語訳をしていますので、適当に言葉を付け加えたりしており、厳密な逐語訳とはなっていません。
超意訳と言うよりも、ある意味勝手な訳となっている部分もありますので、その点ご了解ください。
浅学の素人訳のため、いくつもの過ちを犯しているかも知れません。その時は、ご教示いただければ幸いです。
この訳は「泉鏡花集成 7」(種村季弘編 ちくま文庫)を底本とし、「鏡花 小説・戯曲選第十一巻」(岩波書店)を参考としました。
時 :現代
場所:海底にある美しい宝石で造られた宮殿
人物:公子(海の世界の世継ぎ)
美女(貧しい漁師の娘)
沖の僧都(年老いた海坊主)
博士
女房
侍女(七人)
黒潮騎士(多数)
半透明の深緑色や青碧色の美しい宝石で造られた厳かな宮殿の中。
黒い影が見えている。――沖の僧都である。
僧 都:お腰元衆。
侍女一:(薄い色の洋装をして扉から出てくる)
はい、はい。これは、僧都様。
僧 都:や、これはまた何と美しい、変わった扮装でおいでなさった。
侍女一:まあ、いきなりのご挨拶でございますわね。美しいかどうかは分かりませんが、変わった服装には、間違いございません。若様のかねてのお望みが叶い、今夜、お輿入がございますもの。若奥様が島田のお髪、お振り袖と伺いましたので、私どもは、そのお姿が一層引立ますようにと、皆で、申合せてこのような服装にしたのでございます。
僧 都:はあ、それにしても、本当によくお似合いになっておられるが、これは一体どこの浦の風俗じゃろうかの。
侍女一:僧都様はよく海の上へおいでなさいますのに、よくご存じでございましょう。
僧 都:いや、儂が荒海の中に姿を現すのは暴風雨の時じゃから、いつもたいてい真っ暗で、見えるのは墓場と化した船に、裸体の死骸ばかり。色の付いた女性の衣などは睫毛にもかからぬほど、お目にかかりませぬ。まあ、そうは言っても、儂がまだ洟垂れ小僧の時分には、蒼臭い炎の息を吹きながら、ブラウスの白はないか、袖の紅いのはないかと、船室やあちこちの狭間、帆柱の下、錨綱の下までも、懸命に捜したものじゃが、それはもう遠い昔の話、今の僧都はそんなことにはとんと縁がなくなって、一向に不案内じゃ。
侍女一:(笑う)
まあ、随分とご精進されたのでございますね。僧都さま、この装いはですね、桜貝とか蘇芳貝など、色んな貝がまるで花の蕊のようになって、波が白く咲きますでしょう。大陸では、その波が打ち寄せる渚を青い山と緑の小松が美しく包むのです。婦たちは、夏の頃になると、百合、桔梗、月見草、夕顔など、雪のような白い装いなどをいたしますが、それが朝の光に、また夜の月影に、ここから遙かに、(と言いながら、広い宮殿の高い碧瑠璃の天井を、髪艶やかに打ち仰ぐ)姿を映すのを見て、ああ、何と風情があって、美しいことか、と視めたものですから、今夜はこの服装に揃えたのでございますよ。
僧 都:うむ、一段とお見事じゃ。が、朝、ご機嫌伺いに寄った時には、殿様、お腰元衆、どちらも不断の服装でおいでであったのに。あの時はまだ、今宵、あの美女がこちらへ輿入れすることはまだ決まっておらなんだ。もともと人間というのは決断が遅いでな。……それじゃのに、かねてからのお心掛けか。よくこんなに早う、装うことが出来たもんじゃ。
侍女一:まあ、貴老は。私たちのこの玉のような白い膚は、白い尾花の穂を散らした山々の秋の錦がそのまま水に映るのと同じで、こうと思えば、ただそれだけで、思いのままに身の装いができる身体でおりますことを、貴老はお忘れなさいましたか。
貴老は……。貴老だって、違いはしません。緋の法衣を召そうとお思いになれば、ただそう思うだけで、あっという間に峯に、一本燃え立つような……。
僧 都:ま、ま、分かった。(腰を屈めながら、圧えるように掌で制す)
何とも相済まなんだ。海の住まいの有り難さに馴れ切って、陰日向、雲の往来で、自然と潮の色が変わるように、自由自在、心のままに、たちどころに身体の装ができることを忘れておりました。
ではあるけれども、この僧都の身は、こんな(と言いながら、法衣を摘まむ)墨染めの暗夜はよいが、なまじ緋の法衣など絡おうものなら、ずぶ濡れの提灯じゃとか、戸惑ってひらひらしている鱏の魚じゃなどと言われましょう。威厳も何もあったものではない。(と、細く丈の長い鉄の錨を倒にして携えた杖を軽く突き直す)
いや、また忘れてはならぬ。忘れぬ前に、申し上げたいことがあって参上したのだ。若様へお取り次ぎをお頼み申します。
侍女一:畏りました。ただ今。……そう、丁度いい頃合いでございますわ。
右方の闥を開けて出て行く。
僧 都:(謹んだ様子で室内を眗す)
はあ、争われぬものよ。美しいものを見ると、法衣の袖に春がそよぐわ。
(錨の杖を抱いて彳む)
公 子:(をサッと押して、慌ただしく登場。顔は玉のように気品あり。黒髪を背中で捌き、青地の錦の直垂、黄金の剣を身につけている。上段の一段高い床の端に堂々と立つ)
爺、来たか。
侍女五人、先ほどの一人を先頭にすらすらと従い出てくる。いずれも洋装。五番目の侍女が一番若い。二人の侍女は床の上の公子の背後に、もう二人は床を下りて僧都の前に、第一の侍女はその背に立つ。
僧 都:は。(広々とした床に跪く。控えていた侍女一は僧都が持っていた錨の杖を預かる)
これは、これは、御休息の処、恐れ入ります。
公 子:(親しげに)
爺、何か用か。
僧 都:紺青、群青、白群、朱、碧の御蔵の中から、この度の件に就きまして、先方へお遣わしになりました品々の類いと、その数を念のために申し上げようと思いましてござります。
公 子:(立ったままで)
おお、あの女の父親に遣った、陸で結納とか言うもののことか。
僧 都:はあ、いや、御聡明な若様。若様には覚違いでござります。彼らの世界で言う結納と申しますのは、親と親が縁を結び、媒酌人がその仲を取り次いで、婚約の祝儀やら目録やらを贈るものでござります。ですが、この度は、先方の父親が若様の御支配なされます『わたつみの財宝』に望みを掛け、もしも、この願いが届くのであれば、見目麗しい、この世に類い稀な一人の娘を海底に捧げるとの約束をしかと誓ったのでござりました。すなわち、彼の望んだ宝をお遣わしになりましたことによって、是非もなく誓いの通り、娘を波に沈めたのでござりまして、とすれば、お送りなされました数々の宝は彼らが結納と言うよりも、俗に、女の身代というものでござりましょう。
公 子:(軽く頷く)
なるほど、分かった。しかし、何にしても、少しばかりのことを別に知らせるには及ばんのに。
僧 都:いやいや、鱗一枚、一草の空貝と言えども、僧都が承りました上は、小さなことなど気になさらない若様には、煩わしくお感じになるかも知れませぬが、老人は、こういうことは必ずお耳に入れなければならないものと極まっております。お腰元衆もよろしくお執成をお願いいたします。(五人の侍女に目遣いして)どうか、お聞き取りくださいますよう。
侍女三:若様、お座へ。
公 子:(後ろを振り向き)
椅子をこちらへ。
大きい楕円形の、白く落ち着いた光沢を帯びた美しい卓子が上段の中央にある。侍女三と侍女四が、二人して白い枝珊瑚の椅子を捧げて床の端近く、紅い珊瑚の椅子と向かい合わせに据えられる。
二組の椅子は枝のままの見事な珊瑚の紅白の椅子で、紅いのは花のよう、白いのは霞のような色である。
僧 都:真鯛大小八千枚。鰤、鮪ともに二万匹。鰹、真那鰹、各一万本、大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、鰷身魚、目張魚、藻魚、合わせて七百籠。若布のその幅六丈、長さ十五尋のもの、百枚一巻きにして九千連。鮟鱇五十袋。虎河豚一頭。大蛸一番。さて、別にまた、月の灘の桃色の枝珊瑚一株、丈八尺。(この分は手で示す)周囲三抱えの分でござります。ええっと、月の真珠、花の真珠、雪の真珠、いずれも一寸の珠三十三粒、八分の珠百五粒、紅宝玉三十顆、大きさ鶴の卵、粒を揃えて、これは碧瑪瑙の盆に装り、緑宝玉、三百顆、孔雀の尾の渦巻きの数に合わせ、紫の瑠璃の台、五色に透いて輝く鰐の皮三十六枚、沙金の包七十袋。量目約百万両。閻浮檀金十斤也。緞子、縮緬、綾、錦、牡丹、芍薬、菊の花、黄金色の菫、銀で覆った、月草、露草。
侍女一:もしもし、今おっしゃられたのは、あの、すべてその娘御の身代とかにお遣わしになった分でございますか。
僧 都:すべて身代、と? ……はぁ、なるほど。(と、気づいて)とんだことを。これはこれは、海松房の袖に書いて覚えていたのをそのまま、潮に乗ったように、颯と読み流しました。はて、何から申したことやら。品目の多い処に、数もたくさんあって、ええええ、真鯛大小八千枚。
侍女一:鰤、鮪ともに二万匹。鰹、真那鰹、各一万本。
侍女二:(僧都の前にいる)
大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、鰷身魚、目張魚、藻魚の類、合わせて七百籠。
侍女三:(公子の背後にいる)
若布その幅六丈、長さ十五尋のもの百枚一巻九千連。
侍女四:(同じく公子の背後にいる)
鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大蛸一番。まあ……
(笑う。侍女皆笑う)
僧 都:(額の汗を拭く)それそれ、さよう、さよう。
公 子:(微笑みながら)笑うな。老人は真面目なのだ。
侍女五:(一番若い。同じく公子の背後に附添う。派手な美しい声で)
月の灘の桃色の枝珊瑚樹、対の一株、丈八尺、周囲三抱えの分。一寸の珠三十三粒……雪の真珠、花の真珠。
侍女一:月の真珠。
僧 都:ちょっと、そこまで。までじゃ、までじゃ。までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、周囲三抱の分まででござった。
(公子に)鶴の卵ほどの紅宝玉、孔雀の渦巻きの緑宝玉、青瑠璃の盆、紫の瑠璃の台。この分は、天におられる(と言いつつ、仰いで礼拝する)月宮殿への貢ぎ物でございました。
公 子:私もそうではないかと思って聞いていた。僧都、それから後の、その菫、露草などだが、金銀宝玉の類は別にしても、そのような草花は魚類ほどには人間は珍重しないものだと聞く。が、同じくあの方へ遣わしたものか。
僧 都:綾、錦、牡丹、芍薬、縺れも散りもいたしませんのに、老人の言うことは、また早くも海松のように乱れてしまいました。ええええ、その菫、露草は、若様がこの度のご旅行で、真っ白な龍馬に乗られて、渚を浦づたいに行かれ、朝夕の茜や紫の雲の上を経て、山の峰までお忍びにてお出ましの折、珍しくお手に入れられましたものを、姉君様の乙姫様へご進物いたした分でございました。
侍女一:姫様は閻浮檀金で造られた一輪挿しに、真珠の露をお活けになり、お手許をお離しなさらないようでございます。
公 子:度々には手に入らないものだからな。私も大方、姉上に差し上げたそのことであろうと思った。
僧 都:その通りでございます。娘の親に遣わしましたのは、真鯛から数えまして、珊瑚一対……までに止まりました。
侍女二:海では何ほどのことでもございませんが、受け取ります陸の人は、鯛も比目魚も千と万、少ない数ではないでしょうに、わずかの日数でよくお手回し、お遣わしになりましたことでございますね。
僧 都:そうそう、そのこと。我らは一国、一島、津や浦の果てから果てを一網にできるけれどもな。人間夥間が大海原から取り入れます獲物というのは、貝に溜まった雫ほどの、ほんの些細なものでござってな、お腰元衆なども想像されればいいが、鉤の尖に虫を付けて、雑魚一筋を釣るという仙人業をいたしまするよ。この度の娘の父は、それほどまでではないけれど、小船一つで網を打つが、海月の大きさくらいにしょぼりと拡げて、泡にも足らない小魚を掬っておる。入れ物が小さいために、望みを満たすためには、どれだけ手間のいることか、何ともまどろっこしい。鰯を育てて鯨にするより、もっと歯痒い。段取りも何もないわ。
(公子に向かって)
若様は御短気じゃ。早く父親の願いを満たしてやって、誓いの美女を取ってこいとのご意向でござった。そのために、黒潮、赤潮の兵をちょっとばかし動かしましたわ。赤潮の剣は炎の稲妻、黒潮の黒い旗は黒雲の峰を築き、沖からドーッと浴びせるほどに一浦へ津波となって、田畑も家も山へと流した。そして、片隅の美女の家へ、一時に、玄関から裏口、畳から天井、はたまた屋根のずっと向こうにある丘の中腹まで、望みの魚を運び込んだのでござりましたよ。
侍女三:まあ、お勇ましい。
公 子:(少し俯き)勇ましいではない。家畑を押し流して、浦の者達は迷惑をしはしないか。
僧 都:いやいや、黒潮と赤潮が、密と爪弾きをしただけのこと。人命を断つほどのことではございませなんだ。もっとも、迷惑をかけるならかけてもいい。娘の親は、人間同士の間であっても、自分だけが思いがけない海の幸を、黄金の山ほど掴むことができたので、他の人々の困りごとなど、まったく気にも留めませぬ。海のお世子であられます若様が、人間界の迷惑などにお気遣いいただくようなことはまったくござりませぬ。
公 子:(頷く)それならよい。――僧都。
僧 都:はは。(あらためて手を支く)
公 子:あれの親は、こちらから遣わした娘の身代とかいうものに満足したであろうか。
僧 都:はい。満足いたしましたからこそ、この御殿のお求めに従い、美女を沈めたということでございます。もっとも、真鯛、鰹、真那鰹、その金銀の魚類のみでは満足をしませなんだが、続いて、三抱え一対の枝珊瑚を夜の渚に差し置きますと、山の端に出る月の光に、真紫に輝きますのを夢心地で抱きかかえました時、あの父親は白砂にひれ伏し、波の裾を吸い、『ああ、龍神様、この一命も捧げ奉りましょうぞ』と、その御恩のほどを有り難がりましたのでございます。
公 子:(微笑む)親仁の命などは御免だな。そんな魂を引き取ると、海月が殖えて、迷惑をするよ。
侍女五:あんなことをおっしゃいますよ。
一同、笑う。
公 子:けれども、僧都、そんなことで満足した人間の欲は浅いものだね。
僧 都:まだまだ、あれは欲深い方でございます。一人娘の身と交換に、海の宝を望みましたのは、欲念が逞しいからでございまして。……せいぜい人間同士、夥間うちで、女の白い柔らかな膩身を炎の燃え立つような目立つ衣装に包んで、値打ちを付けて売り渡すくらいが、関の山かと考えております。
公 子:馬鹿だな。
(珊瑚の椅子をスッと立って)
恋しい女よ。望めば生命でも遣ろうものを。……はは、はは。(微笑する)
侍女四:若様にお思われになった娘御は、天地かけて、波にかけて、本当にお幸せなことでございます。
侍女一:早く、お着きになればようございますのに。私どもも待ち遠しく存じ上げます。
公 子:道中の様子を見よう。旅の様子を見てみよう。
(闥の外に向かって叫ぶ)
おいおい、居間の鏡を寄越せ。
(闥が開き、侍女六と侍女七が二人して赤地の錦の蔽いが掛かった大きな姿見を捧げて出てくる)
僧都も見てご覧。
僧 都:失礼ながら。(膝をつきながら前に進む。侍女等、姿見を卓子の上に据えて、錦の蔽いを展く。侍女等は卓子の端の一方に集まる)
公 子:(姿見の面を指し、僧都を見返る)
あれだ、あれだ。あの一点の光りがそれだ。お前達も見ないか。
つづく