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ある日、恩返しと称して何人もの女の子が突然、家にやって来たお話。

作者: ゆうきまる


 01


 玄関の前に立ち、呼び出しボタンを一度、押す。

 小さな雨よけの軒下に少女はひとりで立っていた。

 身にまとっているのは、白い光沢ある布地で縫われた着物。裏打ちされた黒い布が襟ぐりや大きく開いた袖口から覗いて、まるで一羽の鶴を思わせるような意匠であった。背中まで届く真っ直ぐな艶のある黒髪。邪魔にならないよう前髪を横に分けた髪留めの赤がやけに映えていた。


 少女の耳に扉の内側から機械音声でピンポーン! と、チャイムの音が聞こえてくる。

 そこから室内は大して広くないことが容易にうかがいしれた。

 田舎の街にありがな、二棟隣建ての集合アパート。背の低いブリックと目隠し用のラティスで囲まれた敷地には、デカデカと「入居者募集!」の看板が塀に貼り付けてある。

 シックな外観から察するに、建てられてからの歳月はまだ大して経過していないようだ。それでも簡単には人が集まらないくらい、ここは田舎の街なのである。


 ガチャリと玄関扉の引手が下がり、ラッチの外れる音がした。

 かすかに開いたドアの内側。暗がりの中から住民らしき男の姿が見えてくる。

 背は程々に高く、少女は思わず相手を見上げた。服装や容姿は好意的にとらえれば”若者らしい”の一言でまとめられるだろう。悪く言えば平凡である。 


「……あ、あの」


 相手の顔を確認した女の子が小さく呼びかけた。その表情は嬉しさなのか懐かしさなのか、少し泣きそうな感じを思わせる。


「え、えっと……どなたですか?」


 見知らぬ少女を前にして、男がようやく問いかけた。

 口にした声はどこか怪訝そうに聞こえる。


東吉郎とうきちろうさん……あたし、来ちゃった♪」


 男の名前を口にして、女の子は精一杯の甘えた様子でつぶやく。

 東吉郎と呼ばれた男性はなおも不審そうな表情を崩さず、相手の正体を確かめようとしていた。


「そ、その……。君はぼくのことを知っているみたいだけど、ちょっと思い出せない。ご、ごめんね」

「いえ……。それも致し方ありません。あたしの正体は五年前、湖のほとりで心無い釣り人の糸に絡まって動けなくなっていたところを東吉郎さんに助けていただいた”鶴”なのです!」

「え?」


 このご時世に【鶴の恩返し】である。昔話にも程がある。


「随分と長い時間がかかってしまいましたが、この度ようやく『人化の術』を修めまして、新美東吉郎さんの元へやってまいりました。どうぞ、末永くよろしくお願いします……」


 うやうやしくあいさつを済ませて、頭を下げた。東吉郎はなんだか神妙な顔つきで自らの正体を”鶴”であると明かした少女を見下ろしている。


「ご、ごめんね。もう間に合ってるから……」


 冷たく断りの文言を残して、扉を閉めようとした。


「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ!」


 ドアの隙間へとっさに足を割り込ませ、家主の行動を阻止する。見かけとちがって、行動はまるっきり借金の取り立て屋だった。


「いまちょっと立て込んでいるんだ。悪いけど、君の相手をしている余裕がないんだよ……」

「なんでよ! 普通、こんなかわいい女の子が誘ってもいないのに自分の家までやってきたら、あまりの幸運と信じられない現実にとまどう状況でしょ? 漫画だったら見開きでふたりの再会を感動的に盛り上げる場面よ!」


 妙に即物的な例を上げて自身の正しさを訴えた。多分、漫画やアニメの見過ぎなのだろうが、その発言の痛さに思い至らない辺りがとっても子供である。


「と、とにかく、いまは困るんだ。本当にごめんね!」

「あー! なに、自然と内側からチェーンを掛けようとしているのよ! いいから大人しく家に上げなさいってば! はっ……。ひょっとしたら女ね? あたし以外の女がこの部屋に入っているのね! ゆ、許せないわ!」


 唐突に女の勘を発動させ、東吉郎を責め立てていく。勢いのまま扉をこじ開け、玄関口へと乗り込んだ。

 入り口のタイルの上には女物と思しき二足の靴が置かれていた。ひとつは白い地下足袋じかたび。もうひとつは深い緑色をしたサンダルだった。


「ひ、ひとりだけじゃなく、ふたりも……?」

「ねえ、君。本当に困るんだよ。それでなくてもややこしい状態なのに……」

「ややこしいのは東吉郎さんのせいでしょ! こ、このあたしが念願かなってやって来たというのに、当の本人は修羅場の最中だなんて……」

「いや、そういうことじゃ……」

「とにかく、あとのことはあたしに任せて! 泥棒猫は力づくで排除するまでよ!」


 下履きを脱ぎ捨て、家主の制止も聞かずにズカズカと室内へ上がっていく。

 廊下を進んで、横開きのドアを無遠慮に開いた。


「たのもー!」


 開口一番、挑みかかるような物言いで部屋の中にいるはずの恋敵ライバルをどやしつける。


「なんじゃ? また新しいのが出てきたぞ……」

「これで三人目ですねえ」


 部屋の内側、フローリングの床に敷かれた大きめの白いラグ。そこに直接、腰を落ち着けているふたりの女の子。彼女たちは突如として現れた闖入者を見上げながら短くつぶやいた。

 聞こえてくる声色は、驚いたというよりも呆れ返っている印象だ。


「な、なによ、あなたたちは……?」


 勢い任せに飛び込んでみたはいいが、実際に相手を目の前にすると、途端に怖気づく着物姿の少女。その理由は、視界にとらえたふたりの女の子がただの人間ではないと即座で気づいてしまったからだ。


「いきなり現れて大層な物言いじゃの……。まあ、いいか。わしの名前は”あい”。まだ子狐の時、湖のほとりで捕獲罠に捕まって難儀していたところを東吉郎に助けてもらったのじゃ。ずっと山におったが、宅地開発で済む場所がのうなって東吉郎を頼り……恩を返すためにやって来たのじゃ」


 ごまかすように恩返しを口にする、明るい髪色の少女。身につけているのは巫女装束を思わせる白と赤の布地を組み合わせたノースリーブのシャツに赤いミニスカート。そこからつま先まで、まぶしい素足が伸びている。クセの強いオレンジ色の長い髪をポニーテールにまとめ、目尻の釣り上がった大きな瞳が妙に印象的だった。


「そ、そうなの……。で、そっちのもうひとりは?」


 よく聞けば、恩返しでもなんでもない藍の自己紹介。

 ツッコミを入れるよりもスルーしたほうがいいと判断したのか、女の子はあわててもうひとりの人物に声をかけた。


「あ……。わたくしは亀野ミドリ。湖のほとりでカラスに突かれていたところを東吉郎さまに助けていただきました。そのことを泉の底におられる乙姫様にお知らせしたところ、ぜひお招きしたいと言われましたので、こうして人間の姿でやってまいりましたのよ……」


 おっとりした口ぶりで自らの事情を説明するミドリ。

 女の子は一瞬、泉の底では鯛やヒラメの代わりに誰が踊るのだろうかと気になったようだが、まあ理由は人それぞれだ。

 無造作に足を投げ出しているキツネの藍とちがって、こちらは折り目正しくラグの上で正座をしている。ピンと伸ばした背筋。身につけているのは落ち着いたモスグリーンのサマーニットにオフホワイトのミニスカート。スラリとした足にはこの季節にしてはデニールの大きいストッキングを履いていた。


「あなたも東吉郎さんに助けてもらったわけね」

「あの頃には小さなゼニガメだったわたくしも、いまではこうして立派なクサガメになれました……」


 そう語って両手を胸の上に置く。体に張り付くサマーニットの盛り上がりは、そこだけがガラパゴスゾウガメのようであった。つまりは巨乳。

 肩口で揃えたゆるいウェービーヘア。色素が濃い黒髪はまるで水に濡れているかのようだった。温和な雰囲気を醸し出すやさしい表情は見るものに母性と安心を感じさせる。


「それで、お主こそ何者なのじゃ? まあ、聞かずともその格好で大体、見当はつくがの」


 両腕で上半身を支え、相手を見上げながら藍が問いかけた。


「ふ、ふふ……。よくぞ聞いてくれたわね! あたしの名は鶴姫。その正体は由緒正しい丹頂家の血を引く……」

「なんじゃ、やっぱり正体は鶴か」

「なんですぐにバラすのよ!」


 軽く流されてしまい、怒りを露わにする鶴姫。そこへ扉の向こう側からようやくと家主である東吉郎が顔をのぞかせる。


「あの……。き、きみたち三人ともいきなりやって来て、本当に何者なんだい? さっきから【恩返し】がどうこう言ってるみたいだけど……」


 手に持ったトレイに三杯のアイスティーを載せ、近くにあった白いテーブルに置く。

 正体が誰であれ一旦、受け入れた限りには、客人としてもてなすという考え方なのだろう。よく言えば親切だが、悪くすると他人につけ入るスキを与える。東吉郎と呼ばれた男性は間違いなく後者であるようだ。


「だから、さきほども説明したじゃろう。この鶴もわしらと同様に昔、お主に助けられた動物じゃ。受けた恩を返すために人の姿となってここにやってきた。悪いことは言わん。黙って恩返しされたほうが身のためじゃぞ」

「え? も、もし、断ったら……」

「末代まで祟るぞ」


 急に声の調子を落とし、東吉郎を脅すような口ぶりで迫る。


「ど、どうしてだよ……。ぼくは別に恩返してほしいなんて頼んでいないのに?」

「わかっておらぬのう。恩讐というのは他者に対する未練の裏表じゃ。どちらが残っても思いを遂げるには”取り憑いて”、相手を亡き者とするしかない。悪いことは言わぬから、わしらの恩返しを素直に受けておけ……」


 ストローでアイスティーをすすりながら、藍が諭すように伝える。

 いつの間にか鶴姫もテーブルの前に座り込み、同じくグラスを手にしていた。

 最初にやって来たときの態度はどこに行ったのか、前のふたりと同調して東吉郎に恩返しをしようと企んでいる。


「うーん。じゃあ、【恩返し】って具体的には何をしてくれるわけ?」


 答えに詰まった東吉郎が迷った挙げ句に訊き返す。

 はたから見れば、詐欺師の言葉に耳を傾けるような所業だ。


「あ、あたしはずっと東吉郎さんのそばでお世話をできれば幸せです……」

「わたくしは、言いつけどおりに東吉郎さまを泉の底へお招きできましたら」

「わしは寝床と食事に困らなければ、それ以上のぜいたくを言うつもりはないのお」


 ひとりだけ明らかに恩返しと無縁のやつがいるが、何しに来た?

 とにもかくにも彼女たちはここに居座るつもりであるのは間違いなさそうだ。

 乙姫様のところは、きっと行ってしまうと百年くらい時間が過ぎてしまうから、この上なく危ない。


「で、でもね。ぼくにはきみたちを助けた覚えがないんだ。多分、誰かと勘違いしているんじゃないかな?」


 東吉郎の発言に三人の表情が一斉に凍りつく。まさかここまで来て人違いなんて落ちが待っているとは予想もしていなかった模様。


 02


「どういう意味よ?」


 鶴姫が驚いた様子で訊き返す。ごまかしている……わけではなさそうだった。


「いやでも、さっきから話を聞いていると、ぼくが君たちを助けたのはいまから五年前のことなんだよね? その頃のぼくは都会の学校に通っていて、この街にはいなかったんだよ」


 意外すぎる返答。東吉郎以外の全員が彫像のように固まってしまった。


「……いや、ちょっとお待ち下さい」


 みなの沈黙を破ってミドリが声を上げた。


「ど、どうしたのよ? なんだか、おかしなオーラが漂ってるわよ……」


 隣に座っていた鶴姫が、穏やかならざぬ感情を敏感に察して身をそらした。

 ミドリは意にも介さず、自説を語り始める。


「たとえ、この街に住んでいなかったとしても、たまたまその日は湖に来ていて、わたくしたちを助けたのかもしれません。つまり、東吉郎さまのアリバイはいまだ証明されたわけではないのです」

「そ、そんな! だって、ぼくは本当に……」

「い、いけませんわ……。だ、だだだだ、だって、亀の恩人を泉の底までお連れいたしませんと、ま、また、乙姫様が年の始めの余興と称して、わたくしの甲羅で吉兆占いを……。あああああ!」


 怯えたように両手で頭を抱えながら必死に訴えるミドリ。身に降りかかる悪夢を思い出して恐怖に我を忘れている。

 どうやら、現代の龍宮城は思った以上にブラックな環境のようだ。と言うか、そんなところへ恩人を連れて行こうとしているのか?


「ふむ……。ちょっとじっとしておれよ、東吉郎」

「な、なんだい?」


 不意に藍が立ち上がって男のそばへ移動する。男女の体格差以上に少女が小柄であるため、頭のてっぺんが肩口にまで届かない。


「くんくんくん……」


 東吉郎が身に着けていたシャツに顔を近づけて、匂いを確かめるように何度も鼻を動かした。


「お、おい、ちょっと……」


 女の子を諌めようと肩に手を置いた瞬間、藍が閉ざしていた瞳を大きく見開き、上を向く。


「これは……。この東吉郎は、わしを助けた東吉郎ではないぞ!」

「言ってる意味がわからないわよ……」


 ふたりの様子を不思議そうに眺めていた鶴姫が小さくつぶやく。

 藍の言葉を聞いたミドリは、何やら声にならないうめき声を上げながら白いラグに顔を突っ伏した。あ、こいつも実のところは恩返しじゃないな……。


「つまりじゃな。あのとき、わしらに手を差し伸べた人間はこの新美東吉郎の名前を語った赤の他人ということじゃ!」

「そんなことして誰が得するのよ? そもそも、あなたの鼻がどれだけ当てになるわけ?」


 不審そうな目つきで鶴姫が疑問を呈する。にも関わらず、藍は確信を持った表情で相手の苦言に反論した。


「見た目とちがって、人の匂いはそうそう変わらん。なにより、まだ幼い頃の九死に一生を得た瞬間じゃぞ? 脳裏の奥深くまでその時の匂いは刻み込んでおる。間違いようがないのじゃ」

「だったら五年前にあたしたちを助けてくれたのは誰なのよ?」

「そ、そうですわ! 別に本当の恩人でなくても人間であれば、この際は誰でも……」


 鶴とキツネが割と真面目に会話を続けている最中にも、亀の思考はドンドン悪い方へ流れていく。だが、その希望を断ち切るように鶴姫がいま一度、東吉郎の全身を眺めながらぽつりと違和感を口にした。


「……そう言えば、あたしを助けてくれたのはまだ小さな子供だったわ。年で言えば、十になるかどうか。それから五年でここまで大きくはならないよね」

「そうじゃのお。言われてみれば、わしを救ってくれたのもかなり、子倅こせがらだったのじゃ」

「ど、どどどどど、どうしましょう……。もういっそのこと、亀甲縛りにして有無を言わさず水の中へと引きずり込んでしまえば、証拠も残らない……」


 ますます混迷の様相を強めるミドリを放置したまま、ふたりは記憶と現実の乖離に頭を悩ませる。そこに東吉郎がひとつの疑問を差し挟んだ。


「そもそも、きみたちはどうやってぼくの名前を知ったんだ?」


 問われた声にふたりが互いの顔を見合わせ、懐かしきいにしえの出来事を振り返っていく。


「あたしは飛び立つ寸前に、『ぼくのなまえは新美東吉郎っていうんだ。よくおぼえていてね』と言われたわ。それをプロポーズの言葉だと確信したから」

「わしは、『ぼくは新美東吉郎、おおきくなったらぼくのところへお礼にきてね』と囁かれたあと、一緒に人里まで着いていこうとしたら母ギツネに無理やり止められたのじゃ。こんなことならあのとき、さっさと山を降りておけばよかったのお」


 どちらの反応もろくなものではない。最後に、問われてもいないミドリがつぶやくような声で事の馴れ初めを語り始めた。


「そ、そうですわ……。あのとき、カラスを追い払ってくれた童子わらしは『きみをたすけたのは新美東吉郎。いつかりゅうぐうじょうにつれていってね』とわたくしに語ってくれましたわ! だ、だだだだ、だとしたら、たとえ人違いでもわたくしに瑕疵かしはございません」


 もはや己の保身にしか関心がないミドリ。

 彼女のことはそっとしておいたまま、東吉郎がなにかに気づいて口を開こうとする。


「なんとなく、本当にきみたちを助けたのが誰なのか、わかった…………」

「ああああああああああああっ!」


 そのとき、玄関の方から驚くというか、なにかに絶叫している悲鳴が聞こえてきた。全員の意識が部屋の出入り口に集中する。


「お、お兄ちゃんが女の人を何人も連れ込んでるうううぅっ!」


 事実であるが、知らない人が聞いたら誤解を受けてしまいそうな危うい発言。

 そして、現場を見られたら言い逃れできそうにもないのが一層、悲しかった。


「どういうことなの? 説明してよね、お兄ちゃん!」


 声が近づいたと思ったら、勢いよく扉が開けられ、そこから制服姿の女の子が現れる。白い夏用の半袖に赤いリボンのセーラー服。下には紺地のプリーツスカートを履いていた。艶のある背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪。飾り気のかけらもない素の表情と大きな瞳は、見るものによっては最高の美を感じるだろう。

 若さは儚い夢のような一瞬であるからこそ、もっとも美しいと人の心を捉えるのだ。


「み、美波ちゃん……。入るときは一応、家主の許可を得てからにしてね」


 東吉郎が困ったような表情で突然、上がり込んできた少女に釘を刺した。

 美波と呼ばれた女の子は、まなじりを小さく釣り上げ、負けん気を発しながら強く言い返す。


「このアパートの大家はわたしのお父さんで、お兄ちゃんは父の親戚。つまり、わたしは管理人代理として入居者の状態をチェックしているだけよ!」

「そ、そんな勝手な……」


 相手のプライバシーを一切、考慮するつもりがない美波の暴言。

 その迫力に東吉郎が思わず言いよどんでいると、代わりに鶴姫が舌鋒鋭く反論の口火を切った。


「東吉郎さん。この無粋で騒々しいだけの娘は一体、何者なのですか?」


 お前が言うなという気が若干、しないでもないが、我が身振り向かずに敵を討てという言葉もある。口にした指摘だけは正しいのだ。正論はいつだって正しいから誰もが好んで口にする。資格を問われるのはそのあとだ。


「こ、この子は美波ちゃんと言って、彼女が話したとおり、このアパートの管理人さんの娘だよ。昔からの知り合いで、ちょくちょく一人暮らしのぼくの様子を見に来てくれているんだ……」

「お、お兄ちゃん! この女は……ううん、彼女だけじゃないわ。ここにいる女の子たちはどういうこと? 返答次第じゃただではおかないわよ!」

「ただじゃおかないって……そんなの困るよ。ここを追い出されたら、ぼくには他にいく場所がない」

「そういうことじゃないのよ、バカぁ!」


 男の見当違いな返答に美波は声を振り絞って訴えた。

 女が聞きたいのは、いつだって理性的な論法ではなく、感情的な心の叫びなのだ。


「東吉郎がここを出ていくというなら、わしは誰の世話になったらよいのじゃ?」

「あの……。他にいくところがなければ、ちょうどいい場所をご案内いたしますが?」


 キツネが自分勝手な言い分を口にして、亀がここぞとばかりに誘いをかける。

 もうこいつら、恩返しするつもりなんて毛頭ないだろ。


「美波ちゃん、とにかく落ち着いて。あと、きみにはちょっと訊きたいことがあるんだ」

「え? な、なによ……急に。そんな、あらたまって……。わ、わたしの気持ちは最初から決まっているけど」


 勝手に勘違をいして、勝手に盛り上がっていく少女。

 恋はいつでも愉快なひとり芝居なのである。


「訊きたいのは五年前のことなんだ」

「へ? ご、五年前……。わたしたちふたりにそんな記念日があったかしら?」


 まるで話が通じない。東吉郎が苦笑いを浮かべていると、彼のそばにいた藍がこっそりと女の子のをうしろを取った。


「くんくんくん……」

「ひゃ! な、なによ、この子? いきなり……」


 後背から首筋にキスするような格好で美波の匂いを確かめるオレンジ色の髪の少女。

 突然のことに驚き、彼女はあわてて振り返った。そうすると、今度は胸元や顔、耳に至るまで藍は無神経に嗅ぎ回っていく。


「や、やめてよ! くすぐったいじゃない!」


 美少女ふたりがピッタリと身を寄せて、顔を近づけたままコソコソとしている。

 ひとりは積極的に頭を動かし、もうひとりが照れたような仕草でそこから逃げ出そうと力ない抵抗を続けていた。

 見ようによってこれを美しいと感じる人もいるだろう。愛は形のない自由である。


「ね、ねえ! お兄ちゃん、この子、一体どういうつもりなの? なんだか、怖いわよ」


 あっけにとられた様相で女の子同士の絡みをただ黙って眺めている東吉郎。

 美波は少し怯えたように助けを求める。そうこうしているうちに藍はぐいっと唇を相手の顔に近づけ、口から真っ赤な舌を伸ばした。そして、ベロリと少女の白い頬を舐める。


「う、うわああっ!」


 唐突な行為に美波は絡んでいる腕を振り切り、あわてて壁際へと後ずさった。


「な、な、なんのつもり? わたしにはお兄ちゃんという約束の相手がいるから、こんなことされても困るわよ!」

「ふむふむ、この味は……」


 相手の抗議を軽く聞き流し、目をつむったまま藍は何事か確かめている様子だった。

 舌に残る美波の”味”と”匂い”を吟味し、ようやく瞳を大きく見開く。


「間違いない! わしを助けた東吉郎はこの娘なのじゃ!」


 わけのわからないその結論に東吉郎を除いた全員が目を丸くした。 


 03


「どういう意味よ?」


 藍の言葉に鶴姫がすぐさま説明を求めた。


「言ったとおりじゃよ。わしらを助けたのはこの子で間違いない。記憶に残る幼い頃、嗅いだ匂いと伸ばされた手をなめたときの味が完全に一致した。おい、娘よ。お主はいまいくつなのじゃ?」


 壁を背にした少女へ問いかける。美波はいまだ怯えたような顔色を浮かべたまま相手の声に応じていった。


「じ、十四歳よ……それが何? あと二年もしたら結婚も出来るし、子供ならいますぐにだって作れるわ」


 訊いてもいないことにまで言及し、正体不明な存在をきつく睨みつける。恋にこがれる年頃の女子には、やはり刺激的すぎるスキンシップのようであった。


「五年前には九歳か。年の頃もピッタリじゃな。どうなんじゃ、東吉郎?」


 納得したようにひとりごちる。続けて発言の機会をうかがっていた青年にすかさず水を向けた。そして、あわてたように東吉郎が自身の見解を述べていく。


「そ、そうなんだよ。ぼくもきみたちを助けたのは美波ちゃんじゃないかなと思っていたんだ。五年前にもこの街にいて、ぼくの名前を知っている人は美波ちゃんくらいだからね……」

「何? いったい、みんなでなんの話をしているの? 五年前のわたしがどうしたって言うのよ?」

「まあ、そうツンケンするでないぞ。わしらも少しばかり先を急ぎすぎたようじゃ。東吉郎、この子の疑問に答えてやれ……」


 あっさりとその場をまとめ、また白いラグの上に腰を落ち着ける。三人とも期待を込めたまなざしでただひとりの男性を見上げていた。完全に丸投げである。

 そもそも東吉郎自身がまだ状況を完全に把握しているわけではないのだ。それでも、うまく疑念をそらすようにしないと、あらぬ罪で非難の的先に立たされるのは彼なのである。諸行無常……。


「美波ちゃん。きみは五年前に湖のほとりで、いくつもの動物を助けたんじゃないのかい?」

「え……。そ、そんなこと急に言われたって」


 東吉郎の質問に女の子は腕を組み、右手で口元を押さえながら在りし日の出来事を思い起こしていく。


「あ……!」


 そして、不意に記憶を探り当てたように顔を上げた。


「そう言えば、冬の寒い日になぜか連続して動物たちが困っていたわ……。見過ごすわけにもいかなくて、片っ端から助けていった記憶がある」

「やっぱりか……。でも、その時にぼくの名前を出さなかった?」

「…………あ。え、えっとそれは……」


 記憶とともに思い出が蘇ったのか、急に顔を伏せて恥ずかしそうな態度を作る。


「ねえ、どうしてぼくの名前を使ったの? いいことをしたのは美波ちゃんなんだから、自分の名前を伝えたら良かったのに」


 東吉郎の追求に少女はますます顔を赤くさせ、スカートの裾を両手で握った。

 それから、覚悟を決めたようにボソボソと真意を口にする。


「も、もし、動物たちがお兄ちゃんのところへ恩返しに来てくれたら、喜んでくれるかと思って……」


 小さく伝えたあと、さらに顔をうつむかせて押し黙る。

 想像の斜め上を行く答えに東吉郎は何も言えなかった。


「あーもー。こそばゆくて、まともに聞いておられんのじゃ」


 あまりにもバカバカしくてやっていられないと感じたのか、藍がだらしなくラグの上で体を横にした。片腕を杖のように使って顎を支え、空いた方の手で行儀悪くボリボリとおしりを掻く。


「……そうか、ぼくのためにわざと自分の正体を隠したんだね」


 相手の確認に、美波が表情を隠したまま小さくうなづいた。

 そして、東吉郎は安心したように大きく息を吐く。


「これできみたちが本当に恩返しする相手が見つかったね。恩返しは美波ちゃんにしてあげてよ」


 みんなの方を向き直って、明るく告げた。その表情はまるで憑き物が落ちたような朗らかさである。だが、役所で申請先の窓口をさんざんたらい回しにされた挙げ句、時間切れとなってしまった主婦のように三人は冷ややかな顔つきを崩さない。


「あたしは運命の人に嫁ぐと誓って、シベリアからはるばる飛んできたのよ。人違いですと言われてもいまさら困るわ。いいから、ちゃんと責任を取ってよ……」

「管理人の娘となるとペットがNGになりそうじゃの。それは困る。もう恩返しはどうでも良いから、最後まで面倒を見てほしいのじゃ」

「ええと、当店……いえ、泉の施設は二十歳未満の方のご利用をお断りしております。なので、今回はご縁がなかったということで……」


 三者三様に好き勝手な理由を並べて、東吉郎から離れようとはしなかった。

 鶴とキツネについては、もはや恩返しでもなんでもない。そして、亀に至っては明らかに営業だろ、これ?


「えーーーーーーー…………」


 ほとんど居直りに近い女の子たちの反応。

 東吉郎が絶望に近い声を出しながら肩の力を落としていく。早い話、こいつら最初からこの男に狙いを定めて押しかけてきているのだ。これはもう立派な”呪い”である。


「みーなーみーちゃああああん!」


 突如として玄関の方から誰か別の女の子の声が聞こえてきた。

 すごく特徴的で耳に残る感じの喋り方をしている。

 美波がいち早く反応して、すぐに顔を上げた。


「ねえ、まだああああ! ここ、暑くて死んじゃいそうだよ……」

「いけない! すっかり忘れていた」


 きっとここには誰かを伴ってやって来たのだろう。なのに、玄関の靴の様子を見かけて思わず先走ってしまったのだ。あわてて廊下に引き返そうとする。


「美波ちゃん。もしかして、誰かと一緒にここへ来たの?」

「そうよ。なんだか、小さい頃にお兄ちゃんから助けてもらったお礼がしたいって言うから連れてきたの」

「……え?」


 不吉な予言を残して、少女は玄関先へと消えていった。

 残された全員が互いに顔を見合わせながら、さらなる登場人物の出現にとまどいを隠せない。それぞれが思い思いの言葉を口に出していった。


「ど、どういうこと? まだ増えるの、恩返しの動物が……」

「じゃがのお。恩返しに来る動物で有名どころなのは、わしら三人くらいじゃろ?」

「鶴、キツネ、亀……。以外は、ちょっとマイナーですものね」

「もしかして、笠地蔵が擬人化したとか?」

「そもそも、地蔵自体が仏様の擬人化じゃ。擬人化の擬人化ではまるで意味がわからん」

「が、外国のお話では……?」


 三人の意見は次第に困惑の色を深めていく。多分、本人たちもこれ以上は増えないという思い込みがあったのだろう。童話や昔話というのは、メインが因果応報であり、やられ役の鬼や悪い魔女が出てこないようなお話だと受けが悪くて淘汰されていくからだ。その点、ちょっといい話で現在までしぶとく生き残ってきたこの三人はある意味、別格なのである。


 そうこうしているうちに玄関口でも話がまとまったのか、ドタドタと廊下を駆けてくる音が辺りに響く。三匹がかたずを飲んで待ち構えていると、扉を開けて元気に室内へと踊りこむ、ひとりの女の子の姿が視界に見えた。


「にゃー! ご主人さま、猫又の『タマ』だにゃー! 子猫の時に木から降りれなくなっていたところを助けてもらった【恩返し】にきたにゃー! 一生懸命、がんばるにゃん!」


 首元でキレイに切りそろえたショートの黒髪。頭には小さな猫耳が生えている。身を包んでいるのは、真っ白いノースリーブのワンピースで腰のリボンの下からは二本の黒いしっぽが飛び出していた。いや、動物の擬人化っていうか妖怪だろ……これ。


「ね、猫? 猫だよね、あれ……」

「頭の上に浮かんでいるのは”鬼火”でしょうか? でしたら、あの方は人外どころかこの世ならざるものですわね」

「まさか、アニメから引っ張ってくるとは思わなかったのじゃ……」


 比較的、いまどきに生まれたキツネが、世事に疎い残りのふたりへ相手の正体を伝えた。

 

「あなたがご主人様かにゃ? 成仏するまで、ずーーーっと一緒にいるにゃ! そのあとはいつまでも冥界をさまよって永遠の亡者になるにゃ!」


 タマと自称した少女は部屋に入った途端、見つけた東吉郎に全力で抱きついた。

 そして、やたらと物騒な未来計画をぶち上げる。これはもはや”生霊”であって、正真正銘の祟り神だ。


 こうして新美東吉郎は突如、現れた女の子たちから、身に覚えのない【恩返し】を受ける羽目となった。それが幸運かどうかはまだ定かではないが、これから苦労するのは間違いないだろう。

 さっそく、タマを追いかけてきた美波が激しく抱き合ったふたりを見て、烈火の形相を浮かべている。そこに鶴姫も参戦していった。

 東吉郎からタマを引き離そうと、両手で女の子の体を引っ張る。亀はもう一度、頭を抱え、キツネは難を避けて男のベットへと潜り込んでいった。そこを自分の寝床とするつもりなのだ。もう滅茶苦茶だった……。



おわり

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