授業をサボった話
テーマ:柑橘類、黒、裏、煙草
気がつけば足が向いていた。
校舎からすこし離れたところにある、旧い体育館倉庫の裏。誰も近寄ろうとしない薄気味悪さから、授業をサボった生徒がたまにここに居ることがあるらしい。それは今の僕も全く例に漏れていなかった。
少し緊張したが、相変わらず近寄りがたい空気を放っているそこになるべく大股で近づき、その不気味へ思い切って踏み込んだ。
「んっ?」
人がいた。僕はお構いなしという風に取り繕いながら、誰が設置したとも分からないコンクリートブロックを積んで作った台に腰を下ろした。ちらりと顔を上げると、声の主は体育倉庫の壁にもたれつつこちらを見ていた。
一応クラスメイトなので名前は知っている。
橘桜子、有名な不良だ。破っていない校則はないというほどの破天荒な性格で、授業はよくさぼっているし髪は金髪に赤いラインが入っていて、スカートはびっくりするくらい短い。そして今も、タバコを口にくわえている。
「海藤じゃん。授業はどしたの」
話しかけてきやがった。一回も会話をしたことが無いし、正直少し怖い。だけど返事をしないのも恰好がつかないので、なるだけぶっきらぼうな声を作るようにした。
「……なんでもいいだろ。というか、お前に言われたくない」
「そりゃあそうか!ごめんごめん、怒るなって」
短くなったタバコをその辺に投げ捨てると、橘はこちらに近づいてきた。その顔をまともに見ることもできないまま、隣に座られてしまう。
さっきまで吸っていただけあって、すごくタバコ臭い。
「海藤もさぼったりするんだ。お前は死ぬほど真面目クンで授業をさぼったら死んじゃうとかじゃなかったのか?」
「うるさいな。僕にだって嫌になることくらいある」
「ふぅん。てか俺って言わねーの?めずらしー」
「いやこれは……」
「まあいいんじゃね。どっちでも」
一人称を指摘されて、しまった、と思ったときにはもう彼女の興味は移ろっていたらしい。顔が赤くなっていないか少し心配になったが、確認のしようもないので気にしないように心がける。一人称も急に変えたらおかしいので『僕』のままでいくことにした。
「なあ、海藤ってオタクか?」
「オタクかどうかは分からないけど漫画は好きな方だ。普通くらいに」
「オタクじゃないのにエヴァンゲリオン全部持ってんの?ウケる」
「ど、どこから聞いたんだよそんな話」
「姉貴が言ってた。兄貴がいるだろ、お前。その兄貴経由で」
変に思われると嫌だからクラスの誰にも言っていなかったのに……兄ちゃんのことがすこし恨めしく思えた。
「なんでそんなこといちいち覚えてるんだよ……」
「えー、だって私ら絡みぜんぜんないじゃん。だから海藤が何の話なら合うか考えてたら思い出した」
「……お前もエヴァンゲリオン好きなの?」
「そんなわけないじゃん、ウケる。私ロボットとかキョーミないし」
エヴァンゲリオンは厳密にはロボットではない、などと指摘しても笑われるだけだろう。話を合わせられないのになぜ話題を振られたのかもわからないまま、少しずつ時間が過ぎていく。
「……」
「……」
「暇。海藤、なんかウケる話して」
「な、なんでだよ。別に話す必要なんかないじゃないか」
「いいじゃんいいじゃん。私はさっき話したし。海藤もなんか話して!」
「ええ……」
橘は当然と言えば当然だがあまり頭はよくないはずだ。難しい話なんかできないし、僕は特別ドラマとか見ているわけでもないしファッションにも疎い。普通の女子に話を合わせるのも大変でよくからかわれているのに、こんな不良に何の話をしたらいいんだ……。
「……カラフル、って映画知ってる?」
必至に知恵を絞った結果、結構前にやっていた映画の話題を口に出した。何度かテレビでも放送されているから、タイトルくらいは知っているだろう。
だが発言の直後に後悔した。タイトルだけ知ってても会話にはならない。しかもアニメ映画だから、またオタクだとからかわれてしまう。
「森絵都さんの小説のやつ?」
ところが、心配は杞憂に終わった。
「そ、そう。僕、あれが好きでさ……小説も読んだの?」
「映画見たあとに姉貴がこれも読めっていって押し付けてきてさー。でも映画で一回見てたからめっちゃ頑張ったら読めた。最後はめっちゃ泣いた」
彼女はきっと小説なんか一冊も読んだことないと思い込んでいた僕はひどく驚いた。あの小説はたしかに有名なのだが、扱っている話は少し重いというか、真面目に読むタイプのものだからだ。
「……どこが泣くポイントだったの?」
「え、その質問めっちゃオタクじゃんウケる」
橘は口癖のようにウケると言って笑ったが、すぐに考え込むように真顔になった。
見てみると、その横顔はまったく怖くなんかなくて、普通の、同年代の女子だった。金髪も、赤色も、当然のように化粧をした肌も。特になんてことはない、でも少しかわいい、女子だった。
「ひろかちゃん」
「えっ」
突然発せられた人名が先ほどの質問の答えだと理解するのに、一瞬時間がかかった。見ていたことがばれないように、慌てて顔を伏せる。
「主人公もそうなんだけどさ、ひろかちゃんはすごく頑張って生きているんだ。だけど、カラフルって小説はひろかちゃんが主人公じゃないの。彼女の心の中が分かることはなくて、分かってあげられないんだ。主人公でさえも……ちょっとなんかそれが、残酷だなって思った」
「……」
「驚いたっしょ?私もときどきは真面目に考えることもあるって。とくにひろかちゃんにはめっちゃ共感したからしょっちゅう考えてたよ」
「そ、そうなんだ……」
彼女の言うとおりだった。僕は彼女の回答をどこか、どうせ軽薄で適当なものだろうと決めてかかっていたのだ。でも実際にはそんなことは無かった。橘は僕と同じくただあの小説が好きで、その感想をちゃんと考えて喋ったに過ぎないのに。
僕は彼女のことを何だと思っていたのだろう。軽く自己嫌悪に陥ったが、すぐに橘がそれで、と思考に割り込んだ。
「海藤はじゃあカラフルのどこが好きなの?」
「僕、僕はプラプラの言った言葉の一つがすごく好きだ」
「待って、当てたい……『ツイていない日は、最後までとことんツイていない?』とか?」
「お、すごい。その通り。あのさっぱり割り切る感じが、なんだか冷酷なんだけど心にスッと入って来たんだよ」
はっとなった。
つい上機嫌になってベラベラと喋ってしまったけど、橘は不快に思っていないだろうか。
「へぇー。でも確かにすごい言葉だよねー。結構当たっているし」
「そうそう……」
心配はまた、杞憂に終わった。
いつもこんな心配ばかりをしている。非常に息苦しい。それが今、タバコのにおいがするこの場所ではしなくてもいい杞憂でしかないのだ。
「じゃあさ、海藤はあの『ホームステイ』についてどう思う?人生をやり直すやつ」
「……僕は、少しうらやましいと思うよ。いっつも考えてばかりだ。もっとうまくやれただろうって」
「そうなの?私はそう思わないけどなー……ってか、さっきそう思わなくなった」
橘が跳ねるように立ち上がってこっちを向いた。僕は彼女の顔をしっかりと見なくてはならなくなった。
「授業は退屈で、親も先生もクソだし、タバコはまだ吸っちゃいけないし。でも逆らっても何もできないから、こういうところでなんか誤魔化しているんだけどさ」
彼女は笑いながら、それこそ「ウケる」と笑い飛ばすように言う。
「結局、そんなやつらも私の人生にはなにもできないんだ。決めるのは私だから、あいつらが何を言うのも私が決めたあと。だからやり直しなんかしなくてもいいなって思った!」
「もちろん海藤をディスってるわけじゃないし!海藤は頭いいから分かってるっしょ?」
「うん、ありがとう。参考にさせてもらうよ」
「ウケる、バカがうつるかもよ」
「もしそうなら」
すこしだけ晴れやかになった心の底から偽りのない言葉が出る。
「それでいい。バカとか、そんなのはどうせ他の人が見た基準だ」
さっきまで会話しかなかった空間にチャイムの音が割り込んだ。授業が終わったらしい。
「うわやば。海藤はどうするの?」
「……今日はツイてなさそうだから、最後までさぼることにする」
「マジ?じゃあいっこだけやりたいのがあるんだけど……タバコ持ってる?」
「一応……」
本当はここで隠れて吸うつもりで親父から盗んできたタバコを持っている。すると橘は嬉しそうに言った。
「シガレットキスっての、やってみたくね?」
「あなた、またベランダに出ていたの?」
「ああ、ごめん。雄太はもう寝たかい」
「おかげさまで……なにそれ、タバコ?火も着けずになにしてんの」
「いやね……僕は自分でタバコに火をつけたことはないんだ。吸ったのも一回だけ。それを思い出して」
「……浮気だな」
「えっいやでも結構昔の話だよっていうか浮気だってなんの根拠で……」
「ふん。思い出に浮気されたので罰としてあと10分そこに居ろ」
ピシャリ、と窓を閉められた。まいったな……。
火のついていないタバコ越しに息を吸う。
橘はあのあと嘘のように真面目な生徒になった。髪も真っ黒になり、授業にも出て、大学へ進学した。一回だけ理由を聞けたことがあって、僕に不良をさせてしまったことが申し訳なくなったそうだ。
「……橘はまたタバコを吸ったのかな」
タバコの火のつけ方が分からない僕は、つけてくれる相手もいないタバコをくわえて10分間夜風に当たった。
結局、ほのかに柑橘系の香りがしたあれが最初で最後の喫煙だった。