キタキツネの嫁入り
星屑による星屑のような童話。お読みいただけると嬉しいです。
なろう冬童話2018参加作品。
北海道に、今年も遅い春がやって来ました。
といっても、外の景色はほとんど冬のそのまんま。冬将軍の忘れ物のように雪がしぶとく残り、そこかしこに高々と積み上がっています。けれども、そんな寒々とした中でも、よくよく耳を澄ましてみると、しゃらしゃらと水の流れる音が遠くの方からかすかに聞こえてくるのでした。
その音は、北国の人々にとって、待ちに待った雪解けの音なのです。
ですが、雪が解け始めたとはいえ、まだまだ空気には冷たさが居すわっていました。
そんな、冬っぽさが残る早春の、夜明け間もない頃。
細くたなびく灰色の雪雲を山の合間から昇ったばかりの太陽がしゃんと照りつけ、空はコンロでこんがり焼かれたみたいに、真っ赤な朝焼けと化していました。
夫婦にとって、いつもならばこんな朝の景色はすがすがしさそのものでした。忙しい朝の仕事の手をしばし休めては、細めた目でそれを眺めていたほどです。
けれど、今朝は少し様子がちがいました。
朝焼けを見つめる夫婦の目に、いつもの力がないのです。
つい昨日まで、牛乳を搾るための牧場だったこの場所。元気な牛たちの鳴き声であふれていました。でも今日は、いつまでたっても騒がしくなりません。昨日までたくさんいた牛たちが、牛小屋から一頭もいなくなってしまったからなのです。
この牧場の土地が人手に渡ることになり、たくさんの牛たちは他の牧場に引き取られたのでした。
「すっかり寂しくなっちゃいましたね、お父さん」
牧場の中にぽつんと立つ小さな自宅の居間で、向き合う中年の夫婦。
手持ち無沙汰に手をしきりにこすりながら、今朝起きてから初めて口を開いたのは妻の方でした。
「ああ……」
うつろな瞳で窓ガラス越しに空をぼんやりと見つめながら、力なく答えたのはテーブルを挟んで妻の向かいに座る夫でした。ごま塩を振ったような黒と白のまだら髪のこの人は、つい昨日まで、牛の鳴き声と働く人の活気があふれていたこの牧場の主だった人です。
夫婦の牧場は、もうありません。
それでもついついいつもどおりに早起きをしてしまった、二人。
どうしてよいか分からずにいる妻の前で、何も言わず、ただただ夫は空を眺め続けました。けれど実は、夫に見えていたのは目の前にある景色ではありません。それは、夫にとっての――いや、夫婦二人にとっての大切な思い出であり、この牧場で過ごした三十年という時間の中で起きたたくさんの出来事なのでした。
夢を膨らませ都会からやって来た新米夫婦を出迎えるように、咲きほこる道端のタンポポを揺らした涼しい風。
牧場に住み込みとして働き出した二人の疲れ果てた体をいたわるかのように、ご褒美とばかり燃えさかった秋の夕焼け空。
凍える冬、吐いたとたんに凍ってしまう息の向こうに見える牛小屋を前に、故郷に帰りたいという気持ちを必死に堪える二人の上に舞い降りる雪。
後継ぎのいない牧場主から牧場を引き継いだ春の日、手をつないだ二人の間にひらひらと舞い降りた桜の花びら。
一人息子が生まれた暑い夏の日、それでも牛の世話のために病院に行けず、蜃気楼のように揺れるアスファルト道路に向けて妻に届けとばかり叫んだ「ありがとう」の声。
楽しかったり辛かったり――たくさんの思い出が、次から次へと夫の頭の中にあふれ出て来て、とどまりそうもありませんでした。そんな、夢見る表情の夫を現実世界に戻したのは、妻の一言でした。
「そういえば、お父さん。昨日、和夫から手紙が届いていました」
「あいつから手紙だって? 珍しいな」
「ええ……」
和夫というのは、札幌で生活している大学生の一人息子でした。
年季の入った作業着のポケットから、妻が一通の白い封筒をためらいがちに取り出すと、少し強張った顔で手を伸ばした夫が、それを受け取ります。
封筒から便せんを取り出した夫は、それをゆっくりと広げました。
内容を確かめるようにいちいち頷きながら目を上下に動かし、黙って読み進めていきます。どうやら手紙は妻がすでに何度も読み返したらしく、あちこちがしわくちゃによれていました。
「……」
手紙を読み終えた夫は、手紙を手にしたまま目をつぶり、がっくりと項垂れました。しばらくはそのままでしたが、はあと大きく息を吐き出すと、低い声でこう呟やいたのです。
「和夫にはたいしたことをしてあげられなくて、申し訳なかった……。仕送りが少ない分、たくさんのバイトもさせてしまったし」
「……そうですね」
夫が、唇を噛み締めながら、ゆっくりと手紙を封筒にしまいました。
言葉を出すのがつらいのか、ひどいしかめっ面になっています。
「和夫が、学校を卒業したらこの牧場を継ぎたいと言ってきた。やっと、決心がついたと……」
「ええ、書いてありましたね。ああ……なんということでしょう。折角そう言ってくれたのに……。和夫には、悪いことしてしまいましたよ」
涙を浮かべながら、妻はもうとっくに冷めてしまったお茶が入った湯呑を見つめました。
まるで時が止まってしまったかのように、部屋の中から音が消えました。
それから、すぐのこと。
煙突付きの石油ストーブの上のヤカンが、しゅんしゅんと音を立てながら、勢いよく蒸気を吹き出したのです。赤々と、そして黙々と燃え続けるストーブ。春になったとはいえ、まだまだこの辺りではストーブは手放せない家が多いのでした。
ヤカンから飛び出す水蒸気に突かれるように、夫の口から、ぼそぼそと言葉が押し出されます。
「うん……。でもこれで良かったんだ、母さん。こんな状態の牧場を和夫に渡したところで、あいつには重荷だろうし……。そうだな、わかった。和夫には俺から話すことにする。きっとあいつなら、わかってくれるだろうさ」
「はい、そうですね……お父さん」
夫が、窓越しの牧場の景色――に目を戻しました。妻もそれに合わせるようにして、外の景色を眺めます。たくさんの牛に囲まれながら小さな息子とともに忙しなく働いたことを、今度は二人いっしょに思い出していました。
と、急に瞳に力を込めた夫が、いつもの迫力ある野太い声で言ったのです。
「だが、母さん。いつまでもこうしてはいられないぞ。今月中に、ここも引き渡しなんだ。引っ越しの準備を始めねば、な」
「そうですとも。準備を始めましょうか」
二人が重い腰を上げ、立ち上がったときでした。
きんと冷えた空気を包み込むような陽射しに混じって、春の雪がちらつき始めました。真冬のときと比べるとそれは大粒で、牡丹の花が咲いたような、そんな雪が次から次へと舞い降りて来ます。
「母さん、雪だ」
「ええ……名残雪ですね」
「でも、朝焼けが見れるくらいに晴れているのに雪が降るというは……。そうか、もしかしたら、キタキツネが嫁入りしているかもしれんぞ」
「キタキツネですって? 雨じゃなくて雪だからキタキツネなんですね」
「うん……。すまん、つまらんことを言った」
顔を見合わせた二人が、久しぶりに笑いました。
涙でくしゃくしゃになってしまった妻の顔に、いつものお日さまのような明るさが戻ったのです。
「最後に、北海道の思い出をキツネにもらえて良かったな。でも……」
夫が妻に近寄り、その手を握ります。
「考えてみれば、すべてを失ってしまった訳じゃないぞ。俺たちには、和夫がいる」
「そうですとも。私たちには和夫がいます。また、いっしょに頑張ればいいんです」
「ああ、そうだそうだ」
「ええ、そうですとも」
何度も頷きながら、夫が握った妻の手にぎゅっと力を込めると、妻もそれに応えるように、その手でぎゅっと握り返します。
とそのとき、二匹のふさふさした毛並みのキタキツネが、窓の外の雪野原を駆け抜けました。
「母さん。今、キタキツネが二匹、そこを通ったぞ」
「ええ、私も見えました。案外、本当に結婚式をしていたのかもしれませんよ」
「うん。きっと、そうに違いないな」
大きな声で、また笑った二人。
そんな夫婦の声が届いたのかのしれません。通り過ぎようとしていた二匹のキツネが不意にこちらを振り返り、そのふかふかの茶色いしっぽを揺らしたのです。
それはまるで、キツネたちが二人にお別れを言っているかのようでした。
「……お前たちも、元気で暮らせよ。俺たちも、頑張るからな」
「ええ、頑張りましょう。あのキツネたちに、負けないくらい」
夫婦は、春のやわらかな陽射しに負けないくらいのやさしい笑みを浮かべながら、窓の外に向かって、ゆっくりとおじぎをしたのでした。
― おわり ―
お読みいただき、ありがとうございました。