熊と少年
それを見たとき底冷えほどの恐怖が体を冷たく駆け巡った。
例えるなら、ナイフを初めて見たときのような怖さ。
例えるなら、火を見たときのような怖さ。
ごく当たり前にありふれた、でも絶対に近づかない、そんな怖さ。
母の「付き合うようになりました」という宣言が僕の中の安全地帯だと思っていた領域をことごとく壊していった。
厚い脂肪に包まれたその筋肉は脂肪という鈍重な鎧に包まれているというのに彼が発する恐怖の原因の一つであろう、強さを際立たせるに一役買っていた。
その見た目は、その恐ろしさは【熊】と言うに相応しかった。
熊が母と付き合うようになってからというもの彼は必ず週末になっては家に足を運び必ず土日を我が家で過ごすことになっていた。
僕としては堪らなく迷惑だし、彼がいると自分のなかに異物が入ったような、今すぐ追い出してやりたい気持ちにいつも襲われていた。
だが、そんなことは出来るはずもなく台風が過ぎるように彼が帰る週明けをただひたすら待っていた。
いつものことだった。
朝、小学校に登校すると机には、蛇やカエルといった小動物やダンゴムシといった、虫たちの死骸が机の上に汚ならしく無惨に載せてあった。
僕は授業が始まる前にちり取りと、雑巾をだし、生物の尊厳を少しも残されなかったそれらをまとめて、僕を苛めた奴等の頭の上に振りかけた。
「は?」そんな間抜けな声が、最後まで言い終わる前に汚ならしく色を変えた机をそいつの顔めがけて投げ飛ばした。
いつものように苛められておけば良かったのかもしれない。
何故、そんなことをしたのかなんて言葉は不要だった。
完全な八つ当たりである。
そいつらを殴る度にあの強気な目が頭をよぎる。
拳が訴える痛みを受けとる度にあの強さと恐ろしさを思い出す。
それを追い出せないことのストレスをただ彼等に向かって吐き出した。
ただそれだけだった。
結果として彼等は一ヶ月の入院と僕に行った虐めの数々を白日のもとに晒すことになった。
そういう僕のほうはというと、当然ただで済むわけががなかった。
事が起こったことを母に伝えた学校は、当然僕が怒られるものと思っていた。その認識は正しい。
だが、怒りかたが半端ではなかった。
部屋に来るなり僕の髪を掴みまず鼻をへし折った。
あとは、馬乗りになりひたすら、僕を殴った。
言葉はあとからだった。
順序はおかしいし、熊は家に来るし、母が絡むと全て台無しになるそんな気すらした。
事を知った熊は大笑いしていた。それにもう一つ殺意が沸いたがそれを飲み込みつつ会話を彼と重ねていった。
「でも、お前今後の学校生活危ないだろうな。」
意味が分からない。どうして、危なくなるようなことがあろうか?
諸悪の根元は今頃天井の染みを数えているだろうに。
学校生活よりも僕の顔の回復のほうが危ういすらありえる。
「俺の経験上な中学生入る前のガキっていうのは、加減をしらない質の悪い中学生と絡んでいることが多いんだ。今回みたいに机を投げつけて殴った程度じゃ体格差は変わらないからな。」
なんだ?ということは僕の平穏な学校生活はつまるところあと一ヶ月で破綻を迎えると。
普通の大人が言った言葉なら信じないが、彼が言うと説得力があるのはひとえに彼の醸し出す強さがあるからだった。
「まっドンマイ」と言ってとうの本人は帰ろうとしている。
それが、僕の飲み込んだ殺意を吐き出させるには十分なキーワードだった。
力任せに殴った。だが手に残ったのは満足感ではなくいじめっこ達を殴ったとき以上の痛みだった。
「~~~っ」
「痛いだろ?悔しかったら最低でも普通に殴れるようになりな?」
そう言って彼は家を出ていった。
とは言ったもののはっきり言って一ヶ月の間で体を鍛えるなんてことは土台無理な話というのは小学生である僕にも分かることだった。
あれからというもの一週間に一度だった彼が泊まる日が毎日になった。
あのときのリベンジとばりに殴りかかるものの返ってくるのは硬い金属のような肉の感触と手の痛みだけだった。決して強くなった実感もなかった。それから一週間酒に酔った彼がふと身の上話をしてくれた。
「俺な昔ボクサーしながら柔道してたんだよ。毎日みたいに体鍛えてなムカつくヤンキーをジムや部活の顧問なんかにバレないように殴ってた。」
ポツリ、ポツリと呟き始める。
「基本はな肩の力を抜いて腕を真っ直ぐに飛ばすんだ。難しい技術だけどな頑張って覚えてみな。」
きっと役に立つからと言ってその硬い手のひらで頭を撫でて彼は眠った。
言うことを聞くのは癪に障ったがだけども続けてみた。
肩を抜いて拳を飛ばす。この動作をひたすらに彼にぶつけ続けた。
1日、1日が過ぎることに自分が強くなったのを実感していった。
そんな、日のなか彼は病院に運ばれって行った。
学校から帰って来たその日のこと、家に入ったとたん顔を涙で濡らした母に車に乗せられ病院に連れていかれた。
もとから、彼は狭心症という病気を患っていたらしい。
それだけなら、運動制限等で大丈夫だったそうなのだが、運悪く脳梗塞まで、彼は引き起こしたのだ。
僕の心は冷えきっているのか、眠った彼の顔を見て、何も思うことはなかった。
彼が眠ってからというものの僕はまだ拳を振っていた。
ひたすらに反復していた。彼はもういないのに、リベンジする相手もいないのにただ虚しく拳を振ったのだ。
彼が倒れてからおよそ三週間、彼の予言は当たることとなった。
学校の帰り道中学生の5人程度の集団に絡まれたのだ。
「おまえ図にのってんだろ?俺にも机…」
殴ればこの虚しさは消えるのだろうか?こいつらを倒したら彼は起き上がってくれるのだろうか?
鼻を折る感触と殴られた時に広がる血の臭いもどこか嘘みたいで、いつも殴ったあとの満足感も冷たい心に冷やされ消えてしまったのか、なにも感じなかった。
拳に残ったのは冷えた心と嘘みたいな血と肉の感触だけだった。




