蝶野夢子の「一夜」 2
プールという「夜遊び」をした後に迎えた朝はまるで地獄だった。
今までの「夜遊び」でもあんなに体を動かしたことはなかったから、6時に起きた時は仮病を使ってやろうかと思う程だった。しかし、不用意に病院に連れていかれたくもないので、私はいつものラジオ体操をさらに激しく行うことでなんとか体を叩き起こした。
「お、おはよー」
「はい、おはよう。……あんたなんかクマできてない?」
「そ、そう?うつ伏せで寝ちゃったからかな。」
「早く寝たのにもったいないわね。今日はどっち?ちなみにスクランブルエッグね」
「じゃあパンにする……」
正直、朝ごはんなんてとてもじゃないが食べられる状態じゃなかった。いくら私といえどもそこまで強欲じゃない。睡眠欲を満たすことができたらあとは何もいらなかった。
「夜遊び」はなかなかリスキーだ。もともとは気分転換とか、リフレッシュとかそれくらいでいいなと思っていたのにどんどんエスカレートしていっている気がする。誰にも見られていないというのは、どうにも麻薬的だ。
「瀬戸首相が本日訪問予定でした日本国営研究所ですが、システムトラブルのため訪問を延期することが分かりました。詳細は不明で国外からのサイバーテロを懸念する声もあります」
いつもは少しばかり耳を傾けていた朝の報道も、まったく頭に入ってこない。気を抜いた瞬間天然の睡眠誘導物質に支配されてしまいそうだ。私は無心で食パンを頬張り、一気に牛乳で流し込んだ。先に制服に着替えていてよかったと思った。このまま視界にベットを入れず、学校へ行ってしまおう。
「ごちそうさま。そしていってきます」
「あら早いのね。いってらっしゃいな」
玄関を開けたと同時に飛び込んできた陽光に、私は控えめに舌打ちをした。
授業が始まってしまえば安心して眠ることができた。私達のような成長期を迎えた学生はどんな状況で寝てしまっても、睡眠自体が尊重されている風潮がある。これに対して先生方は昔はあり得なかったぞ、などと得意そうに語るものだから、恐らく例の法律によって生まれた風潮だろう。私は午前中の授業を全て放棄した。今日は香織も来ていることだし、後でノートを見せてもらおう。
四限の終わりと昼休みの開始を告げるチャイムが鳴った。もっとも今の私には目覚まし時計のアラームみたいなものだったが。
若干の眠気を引きずりつつ、弁当を持って香織の机へと向かった。昨日の詫びも兼ねて、おかずの一品でもやればノートを見せてくれるだろう。友人とは持ちつ持たれつなのだ。
「かっおりぃー、悪いんだけどノート……」
目の前の光景にため息を我慢することができなかった。やれやれだ。ひょっとするとあれか、この子も夜な夜な出歩く非行少女だとでも言うのだろうか。
私の前には両手を机の前へと放りだし、ノートにナイアガラ瀑布のようによだれを垂れ流し続ける少女の姿があった。
「香織、香織ったら!起きなよ、お昼だよ」
「え~いいよー。また明日食べる~」
「晩御飯の後にお父さんが買ってきたスイーツじゃないんだから。弁当だよ、ほら起きなって」
ゆさゆさと揺らしながらたまに弁当の匂いをかがせてやると、香織はやっと起きた。
「もしかして……午前中ずっと寝てた?」
「うん。あ、夢子ちゃんノート見して」
「はぁ……以心伝心ね。いや、同じ回路だからむしろ混線かな」
香織はきょとんとした顔で私を見上げていた。これから告げられる悲劇など知る由もないといった感じだ。ドント マインド 私達。
この子は私の唯一の友達である久世香織 (くぜかおり)だ。香織とはいわゆるお向かいさんで、幼馴染だ。ひまわりのように明るい性格で、というか最早ひまわりに顔のパーツがついて歩いているようなものだった。彼女の祖母の金髪と父の茶髪が混ざったような髪色はひまわりの大輪のようで、少し短めに整えられた柔らかなクセを持つ髪質は、彼女の人柄をよく表していた。
彼女も私と同じで、誕生日が4月であるから今では丸々15年の付き合いになる。天然と言うより阿呆という言葉が近い彼女は、隣にいるだけで様々なことに巻き込まれる。彼女が犬に追いかけられているときは私が犬を追い払ったし、彼女が男子にイジメらていれば私が男子をイジメてやった。彼女がテストで赤点を取れば彼女の家で朝まで勉強を教えたこともあった。確かに彼女の傍にいれば退屈はしないが、退屈しなければいいというわけでもない。まあしかし、それを楽しんでいる私がいる事は否定しない。
「そういえばさ、夢子ちゃん知ってる?」
香織は自らの机にまき散らされた文房具と唾液を、いそいそと処理しながら言った。
「何が?」
「都市伝説!」
「はぁ?」
私は唐突な4文字に思わず顔をしかめながら笑ってしまった。また香織の悪い癖が始まった、とその時の私は思っていた。
「また香織はそうやってー。あんまり何でもかんでも信じちゃダメだって言ったでしょ。」
香織はなんでもかんでも1回目は信じてしまう癖がある。いや、癖というか紛れもなく彼女のお脳のせいなのだけれど。まぁ2回目はちゃんと疑ってかかるので、私もそう大きな問題とはしていない。しかし、こんな香織を面白がって男子があることないことを彼女に吹き込むものだから、香織は一時期私以外の人間と話すことを止めてしまった。中学校に入って少しはマシになったかと思ったが、この様子ではお変わりないのかもしれない。
「違うってー!それがなかなかの信憑性なんだよ。私もすっかり聞きこんじゃったよ!」
あんたは昔「犬って尻尾を引っ張ると喋るんだぜ」なんてレベルを聞きこんでいたじゃない。しかし、私は彼女を窘める言葉を口には出さずに、話の続きを聞くことにした。私も心のどこかでは気になっていたのかもしれない。
「どんな話なの?」
私は弁当を食べる箸を止めずに、努めて興味なさげに先を促した。
「それがね…夜に、徘徊する人がいるらしいの」
「…え?」
私は思わず箸を止め、顔を上げた。神妙な顔をした香織の瞳と目が合ってしまった。私の様子をどうとらえたか分からないが、香織は話を続けた。
「私達国民が眠っている時間、自由に夜を出歩いている人が日本のどこかにいるらしくてね。その人は国家転覆を狙って夜な夜な準備しているんだって。夜に眠らない、つまり睡眠遵守法を犯しているからこの都市伝説のタイトルは『違法人』っていうの。」
「あ、国家…転覆ねえ。」
私は想像と違う結末にほっと胸を撫で下した。びっくりさせるんだから、もう。
国家転覆、なんだか時代錯誤にも感じる言葉だ。大方昔の小説を読み過ぎた男子とかが考えたのだろう。半世紀前までは私達の夜は自由だったのだ。こんな噂が出回っても特に不思議はない。
「あー、夢子ちゃん信じてない?結構あり得そうだと思うんだけどなあ。だってさ、例えば急に人工臓器が壊れたりしたらその人は夜起きてられると思わない?」
「人口臓器がベストの状態からちょっとでも劣化した時点で特大音量のアラームが鳴るの、知っているでしょ」
「それはそうだけど…」
「この法律は最初から危ない橋渡ってんのよ。そんな橋が半世紀以上持つわけないでしょ。大胆なように見えて、穴がないの。だから誰からも文句が出ないのよ」
それは事実であった。私達が中学生だからその穴が見えないというわけではない。テレビでは政治の専門家以外にも、世界各国の色々なジャンルの有識者達が喋っていた。内容はみな一様で瀬戸総理を褒め称えるものばかりであった。人口臓器は1000種を超える様々な耐久テストをクリアしている。たしかに特大音量アラームは保険として用意されているものの、今までその音を聞いた国民はいない。加えて睡眠誘発物質と覚醒物質は、どんな状況に置かれても決して化学構造を崩さないと太鼓判を押されていた。この絶対に揺るがない技術基盤と、瀬戸総理の政治的手腕があったからこそ、睡眠遵守法は現代の革命だなんだと言われているのだ。
「じゃあ、あれじゃない?人工臓器がなければ眠らされないんだから自分で取っちゃったとか?」
「無理よ。人工臓器は化学物質を血流に乗せやすくするためって名目で、心臓にくっ付いているんだから。それで私達が生まれた瞬間に胸を開いてくっ付けるもんだから、心臓が大きく成長するにつれてズブズブ中に入っていっちゃうのよ。それを取ろうとしたらどうなるか…わかるよね?」
私は大げさに机から身を乗り出し、香織の胸に人差し指を立てズブズブと押し込んでみせた。
「キャーー夢子ちゃんのエッチ!」
香織はすぐに手で両手を胸の前に持ってきて、固いガードを作った。私は半ば呆れながら香織の嬌声に返答してあげた。
「私がエッチ呼ばわりされる程……香織、胸ないでしょ。」
「あ……あ……」
「うん?」
「あるもん!!!!!」
教室中に響き渡らんとするような、力強い高らかな主張だった。周囲に気まずい沈黙が流れた後、それがまるで昼休みの終了を告げるチャイムであったかのように、生徒達は次の授業の準備をし始めた。次の授業は移動教室のために、クラスメイトはそそくさと教室を出て行った。
「う~っう~~~っ!」
香織はすっかり不貞腐れて、机にかじりつくようにして唸っている。都市伝説を否定するためとはいえ、少しやり過ぎたかもしれない。しがみつきながら机をガタガタと揺らす香織はとても可愛かったのでこのまま見ていたい気もするが、授業に遅刻してしまう。
「ごめんごめん、冗談だよー香織ぃー。よっ、メリハリボディー!ほら、次は視聴覚室じゃん。私達も行こ!」
香織は渋々と私の手をとり、やっと椅子からお尻を離してくれた。
「それにしても夢子ちゃん。随分あの法律について詳しいね」
「そんな事ないよ、基本じゃない。香織が授業で寝過ぎなの」
「そうなの?」
「そうなの」
確かに私はこの法律に関しては自分で調べたりもしていた。教科書を読むだけでなく、図書館に行ったり、インターネットでも何度も言葉を変えて検索したが、望むような答えは見つからなかった。
「何で私はこんなに寝ているのに大きくならないのかなあ」
香子は先程私に指を立てられた部分をさすさすと撫でながら言った。
「科学って偉い人が騒いでいるだけで、いつまで経っても肝心なことは分からないよね。あ、イソフラボンは女性ホルモンの前駆体だから効くらしいよ?」
「ほんと!?大きくなるの?」
「ほんとほんと」
「そっかー!夢子ちゃんありが……、教えてくれて嬉しいけど、今日は夢子ちゃんに馬鹿にされたからお礼言わなーい」
「えー、謝ったじゃーん」
「言わなーーい」
香織の隠しきれない素直さに思わず笑ってしまいそうになるが、なんだかまた機嫌を損ねてしまいそうなので我慢した。しかし、私に気付かれないようにノートの隅に”イソフラボン”とメモ書きをする様子を見てしまった私は耐えることができなかった。
午後の授業は何とか起きていた。さすがに午前中いっぱい寝ることができたので、体にあまり眠気は残っていないはずなのだが、なぜか香織は授業の半分以上寝ていた。そんな香織を見ていたら、昼も夜もおかまいなしに眠り続けた結果留年し、下級生達のクラスへと渡り続けた「渡来人」なんて都市伝説が頭に浮かんできた。妄想を広げながらクツクツと笑っているうちに、チャイムが今日の最後の授業の終わりを告げた。慌てて目の前の板書を書き写そうとしたが、委員長の真面目な仕事ぶりによって黒板は元の綺麗さを取り戻してしまった。香織……ごめんよ。
掃除、ホームルームを終え私は帰路についた。香織は、今日は体力が余っているから部活に顔を出すと私に告げて、走ってはいけない廊下をスキップして消えていった。
私は昨日に引き続き、一人で帰ることになった。一人でいるせいか、下校中は例の都市伝説が頭から離れなかった。
――違法人
この都市伝説を聞いた時私はムキになって香織に反論したが、あれは全て事実だ。今現在の日本国民が、夜に起きることができるケースはない。そんなものは誰も知らない。つまり、私は私が起きていられる理由を知らなかった。人工臓器が壊れるなんてケースは最も否定されるし、化学物質達も100 %の効き目が約束されていて、そこに個人差というものはないらしい。人工臓器の不具合でもなく、化学物質の変異でもないとして、しかしひとつだけ考えられる可能性がある。それは化学物質の在庫切れだ。
化学物質は半年に一度の定期健診で人口臓器に装填されるのだが、もちろん使い切ればなくなってしまう。ここからは推測なのだが、例えば私達のように成長期の人は、体が成長することで血液量だとか、血管の量とか大きさが変わってしまう。そうすれば相対的に必要な化学物質の量も増えるのではないだろうか。だから装填された化学物質を急激な成長を遂げた人間が、設定された量よりも余計に使ってしまったから起きていられるというのはどうだろうか。
……しかし、そんな当たり前のことさえ想定されていないだろうか、と私は自分の推理にツッコみを入れた。
確かにお相撲さんみたいな極端に化学物質の量が必要な人は、半年に一度の定期健診が三ヶ月に一度になるなど装填の頻度が多くなるケースはあるらしかった。しかし、いくら成長期と言えど半年を待たずしていきなりお相撲さんになる人は稀だろうし、第一私は別にお相撲さんになってない。というか私はそもそも急激な成長期を迎えたわけでもなく、毎年少しずつ大きくなるといった成長の仕方をしていた。しかも私の定期健診は誕生月の4月とその半年後の10月で、先日半年分が装填されたばかりじゃないか。
私は自分の推理の間抜けさにため息をついた。定期健診直後の私が起きていられるのだから、在庫切れではないのだろう。
私が夜起きられるようになってから、こんな風に起きていられる理由を考察したことは何度かあったが決定打を打てた事は一度もなかった。だから最近は考えていても仕方がないと開き直っていたのだが、あんな都市伝説を聞いてしまえばどうにも心が落ち着かなかった。
私の他に夜に起きている人がいるのだろうか、それも国家転覆なんて物騒なことを考える人が。
「できれば会いたくないな」
ちょうど家に着いたところで、考えるのをやめた。
私は二日続けて「夜遊び」をしないようにしている。体が持たないというのが一番の理由だが、そもそも寝ること自体が好きなので疲れた日なんかはベットに沈み込んだ瞬間に幸せに包まれた感じになる。昨夜はプールなんて派手に遊んだものだから、今夜はもう張り切って寝ることにした。
「おやすみなさい」
「あら今日も早いのね、おやすみ」
「夢子、いい夢みろよ。おやすみ」
私は二階に上がり、部屋の扉を開けるとすぐにベットにダイブした。足の筋肉が緩んでいくのを感じた。まだ10時には少し早いが、この様子なら朝まで起きることはないだろう。携帯を机の上へと放り投げて、私は完全に眠る態勢に入った。しかし、眠りに落ちる手前で目覚ましのアラームがセットされたままである事を思い出した。
「やだ…また0時に起きちゃう」
目を開けないまま腕を後方へ伸ばして、目覚まし時計を手に取った。時計の背中にあるスイッチをオフにした瞬間、私は時計を枕の横に置いたまま眠ってしまった。
ジリリリリリ、ジリリリリリ
私は昨夜に続き大きな音によって起こされた。慌ててアラームを止めようと、すぐそばにある時計を手に取ったが目覚まし時計はその針を進める音しか出していなかった。時刻は深夜0時30分。
「そうだ、私はたしか寝る前にアラームをオフにしたはず……」
ジリリリリリ、ジリリリリリ
じゃあなんだこの音は?
ジリリリリリ、ジリリリリリ
私は音源の位置を正確に把握した瞬間、一気に鳥肌が立つのを感じた。このけたたましい音は机の上から出ていた。正しくは、机の上の、私の携帯。
その音はこの時間に鳴るはずがない私の携帯の着信音だった。この時間に電話をかける事ができる人なんて、いない。まさか――
「違法人……」
私はおそるおそる机に近づいて行った。
ジリリリリリ、ジリリリリリ
携帯電話には「非通知」とだけ表示されていた。
ジリリリリリ、ジリリリ…ピッ
足も、携帯を持つ手も、そして私の声さえも震えてしまった。
「……もしもし?」
少しの沈黙の後、応えが返ってきた。
「こんばんは」