蝶野夢子の「一夜」
ピピピピピ、ピピピピピ
私の右腕が目覚まし時計のアラームを止めた。昨日はしっかりと22時頃に寝たはずなのに、私の頭には眠気が重たく残っている。
「このままじゃ…怪しまれる」
こういう時、一番効率が良いのは怒りながらラジオ体操をすることだ。ラジオ体操は体を覚まし、怒りの感情は心を覚ましてくれる。私は昨日学校で教頭先生に言われた嫌味を思い出しつつ、全力でラジオ体操をした。
そうすると狙い通り眠気がどんどん払われていき、最後の深呼吸をする頃にはすっかりと目が覚めていた。部屋の鏡に映る私はきちんと朝の顔になっていたので、階段を下りてリビングに向った。
「おはよー」
「あらおはよう。またラジオ体操?別にする必要ないじゃないの」
「私がしたいのー、運動よウンドー」
母は私が毎朝ラジオ体操をしているのを認知しているがその理由までは知らない。もし知られれば私は即刻病院送りにされるだろう。
テレビではお決まりの朝の報道番組が流れている。ここに映っている映像はもちろん生放送なんかではなく、録画されたものだ。なにせ今喋っているコメンテイター達も先程起きたばかりなのだから。
「おはようございます。本日4月21日のお天気は、4月20日現在では終日晴れの予報となっています。」
彼らは録画しているのが昼であろうが夕方だろうが、関係なく朝の顔を演じなければならない。全国の天気を一通り言い終わると、話題は政治へと移った。
「えー、先日行われた国連議事総会でも日本の”睡眠遵守法”は高く評価され、瀬戸幸一首相の国連本部長への就任がより確実視されています。いやーこれ!おめでたい話ですね……」
“睡眠遵守法”
私が生まれた時からこの法律は存在していて、私達にとってはもう常識の中にある。先程のようにこの法律を推進した瀬戸幸一首相の手腕を褒め称える報道は、毎日のように行われている。評論家とか専門家が口を揃えて、革新的、とかイノベーティブとかクリエイティブとかよく分からないことを喋っているが、まぁいかに私でもこの法律がどれほど大胆であったかは理解できる。今から半世紀前まで、夜にみんなが起きていただなんて想像もできない。
「夢子、パンとごはんどっちがいい?おかずは目玉焼きだけど」
「んーじゃあごはんがいい」
私は朝ごはんを食べ終わるとすぐに制服に着替えて家を出た。学校までは徒歩で20分。今の時刻はまだ7時過ぎだから本当は二度寝をするぐらいの時間的余裕はあるのだけれど、父や母に見つかるリスクを考えると実行する気になれない。私はテレビの件の法律に関する報道を、少しだけ気にしつつ玄関の扉を開けた。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい、気を付けてね!」
私達日本国民は22時~6時までの間必ず寝る。必ず寝るというのは、寝る権利が保証されているとか、この時間は個人の権利として干渉されないとか、そういう生ぬるいものじゃなくて、強制的に眠らされる。
だからうっかり夜の22時までに布団に入れないと、床で寝るはめに遭う。冬になると高齢者の睡眠凍死事故なんてのがよくニュースで報道されるものだから、心無い人はそれを日本の風物詩呼ばわりしたりしている。
私達が眠らされる機構は小学校の理科で軽くは習ったが、あまり詳しくは知らない。テレビの専門家達は口を揃えて科学の力とか、技術の結晶だなんて言うから、私もそう思うようにしている。科学の力で化学な力。
この法律のせいで日本国民は半年に一度の通院が義務付けられている。そこで医師による検診を行い、体内の人工臓器に睡眠誘発物質を装填されるのだが、この人工臓器が私達の睡眠を司る大事な臓器となってしまった。
この臓器によって、夜の22時になると蓄積された睡眠誘発物質が体内へと一気に流れ出す。それによって私達は、化学物質に逆らえるはずもなく、眠りこけてしまうのだ。
そして、この睡眠誘発物質は時間と共に放出を減らして朝の6時になると今度は覚醒作用がある物質が放出される。覚醒物質の力は強力で、私達は眠気を引きずることもなく気持ちよく起きられようになっているのだ。
これらの就寝・起床の時間的誤差はおよそ5分前後に抑えられている。それぞれの作用引き起こす誘発物質の名前は、教科書でもテレビでもたまに紹介されているが、私を含む大部分の国民は覚えてもいないだろう。カタカナと数字とローマ字がふんだんに使われていたのは覚えているけれど。
朝の報道番組を頭の中で反芻していると、いつの間にか学校の前まで来ていたことに気付いた。20分の登校時間に私は正直物足りなさを感じている。考え事は大体答えが出る前に先に着いてしまうし、何よりつまらない。電車通学の人だとか、自転車で颯爽に校門へと入っていく男子とか、きっと登校時間もめくるめく学校生活の一部なのだ。私は校門で彼らの学校生活に若干の羨ましさを覚えつつ、校内へと入った。
最近は学校にいても睡眠遵守法の名前を聞かない日はない。現代社会の授業でちょうどこの法律のところをやっているからだ。朝の報道番組とそう変わらないノリで教科担任の辻先生が喋っている。
「で、ここからがまさに時代の転換期。日本の運命の分水嶺だ。よく聞け、100 %テストに出すからなー。みんなもご存じの通り、2082年、平安党の 瀬戸幸一総理大臣が”睡眠遵守法”を制定した。いやはや彼は本当に凄い。先生もな、大人として尊敬しているんだ。まあー、今更説明する必要もないと思うが、これは私達国民の睡眠を保証するという法案だな。これは国民投票を行ったが、賛成多数で可決。えー、それから10年後の2092年に実際に施行されたわけだが……」
私は視聴者のような気分で先生の話を聞いていた。板書はしなければいけないのは、頭では分かっているけれど、なんだかペンを持つ気になれない。
だってこんなに長々と話されても、私には関係がないのだ。
今日の学校は香織がいなかったので詰まらなかった。そのせいか私は今夜の事ばかりを考えていた。数学でも国語でも、私はすっかり上の空で、チャイムの後でハッとしてノートを見ても猫やら犬やらの落書きしかそこにはなかった。香織に今日の分のノートを頼まれていたが、この猫の可愛さでごまかせないだろうか。
こうして一日中、上の空を貫いたおかげか一つの妙案が浮かんだ。きっかけは何でもない先日100 kgに到達した小木先生の一言だった。
「暑くなってきたな。まーた夏が来るのかなあ。僕はね、許せないんですよ。温暖化も夏も」
いわゆるピンときたってやつだ。すさまじい冴えっぷりだ。こうなってしまえば、待ち遠しくて仕方がない。
私は普段は信じてもいない頭上の女神に祈るように感謝した。小木先生の言う通り、今日は四月にしては少し暑い。確か天気予報でも終日晴れで、気温も上がると言っていた。天気予報が意味する「終日」は、一体何時までなのだろうと少し気になったが、まあ大丈夫だろう。
私のなけなしの授業への関心がついに底をつき、私はルンルンと計画作りに尽力した。必要な道具類と使用後の処理。注意点という程の注意点はないからまあ大丈夫だろう。楽しみだなあ!
私は学校が終わるとすぐに帰宅した。いつも寄り道ばかりしたがる香織がいないのが、今日だけは幸いだった。家に帰ると私はまず宿題を片づけた。それが終わると自分から風呂に入り、その後は食卓についた。普段とは違いあまりに健康的で無駄のない動きだったので、母は驚いていたが、私が早く寝たい旨を伝えると納得したようだった。
「じゃあお母さん、お父さんおやすみなさい」
「なんだもう寝るのか。夢子も成長期だなあ」
「今夜は暖かくなるみたいだから、汗をかかないようにね」
部屋に戻って携帯を見ると、香織から今日の分の板書を催促するメッセージが来ていた。私は「ごめんね」と件名を打ったあと、猫の落書きを添付して送った。メッセージが送信し終えると、香織の返事を待たずしてベットに入った。日本が眠りに落ちるまでに、まだ1時間と30分以上あるが、私は部屋の電気を消し寝る態勢を作った。
国民が同時に寝る、ということに妙な連帯感を感じているのは私だけだろうか。国家をあげて寝る、国民が総力をあげて寝る。想像するだけで私はなんだかほくそ笑んでしまう。スキップで全力疾走するみたいなシュールさがそこにはある気がするのだ。まあ私には関係ないけど、と若干の疎外感にいじけつつ、優越感の中で私は眠った。
ピピピピピピ、ピピピピピピ
目覚まし時計のアラームが耳元で鳴り響いた。この目覚まし時計というものも今ではレアらしい。まあこれがなくても起きれるのだから存在価値など無いに等しいだろう、私以外の国民にとっては。
私は右手で荒々しくアラームを止めると、月明りに照らされた目覚まし時計を確認した。2つの針はピタリと重なって、行儀の良い兄弟のように見えた。時刻は深夜0時だ。
私は高揚感が足元からジワジワとせり上がってくるのを感じ、それが口元まで来たところで部屋の窓を開けた。
「こーんばーんはーーー!」
空は雲一つない快晴だった。雲が一つとなく、三日月と無数の星達が浮かんでいるだけだった。「夜遊び」にはもってこいの日和だったので私はますます鼓動が高鳴るのを感じていた。
私はパジャマを脱ぎ、パーカーと短パンに着替えた。別にパジャマでもいいのだが、何となくバツの悪さを感じるのは羞恥心からなのか、清潔面からなのかは分からない。どうせ外には誰もいないのだ。ベットのすぐ横に用意していたリュックを背負い、わざとドタドタと階段を駆け下りた。
「じゃあ行ってきます!」
今朝よりもずっと元気よく、私は夜の世界へと飛び出した。
○
今夜は大方の予想通り夜でもあまり気温が下がらず、少し走ればすぐに汗ばんでしまうような気温だった。私は昼間の冴えていた私を改めて褒めちぎり、背中のリュックに目をやった。……楽しみだ。
私がこんな風に夜眠らなくなった原因は、私自身もよくわかっていない。きっかけはあまりに突然で、まだ私が15歳にも三年生にもなっていない3月の春休みの出来事だった。この日は夜ご飯も食べずに19時ごろに寝てしまった。母もどうせ22時になってしまえば、起きないのだからと私を放置したようだった。しかし、私はどういうわけか深夜1時に偶然目を覚ました。その時は体がおかしくなったのではないかと、不安に押しつぶされそうだったが、カーテンから漏れ出てている月明りを見ていると、つい好奇心にかられカーテンを開けた。
瞬間、部屋に差し込んだ月明りの眩さを、私は生涯忘れることはないだろう。深夜の月がこんなにも気高く輝いているものだとは知らなかった。知れるはずもなかった。首を上に上にともたげなければその月を見ることはできず、雲よりも遥か高い場所から夜の世界を照らす月明りは、美しさの他に、柔らかさがあった。太陽が見せる輝きが黄金であるのなら、この優しい輝きは白金だ。この日見た月に、私はすっかり心奪われてしまった。
そして次に、この月光を浴びているのが日本で私一人であることに思い当たると、先程までの不安によるものとはまた違った心臓の高鳴りが私の体を支配した。この日から私の「夜遊び」は始まったのだった。
あの日以来、何度か「夜遊び」をこっそりと楽しんでいるが、弊害もある。原因は分からないが、国民が管理されている就寝と起床が、私だけ自己管理なのだ。だから私は、夜黙っていても寝る事はできないし、朝目覚ましがなくては起きることができない。就寝はまだバレようがないから良いのだが、起床はそうはいかない。もし寝坊をしようがものなら、母は青い顔で救急車を呼ぶことだろう。
だから今日みたいに「夜遊び」に興じた日は、朝起きるのが非常につらい。寝ている自分に責任なんて持てるわけがないのに、いや持てるわけがないからこの法律が制定されたのかもしれないが、必ず起きなければいけないというのはプレッシャーだ。
しかし、それぐらいの危険でこの時間を体験できるなら安いものだ。誰もいない、スイッチの切れた世界は昼間とはまるで違う。私が昼間に歩くのは道路であって道路でない。社会であり、世間を私達は歩いている。しかし、ひとたびスイッチがOFFになれば、私はやっと純粋な「道」を歩き「地球」を歩くことができるのだ。夜になって初めて触れることができる「人の世界の外側」は、何よりも心地よかった。
夜には星と、月と、私しかいない。私は一度足を止め、伸びをしながら深呼吸をした。ググッと体を伸ばした先にある三日月は、光を発するというよりは、周りの星々のようにくっきり輪郭を主張しているだけだった。夜空に貼られたシールのようなそれは、周りの星々の煌きを奪うことなく、調和していた。
春休みに見た満月も荘厳な光景だったが、無数の星々が夜空に浮かんでいる今夜も私は同じくらい好きだった。人の灯りがある内は見ることができない彼らの輝きを知っているのが私だけであるように、私の「夜遊び」を知っているのも、上空で見下ろす彼らだけなのだ。悪巧みを共にした悪友を見るかのように、私は彼らを見てクツクツと笑った。
夜道を歩いていると、私の「夜遊び」を知るもう一人の悪友に出会った。
「やあやあ、シガーじゃないか。こうして会うのは久しぶりだね。」
シガーがニャーと一鳴きして、私に応えた。この年齢不詳の黒猫は名前をシガーと言う。まあ名前は私が勝手につけたのだが。由来は簡単で、シガーと初めて出会った「夜遊び」で、彼が煙草を咥えて歩いていたからだ。もちろん煙草に火は点いていなかったが、なんと粋な猫だろうとそれ以来すっかり気に入ったのだ。
「シガーは今夜はどこまで行くの?」
私の次の質問にシガーはふいと首だけで答えた。ふうむ確かに野暮な質問だったかもしれない。シガーは私と同じように「夜遊び」しているだけなのだから、そこには目的地も意味もないのだろう。ちょっとそこまで、シガーは私を諭すように悠然と歩を進めた。
シガーと知り合ってから、まだあまり日も経っていないが、彼は徐々に心を許してくれているような気がしている。きっかけは、シガーに一晩中付いていったあの日だろうか。
○
その日は私も特に意味もなく夜の世界を歩いていた。そんな時にシガーに出会ったものだから、面白そうだし付いて行ってみようとしたのだ。シガーとはこの日で通算3度の邂逅といった具合だった。
私はシガーに近寄って無言でその横を歩き始めた。その時のシガーは私に気付いているようだったが、大きな変化は見えず黙々と歩き続けているように思えた。
しかし、シガーは急にその歩みを止め、一度考えるような素振りを見せると方向を転換し、今までの道を戻ってしまった。
気を悪くさせてしまったかと思い、私が気まずく立ち止まっているとシガーは私を見つめたまま待っていた。彼の意図が分からず、どういうことだろうと近づくか離れるか決めあぐねていると彼がニャーと一鳴きした。その声があまり怒っていなさそうだったので、恐る恐る近づくと彼はまた悠然と歩きだした。
それを何度か繰り返し、40分程歩いた頃だろうか。とある墓地に着いた。墓地は小高い丘のようになっていて、脇の階段で頂上までいけるようになっていた。
「ええ…。シガー、まさかここに行くの?」
シガーは応えることもせず、トントンと階段を上り始めた。
「参ったなあ…。やっぱりシガー怒っているのかなあ。」
階段は案外長く、私が歩く周囲には木々が生い茂っていた。そのうえ階段がくねくねと入り組んでいるものだから、360度全て木に囲まれているような気分になった。夜の墓地に、木々のざわめき、得体の知れない虫たちの声も、私を焦らせ、月が照らすシガーを絶対に見失わないように、というかいっそ抱きついてしまいたい衝動をなんとか抑え、階段を一段一段登った。もし彼がここで急に周囲の茂みに身を隠したり、階段を駆け下りたりすれば私にとって最高の嫌がらせになっただろう。シガーが怒っていませんようにと祈りながら、15分程歩いているとやっと階段が終わりを迎えた。
そこで待っていたのは開けた空き地のような場所だった。丘の頂上付近まで登ったようで、あと少し歩けば頂上まで着きそうだった。シガーが休むことなく頂上を目指して歩き始めたので、私はふぅと一息ついて、すぐに彼に続いた。頂上で猫の集会でも開かれているのかと期待したが、どうも私達の他には誰もいなそうだった。
頂上に着くと、今まで木々のざわめきでしか感じられなかった夜風がごうっと私の体を突き抜けた。そして風によって閉ざされた瞼を開くと、そこには月明りに照らされた大きな湖面があった。
私は呆気にとられ、さっきまで住宅地を歩いていたのに、こんなに大きな湖なんてどこから湧いたのだろうと思っているとその正体が分かった。
眩い月明りが、眼下に広がるびっしりと連なった住宅地の屋根を照らし、それが月光を浴びた湖のように見えたのだ。白く輝く屋根たちは湖面に浮かぶ波の様に、穏やかに光を反射していた。
「すごい、これが私達の街だなんて……」
月、そして星以外の光源はそこにはなく、私達の街は盆地になっているため、視線の向こうに見える山々がそのシルエットによって星を隠していた。眼下に居座り続ける穏やかな湖面は、まさに山中に用意された水源のようで、昔はきっとこんな湖を囲んで登山者達は夜に語らっていたのだろう。
湖と、山と、月と、星達。ああ、この夜の穏やかさを誰も知らないのかと思うと、嬉しいような悲しいような気持ちになった。長い登り坂に汗ばんだ顔を、洗いたてのタオルのような薫風が優しく拭い去り、深呼吸をして体いっぱいに空気を取り入れてもこの景色を我が物にすることはできそうになかった。
私は思いだしたようにシガーに目をやるが、彼はそ知らぬ顔で地面に寛ぎ、目の前の景色をただ眺めていた。今にも懐から煙草を一本取り出して、一服を始めるんじゃないかとドキドキしていたが、どうやら今日は持っていないようだった。その横顔は老いた老人のようにも見えたし、青年のような凛々しさを持った顔つきのようにも見えた。
彼は「夜遊び」の先輩としてこの景色を見せてれた。まだ日が浅い私を導いてくれた。ふと、私の行動を思い返してみれば、ずいぶんと失礼であったかのように思える。シガーに許可を得ることなく勝手に近づき、付いて行ったのだから。それなのに彼は、何も言わず私を受け入れ、それどころか「彼の夜遊び」を教えてくれたのだ。
「シガー今日はありがとう。私、今夜の事もこの場所もずっと忘れないよ」
シガーは私に一瞥をくれただけで、すぐに前へと向きなおった。なんて懐の大きな人なのだろう。正しくは人物ではないが、この際は種族などは大した問題ではない。
この日から私はシガーに一目置くようになった。その後も、帰りの道中で彼は決して私を置いていかず、しきりに後ろを確認しながらエスコートしてくれた。クラスの男子よ、これをジェントルマンというのだ。正しくはジェントルキャットだが、この際は種族などは大した問題ではない。シガーこそまさに私の理想の男性なのではないかと、彼との「デート」を満喫した次第だった。
○
シガーとの一夜を回想しつつ、彼と共に歩いていたが、やがて道を分かつ事になった。彼のように音のない夜を歩き続けるのも悪くはないが、今日の私は行きたいところが既に決まっていた。目の前のY字路を私は左に、シガーは右へと進むようだった。
「じゃあね、シガー。会えて嬉しかったよ。また今度」
シガーは私に目をやると、ニャーと鳴きながら行ってしまった。別れの際も、歩調を変えることなく歩き続ける彼の姿はまさに猫といった感じだ。次に彼と会えるのが、いつになるのか分かりはしないが、今度は手土産でも用意しようかと思う。
シガーと別れてからは、自分の歩調でずんずんと夜道を進んだ。静寂の世界に聞こえるのは、私の呼吸、風を切る音、衣擦れの音などばかりだ。音の生まれない世界でカツカツと声を上げる私の靴がなんだかおかしく、私はわざと大げさに足音をたてたりした。
カツカツカッカッ、カツカツカカカ
意味のないリズムは私の心を浮かれさせた。半ば踊りながら夜道を進んでいると、案外早く到着するもので、私は早速それにトントンと侵入し、リュックを地面へと置いた。
「とう・・ちゃーーく!」
大きな大きな水面を前にして、両手を空に上げて万歳をした。私が侵入したのは学校のプールだ。
このプールは学校の敷地内にあり、侵入を遮る壁などがないものだから簡単に入ることができる。授業中には下から壁がせり上がり、悪漢の目から女子中学生を完全にシャットアウトするのだが、課外である今夜は壁が出てくる道理がない。私の読み通りだ!
プールの水面は黒く、なんだか重苦しいように見えるが、そこには無数の星々が輝きを映しており、星の水田のような景色だった。その輝きに大小はあれど、ひとつひとつが命を持つ苗のように煌いていた。
「よーし着替えるぞー!水着!水着!」
私はリュックに入れていた学校指定の水着と、タオルを取り出した。もっと可愛い水着もあるにはあるが、学校のプールに入るのだ。スクール水着以外は邪道というものだろう。それに、誰に見られるわけでもないのだから可愛くても仕方がない。
しかし、私は服を脱ごうとしたときふと妙な気持になった。いや、先程誰が見ているわけでもないと言った通り、この場には、それどころか今日本には私しかいないようなものなのだが、なんだか恥ずかしかった。羞恥心とは世間があるからこそ生じると思っていたが、自分の内から湧いて出てくるらしい。
「……茂みに行こうかしら」
校庭のちょっとした茂みに行って着替えることにした。夜空の下で一瞬だけだが、全裸になった瞬間、私はアダムがリンゴを食べた時の気持ちを感じることができたかもしれない。
服って大事だなあ。私は先人に感謝の意を表明するのもそこそこに、準備体操を始めた。さて、泳ぐぞー!
「とう!」
ザッパーンと水面が大きく音をあげ、夜空へと響いた。飛び込んだ後、私はすかさずクロールで水面をぐんぐんと進み、25 mなんぞは簡単に泳ぎ切る。息継ぎの瞬間見える星空は、路上で見た星空や、丘の上で見たそれとはまた違うもののように思えて、空にも表情があるのかと私は面白くなった。
ターンを決め、半分ほど泳ぐいだところでプールの底に足をつけた。顔の水を払い、周囲を見てみると、前後左右上下に星があり宇宙に立っているかのような錯覚に陥った。もし、この星達がしゃべることができればそれはそれは騒がしい夜になるな、とそんな風に思える夜だった。喋ることなく佇んでいた星達はそれでも十分に夜を賑わせ、私の心を明るくした。
ひとしきり泳いだ後は、プールサイドに置いてあるビート版をお腹の上に置いてラッコみたいにぷかぷかと浮いていた。授業中は男子がせわしなく動き回るうえに、彼らはスケベだから今のように穏やかに浮いていることさえできない。いくら私がグラマラスだからと言っても、いたずらばかりをされていてはイラっとくる。
それは、心地よい時間だった。プールに浮いているだけで何もかもが漆黒の水面に溶けだしているかのようだった。始めに髪が溶け、肉がなくなり、骨となりやがてそれもなくなる。水に溶けたそれらはいつか下水に流されてしまうのだろうか。
なんだか癪にさわった私は、下水に流れるならいっそこのままおしっこをしてやろうかと思ったがさすがに自重した。
スッキリしたしそろそろ帰ろう。すっかり長居してしまったようで、腕時計を見ると3:00を少し過ぎている。もう幽霊達も寝ているじゃないかと私は慌てて着替え終えると、風呂あがりのように首からタオルを下げて、家から持ってきた牛乳パックを飲みつつ帰路へとついた。いやあとてもいい時間だった。定期的に来ようかな。そうだ、今度シガーもプールに招待してみよう。
私の「一夜」はこうして更けていった。