8. 新世界への切符
「あのな君たち、そろそろいい年だろう? いくら仕事で嫌なことがあったからって、喧嘩で憂さ晴らしはよくないぞ。まだ若いんだから、夢を持って生きなくちゃ」
目の前には説教が大好きそうな中年の親父が、マナとジーンを椅子に座らせて、滔々とさっきから語っている。その親父さんは警察官の制服をまとっていたが、この話の長さからして、普段まわりの人間から相手にされていない部類の人間なのではないかと、マナは見当づけた。きっとその中でも、娘から無視されていることが、一番の心のダメージなのではないか。そう思うと、無駄にご立派に蓄えている口ひげも、娘から〝キモい〟呼ばわりされているんじゃないかと、マナは一人妄想した。
その横でジーンは、本物の不良か何かのように、これ見よがしに欠伸をする。それがさらに、親父警官の説教に火をつけるのである。
「将来どうなりたいんだ? うん? 笑ったりしないから、言ってごらん?」
「自給自足生活」
間髪入れずに、ジーンはそう答えた。その後からマナも、遠慮がちに答える。
「美味しいものを食べて、人並みに生きられたらそれだけで……」
「夢がなぁい!!」
マナが言い終わる前から、口ひげ親父は大声を張り上げた。〝何だよ、ビビらせるなよ〟と、ジーンはぼそぼそと呟いたが目の前のおじさんは一向に気にしない。どころか、耳には届いていないのだろう。
そもそも〝自給自足生活〟も、〝普通の暮らし〟も、十分立派な夢になるであろう。特に戦地で育った子供たちや、日々が安定しない中で生きる者にとっては、渇望以外の何者でもない。
だが目の前の口ひげ親父にとっては、それは〝夢〟ではないらしい。たぶんそれは、当たり前に保障されているものと思い込んでいるのではないだろうか。
と同時に、〝夢〟という単語を出せば、どんな世界もバラ色に美しいものになると思い込んでいる。だが人間常に、夢やら希望やら目標に向けて突っ走りまくるのは、正直しんどい。若者言葉で言うなれば、〝ぶっちゃけ疲れる〟。そこには、安息、休息、癒しというものは、一切抜け落ちているように感じられる。人参を目の前にぶら下げられながら、潰れるまで走らされる馬のようである。
そしてそれは、奥深くまで切り込まない表面だけを撫でるだけの体の良い言葉だと思う。奥深くまで切り込んで、相手の暴風のような渦の中に、自身が巻き込まれたくないという自衛が見え隠れするのだ。そういうことに気づいている自分を、心の奥底のそう簡単には開かない扉の向こう側に押し隠して、何食わぬ顔で仮面をつけてしまうのが、ジーンという男なのだが……。
ジーンはもう一度、大きな欠伸をした。そして、これ見よがしにマナに耳打ちした。
「こいつ、大丈夫そうだな」
「……え? 何が?」
「……君たちは、私の話を聞きたくないのかな?」
青筋を立てる口ひげ親父の存在を気にすることなく、ジーンは堂々と耳打ちを続ける。
「研究所も、ノアも関係なさそうだ」
「あ、そういうこと……」
「ただの平和そうなじじいだ」
「誰が〝じじい〟だって!?」
人間というものは、自分が気にしていたり、気になる言葉はよく拾うものだ。目の前の口ひげ親父も例に洩れず、その単語にだけ如実に反応を示した。マナはこの瞬間、勝手に確信した。〝私の妄想、たぶん当たってる!〟と。
「もういい! さっさと留置所に行きなさい!!」
突然に〝警察官〟から、〝普通の親父〟へと変貌したその言葉は、彼自身が持つ本来の言葉なのだろう。だがそのほうが、血の通った人間味を感じられる。
「はいはい」
ジーンとマナは、そんな疲れたような声を出しながらも、さっさと席を立ち、留置所へと移動した。
チチチチッッ――
どこかからねずみの鳴き声がする。施設の造り自体は現代的で、ねずみなどが入り込む余地はどこにもなさそうなのだが、実際に声が聞こえたわけだから、どこかに存在しているのだろう。
マナはあたりを見回した。自分が囚われている牢、そして隣の牢には両腕を頭の後ろに回して壁に寄りかかて座るジーン、向かいや斜め向かいの牢には、ごろつきの何人かが収容されていた。皆、けだるそうに座ってはいるものの、心なしかこちらの様子を気にしている雰囲気があった。
その視線に気づいているかはわからないが、ジーンはあくまで気楽そうである。つと、マナの視線に気づいたジーンは、リラックスしたようにこう言った。
「まぁ、久々に休息をもらったと思っておけばいいのさ」
そんな軽い調子にマナは、
「そんな感じでいいのかなぁ……?」
と、ぼやくように呟いた。
「だってそうじゃないか。外に出れば俺たちを狙っている研究所の連中やら、ノア国に関連した奴らやら、もしくは目の前の牢にいる〝ごろつき〟やら。そんな奴らでうじゃうじゃしているんだぞ。それに比べりゃあ、ここは平和なもんだ。多少、自由は制限されているがな」
「〝多少〟……ねぇ」
「あぁ」
目の前のごろつきたちは、自分たちのことを言われていたのだが、気にした素振りもなく、牢の中が自分たちの持ち場所であるかのように、そこに収まっていた。そんな中、ジーンの声だけが響く。
「ま、マナにとってはあまりピンとはこないのかもしれないけれど。俺にとっては、久々さ。こんなにゆっくりと、いろんなことを考えることができる時間は」
「……そうなの?」
「あぁ。俺だって、あの研究所を出たばかりのときは、この世界に馴染むのに苦労した。息つく間もなく、次々とトラブルは起きるし、騙されて金は盗られるし」
「へぇー……」
ジーンでもそんなことがあったんだと、意外に思う心がマナの中にあった。だから、こんなにもお金に執着する男になったのかな? とも、思ったが。
「右も左もわからない世界で、まずは仕事を見つけて、身を守る術を覚えて。いろんな人に出会って、そして出会った分だけ別れた。俺には向かいたい場所があったからね」
「ウィズの街ってこと?」
「いいや、違う」
ジーンは自分でそう答えながら、はたと疑問に思った。たしかにあの頃は、平穏に自分の正体がばれないような静かな場所で暮らすということを考えていた。その方法を探すため、ウィズの街に行くんだ、と。
だけどそれ以前に、強く自分を惹きつけてやまない何かが、あの頃には確かにあった。だからあのとき、急遽進路を変えたのだ。研究所に最も近い街、ノーマに戻るという危険を冒したのだ。行かなければ、その何かを迎えに行かなければと。そう思っていた――
「あ……」
不意にジーンはこのとき、思い出した。あの研究所で自身が目覚めて、マナを初めて目にしたあのとき、制御システムに近づいた俺は、あるプログラムを打ち込んだのだ。
俺はあの時、マナが目覚める時期をプログラムしていたんだ。
不意に呼び覚ました記憶。それが引き金となって、水が流れるように次々と思い出されてゆく。気づけばジーンは再び、あのときのあの場所に立っていた。一つ一つの動作も、あのときの状況、まわりの様子、空気の匂いに至るまで、全てを鮮やかに思い出していた。それなのに一つだけ思い出せないものがあった。
あの研究所の館長を名乗る男の名。顔を思い出すことはできるのに、その男の名前が思い出せない――
「ジーン?」
隣の牢から、心配そうな声が上がる。自分はよほど、怖い顔をしていたのだろう。
「あ、いや、ちょっと考え事をしていた……」
そんな言葉で濁すと、さっきまでの思考もそこでフェードアウトする。
「さて、ここから出るために動くべきか、それとも待つべきか……」
そんな独り言をぶつぶつ呟くと、マナは不思議そうな顔でジーンを見つめた。
「うーん、そうだなぁ……」
ジーンは呟くと、マナにちらりと視線を向けてこう言った。
「少し、協力してくれない?」
その瞬間マナの中で、いつもの〝嫌な予感〟が走ったのは、言うまでもない。
「あのー、すみませーん!」
牢の中からジーンは声を上げた。それは、見張りのために廊下に現われた看守に向けてのものだった。
「……なんだ?」
看守は、少し不機嫌そうにジーンの牢に近づいた。たしかに、あんな間延びした声を聞いただけでは、事の緊急性はないかのように聞こえることだろう。
だが看守は次の言葉を聞いた瞬間、慌てふためいた。
「この牢の鍵、はずれてるんですけど……」
瞬間、看守は牢の鍵穴の高さまで顔を近づけた。そのときを、ジーンは逃さなかった。ジーンと同じ目線まで屈めた看守の顔面に、一撃を喰らわす。そしてそれは見事に、入ったようで、看守はその一撃で背中から地に仰向けに倒れた。
「まさか、こんなに簡単にひっかかるとはね」
〝キィ〟という軋む音を響かせながら、ジーンは牢の外へと這い出した。その光景を見ていたまわりの囚人たちは、途端にざわつき始める。
そんな中ジーンは看守が持っていた鍵で、マナの牢も開錠すると、外へと繋がっている唯一の扉へと急いだ。騒ぎを聞きつけて、これ以上応援を呼ばれたくなかったからだ。
だがその目論見は、あっさりと打ち砕かれてしまった。中の騒ぎを聞きつけた警察官数名が、押し寄せてきたのだ。ジーンは心の中で小さく舌打ちすると、戦闘態勢の構えをとった。しかし……
「うわぁぁ!!」
「なんだ、貴様!?」
押し寄せる警察官たちの後方から、そんな悲鳴が上がる。それが引き金となって、あっという間に統率を失った警察官たちは、一人の男によって伸されてしまった。そこに立っていたのは、レグルスだった。さすがに、パーカーにスウェットという軽装は違うものになっていたが(警察官にその服装を見られたという時点で、変えることに決めたのかもしれない)。
「どうやら結局は、オレの助けは必要なかったみたいだな」
レグルスは、ジーンとマナの状況を見て、そんな小さなひねくれと共に、軽口を飛ばした。
「いえいえ、めっそうもない! 大いに助かりましたよ!」
軽々しくそんな言葉を並べるジーンを、レグルスは冷たく一瞥した。だがすぐにくるりと向きを変えると、元来た道を急いだ。まるでそれは、暗黙に〝ついてこい〟と言っているみたいだった。
マナはその警察署を後にしながら、〝これじゃまるで、犯罪者みたいだ〟と思った。思い返せば、カミュのいた製薬会社に忍び込んだときも同じことを思ったのだから、今更なのだが……。もはや、〝どうにでもなれ!〟と半分吹っ切れた状態で、この状況に覚悟を決めることにしたのだった。
案の定、街中は犯罪者逃亡で、あちらこちらで騒ぎとなっていた。配備された警官も、徐々に多くなってゆく。映画や小説の中の出来事を、体験しているみたいで、マナはまるで現実感がなかった。
しかし、そのふわふわとした感覚も、追い詰められると人間、吹っ飛ぶようにできているらしい。道の先と後ろ、両方とも警官たちに塞がれ、ただでは切り抜けられないということを三人共が悟る。
誰もが皆構えをとり、覚悟を決めたときだった。
「止まりなさい!!」
警官の群れの向こうから、一人の男の声が響いた。その男は人ごみをかき分けて、その姿を現した。
「なぜ、お前がここに……」
ジーンは呻くように、そう呟いた。そこにいたのは、カミュだった。ウインドミル手前の森で出会ったときとは、違う服装をしていた。あのときは軽装だったが、今は高位の軍人が着る軍服のような服を着ていた。そして、手には拳銃を持ち、こちらに向けられていた。
「どういうこと?」
思わずマナは呟いていた。あの森で研究所の者たちから助けたのは他でもない、カミュなのだ。それなのに今は、目の前に立ちはだかるように立っている。彼は一体、何者なのだろうか。
マナは目の前の、判別の付かない男をただひたすら見つめた。そうしていれば、何かを見極められるのではないかと思ったからだ。しかし、結果はそう変わらなかった。
「誰だ、あいつ……?」
「知ってるか?」
「さぁ。俺は知らないぞ、あんな奴。新入りにもいないし、ましてや、あんな制服は一体どこの組織だ?」
口々にそんな疑問が、警察官の中からも囁かれる。ただ一つ、皆が共通に思っていることは、〝どこの国かわからないが、高官の者だろう〟ということだ。
カミュはそんな空気を感じ取ったかどうかはわからないが、懐に手を忍ばせた。何が飛び出すのかわからない一同は、思わず身構える。しかし、姿を現したのは、やけに薄く感じられる一枚の紙切れだった。風に吹かれて煽られているから、そんな風にも感じられたのだろう。実際には、その紙切れは〝紙切れ〟と呼ぶにはおこがましい代物だった。
「ウインドミル所轄の者に告ぐ。この三人は、これからクラヴの街へと移送する。これは、クラヴ市長自らの命によるものだ。三人はクラヴ所轄によって、裁きを受ける身と処する」
そう一気に読み上げたカミュは、〝紙切れ〟のように見えたその誓約書の文面を一同に示すように掲げた。その文末にはクラヴ市長、チェンバー=カラムの署名もされていた。
「なおこの誓約書は、ウインドミル警察署長とすでに取り交わされているはずだが……。それなのにこうやって動き回っている君たちは、一体何なのかな?」
カミュは誓約書を大事なものを扱う手つきで、くるくると筒状に巻きながらそう言った。そう言われた警察官たちは、それに答えられる者はこの場には誰一人いなかった。とりあえず戻って、署長に真偽のほどを聞かなければ。皆、そんな感情をその顔面に浮かべ、右往左往していた。
しかしその展開に一番納得していないのが、当事者の三人だった。
「ちょっと待て! なぜ俺たちをクラヴの街に連れていく!? そこで裁く意味は何だ!?」
真っ先に噛みついたのが、ジーンだった。きっともっとたくさんぶつけたい疑問は溢れていたのだろうが、この切羽詰った状況で一番聞きたかったことはそのあたりだったのだろう。
しかしカミュは、ジーンの疑問を無下に切り落とした。
「その質問に対して今ここで答える権利を、今の僕は持ち合わせていない」
だがその言い回しは、何とも回りくどいものだった。聞きようによっては、〝なら、今ここでなければ、持ち合わせているんだな?〟とも解釈することができるだろう。
「ほぉー」
ジーンは目を細めながら、カミュのその答えを受け流した。もしかしたら、そのように解釈したのかもしれない。だがカミュ自身もそこに関してはこれ以上、何も言葉にはしなかった。〝どうぞ、お好きなように〟とでも言いたげに、悠然としている。
「そもそも、お前誰だ?」
最も素直な感想を吐き出したのはもちろん、レグルスだった。しかしその疑問は、この場にいる誰もが抱いている疑問であろう。皆の視線は、自ずとカミュへと集まっていった。
「僕はある国からの使者だ。名前はカミュ」
彼は簡潔にそれだけを答えた。
「ある国?」
その答えだけで満足できていないレグルスは、再度そう問い直した。それに対してカミュは、視線をちらりとレグルスに向けた。一瞬だけその顔に、答えるべきかどうすべきかの逡巡が見え隠れした。
しかし次の瞬間、彼は何かを決意したような顔で、こう言った。
「それは、ノアだ」
その答えに、まわりにいた警察官もレグルスも、自身の耳を疑った。一瞬、何を言ったのか理解できないという表情の者もいた。それほどにその国の名は、一般的なものではないということだ。
やがてその国の名が、やっと脳まで行き届いたであろう者が、物を飲み込み切れないといったすっきりしない表情を浮かべながら、まわりの者と話し込む。大方、〝聞いたことあるか?〟といった問いを、あちらこちらで繰り広げているのだろう。
しかし、マナとジーン、そしてレグルスだけは、その国の名を知っていた。三人は表情を強張らせ、カミュを凝視する。
特にマナは、カミュがケイロンと連絡を取りたがっていた態度からして、こちら側の人間なのだと勝手に思い込んでいた節があった。だが今この展開で、その考えを捨てざるを得ないことがわかったのだった。
「こういう次第だ。この場は、私に任せてもらいたい」
カミュのその一声は、まるで会議の解散を告げているかのようだった。集まった警察官は腑に落ちない表情を浮かべながらも、一人、二人とパズルのピースが溶け落ちてゆくように、ばらばらと退散していった。
後に残されたのは、消化不良の顔をした三人と、銃口を下ろしたカミュだった。その中でもジーンは、相手を観察するように、じっとその視線をカミュに据えた。
「何の意趣返しのつもりだ?」
ジーンは皮肉交じりにそんな揶揄を飛ばした。しかしカミュは動じることもなく一言、こう答えた。
「詳しい話は、船の中で話そう。これから出るクラヴへの定期便を、押さえてあるんだ」
そう言うと、ついて来いとばかりに先頭に立って歩き出す。このまま三人が逃げる可能性だって、全くないとは言えないはずなのに、彼は三人に背を向けてどんどん歩いてゆく。
ジーンは腹の中で、〝おもしろいじゃねぇか〟と、挑むようににやりと笑うもう一人の自分を感じた。そしてジーンは、そのもう一人の自分に従うことにした。
◆ ◆ ◆
光の粒が煌めいている。それらは何かを暗示するサインか何かのように、場所を変えて明滅を繰り返している。
そのサインは、どこから発せられているのだろうか。ふとマナは、そんな意味深なことを考えた。現実の世界だけで捉えるならばそれは、水面の煌めきにすぎないのだけれど、その煌めきの形に意味を見出そうとするなれば、先程の疑問に舞い戻るのである。
遠い遠い異国からなのだろうか。それとも、その異国の香りを軍服のような服の下に隠した彼からなのだろうか。それとも、もっともっと遠い、誰もまだ知ることのない世界からなのだろうか――。
そんなことを考えていると、マナは自身の境界線が薄れてゆくような、そんな感覚を覚えてしまう。
「さて、何から話そうか……」
近くで聞こえたその声で、マナは現実の世界に引き戻された。と同時に、途端に自分の輪郭を取り戻したような、そんな錯覚を覚える。
プロムナードデッキの欄干に身を預けて佇むその人物は、先程の言葉を発した主、カミュだった。彼は不思議なことに、マナたちを拘束したりはしなかった。その代わり、船上にはカミュと同じ系統と思われるノア人がちらほら、見受けられた。彼らの目は、マナたちを監視しているようにも、護衛のために見守っているようにも見えた。そんな中、三人は暴れ出して逃げようと思えば、逃げることだってできたはずだ。
しかしジーンは、相手の正体を見極めるためなのか、あえて罠とも思える船出に乗ることに決めたのだった。その挑戦的な感覚は、レグルスも同じだったようだ。異論を唱えることなく、無言でこの船上に収まっている。
そんな中マナだけが、得体の知れない妙な感覚を抱いていた。自分は前に手を伸ばすのだけれど、霧が目の前を覆ってゆくのだ。その霧は、必死にかき分けようとするのだけれど、ちっとも晴れてはくれない。それどころか、その霧は、どこかで誰かが人工的に作り出しているような、そんな節さえ感じられる――。
なぜそんなイメージが自分の中で浮かび上がるのかは、わからない。マナはそんな感覚を妙に思いながらも、目の前の現実に意識を戻すことに、集中した。
「いろんな予定が変わってしまってね……」
カミュはそう言葉を継いだ。誰もがその先の言葉を待つように、口を挟むことなく佇んでいた。その空気を誰よりも感じ取っているカミュは、話を続けた。
「もし君たちが望むなら、ノアに招待しよう。そう思っていたんだ、彼らも。だけど、事は急を要するようになった。ノアにとって、君たちの力が必要になったんだ」
「そもそもお前は、ノアの使者だと言っていたが、お前のバックには何がついているんだ? もう、製薬会社の一社員などではないことだけはわかるんだがな」
皮肉交じりにそう言うジーンの言葉を、カミュはさらりと受け流した。
「製薬会社を飛び出した僕を、ある高官筋が拾ってくれたのさ。いや、ある意味では、ノアに舞い戻されたとでも言いかえることができるのかもしれないがね」
今度はカミュが自身に対して、皮肉を放つ。それはまるで、他人事のような言い方だった。自身の数奇な運命を、俯瞰して見ているのかもしれない。
「だけどあの国はそう簡単な国ではなくてね。同じ国内でも派閥があるように、ノア人だから味方だとか、そういう単純な話じゃないのさ」
ちょうど船は、出港のときを迎えたようだ。エンジンが点火され、ジェット音が徐々に音階を上げてゆく。最新式の船とまでは言えないものの、それなりの安全性と快適性、規模を併せ持つ、〝客船〟と言える船のようだ。貨物船に客が申し訳程度に乗る船ではないだけ、まだましと言えることだろう。
カミュは海面に視線を移した。その瞳の中で、青が揺れている。その揺らぎはそのまま、ノアという国の揺らぎを表しているみたいだった。
「ノア国内にも、あの研究所の存在をよく思っていない者たちもいる。つい先日、ある査問委員会会議で研究所のことが審査されてね。取り潰すべきだ、という結論に至ったわけなんだが……」
カミュはさらりと、そんな重大なノアの現状と変化を口にした。いや、今まではあの研究所の存在自体、一部の人間にしか知らされていない、秘匿事項だったのだろう。それが査問委員会にかけられるほど、明るみに出始めている、ということの表れなのではないだろうか。
そしてカミュは、さらなる重大な事実を口にした。
「その査問委員会の主催が、政府主体の組織なんだ」
「つまりそれは……」
ジーンは言葉に詰まったように、喉をごくりと鳴らした。それほどにジーンにとってもそれは、驚き以外の何者でもなかったのだろう。
「そう、ノアの政府は、あの研究所を取り潰す決定を下したということだ」
三人の中で、それまで組まれていたはずのパズルが、弾け飛んだ。それらは思わぬ方向に飛び散り、どんな形を結び、どんな絵が出来上がるのか、誰にも予想できぬものとなった。
ただ一人、三人の視線を一点に引き受けるカミュだけが、その地平の彼方へと静かな視線を向けるのだった。
完