6. 風の街
ずっと窓の外を見ていた。看護師たちの会話は、聞こえている。それでも聞こえていないふりをして、窓の外を見ていた。
「若い子たちはいいわねぇ、素直で」
「可愛いわよねぇ。うちなんて、首で指示してくるのよ。〝片づけとけ〟みたいにして。言葉を忘れた犬みたいよ」
「そうそうそう。やってもらって当たり前って思ってんのよ。もう少し、あの子たちみたいに素直になってくれたらねぇ……」
「でもそれはそれで、気持ち悪いわ」
「そうね」
彼女たちの会話が、余韻のように残ったこのがらんとした室内には、この病院の院長であるイリーナのみが存在する空間となった。窓辺に佇みながら聞いた、彼女たちの会話は、レグルスの部屋を通りかかったときに見えたもののことだろう。
急にふらついたようにマナに抱きついたジーンは、その後も気持ちが収まるまでしばらくそうしていた。その光景を通りかかった看護師たちは、たまたま目にしたのだろう。
いつもならば、長い無駄口には注意を入れるイリーナなのだが、このときはなぜかそれさえも忘れてしまっていた。ただぼんやり見つめる窓の外では、相変わらず風が強く吹いていた。
思い返せば、あの頃からこの風鳴りは変わっていないなと思った。それなのにこの街に住む人は、生き急ぐように変わっていった。もしかしたら自分も、その波の中にいるのかもしれない。少なくとも、この病院は……
「……よぉ」
入り口の扉のあたりから、よく知った声が響いてきた。イリーナはただ無言で、ゆっくりと扉のほうに振り返った。その男はいつ扉を開けたのかと思うほどに、気配を消していた。それでもイリーナは驚かなかった。それ以上に彼女は、今の彼に一抹の寂しさを感じていた。
「手ぶらじゃあ悪いと思ってね。ちょっとした土産だと思って、受け取ってくれ」
言いながらその男、ケイロンが差し出したのは、缶コーヒーだった。
「……そう、ありがとう。そこに置いといて」
そう言ってイリーナが指差したのは、入り口付近の机だった。そのままイリーナはケイロンから顔を背けるように、自分の席に着座した。勢いを削がれてしまった形のケイロンは、行き場のない缶コーヒーを仕方なしにイリーナの指示通りの場所に置いた。そして、自分の分の缶コーヒーを開けると、イリーナの隣の隣の机に身体を預けた。
「お久しぶりですね、イリーナ先生。相変わらずの鮮やかな執刀で……」
世間話のような口調で、ケイロンはイリーナにそう話しかけた。だが彼女は、一切の反応を見せない。黙々とパソコン画面に向き合いながら、仕事をこなしている。それでもケイロンは、相手の答えを待った。いや、答えが返ってこなくてもいいとさえ思っていたのかもしれない。
やがて、きりのいいところまで仕事が終わったのか、不意にイリーナはパソコン画面に顔を向けたまま、口を開いた。
「あなたのほうはどうなの? 浮雲みたいな毎日なんでしょう?」
風に吹かれたら、飛ばされていってしまいそう。
暗に、そんな言葉が含まれているような気がして、ケイロンは小さく笑った。
「そうだな。その表現はあながち間違ってないな」
「何がそんなにおかしいの?」
急激に繰り出された棘に、一瞬ケイロンはいつものやつが来たと、心の中で身震いをした。だが、彼女の目を見た瞬間、その身震いは止まってしまった。
「私の執刀が鮮やかですって? 何を言っているの? ケイロン先生。あなたが今でも医師であったならば、とっくの昔に私なんて超えていたわ」
その瞳からは、本気で怒ったときの彼女独特の強い光を放っていた。
「私はあなたを浮浪者のようなむさくるしい男にするために、アルカディア計画に送り出したんじゃないのよ!?」
そして捨て台詞のように、こう言った。
「今のあなたは、あなた自身じゃない」
そんなイリーナの言葉の全てを、ケイロンは黙って聞いていた。項垂れるでも、怒り出すでもなく、ただ静かにイリーナの怒りを受け止めるように聞いていた。
「あなたは、こんなところにいるべき人じゃないのに……」
小さくぽつりと落とされたその言葉は、怒りの中にも滲んだ何かを感じた。
「すまない……」
「どうして謝るの?」
彼女の刃は、さらに鋭く煌めいた。それでもどこかで、その刃の行き場所を見失って彷徨っている。その躊躇は、ケイロン自身もわかっていた。その理由の全てを。
彼女だってわかっているのだ。怒ったところで、どうしようもないことも。ケイロンがなぜアルカディア計画から離れたのか、そして彼のその気持ちも知っているのだ。それでも彼女はぶつけずには、いられなかったのだろう。この理不尽な現実に対しての怒り、思い通りにはいかない物事、この世界が抱える矛盾――
そして、イリーナは彷徨った挙句、その刃を身体の横にだらりと下した。
「……いいえ、こんなことはあなたに言ったところで、どうにもならないことはわかってる」
イリーナは振り払うように首を振って、席から立ち上がった。ケイロンに背を向けるように窓辺に立ち、外を見つめる。
「あなたが目の前に現れなければ、こんなこと話さずにすんだのに……」
独り言のように呟かれたその言葉は、この空間の中に浮かんだ。誰に聞かせるつもりもなく呟いたはずなのに、ケイロンにはしっかりと伝わっているような、そんな気がした。彼が俯く気配を、イリーナは感じたからだ。
その代わりのように、ケイロンのぼそぼそとした言葉がイリーナに届く。少しくぐもったように聞こえたのは、俯いたままで口にした言葉だからだろうか――。
「君は随分と、俺のことを買っているんだね」
イリーナは少しだけ後ろを振り返った。横顔でケイロンの様子を窺うようにしていたが、くるりと身体を反転させて窓にもたれるようにして、腕組みをした。
「〝買っている〟とか、〝買っていない〟とか、そういう問題じゃないの。あなたの能力に関しては、客観的に見ても優れていると思う。だからもっと上に行って当然だと思ってる。それだけのことであって、あなた自身のことをどうこう言っているわけじゃ……」
「じゃあ、なぜ俺に抱かれたんだ?」
さっとその顔に朱が差した。と同時に、その瞳に火が宿る。だが咄嗟のことで動揺さえも隠し切れなかったイリーナは、その瞳に怒りを宿すことで精一杯だった。
そのまま動揺を隠すように、イリーナはケイロンから顔を背けた。やっとのことで絞り出した声は、呻くような声だった。
「私はあなたとそういう話をするつもりは、一切ないわ。私があなたに言いたいのは、そういうことじゃなくて……」
おくれ毛の髪の間から僅かに覗く、俯いたその横顔は、怒りを宿していたが、その隙間には疲労感が滲んでいた。それを感じたのはほんの一瞬ではあったけれど、それでも彼女の中に眠るその途方もない疲労感は、ケイロンにはとても深いもののように感じられた。
「すまない……」
思わずそう呟いていた。と同時に、イリーナの背を抱きしめていた。彼女は一瞬、振り払おうと抵抗しかけた。だがケイロンはそれ以上に強い力で抱きしめた。
「会いに来なかったことを、こんなに遅くなってしまったことを、許してほしい――」
その瞬間、急激に彼女の肩の力が抜けた。両腕はだらりと身体の横に、下がったまま。
「すまない……」
やがて、恐る恐るその手がケイロンの腕に触れた。そして、冷たい雫が降ってきた。
◆ ◆ ◆
赤い火が灯る。あと何分かしたら、この窓の外にも朝焼けの光景が映るだろう。
ケイロンは赤い灯に吹きかけるように、煙を吐き出した。たぶんこの部屋の主は、こんな光景を目にしたら、〝外で吸え!〟と言って怒るだろう。その主はと言うと、普段は束ねている栗色の長い髪を広げたまま、ベッドで眠っている。その髪にも、朝の光は徐々に注がれてゆくのだろう。そのときその色は、どんな輝き方をするのだろうか――
そんなことをケイロンは一人、窓辺で考えていた。街を流れる風を感じながら。
久方ぶりに眺めるこの部屋からの街の光景。細かいところを見れば、少しずつ形を変えてはいる。だが、根本的なところは何も変わってはいないと改めて感じる光景。
遠方には大きな白い発電用の風車。それらをぐるりと囲むフェンス。防塵のために建てられた、要塞のような街を取り囲む壁。一般家屋にも風の力を利用するために、小さな風車が取り付けられている。
相変わらずの変わらない光景。だけど、常にこの街には強い風が吹いている。
その風に吹き飛ばされるように変わってしまったのが、俺なのだ――
ケイロンは不意にそう思った。鏡の前に立ち、そこに映る目の前の自分。無精ひげが目立ち始めている。
たしかにこれだと、〝むさくるしい〟と言われるわけだな。
ケイロンは鏡の中の自分を笑うように、心の中でそう思った。ひげを剃るために、自分の荷物の中から剃刀を取り出し、そり落とす。少しは見れる顔になったかと、自分で自分に合格点を出したそのとき、不意に洗面道具が収まった収納スペースが気になった。僅かに開いていたからだ。普段彼女が使っているであろう洗面道具や、ドライヤー類の片隅に、ひっそりとそれが置かれてあることにケイロンは目を瞠った。
それは髭剃り用の錆びた剃刀だった。どう見てもそれは男物であったし、何よりもそのメーカーは自分が好んで使っているものだった。恐る恐る、ケイロンはそれを手にしてみた。不思議なほどに、それは手にしっくりと馴染んだ。それは、持ち主をずっと探し続けていたと言っているみたいだった。
そのままその剃刀を自分の荷物にしまう。代わりに、さっき自分が使った剃刀を収納スペースの片隅に、そっとしまった。
そう、俺は変わってしまったかもしれない。だけど変わらないものも、必ずどこかにあるんだと思う。
それに気づいたとき、ケイロンはふと、この街のようになってみようという思いが湧いた。常に強い風に吹きつけられている街。だけど必ずそこに、在るものだ。そんな街のように、今度は俺が――
朝の光が室内に入り込んでいる。穏やかな寝息を立てて眠っているイリーナのその髪は、赤い灯のように輝いている。そのベッドサイドにそっと、一枚の紙切れを置いた。
〝俺はこれから、クラヴの街に向けて旅立つ。きな臭い情報を掴んだんだ。だから行かなければならない。
もしここに、俺のことを訪ねてやってきた奴がいたら、俺のことは洗いざらい全部喋るんだ。それが君にとって一番安全なことだからだ。俺のことは心配しなくていい。
君が想うように、俺も同じことを想っている〟
不意に、昨夜イリーナが囁いた言葉が耳元に甦る。
〝あなたがこの世界のどこかで、生きていてくれたなら私はそれだけで――〟
急に喉元がきゅっと締め付けられた。このままここを離れたくないと、もう一人の自分がそう言っている。だけどそれは、さらに危険が増すことになるだろう。大切な人を守りながら、そして何の関係もないこの街の人々を守りながら生きてゆくのは、俺一人の力では困難を極めることだろう。何の犠牲も出さずに守り切れる自信は、今の自分にはなかった。
だから自分から行くのだ。平和に暮らせるその日を迎えるために。相対するべき者たちのところへ。
もう一度、ベッドサイドに置いた紙を、ケイロンは手に取った。最後に一言、こう付け加えるために。
〝必ず、戻る〟
◆ ◆ ◆
朝の光はどうしてこんなにも、突き刺さるのだろう――
マナは目を閉じたままで、恨めしくそう思った。数分前に目を覚まして、寝直すために横向きにごろりと転がったものの、強い日差しがそれを許してくれない。眠りに落ちるときの、雲のようなふかふかしたものに沈み込んでゆくイメージを思い浮かべたものの、すぐに燦々と照り付ける陽の光と、一面に広がるカラフルすぎる花畑のイメージが割り込んでくる。あの世っぽいイメージなのだが、なぜそんなにも底抜けに明るいのか……。
挙句の果てには、カラフルな花たちの間に、黒一点。どう見てもそれはジーンだった。〝現実感〟の象徴のような人物が夢の中に現れたところで、マナは完璧に醒め切ってしまった。
ため息を吐きながら、目をぱかりと開ける。その瞬間、まだ夢なんじゃないかと、マナは我が目を疑った。そこにはその〝現実感〟そのものがいたからだ。
思わずマナは、昨夜の自分の行動を振り返った。ものすごく鮮明に思い出せる。記憶が飛んではいない。お酒を飲んだ記憶も一切ない。ならば、そんな〝間違い〟には発展していないであろう。
ならば、もう一つの可能性である、〝部屋を間違えた〟ならどうだろう。身の回りの荷物は自分のものだ。内装も昨夜と同じ。外の風景も――
そのときになって初めて、窓が開いていることにマナは気づいた。咄嗟に、ベッドサイドに置いておいた銃を手にする。
「変態!! 夜這いかけるつもりだったんでしょう!?」
(ッ!! ちょっ!! マナ!!)
なぜかジーンは必死の形相で口元に人差し指を当てて、〝静かに〟のポーズである。声も心なしか、小声である。
(そもそも今は、夜じゃないし……)
そんなどうでもいい言い訳をしつつも、ジーンは窓の外を気にしている。そして外に自分の姿が見つからないように、カーテンの影に隠れようとしている。
(頼むから、静かにしてくれ)
小声でマナにそう伝えたのも束の間、瞬時にジーンの瞳が鋭い輝きを放った。
次の瞬間――
ガシャーーンッッ!!――
高音をけたたましく響かせながら、マナの目の前でガラスの雨が降り注いだ。一瞬何が起きたのか理解できなかったマナだが、窓が割れる寸前に地を転がって避けたジーンが、マナの腕を寸でのところで引っ張った。その衝撃で床に尻餅をついたが、ベッドを直撃したガラスの雨からは免れることができたということになる。
しかし、この部屋に投げ込まれたその物を見て、マナは血の気が引いた。
「ふせろッッ!!」
ジーンの鋭い叫び声と共に、ベッドの下にさらに引っ張られる。次の瞬間、床が大きくうねった。部屋全体が破裂したような大きな爆発と爆風、高温の閃光が視界の端に映った。
しかし、このときのマナの記憶はここまでだった。そのあとは、強く頭を打ったのだろう。しばらくの間、マナは気を失ってしまっていた。
再度目が覚めたときには、部屋は焼き焦げた家具類と、もうもうとした白い煙で覆われていた。誰かの叫ぶ声がする。聞き慣れないものだったから、この宿の店主かもしれない。頭が鈍く痛みを発した。
あたりを見回すため、身体を起こそうとした。そのときになって初めて、ジーンが覆い被さるようにして、マナを守ってくれていたことに気づく。その身体を抱き起そうと、ジーンの身体に触れる。だが手にべったりとついた血の量を見て、マナは青褪めた。
「大変だ!! このあんちゃん、怪我してやがる!!」
店主は意識を失ったジーンを見つけるや否や、階下に駆け込んだ。病院に電話をかける声が、がなっている。マナは自分の身体が震えてくるのを、抑えることができなかった。ジーンのその傷は、酷いものだった。背中にはガラスの破片が突き刺さり、頭からは大量に出血していた。かろうじて全身火傷を免れたのは、ベッドが盾代わりになったからだろう。
やがて慌ただしい足音と共にやってきた救急隊員によって、ジーンは意識を取り戻した。その間マナは何もできず、呆然と立ち尽くしていることしかできなかった。
◆ ◆ ◆
目を覚ましたのは、真夜中だった。あれから病院に運ばれて、緊急の手術になって。その間もジーンの意識は、途切れ途切れだった。だから覚えていることも、断片的な記憶ばかりだった。
煩く飛び交う人々の怒号、一瞬だけ見た酷く驚いた顔のレグルス(たぶんあいつは退院しようとしていたのだろう)、その彼に泣き喚くように説明しているマナ――
そんなに泣かなくたって、大丈夫なのに……
俺はちゃんと起きているし、このくらいの傷ならすぐ治る。
そう伝えたいのに、身体はちっとも動かなかった。ただひたすらに、まとわりついてくる酷い眠気がうざったかった。
そんな意識が彷徨っていた時間のことを思い出したとき、ジーンは身震いを覚えた。と同時に今は、はっきりとした身体の重さと痛みを感じられるくらいに、意識レベルは戻ったということなのだろう。
それにしても、本当に自分はやばかったのだということを改めて感じる。しかもあの爆弾は、マナの部屋に落とされたのだ。そのことがジーンにとっては、剥ぎ取ることのできない恐怖となって、背に迫っていた。
たしかに、今までにも研究所の刺客に狙われたことは何度もあった。だがあいつらは本気ではこない。要するに、〝殺し〟はしないという意味だ。なぜなら、俺やマナは奴らにとっては大事な検体なのだ。手、脚は一、二本もげても、生かしたままで連れ帰ることができればそれでいいのだ。そういった意味では、命まで狙われることはなかった。
だが今回は違う。確実に、〝消し〟に来たのだ。
ジーンは必死で、頭の中でその可能性を考えた。
自分たちが研究所にとって必要ではなくなった理由――。一つは、代わりになる者が現れた場合。もう一度、俺たちを造り上げることも不可能なことではないだろう。二人の遺伝子は、相変わらず研究所に保管されているのだから。だが再度造り上げるにしても、時間がかかるはずだ。俺たちが逃げた後から再度造り始めたと考えても、こんな短期間でできるはずはない。予備として以前から造り置きしておいたものがある、という説が通るなら、研究所から逃げ出した俺たちを執拗に追う意味が薄れてくる。だからたぶん、この仮説はないと考えていいだろう。
問題はもう一つの説のほうだ。俺たちを生かしておく利点がなくなった場合のことだ。その利点とはもちろん、カイルのデータだ。何らかの形でそのデータが必要ではなくなったか……、もしくはその逆で……
そこまで考えたとき、ジーンは顔をしかめた。上半身を起こそうとして、背中が痛んだからではない。その可能性を考えたとき、それが一番しっくりときて、と同時に〝それはまずい〟という警告が頭の中に鳴り響いたからだ。
まだ鈍い痛みを発する頭に手を添えながら、ジーンは身を起こした。そのときになって初めて、この室内にはもう一人いたということを知る。その人はジーンが身を起こしてベッドが揺れたからなのだろう、ベッドに突っ伏していた肩を僅かに動かして目を覚ました。
「……ジーン?」
薄暗い照明の中でも、その声を聞き間違えることはない。少しはにかんだ表情と、痛みをこらえる表情が交じり合ってしまったが、ジーンは何とかマナに笑いかけた。
「……ずっと、ここにいたのか?」
ジーンがそう問いかけると、その顔をくしゃりと歪めて、下を向いた。そこで何かを我慢しようとしていたみたいだったが、ジーンはその目で、透明な雫がベッドに落ちる瞬間をはっきりと捉えてしまった。
「だって……、ジーン、目を覚まさないし、でもイリーナ先生は大丈夫だって言うけど、すごく……、すごく……」
次第にその肩は震え出す。か細く震える声で、必死に言葉を継ごうとするのだが、詰まって声にならなかった。
「ごめん、心配かけたね……」
ジーンはそっと手を伸ばした。その肩に触れて、〝もう大丈夫だよ、ほら!〟と言って、ちょっとおどけてみせようと思った。それなのに、そう思っていたことはできなかった。身体を動かせなかった。なぜなら、マナが抱きついたからだ。
「怖かった……」
一言、マナはそう呟いた。
「ごめん……」
ジーンは無言でマナを抱きしめた。そして、抱きしめたままでいたかった。それなのに、どんなに男気を見せて我慢しようと思っても、やはり縫ったばかりの背中の傷の痛みは我慢しきれなかった。
「ご……、ごめんマナ……、やっぱりまだ痛い……」
「あらあらあら! お元気なことはいいことですが、患者さんは意識が戻ったばかりなのですから、もう少し優しく扱わなくちゃ……」
急激に割り込んできた別の声と、ぱっとついた室内の明かりは同時だった。もちろんマナは顔を真っ赤にさせて、慌ててジーンから身を離した。
「す……みません……」
それこそ本物の尻切れトンボそのもののように、マナは小さく謝罪した。と同時に、室内にやってきた看護師を、〝いつからいました?〟と言いたげに、見つめている。
「患者さんは、心拍計をつけていますし、ナースステーションのほうでも把握していますから、私たちは意識が戻ったかどうかわかるんですよ」
「そ……そうでしたか……」
ますます小さくなってゆくマナ。普段見ることのできないそんな姿を見れて、ジーンは心のどこかが疼いた。だけどそんな自分は悟られないように、巧妙に隠す。
体温、脈拍、血圧と、看護師は一通りチェックすると、部屋を出て行った。いずれも正常値と判断したようだ。マナもマナで、ひとまずその結果にほっとした。肩の力も抜けて、いつも通りのマナがそこにいた。
それにしても、ジーンの頭や身体に巻いた包帯を見る限り、まだ痛々しい。それなのに抱きつくというのはある意味、拷問だったなと、思い出しながらもマナは恥ずかしさが込み上げてくるのだった。
マナがその感情に振り回されている間にも、ジーンは聞き落としてしまいそうなくらいさらりとこう言った。
「側にいてくれて、ありがとう。……嬉しかった」
照れながらも笑った彼のその笑顔は、いつもどこか客観的に自分を見て、演出してるときのそれではなく、心からの自然な笑い方だった。うっかりマナは、その表情を可愛いとさえ思う自分を発見してしまった。と同時に、やっぱり笑う顔は、どんな人もごまかせないものなんだなと、妙に冷静に思う自分がいた。