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Mana 第二部~地底への誘い~  作者: 福島真琴
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5. マナの欠片

 慌ただしさの残る集中治療室の前。手術室に吸い込まれていった人々が多かったせいか、妙に人が少なく感じられる空間だった。街一番の大病院ではないから、と言ってしまえばそれまでだが。

 集中治療室と手術室の扉、どちらも視界に収められる場所にその椅子はあった。あれから森の中で合流できたジーンとマナは、遅れて病院に到着した。そのときにはもうすでに、手術は始まっていて、その名残のように看護婦がパタパタと行き来するだけとなっていた。

 ジーンはその様子を椅子に座ってぼんやりと見つめていた。もちろん、手術室に運ばれたのは、レグルスだ。あのとき、ケイロンはジーンの願いに頷いた。ということは、助かる見込みがあるということなのだろう。その勘を今はただ、信じることしかできない。ジーンは、手術室の扉を見つめながら、祈るようにそんなことを考えていた。

 と、そのときだった。

「いっでぇぇッ!!」

 そんな大声が、ジーンの口を突いて出てしまっていた。見るとマナが、その辺の手近な布で、思いっきりジーンの右肩を縛り上げたのだ。それは、傷口から少し上に移動した、肩の付け根あたりだった。そして、拒絶の声を上げる間も与えず、もう一枚の布で今度は傷口の少し下あたりを縛り上げた。

「だ、だから、痛いっつの!!」

「だって、まだ止血もしてないんだよ!?」

 抗議の声を上げたはずが、逆にぴしゃりと押さえつけられてしまった。たしかに、この病院の看護婦は、規模もそんなに大きくないというのもあってか、手術にほとんどの人員がとられてしまった。ジーンの傷を手当てする者は、そう残されていなかった。

 しかしそれにしても、マナの扱いは少々荒い。さらにその象徴のように、どこからともなくハサミを持ってきた。

「な、何するつも……」

 言い終わる前に、マナは実行に移していた。

「あーーッッ!! この服、気に入ってたのに!!」

「仕方がないでしょう!? 一部、服が傷口に張り付いているし、今下手に動かれたら、また傷口が広がるかもしれないでしょう!?」

 その言葉になぜかジーンのほうが、今度は怒られた子供のように小さくしゅんとなった。そしてマナは、何の躊躇もなく、ジーンの服の袖を肩のあたりからバッサリと切り落とした。それでもぼそぼそと口の中で呟くように、一人ジーンは喋った。

「それでもせめて、これは緩めてほしいんだけどなぁ」

「……」

 〝無視かい!〟と心の中でジーンはツっこんだものの、やはり当たり前の如く、反応は返ってこない。それでも尚、ジーンは諦めなかった。

「このままだと、うっ血して腕が壊死する!!」

「壊死したら、義手にすれば? 今は、性能のいい義手がたくさんあるらしいし」

「ひ、ひでぇ……」

 そうこう言っている間にも、マナの手当ては進んでゆく。不意にジーンは口を開いていた。

「じゃあ、義手に慣れるまで、マナに身の回りの世話をしてもらおうかな……」

「……」

 相変わらずマナは、反応を返さなかった。だけど、嫌がりもしなかった。思わずジーンは、顔を寄せていた。一瞬だけ、戸惑いの目を向けて反応したけれど、またすぐに冷静ないつもの顔に戻っていた。

「はい、終わり」

 その言葉と共に、マナは身を離した。と同時に、縛っていた布も外してくれた。肩は自由になり、籠っていた熱も流されていった。それなのにジーンは、何か物寂しいような、足りないような、そんな感覚を抱いた。

 だからなのだろう、ついマナの身体にその肩を押し付けるように近づいたのは。逃げられるかなと思った。それでもマナは、その体勢のまま、ずっと隣にいてくれた。


 不意にジーンの顔が近づいたそのとき、キスされるとマナは思った。きっとそれは、製薬会社に忍び込んだときに浮かび上がった、あのイメージのせいだと思った。

 それでもマナは、動かなかった。逃げようと思えばできた。適当な冗談飛ばして、笑いに変えて――。

 でもそれをしなかった自分に気づいてしまった。

 そんなことをずっと考えていた。〝手術中〟のランプが消えるまで。

 そして次の瞬間、手術室の扉が開き、ストレッチャーと共に数人の看護婦が慌ただしく集中治療室へと移動していった。一瞬見えた横たわったままのレグルスの様子は、まだ顔色は青白いものの、少し落ち着いた状態に見えた。とは言え、まだ油断はならないようで、心拍計とパルスオキシメータは装着されたままになっていた。そして、少々疲れた様子のケイロンが遅れて扉から姿を現した。

「いやはや、久しぶりだとだめだねぇ。身体が忘れちまってるよ」

 ケイロンは、執刀医たちが被る緑の帽子を脱ぎながら、ジーンたちのほうに近づいていた。そして彼は静かな口調で、状況を説明してくれた。

「手術は成功したよ。と言っても、手術というよりかは、埋め込まれたペースメーカーを取り外す作業だったんだけどね」

「え、ペースメーカー?」

 マナは意外だといった様子で、ケイロンの話を聞いていた。マナは丈夫で健康そうな状態のレグルスしか知らないのだ。ジーンは手に残る感覚を思い出し、〝やはりそうだったか〟と、心の中で呟いた。

「へぇー、まるで自分が執刀医だとでも言っているような話しっぷりね」

 突然に降ってきた声に、三人はそちらに視線を移動させた。そこにはケイロンと同じく、緑の帽子を颯爽と脱いだ小柄な女性がそこにいた。だがその目の光の強さは、その小柄な身体には似合わないほどに、強い輝きを放っていた。その女性が現れた途端、ケイロンは片眉を上げつつも、内心の動揺を押し隠すように相対した。

「いえいえ、めっそうもない。俺はただ、あなた様の助手を務めさせて頂いただけの男。いやはや、助手としての務めさえもできていたかどうか……」

 そんなケイロンの言葉など無視し、その女性はジーンの前に立ち、右手を差し出した。

「主治医を務めました、イリーナと申します。あなたたちは患者の親戚かしら? それともお友達?」

 正直に言ってしまえば、どちらとも違っていたが、これからレグルスの手術に関しての説明がなされるのだろうと思ったジーンは、素直にその言葉に頷くことにした。

「そう。でしたら、場所を移動して説明することに致しましょう」

 テキパキとした物言いと、必要最低限の言葉遣いに、合理性を感じる。まだ手術の残り香が、残っているかのようだった。

 通された場所は、医師たちの事務所だった。イリーナは自分のデスクに座り、心電図と、CT画像を表示させた。イリーナはパソコンに表示されたそれらを示しながら、説明を始めた。

「これは今のレグルスの心電図。そしてこちらは運ばれてきたときの心電図。心房細動を起こしているけれど、応急処置がよかったのでしょうね。蘇生にはそう時間はかからなかったわ」

 イリーナはそう言うと、CT画像のほうに視線を移した。

「ただ、問題はこのペースメーカーよ。このペースメーカー、変なプログラムが施されているのか、患者の肉体が蘇生された瞬間、何かを検知したかのように起動し始めた。本来、ペースメーカーというものは、心臓に何かしらの異常や、欠陥のある患者が、収縮リズムの補助のためにつけるものよ。それなのに、このペースメーカーは逆の働きをしている……」

「ということは、彼の心臓が自らの力で動き出した瞬間、そのペースメーカーは邪魔をしているということですか?」

 ジーンの疑問に対して、手近な机に寄りかかっていたケイロンは、小さく頷いた。

「そういうことだ。なぜなら彼自身の心臓には何の欠陥もないのだから。それどころか、毛が生えているんじゃないかと思えるくらい、図太い心臓だった」

 ケイロンがそう言うと、〝主治医は私よ〟と言いたげな棘のある視線を、イリーナはケイロンに送った。小さく肩を竦めて引っ込んだケイロンを見ていたジーンは、この二人には何かがあるなと直感的にそう思った。

「えぇ、でもこの心電図を見ていると、〝邪魔をする〟なんてレベルのものじゃないわ。ICD機能の付いたペースメーカーのプログラムを書き換えて使ったんだと思う。本来なら、心臓の鼓動が弱まったときに起動するはずの、ペーシングと電気ショックの機能を、平常時、いつでも起動できるように自分たちでコントロールしてしまった……」

「じゃあ、レグルスの心臓は本来、正常であったのに無駄にたくさんの負荷が人工的に与えられてしまった……」

 ジーンの呟きに、イリーナもケイロンも頷いた。

「そういうことになるな。しかしそれにしても、彼の肉体は少々、普通の人間とは思えない強靭な肉体をしていたな……。まるで、スポーツ選手か何かのような……」

 ジーンはケイロンのその呟きを聞いて、一つの考えが頭の中に浮かんだ。彼が言ったように、レグルスの身体を構成している遺伝子は、優れたスポーツ選手のような遺伝子なのだろう。だがきっとそれだけではない何かも、付加されているはず。でなければ、あんなにたくさんの獣を操ることはできないだろう。

 いずれにせよ、彼は助かったのだ。だが彼が目を覚ましたら、また襲われるかもしれない。だけどジーンはそれでも構わないと思った。そちらの道を選ぶというのなら、自分はまた相手をするのみ。だが、負ける気も一切ない。マナを奪わせる気もさらさらない。

「あ……、そうだった……」

 マナのことを考えていて、ジーンは本来の目的を思い出したのだった。

「ケイロン、マナを診てほしいんだ」

 ジーンのその言葉に、マナは〝なぜ?〟と言いたげな顔をジーンに向けた。

「あぁ、そう言えばそんな話だったな」

「どうして? 私、大丈夫だよ」

 すかさずマナは、反論の声を上げた。

「大丈夫でも診てもらったほうがいい。これから先、あのときと同じ状態が起こらないとも言い切れないだろう?」

 それに対し、ジーンもジーンで食い下がった。

「俺もそう思う。それに、もしかしたら君が持つその不思議な力との関連性もあるのかもしれないしな」

 横からケイロンもジーンの意見に賛同する。その間に立つイリーナは状況がわからないというのもあり、とりあえずは傍観という立場をとってはいるが、興味がないわけではなかった。

「というわけだ。イリーナ、場所借りるぞ」

「ちょっ、ちょっと待って! 私、本当に大丈……」

 そう言いながら院内を勝手に使おうとするケイロン。しかしイリーナは、その前に立ちはだかった。

「あら、ここの院長としての権限は、他ならぬこのイリーナ=スぺリアルにあるもの。よって、それを決めるのは、私にあります」

 瞬間、ケイロンは顔をひくつかせた。そんな表情をするケイロンを見るのは、初めてだった。そのケイロンを押しのけ、イリーナはマナの顔を覗き込んだ。マナは、薄茶色のその瞳をじっと見つめた。

「そうね……。少し疲れているみたいだから、健康診断がてらに検査しましょう」

 イリーナは、そう決断を下した。


 ◆  ◆  ◆


 鳥の鳴き声と共に、木のざわめきが耳に響く。カーテンが揺れる音。その音に乗って、頬を優しく風が撫でてゆく。

 もう一度吹いてほしい。

 レグルスは薄目を開けながら、心の中でそう呟いた。まるでそれに応えるように、先程よりは緩やかな風が室内に入り込んだ。たったそれだけでも、何かが動き出してくれる。停滞していた何かが、目を覚まして走り始めるその瞬間を、レグルスは穏やかな気持ちで見つめていた。

 微かに木の葉の香りがした。途端にレグルスの遺伝子は急激に、懐かしさを覚えた。それはきっと、自身の人ではない領域の遺伝子が反応を見せているのだろうと、レグルスは冷静にそう思った。

 その風に乗って、僅かに獣臭さが鼻先を掠めた。その臭いのしたほうに目を向けると、一匹の狼が部屋の隅で丸まっていた。そしてもう一匹が、丸まっているほうを起こそうと鼻先でつついている。その二匹を見たレグルスの心の中では、森の中で見たジーンの狼たちの像と一致する。

 こちらの視線に気づいたのか、二匹とも顔を上げた。

(だから言ったじゃない。目を覚ます前に、早く行こうって!)

(でも、なんだか気になっちゃって。ちゃんと、生きてるかなぁって……)

(生きてるじゃない! ああやって、目を覚ましてるわけだし)

(うん、まぁ、そうなんだけどね……)

 まるで夫婦漫才のようなやり取りをしている。そんな二匹を、レグルスは不思議なものでも見るような目で、見つめていた。

(ほら! じっと見つめてる。何されるかわかったもんじゃないわ)

 たしか、ジーンがルナと呼んでいた狼が、もう一匹の狼、シアンに喚くようにそう喋りかけている。レグルスは上体を起こした。その二匹に興味を抱いたからだ。しかしその動きは、さらに二匹(正確には一匹だが)を警戒させた。

(ほら! 行くよ!)

 ルナは必死でシアンに噛みついて、身を起こさせようと努力する。だがシアンはのんびりしたもので、びくともしなかった。

(おい、お前ら、オレに何の用だ?)

 急激に二匹の頭の中に響いたその声に反応するように、レグルスへと顔を向けた。うち一匹は、敵意を剥き出しの瞳で構える。そのルナの背から顔を出すように話しかけようとするのは、シアンだった。

(あ、えーっと……、大丈夫ですか?)

(ちょっと! 何、話しかけてるの!?)

(だって、ジーンが心配してるみたいだったから、ちょっと様子聞いてみようかなぁ、なんて)

(〝かなぁ、なんて〟じゃないわよ!)

 そのとき唐突に、レグルスは大声で笑い出した。それは、何かを笑い飛ばすような、豪快な笑い方だった。

(な、な、何!?)

 奇妙に感じたルナは、目を白黒させた。

「いや、純粋に、お前たちのやり取りが面白いと思っただけさ」

 レグルスはまだ口元に残る笑みを消すことなく、自身の声で話し始めた。

「そもそもシアン、とか言ったか。オレは、お前たちの敵だった男だぞ。そんな奴の近くにいていいのか?」

 言いながらレグルスは、にやりと笑った。悪戯半分の笑みだったのだが、ルナには効果があったようだ。唸り声を上げながら、対峙しようとしている。しかし、そのルナの雰囲気にはそぐわない声が、後ろのシアンから発せられる。

(うん、そうだね。あのときはそんな匂いがしていた。でも今のあなたからは、少し穏やかな匂いがする)

 そう言うと、シアンは鼻をひくつかせた。そして、何かに納得するように首を何度か縦に振っている。

「そう簡単に人を信用しちまっていいのか? また痛い目に遭うかもしれないんだぜ? 特に、お前の飼い主とか……」

 底意地の悪いことを言って脅すレグルスだったが、シアンはそんなレグルスにまん丸の瞳を固定したまま、相変わらず尻尾を団扇か何かのように、気まぐれに動かしているだけだった。

(うーん、それはちょっと困るけど、たぶん大丈夫。今のあなたなら、危害を加える気はない。それどころか、もうそうする意味はないって、あなたは思ってる)

 そんなシアンの言葉に、レグルスは黙り込んだ。シアンの言葉は、今のレグルスの心を言い当てていたからだ。

 しかしルナからすれば均衡状態の二者を、ただ黙って観察している気もなく、かと言って、ルナの言葉に従わないシアンをここにこのままただ残しておくのも心配な彼女は、静かに立ち去るふりをしてジーンを呼んで来ようと思った。それを目ざとく察知したレグルスは、ルナにこんな言葉をかける。

「ジーンを呼んでくるのか? なら、ちょうどよかった。オレは、お前にそれを頼もうと思っていたところだったんだ。オレのお使いを、頼まれてくれないか?」

 レグルスの、まるで子供を扱うような物言いに、ルナはキッと鋭い眼差しでレグルスを射た。

(あんたに頼まれなくても、ジーンを呼んでくるわよ! そんでもって、またこてんぱんに伸されればいい!)

 そしてルナは駆け出した。だが数歩駆けたところで、唐突に立ち止まった。顔だけ後ろを振り返って、投げつけるようにこんな言葉も付け足した。

(待ってる間、シアンを傷つけたら、私があんたを噛みちぎってやるからね!!)

 ルナのそんな言葉を聞いたシアンは、最初何を言ったのかわからないという感じに、あっけらかんとした表情になった。だが後からその言葉がじわじわと効いてきたのか、レグルスにもわかるほどの気持ち悪いヘラヘラ笑いを浮かべるのだった。

「お前には、高嶺の花だぞ」

 そんなレグルスの棘など、春の真っただ中にいる狼の耳には、一切届くことはなかった。


 ◆  ◆  ◆


 とんっというトレイの音を響かせて、食事の載った食器たちは、テーブルの上へと並んだ。

「こちらから、枝豆とじゃがいものジュレ、ほうれん草とたまねぎのリゾット、ヴィシソワーズ、ごぼう茶の四品になります」

 誰一人、メニューの説明を求めていないというのに、食事をレグルスの前に並べながら、ケイロンは勝手にぺらぺらと喋り始めた。

「風の街の特産物、じゃがいもを中心としたメニューに仕上げてみました。風の強い街であるが故に、この地方は根菜物の特産物が多いようで。それ以外は輸入に頼っているせいなのか、いやぁ、価格がちょっとねぇ……」

 容体も安定し、一般病棟に移されたレグルスは、目の前に置かれたメニューを見て、しげしげと不思議なものでも見つめる目で眺め倒した。肉、魚、卵のタンパク質源がないことが不満に思ったのか、少々恨めしげな目をしたが、とは言えまだ病み上がりの身。消化吸収の良いメニューとなっていた。

 それにしても相変わらず、ケイロンという男は器用な男である。見栄えも美しく作られている。ジーンはその料理を見つめ、一口だけでも味見してみたい衝動に駆られた。

「食いたいか? 偶然だが、一つ余りがあるんだ。ジュレだがな」

 何気に、〝偶然だが〟というところを強調しているような気がしたのだが、そこはかとなく無視することにした。

「まぁ、食べてもいいけれど……」

 そんな言葉で濁しつつも、一口頬張ってみる。野菜の旨みと出汁が効いていて、美味しかった。そのジーンの表情だけで、どうやらケイロンは満足したのか、にやっと笑いかけてこう言った。

「医食同源という言葉があるだろう?」

 その物言いは意味深で、ケイロンは何かをジーンに伝えようとしている、師であるかのようだった。思わずジーンは、片眉を上げた。それは、同調とも驚きとも言えない感情からくるものだった。

「うまっ!!」

 しかしそんな感情は、レグルスの素直な感想の声にかき消されてしまった。夢中になって食事にがっついている。

「こらこら、そんなに一気に食べるもんじゃあないよ。まずは、弱った身体を慣らすように食べなきゃ」

 そう言っている間に、レグルスは食事を全部平らげてしまった。それどころか、物足りなさそうな顔をしている。

「いやはや、困ったものだね、こりゃあ。君の身体能力には、脱帽してしまうよ」

 やれやれといった様子で、ケイロンはため息を吐いた。

 窓からは、相変わらず街を流れ続ける風が吹き付けている。それが心地良く、室内を循環している。動き回る小僧のようにさえ、感じられる。

 そんな室内に男三人と、狼二匹が集っている。マナとイリーナは、検査のために席を外していた。そんなマナのことを気にしながらも、ジーンは目の前の男、レグルスに改めて向き直った。ルナに呼ばれて入った室内。一目見て彼からは敵意がないことを感じ取っていた。その目が違っていたからだ。今は少しだけ遠慮がちな視線だった。だけど本来持ち合わせている彼の中の火のようなものも、その瞳には浮き上がって表れていた。

 その目は真っ直ぐ、ジーンを見つめていた。

「……よぉ」

 第一声、レグルスはジーンにそう声をかけた。

「……あぁ」

 それに対してジーンは、そう答えた。しばらくそのまま、会話のない時間が通り過ぎた。風だけが、この場では音を発していた。そしてそれに続くように、シアンも一つ欠伸をする。

「……ありがとうな」

 一言、窓の外に視線を逸らしたレグルスから、そんな言葉が発せられた。それは、ぽつりと水滴が落されたような言葉だった。

「……いや、べつに」

 何となく、そんな風に答えていた。再度沈黙が訪れそうになったそのとき、にやにや笑いを浮かべたケイロンが、二人の間からにゅっと顔を出した。

「何お前ら、恥らってるんだ?」

 ジーンはそんなケイロンにため息を吐いた。

「あんたの手にかかると、ろくでもない方向に捻じ曲げてくれるよね。まったく、勘弁してくれよ」

「ん? そういうのじゃないのか? ……あぁ、そうか! 君には、マナがいたねぇ!」

「あのなぁ!! そういう話じゃないんだよ!」

「おい!!」

 変な方向に盛り上がる二人の間で、白けた表情のレグルスは一声張った。

「オレがお前を呼び出したのは、感動の再会がしたいからじゃない。お前に話しておきたいことがあるから、呼び出した」

 どすの利いた声で、〝オレの話を聞け〟とばかりにこの場を切り裂くレグルスの声。

「はいはい、すみませんね。部外者は黙っていますよ」

 そう言うと、ケイロンはその辺の椅子に座り、小さくなった。レグルスは一つため息を吐いた。それは、やっと静かになって落ち着いた反動からくるものなのかもしれない。いずれにせよ、レグルスが口を開こうとしたそのとき、ジーンは不意に自分から問いをぶつけにいってしまった。

「それよりも、ずっと聞きたかったことがあるんだ」

 〝すまん、先に喋っちまって〟という意味合いも含めて片手を上げたが、レグルスからは一向に気にした素振りは見えなかった。元来、そういった細かいことには頓着しない性質なのかもしれない。〝何だ?〟と言いたげに片眉を上げて、質問を待っている。

「お前が気を失う直前に言っていたあの言葉、覚えてるか?」

 レグルスはしばらく間を置いて、〝あぁ〟と答えた。ジーンはその瞬間、内心ほっとした。マナのときのように、忘れてしまっていたらどうしようとも思っていたからだ。

「あれは、どういう意味だったんだ?」

「あれか……」

「あぁ。マナと何か関係があるのか?」

 ジーンがそう質問すると、レグルスはじっとジーンの瞳を見つめた。

「……お前は、何も思い出さないのか?」

「〝思い出す〟……って、いうのは?」

「……そうか。そうかもしれないな。まぁ、お前の場合は、お前の基礎となった遺伝子が、〝思い出したくない〟という強い思いに支配されているのかもしれないがな」

「……なぜ?」

 レグルスはちらりともう一度、ジーンの瞳を見た。それは何かを確認するかのような、視線の向け方だった。

「オレがそれを話してしまっていいのか? お前の前身になる者……まぁ、〝前世〟とも呼べる者のことを」

 ジーンはなぜか唐突に、自分の足場が細い階段の上にいるような、そんな錯覚を覚えた。そしてその階段は、ぼろぼろと崩れる岩場のように、とても脆くなっている。

 だがジーンは、それらに呑まれてしまう前に、頭を振った。ここで立ち止まっていては、マナに辿り着くことはできない気がしたのだ。マナの奥底に眠るマナに。

「かまわない。話してくれ」

「……そうか」

 レグルスは一つ、大きく息を吸った。そして前置きとばかりに、こう言う。

「まぁ、オレが知っている話はデータに残っているものや、研究者の奴らから聞いたものばかりだがな」

 そして吐きだす息と共に、こう言った。

「お前の前世に当たるカイルは、殺されたんだ。あいつら、研究者たちに。目的は、カイルが研究していた遺伝子治療に関するデータだ」

 その言葉を聞いた瞬間、身体の奥底が震えた。ぐらぐらと誰かに揺り動かされているような、そんな感覚だった。と同時に、急激に頭の中で何かが弾けた。


 〝よくも、俺を殺しやがったなッッ!!〟

 そう言いながら、誰かにのしかかり、首を絞めているような、そんな感覚が甦る。暗闇の中、混乱を極める声に満たされていた。たしか、初めてナイフを握ったのも、そのときだった。だけど、その手は次第に緩んでいった。

 もうこの世界にはいないと思っていた。顔を上げるとそこに、彼女はいた。まるで花が咲いているみたいだった。彼女は目覚めてはいない。だけど、まぎれもなく芽吹いていることだけは、わかったのだ。

 違う! 違う!!

 俺は、思い出せないでいるんじゃない。その瞬間に、全てを思い出したのだ。〝カイル〟として生きていた時代の、幸せだった記憶を。一瞬にして命を奪われた憎しみを消し去ってしまうほどの、大切な人を想う気持ちを。

 なぜ、忘れていた? あの頃の記憶を。俺が、今の俺として研究所で目覚めたばかりの、あのときの記憶。そこに、思い出したくないものがあるからだ。

 その男の顔がちらつく。苦悶に歪む男の表情が不意に、幻のように煙となって消えていった。


「おい……、大丈夫か? ジーン!」

 唐突に聞こえたケイロンの声で、我に返った。気が付けば、両腕で身体を押さえつけるように、力一杯握りしめてうずくまっていた。

「大丈夫、フラッシュバックだ。オレたちのような人間には、よくあることだ」

 そう答えたのは、レグルスだった。

「何か思い出したくないものでも、思い出したのか?」

「……」

 ケイロンはそう聞いてきたが、ジーンはただ無言で宙を射抜くように見つめるだけだった。

「お前、オレのここにナイフを突き立ててきたときと、同じ顔してるぞ」

 レグルスは自分の頸動脈を差しながら、嫌悪するでもなく、ただ淡々とそんなことを言ってきた。

(そうかもしれないな)

 ジーンは心の中で、そう答えた。思い出したくないもの。それは、自分の中に眠る鬼だったのかもしれない。小さく自嘲気味に笑い、ジーンは顔の表情を消した。

 マナがここにいなくて、本当に良かった。マナには決して、見せたくない自分だった。

「続けてくれ」

 一声、仕切り直しとばかりに、ジーンはそう答えた。だがレグルスは口を閉ざしたままだった。その様子を不審に思ったジーンは、顔を上げた。

「どうした?」

「……いや、これ以上話して、お前は耐えられるのかと思ったまでのこと……」

「俺は、大丈夫だ!」

 勢い込んでそうは言ったものの、レグルスもケイロンも心配そうな眼差しをこちらに向けてくる。しかしそれでもジーンは諦めなかった。

「お前だって、フラッシュバックはあったんだろう? それでもお前はこうやって、何事もなく自分を保って生きている。なら、俺にだってできるはずだ」

 妙な対抗心も入り混じってしまったが、ジーンはそんな戦法で攻めてみた。するとレグルスは、困った顔になり、頭の後ろを掻きながら事情を説明し始めた。

「オレの場合は……、お前たちほど重いものを抱えていたわけじゃない人だったから……、まぁ、気楽なもんさ。好きなように生きた奴だったようだ」

 そしてちらりとジーンの顔を見た。

「まぁその代わり、お前みたいに大事なものというか、強いこだわりというか、そういうのがあるわけではなかったみたいだがな。そういう点は、お前がうらやましいよ」

 最後のあたりは、ぼそぼそとした喋りになっていたのは、照れ隠しなのだろう。

「オレが思い出すこだわりっつっても、出るとこ出て、引っ込むとこ引っ込んだ姉ちゃんたちくらいなもんで……」

「それは〝こだわり〟じゃなくて、〝スケベ心〟の間違いなんじゃないのか?」

 冷ややかな自分の口調が誰かに似ていて、〝やっぱり似てきたのかな?〟と思いつつも、内心喜んでいる自分を発見してしまって、ジーンは少し恥ずかしくなった。

「まぁ、オレのことはどうでもいい。問題は、あいつらの目的だ」

 さらりとそこはスルーして、話を戻すレグルス。これ以上はつっこむなということなのかもしれないと判断したジーンは、流れに任せることにした。

「カイルの研究データということか? それは今、どこにあるんだ?」

 それこそがレグルスが伝えたかったことなのだろう。顔を寄せ、神妙な面持ちになった。

「それこそが奴らが今でも、お前たちを捕まえようとしている理由だ。お前や、あの女……〝マナ〟と言わなければ怒られるか……、のどちらでもいい。それらに関する前世の記憶を呼び覚ましてくれたなら。もしくは、そのデータを捨てた具体的な場所を思い出してくれたなら。そのために、奴らは躍起になってお前たちを再びこの世に造り上げたんだ」

「それだけのために……」

 ジーンは口を突いて出た言葉に、歪んだ笑いを浮かべた。あまりにも利己的な彼らの魂に触れたような気がして、そうせずにはいられなかったのだ。それに対してレグルスは、彼らのそんな魂の汚臭にも慣れたといった淡々とした態度で、話を続けた。

「あぁ。彼らはカイルの遺伝子治療の研究を、アルカディア計画に取り入れたかったんだ。特に、長寿遺伝子や再生細胞に関する項目は、異常に関心を示していた。奴らは、不死身の生物でも造り出すつもりなのかもしれない」

 敢えて、〝生物〟という言葉を使った裏側には、〝それはもはや、人とは呼べない〟という感情が渦巻いていた。

「それで、そのカイルのデータに関してマナが……、いや、マナの前世の人物が関係しているということなのか?」

「あぁ。彼女の名は、ソフィアと言ったそうだ。彼女がカイルのデータを捨てたんだ」

「!」

 あまりにも呆気なく告げられた話に、ジーンは目を瞠った。それどころか、突然に告げられたことに、実感が湧かなかった。遠くのおとぎ話のように感じられてしまったのは、なぜだろう。

「で、なぜ捨てたんだ? 大切な恋人のデータだったんだろう?」

「はぁ!?」

 唐突に入れられたケイロンの横槍に、ジーンは動揺を隠しながらもそんな声を上げた。

「恋人……ってわけじゃ……」

「それはカイル亡き後、そのデータを大切に管理していたのは、ソフィアだったからさ」

 ジーンの照れ隠しを含んだその呟きもレグルスは無視し、淡々と話を続けた。

「彼女はそれが故に、狙われた。研究者たちは、喉から手が出るほどにカイルのデータを欲しがっていた。そして彼女もまたわかっていたんだ。研究者たちにそのデータが渡れば、どんなことに使われるのかを。それは、カイルの意思に反することだということも」

 ジーンはいつしか、レグルスの話に聞き入っていた。その話がおとぎ話のように感じられたのも、カイルの記憶にはない話だからだ。

 カイルのいない世界で生きたソフィア。カイルの知らないソフィア。それはなぜだろう。途方もなく暗い海の底の風景が、ジーンの胸底に湧き上がって胸を締め付ける。自分のことを思い出したあのときよりも、重い衝撃が身体を浸食してゆく。

「だから彼女は海の底に捨てたのだ。自分の身体に埋め込んで隠したデータを、その身もろとも……」

 その瞬間、視界が傾いだ。水飛沫と共に、自身の身体が水の底へ底へと落ちてゆく。そこは光の届かない暗い場所で、凍てついていた。それでもジーンは、怖いとは思わなかった。この水の底からは、よく知っている香りがするからだ。温かい鼓動が伝わってくるからだ。

 ジーンはそのまま落ち続けた。それは水の中というよりも、空から地へと落下してゆくような、そんなスピードだった。

 そしてそのとき確かに、ジーンは彼女を見た。落下しながら、彼女とすれ違ったのだ。地べたに座り込むようにして、彼女は顔を覆って泣いていた。だけど何かに気づいたように、彼女は顔を上げた。

 その一瞬だった。だけど泣き腫らした彼女の目に、自分は確かに映り込んだのだ。あのときと同じ、七色に輝くその瞳に、確かな黒の一点として――


 カチャリ――

 扉の開く音と共に、ジーンは急激に現実の世界に戻ってきた。イリーナの後に続いて室内に入ってくるマナを目にしたとき、無意識の言葉が口から漏れ出てしまっていた。

「そんなところにいたなんて……」

「……え?」

 マナはいつも通りの至って普通のマナで、ジーンの言葉を不思議なものを受け止めるかのように、少しだけ首を傾げてる。ジーンは不意に、駆け寄っていって強く抱きしめたい衝動に駆られた。だけど、何もわからないマナにそんなことをしたところで、いつも通り冷たくあしらわれるか、変人扱いされるだけだろう。

 そんなジーンの逡巡も知らずに、イリーナは淡々と検査結果を報告した。詳しく説明してくれたものの、今のジーンの頭には何一つ入ってきてはくれなかった。

「……というわけで、全項目異常なし。至って健康よ」

「……そうか」

 使い物にならない人形のように突っ立ているジーンの代わりに、ケイロンがそれに対して答えた。

「で、そこの大食漢に異常はない?」

 尚も続いてゆくまわりの会話から一人抜け出すように、ジーンはふらりとした足取りでマナに近づいた。それが不審に映ったのか、マナは怪訝な顔をしている。ジーンは思わずマナの両手を握っていた。

「無事でよかった……」

「??? え? あ、うん」

 そう頷きながらも、マナは不思議なものを見る目でジーンを見つめている。

「君は、君のままでいてくれ。俺が願うのは、それだけだ」

「??? ……うん」

 僅かに語尾に〝?〟がついた頷きをマナは返した。と同時に、やはり握られた手が気になったのか、何度もちらちらと視線をそちらに向けている。

「いちゃつくんだったら、他の部屋でやれ」

 〝大食漢〟と呼ばれた男からの半笑いの揶揄に、マナは顔を赤くしてバタバタともがいた。何か抗議しようとするその前に、ジーンはついこんな言葉が口を突いて出てしまっていた。

「あ、うん……」

 当然、マナは赤くした顔をキッとジーンに向けた。だけど表情一つ変えない、真面目なジーンの顔を見て、マナの怒りは消え失せた。その顔が近づいて、マナの顔の真横に収まる直前、くしゃっとその顔が歪んだことが、マナを動けなくさせてしまった。ジーンの顔が収まった肩に、じんわりと冷たさが広がる。

「……ごめん」

 ジーンは一言そう言うと、しがみつくようにマナを抱きしめた。マナは戸惑いながら、その背に手を回した。

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