4. アスクレピオス
それから、数日が流れた。あれからというもの、マナの身体に異変が起こることはなかった。それどころか、倒れたときの記憶を失ってしまっていた。本人はあっけらかんとしたもんで、ジーンがいくら心配して事の顛末を説明しても、まるで他人事のような顔をして聞いているのだ。
一体あれはなんだったのだろう。夢、幻だったならいいのだが。
しかし、心配の収まらないジーンは、念のためケイロンに診てもらおうと提案したのだった。それでもどこも悪くないと思っているマナは、相変わらずきょとんとしていたが……。
そしてケイロンからは、報告書が無事到着した旨と、実際に落ち合う場所の連絡が届いた。それは、このフローリアから徒歩で一週間かかる、風の街ウインドミルだった。当初からジーンが行きたかった街、知の街ウィズには完全なる迂回路旅程になる。しかもその道の途中には、鬱蒼とした森が控えている。荷馬車に便乗して乗せてもらうという手もあるが、それでもその森は広大で、一泊は野宿というのは必至だった。
それだけでジーンはげんなりとした気分になったが、ここは覚悟を決めるしかない。買えるだけの虫除け対策グッズをこの街で買い足し、出発することと相成ったのだった。
結局途中までは、荷馬車の積み荷に乗せてもらうコースを辿ることにした。と言っても、森に差し掛かる手前までという契約でだが。レグルスという刺客に狙われている以上、同行する人数は多いほうがよい。だが、その同行する人々もレグルスの手の者たちなら、話は別になってしまうが。そのあたりは一応信用のあるギルドに頼んだが、もし荷馬車の一行も買収されていたのなら、話はそれまでだ。あとは暴れるなり、馬車をかっぱらうなり、好きにさせてもらうつもりだった。
だがその危機は起こることなく、無事、森の手前まで送り届けてもらうこととなった。森の入口に立った瞬間から、緑の香りがむっと香った。不思議とその森の中は、外よりもひんやりとした感覚が漂った。時折、風が森全体を揺らす。風の街が近づいている証拠を投げかけているかのようだった。
それにしても、森の中は騒がしい。ざわめく木々、動物たちの鳴き声、側を流れる小川のせせらぎ……。森の入口で合流したシアンたちの足音さえも、かき消してしまいそうなざわめきだった。と同時に、幾多の気配も感じていた。森の奥のほうで、何かが蠢くようなそんな気配を――。
そのとき急激に、ルナが立ち止った。耳をピンと立てたままで、何かを警戒している。その気配がジーンにも伝わった。その瞬間、大波のような風が吹き荒れた。森全体が生きているように大きくうねってゆく。そのうねりが頂点に達したとき、ルナもシアンも、毛を逆立てて唸り声を発し始めた。マナもジーンも、そちらの方向に視線を向ける。そのとき、誰もがその光景に息を飲んだ。そこには、たくさんの獣が、群れを成してこちらを睨みつけていた。どの獣も威嚇の姿勢で、こちらに徐々に距離を詰めてくる。それは横一列に広がりを見せ、こちらをそのまま飲み込もうとしているかのようだった。中には遠吠えをし、さらに仲間を呼ぼうとしている獣もいた。
マナはその獣の瞳を見て、違和感を覚えた。何がどうおかしいのかはわからない。だけど彼らの気配のようなものが、妙なのだ。普段はシアンにしろ、ルナにしろ、何かそれぞれの持つ強烈な個性のような、色のようなものを感じるのだが、今目の前に広がっている獣たちからは、均一で平坦な何かしか感じないのだ。それなのに彼らは威嚇をしている。中には、攻撃態勢に入っているものもいる。そういう場合、人で言うところの殺気のような圧を肌で感じられるはずなのに、彼らからはそれを感じられないのだ。
「ルナ! シアン! ウインドミルまで走れ!!」
突然にジーンはそう叫んだ。その声に弾かれたように、ルナもシアンも全速力で走り始めた。そしてその背を追いかけるように、ジーンはさらに言葉を放った。
「ケイロンを見つけて、ここまで呼んで来い!!」
その声をしっかり聞き取ったというサインのように、走りながらルナの耳がピクリと反応を示した。そして彼らは獣たちからの追撃もかわして、森を駆け抜けていった。
後に残されたのは、百近くもいそうな獣に徐々に囲まれてゆくジーンとマナだった。
「あいつがこの森にいる。こいつらは、あいつに操られているんだ。ルナもシアンもそうなってしまわないようにするためには、こうするしかなかった」
じりじりと狭まってゆく輪の中で、ジーンは背中合わせになったマナにそう囁いた。
「……うん、わかってる。でも、今はこいつらをどうしよう……」
マナもジーンも、それぞれの武器に手を伸ばした。ジーンも己の武器をしっかりと握りしめながら、こう言った。
「操られているとは言え、仕方のないことさ。俺たちだって、ここで死ぬわけにはいかないのだから!」
ジーンの言葉を言い終わらぬうちに、一匹の狼が襲い掛かってきた。ルナやシアンとは違って、四肢のどっしりとした狼だった。ジーンは警棒を的確に振るって、その狼を叩き伏せた。するとそれが合図であるかのように、次々と獣たちは襲い掛かってきた。こうなるとマナも躊躇してはいられなかった。銃を手に取り、なるべく脚を狙うようにして応戦した。次々と獣たちは襲いかかってくる。それらは途切れることがないのではないかと思えるほどに、ひっきりなしに続いた。
これでは、埒が明かない。そう思い始めたとき、マナの耳に揺れる木々のざわめきが、それだけを選別したかのように入り込んだ。と同時に、一つのひらめきが頭の中を駆けた。しかしそれは、多大な力を要するのではないだろうか。そもそも自分にそんなことはできるだろうか――。一瞬の迷いがあった。だけどすぐ側で体力的にも追いつめられているジーンを目にして、迷いは決断へと変わった。
「ジーン! 少しだけ、こいつらを引き付けていて! 私に時間をちょうだい。なんとかするから!」
ジーンは戸惑ったように、マナを見ていた。だがやがてその瞳を見つめたまま、一つ頷いた。するとジーンは、獣たちにわざと隙を見せるように、背を向けた。すかさず、獣たちは喰らいついてゆく。それを予想していたかのように、ジーンの警棒が唸る。その繰り返しで、徐々に獣の輪を引き連れるように、ジーンはマナから離れてゆく。マナは意識を集中させた。まだ自分のまわりに残った数頭をおとなしくさせつつも、集中の糸は切らさなかった。今回は、今までとは比べ物にならないほどのものを動かそうとしていた。この森全体に、この揺れる木々全体に語りかける。それらは、今までマナが動かすことのできた人間が造り出した人工物とは違う。自然の力が流れるものたちだ。それらを動かすことは、容易なことではない。
マナはそれでも、この森全体を流れる意思のような何かに、語りかけた。そう簡単に応えてくれないことは、よくわかっていた。そもそもマナの力が、声が、届いているのかさえ、その保証はどこにもなかった。それでも訴え続けた。この森を騒がせているもの、混乱させているもの、今まで普遍的に続いてきたであろうこの森の正常な営み、それらを狂わせようとしているもの、その全てを洗い流してゆく何か――
そんなイメージが不意にマナの中で浮かび上がった。それは自分の心が思い浮かべたものなのか、はたまた、マナの訴えに応えてくれた何かなのか――。そして次の瞬間マナが耳にした音は、大量の水音と共に何か大きなものが急激に落ちてくる音だった。マナはその瞬間、さっき見えたイメージが確信へと変わった。
「ジーン!! そのまま真っ直ぐ、全速力で走って!!」
遠く離れたジーンに、マナはそう叫んでいた。マナのその声と、自身の耳で受け取った森の現状に、ジーンは振り返ることなくそのまま駆け抜けた。次の瞬間――
〝ゴオオォォォォ〟という轟音と共に、マナの目の前を茶色い土砂が、ものすごい勢いで流れていった。その土砂が流れる前に、一目散に逃げ出したもの、流されながらも己の四肢で抜け出したもの、流れ着いたその先で逞しくも生還したもの、様々だった。もちろん、そのまま山の急速な流れに流されてしまったものもいたが、やはり土壇場で野性を取り戻したものの方が多かったのは、山で育った獣としての証なのだろうか。
マナは大きく息を吐き出した。目の前で起こった惨事への緊張感と、全身を覆う疲労感に身体の力が抜けてしまったのだ。今は、立っているのも億劫なほどに疲弊していた。と同時に、眠気も襲ってくる。ふらつく足取りで目にしたのは、土砂の向こう側からその川を渡って、マナのところに戻ろうとするジーンの姿だった。だがマナは、彼の後ろに立つ人影を目にし、まどろみかけていた意識が一瞬にして目を覚ました。
「ジーン!! 後ろッ!!」
思わず、警告の声を上げていた。そのマナの声と同時に、ジーンは横に飛び退いた。しかし、やはり一瞬遅れたのだろう。閃いたその刃は、ジーンの右肩を掠るように斬り裂いていった。
「ッ!!」
痛みに歪むジーンの顔が、マナの位置からも見えてしまった。そのままジーンは、マナに背を向ける形でその男と対峙した。マナは慌てて、その土砂の川を渡ろうと近づいた。しかし一歩足を踏み出した途端、ぬかるんだ大地がマナの足を引っ張っているかのように、沈み込んでゆく。マナは、沈み込む片足をその場から引き抜いた。あらかた土砂が流れつくし、勢いの収まった上流のほうに目を向けた。なんとか渡れそうな場所を見つけられるかもしれない。
そうこうしている間にも、向こう岸ではジーンと、先日襲撃を仕掛けてきた刺客のレグルスとが、斬り合いを始めている。
早くあの場所まで辿り着かなければ! 徐々に血の滲んでゆくジーンの右肩を目に焼き付けたまま、自分の身体を叱咤しつつ、マナは上流に向けて駆けて行った。
自分の鼓動が一際大きく、耳に響き渡る――
その鼓動を聞きながら、右肩を蝕んでいる熱を一歩引いた場所から眺めるように感じていた。
汗が滲む。もう何度こうして、斬り合いを繰り広げただろうか。目尻を伝う汗を拭う間さえも惜しむように、再び両者は駆けだした。
しかしジーンは、レグルスに会ったときから違和感を感じていた。前に会ったときのような、泰然とした余裕も、どこか試しているかのような遊びも、今のレグルスからは感じられなかった。それにあのときは、彼には彼なりのこだわりや、美学にも近い何かを持て戦っていた。だが今の彼からは、それ以上に感じられるものがあった。それは、焦りだった。なりふり構わずに、突っ込んでくる。そんな戦い方だった。
それに何よりもさっきから気になっていたのが、彼の浅い呼吸と、大量の汗。だがそれでも、目だけは異様にぎらついていた。
「もう、やめにしないか?」
不意にジーンは、レグルスにそう声をかけた。そんな言葉をかけても、彼は止まらないことはわかっている。わかっているのだが、それでもそうせずにはいられない何かがあった。
「そんなことを言っている暇が、お前にはあるのか?」
言いながらレグルスは、さらに深く踏み込んでくる。互いの汗が飛び散る。それでも受け止めたレグルスの刃は、重みを持っていた。
「オレが少しでも哀れだと思うのなら、オレと勝負しろ。オレには時間がないんだ」
すかさず二打目が、わき腹ぎりぎりを掠めてゆく。もうジーンの右肩は、受け止めるのも限界とばかりに、出血の滲みが広がっていた。しかし、刃を受け止めずに全てを避けるということは、それはそれで体力を奪われる。
両者共に、体力を削り合いながら、互角の戦いを繰り広げていた。しかし、動くたびにレグルスの顔色は、土気色に近づいていった。
「お前……、どこか……」
ジーンの言いたいことが分かったのだろう。レグルスは薄笑いを浮かべた。
「あいつら研究者は、オレたちのような存在を、物のように思っている。それでもオレは、オレなりに最期の瞬間まで、あがき続けるつもりだ」
一筋、レグルスの汗がこめかみを流れ落ちていった。それでもその目の力だけは、消え失せることはなかった。
「だからジーン、オレと勝負しろ。お前なら、オレの気持ちがわかるはずだ」
レグルスからは死の香りが漂い始めているというのに、なぜか彼からは強い生命力のような、魂の光のような、そんな輝きの強さを感じた。ジーンはその光を静かに受け入れた。
どちらからともなく、身構える。動き出すまでの僅かなその時間は、一切の音が消えてしまったかのようだった。その時間は互いにとって、途方もなく長く感じられたことだろう。
先に動き出したのは、レグルスのほうだった。前回、宿で襲い掛かってきたときのように、手にしている短剣をジーンめがけて投げつけた。そしてそのまま、丸腰のままで突っ込んでくる。ジーンはその短剣を避けると、あろうことか手にしていたナイフを地に投げつけた。レグルスと同じ、武器は手にすることなく、己の拳一つでの勝負に打って出たのだ。レグルスは、にやりと笑った。
レグルスの下からの突き上げる拳をジーンはかわし、そのまま懐に入ろうとする。だがそれをレグルスは、蹴りで封じ込める。咄嗟に両腕で受け身を取ったジーンだったが、右肩の痛みに顔を歪めた。その隙を突いて、レグルスの右腕が思わぬ速さで伸びてくる。その拳は、ジーンの顎を掠っていったが、力技でジーンはがら空きのレグルスの懐に入り込んだ。その胸に見事な正拳突きを叩きこんだ。
その瞬間、ジーンは拳が感じ取った僅かな違和感に、はっとした。拳がレグルスの胸に触れていた時間は、ほんの数秒にも満たない時間だった。にもかかわらず、彼の鼓動は異常なスピードでそのリズムを刻んでいたのだ。胸を強打され、レグルスはその場に背中からばったりと倒れた。その胸が途端に、跳ね上がるようなそんな動きをし始める。
「クソッ!! ……あいつら、マジで……起動しやがった……」
ジーンはレグルスの側に駆け寄り、その胸に耳を当てた。そこでは、数秒に一度、何かに制御されているかのような、一際大きな心臓の鼓動が鳴り響いていた。
「これは……」
戸惑うジーンの胸倉をレグルスは乱暴に引き寄せ、その耳に唇を近づけた。
「聞け! オレには……時間がない。オレはお前に……、託すことに……決めていたんだ。〝アスクレピオス〟としての……お前に!!」
尚もその胸は、大きな鼓動に支配されていた。必死に耐えようとしているかのようだった。あとどれくらいもつのかは、わからない。それでもレグルスには、伝えたい強い何かがあった。
「研究者どもが望む……、〝アスクレピオス〟じゃない。前身のお前が……、カイルが望んだように……、この世界のために生きる……、〝アスクレピオス〟としてのお前の目覚めに……、オレは託そうと……、そう思っていた……」
レグルスの呼吸は徐々に細く、浅くなってゆく。意識も混濁し始めているのだろう。
「もういい。もうしゃべるな。もう、十分に……」
ジーンはそう言って、少しでも楽にさせようと遮ろうとした。しかしそれでも、彼の最後まで伝えようとする意志は、消えることはなかった。
「その鍵を握っているのは……、あの女だ……。あの……、海の……底……」
その言葉を最後にして、レグルスの呼吸と鼓動は停止した。
そのとき、ジーンの中で何かが破裂した。
〝オレたちのような存在を、物のように思っている〟
〝お前なら、オレの気持ちがわかるはずだ〟
レグルスが残した言葉が、ジーンの中で何度も反芻する。彼は最初から最期まで、ジーンに訴えていたのだろう。窮地に追い込み、目覚めろ、目覚めろと、拳で語りかけるように。
人を物のように扱う研究所、そいつらのために生きる者ではなく、世界の人々を救うために生きる者になれと。そのための鍵を握るカイルの記憶、それを思い出せない自分、その断片を思い出しかけているマナ、そしてそれら全てを手中に収めようとしている闇に蠢いているどす黒い者ども――
それらに対する憤りが、ジーンの中で一気に燃え立ったのだ。そして今、こんな状況下でも何もできない自分に。
またもう一度、救えない無力感に、俺は沈むのか――?
その瞬間、何かに火がついた。次々と身体が処置の仕方を覚えていたかのように、動き出している自分がいた。俺は誰なんだ? と、もう一人の自分が自分に問いかけた。俺はそれに対して、俺は誰でもない、俺自身に従って生きる者だと、応えていた。
そのときすぐ側で、急いで駆けてくる足音が多数聞こえた。人工呼吸と心臓マッサージを繰り返していた手を止め、顔を上げると、ケイロンにシアン、ルナがいた。
「一体これは、どういう状況なんだ?」
戸惑った顔のままで、ケイロンはジーンに問うた。状況説明も全てすっ飛ばして、ジーンはケイロンに訴えた。
「こいつを助けて欲しい。頼む」
ケイロンはさっとレグルスの側に身を屈め、脈拍と鼓動、呼吸を確かめると、一つ頷いた。
「わかった。ウインドミルは幸い、施設が整っているところに伝手がある。すぐに連絡しよう」
木の枝が頬を掠めてゆく。マナは、木々が密集している地帯を一人ひた走っていた。心は早く早くと焦るのだが、その心に身体がついてきてくれない。そんなもどかしさを抑えながらも、マナは土砂を渡り切り、あとはジーンのいる場所へ下っている途中だった。
枯れ葉が覆う地を、音が鳴るのも構わずに、全力で駆けてゆく。遠くのほうでその音に反応し、獣たちが逃げて行く音が聞こえた。
そのときだった。高い発砲音と、側で地を穿ち、土が舞い上がる光景が広がったのは。マナは全身の筋肉を硬直させたように、立ち止まった。右脚をあと半歩右にずれていたら、脚を撃ち抜かれていたところだった。背筋が凍る。後ろから人の気配が近づいてくるのがわかった。
「まさか、こんなに簡単に捕らえられるとは思わなかったなぁ……」
聞き覚えのない男の声だった。その男は、マナのすぐ側まで来て両手を後ろ手に束ねた。
「間違いない。検体CX-01だ」
もう一人、男が側に来て、マナの顔を確認した。この二人は、どちらも銃を持っていなかった。ということは、もう一人、後ろに控えている男が銃を構えているということになる。マナは冷や汗を浮かべながらも、冷静に状況分析をした。
「でも気をつけろよ。こいつ、変な力を使ってくるらしいから、慎重にな」
そう言いながら、男たちはそろりそろりと様子を見ながら、マナの両手を縛った。生憎マナは疲れ切り、その力への集中さえもうまくできない状態だった。そして男たちは、捕まえたということで余裕が生まれたのか、また別の話題にも触れ始めた。
「それにしても、今日は本当に運がいい。検体も手に入れることができたし、〝アルファルド〟も始末できた。全くもって、あいつには手を煩わされた。前もって、心臓に細工をしておいてよかったよ」
「あぁ、そうだな。言うことは聞かないし、とんでもない暴れん坊だったな。しかし、タイミングもジャストだった。さすがだよ、お前は」
マナは男たちの会話を聞いて、〝アルファルド〟とは誰のことなのだろうと思った。だが何となく、彼らの会話の流れからして、レグルスのことなのではないかと見当づけた。しかしそう思うと同時に、背筋が寒くなる感覚を覚えた。こんな日常会話の一部として、人一人の命の行方を決めてしまえるこの二人を、心底怖ろしいと感じたからだ。
不意に男の一人が準備完了だという合図と共に、マナの後ろにいる男に声をかけた。
「もういいぞ、カミュ」
男の一人がそう声をかけた瞬間、マナは弾かれたように後ろを振り返ってしまった。そこにいたのは、あの製薬会社で出会ったノア人、本人だった。思わず驚きで声を上げそうになった。だが本人はいたって、冷静な顔つきで銃を構えている。
「もういいって言ったじゃないか、聞こえなかったか?」
カミュはそれでも、構えた銃を下そうとはしない。まさか本気で撃つ気なのだろうか? マナはその瞬間、戦慄を覚えた。だが男たちも、うろたえた。せっかく捕まえた検体を死なせるわけにはいかない。そんな空気が、そこからは読み取れた。しかし、次の瞬間――
甲高い銃声が二発、森中に響き渡った。マナは全身を強張らせ、目をぎゅっとつぶっていた。しかしいつまでたっても、痛みは感じられない。その代わりのように、男の呻き声がすぐ側で聞こえた。目を開けると、男の一人が左腕と右脚を撃たれて、地の上で痛みにもがき苦しんでいた。
「お、お前!! 何をッ!?」
即座に銃口を移動し、再度二発、もう一人の男の左腕と右脚を撃ち抜いた。痛みに慣れていない様子の男たちは、そのまま地に呻き声と共に転がり続けた。そしてやがて、失神した。
その傷口を見る限り、両者共位置が同じ位置を貫いていた。その正確な射撃の腕に、マナは怖ろしいものでも見るような目でカミュを見た。よく見ると僅かに雰囲気が違えていた。特に目が違う。前に比べるとどこか鋭く、精悍にさえ感じさせる何かが、そこにはあった。
「やぁ、また会ったね」
しかし口調は相変わらず、柔らかい雰囲気を持っていた。そのちぐはぐさが妙で、ある意味ジーンのような底の知れなさを感じさせる。マナは警戒心を強めて、相手を見つめた。
「この前は随分と世話になったよ。脅された分、脅してやりたい気持ちがあるのも正直なところだけど、生憎、その本人はいないしね。それに、外に出てたくさんのことを知ることができたわけだし。ま、そのきっかけをくれて、ありがとうと言いたいくらいだ」
言いながら、カミュは近づいてきた。マナは、いつでも飛びかかれるように身構えた。と言っても、両手は縛られているが。
「大丈夫、取って食ったりはしないから」
するとカミュは、マナの手の縄をほどいてくれた。
「……あなたは、一体……」
「君は、えーっと、〝マナ〟だっけか? あいつらは、〝CX-01〟って呼んでいるみたいだけどね。で、〝ジーン〟が、〝アスクレピオス〟か。ややこしいね」
「……」
怪訝な顔で少し日に焼けたカミュの顔を見上げていると、その視線に気づいたのか、彼は懐から一枚の紙を取り出した。
「これを、ケイロンに渡してくれないか?」
そこには簡素に、メールアドレスが書かれていた。
「僕は僕でノアの実態が知りたくて、独自に調査しているんだ。いわば、君たちと同じ状態だね。それに、僕の情報は君たちの役に立つと思うんだ」
「あなたはそれで、大丈夫なの?」
マナの問いに、カミュは軽く肩を竦めた。それでも彼はどこか、楽しそうだった。
「ま、これでもその日暮らしも悪くないと思っているのさ。それに、こうやって何とか生き延びることができているわけだし」
風がまた一陣、強く吹き抜けた。その風は、ウインドミルはすぐそこだと言っているかのようだった。しかしカミュは、ウインドミルには背を向けた。
「さてと、とりあえず今回はこの辺で失礼するよ。あ、それともし、ノアに行きたいのなら、連絡を寄越してよ。これは、ジーンへの言付けだからね」
最後に意味深な言葉を残して、カミュはさっさと行ってしまった。マナはしばらくそこに、ぽつねんと残されていたが、使命を帯びた配達人のように、森を駆け下っていった。