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Mana 第二部~地底への誘い~  作者: 福島真琴
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3. 現れ出たもの

 その男は酒場にいた。カウンターに座っている一人の男を、視界の端に収めるように見ていた。その男の背は、考え事をしているのか、一向に動く気配はなかった。たまに店主に何かを話しかけていたが、話しかけた後には必ず、新たな酒が置かれていたから、注文の言葉を話しかけていたのだろう、ということがわかる。

 もうかれこれ、三十分はそうしている。男は今日は一人、ここで夕食も取るつもりなのだろうか。そろそろそんな時間になろうとしている。連れの女は、今日はこないのだろうか。彼はそこまで調べをつけていた。

 酒を飲む男を見張るその男は、名をレグルスと言った。レグルスはここ数日、ジーンとマナの動きを張っていた。ここ数日は、二人共そう目につく行動はとっていなかった。むしろ、宿に籠っているような、そんな節だった。だがそれが、今日は違った。ジーン一人が宿から出てきたと思ったら、この酒場で一人、飲んでいる。宿の食事に飽きたのだろうか。最初はそう思った。だがこうやって三十分も粘っているところを見る限り、誰かを待っていると、レグルスは踏んだ。

 レグルスは目立たないように、目の前の酒をちびちびと煽った。すると、レグルスが踏んだとおり、一人の少年が店内にやってきて、まるで当たり前のことのようにジーンの隣に座った。そして次々と、夕食のメニューを頼み始めた。ジーンはそれをたしなめた様子だったが、少年はどこ吹く風で暢気にしてる。足をぶらぶらさせてメニューが運ばれてくるのを待つその様子は、幼ささえ感じさせる。

 やがてメニューは運ばれ、ジーンは何事かを少年に話し始めた。その声は、潜めるような話し方だった。そして何か白いものを、さっと少年に渡した。少年は受け取ると、ポケットから折りたたんだ地図をテーブルの上に広げた。そして何やら、その地図を指差しながら、二人で相談し合っている。それが食事中、ずっと続いた。


 明くる朝レグルスは、昨夜ジーンと一緒にいた少年の後を尾けた。道を急いでいる風だった。その様子からも、少年はジーンから何かを頼まれたということが予想できる。

(ここは一つ、仕掛けてみるか)

 レグルスはそう心に決め、人通りの少ない通りを見計らって近づいた。足音を立てずに忍び寄る。人通りが少ないと言っても、全く人がいないというわけではない。怪しまれないように近づくには、仲間と触れ合うように見せかけねばならない。レグルスは後ろから近づき、首に腕を回すよう、手を伸ばしたときだった。

 唐突に少年は振り返った。と同時に、危険を察した小動物のように、間合いを取った。心の中でレグルスは呻いたが、次なる作戦として、知り合いを装って声をかけようとした。それでも暴れるのなら、力づくで抑え込もうと思っていた。

 しかし、相手のほうが数段、このような場面に慣れていたようだ。レグルスが予想する間もなく、懐から束になった何かを取り出し、目にも止まらぬスピードで火をつけ、地に投げつけた。途端に、ド派手な爆音と煙があたりを満たし、あっという間に人だかりができてしまった。

「チッ!!」

 大きな騒ぎの中、少年の姿は消えてしまった。その姿を見失ったレグルスは、悔しさに歯噛みした。まさか自分が少年一人、押さえられないとは。だが考えてみれば、自分は肉弾戦型。気に食わなければ、叩きのめす。短絡的に、物事をちゃんと考えていないとよく言われるが、七面倒くさいことは嫌いだった。ましてや、スパイじみたことなど……。それに、自分の力には絶対の自信があった。

(まぁ、いいさ)

 レグルスは、あっさりとその少年を追うことを放棄した。なぜなら、それが彼に与えられた任ではないからだ。本来の任は、ジーンの近くにある。ただ、何やらジーンのまわりで怪しげな動きを見つけたから、少々探りを入れてみただけのこと。しかし、それらの怪しげな動きも本来なら、研究所の連中に報告すべきことなのだろう。

 だがレグルスは、そこまでして研究所に仕える気にはなれないでいた。たしかに命は握られてはいるものの、身も心も捧げるような奴隷になる気などさらさらなかった。表面上の忠誠。だから、与えられた任務はこなす。それ以外のことは、知らぬ、存ぜぬで通す。そのつもりだった。

 レグルスは少年の消えていった方向から目を離し、何事もなかったという顔で、元来た道を戻っていった。


 ◆ ◆  ◆


 さっきからジーンはポケットの中の、携帯型タブレットを気にしている。まるでそれは、恋人からの連絡を待ちわびているかのようだとマナは思った。といってもそのお相手は、中年の男ケイロンだったが。

「ピートの奴、途中でサボったりしてないよな……」

 ぶつぶつとそんなことを呟きながら、気もそぞろに展示物を見て歩いている。その展示物というのも、この地方の開拓史に関する農耕用具、整地過程、特産物、土質の変遷など地味だけれど、その地には欠かせない歴史的展示物ばかりだった。

 そもそもここに行きたいと言い出したのは、ジーンなのだ。ケイロンへの報告書を作成し終わり、先日この手の配達人に配達依頼をしたようだ。無事届いていれば、そろそろケイロンから連絡が届く頃。それまではどんな指示が飛んでくるかわからないから、この街に留まっていたほうがいい。しかし暇を持て余すのも、時間がもったいない。じゃあ、博物館に行こう! いや、美術館のほうがいい! いやいや、博物館だろう!? 開拓史を知ることは大事なことだ! エトセトラエトセトラ……

 そんなこんなで結局、ジーンの意見に押し切られる形で、マナにとっては少々退屈なこの博物館にやってくることとなった。それなのに、本人は目の前の展示物よりケイロンからの連絡ばかり気にしている。

 ちなみに、ジーンの文書を託した相手が少年だと知ったマナは、さすがに心配になり、様々に問い正した。だがジーンが答えるには、〝あいつは見た目は少年だが、中身はそうじゃない。商魂たくましいプロさ〟とのこと。ジーンがそう言うのだから、確かなことなのだろうけれど。マナはつい〝類は友を呼ぶというやつね〟と言う余計な一言を言わずにはいられなかった。

 ともあれ退屈なマナは、さっさと開拓史コーナーを通り過ぎるため、見てるふり作戦をとることにした。だがジーンはマナのその作戦に気づくことなく、マナと同じ歩調で次の部屋へと移動した。

 その部屋は、この地域に縁のある偉人たちのコーナーだった。その人物の歴史、偉業、私物などが展示されている。マナは、やっと茶ばけた世界から解放された喜びと自由に、身体を伸ばした。先程の部屋よりかは色のある部屋に、マナの心も弾む。会場は人もまばらだった。それもそうだろう。地元で有名な美術館を蹴って、このマイナーな博物館へとやってきたのだから。

 それでも、考古学の研究者のような人や、地域の歴史に興味のあるお年寄り、季節物の期間限定展示物(ちなみにこのときは、宝石展だった)目当てでやってきたカップルなど、ぱらぱらとではあるが、人の入りが途切れることはなかった。

 そんな中、何気ない調子で展示物を見ていた。偉人の私物コーナーだった。日常品の常設展示物。コーヒーカップや家具、使い込まれた羽ペン、インク壺、書簡、日記帳、鍵束――

 急激に誰かに殴られたような目眩が走った。マナは思わず、あたりを見回した。近くには誰もいなかった。ジーンはというと、少し離れたところにある小休憩用に設けられた椅子に座り、タブレットをいじくっている。マナはもう一度展示物に目を戻した。何かに吸い寄せられるように、それらに近づく。

 ペン、日記帳、鍵――

 視界が傾ぐ。世界がぐらりと動き出す。

 大きな爆発、燃える車、誰かの悲鳴、転がるタイヤ――

 世界がぼやける。涙が滲む。違う、これは私の涙じゃない。じゃあ、誰の涙なの? 誰……なの?

 水の泡、煌めく光、底知れぬ黒く塗りつぶされた闇――

 青い青い青い、ただひたすらに、一面に青ばかりが広がる世界、たった独り、私はその青の底に沈む者――


 やめて!! もうその底には戻りたくない!! 私は違う!! 私は……


「海の……底に……」

 必死で喉から絞り出した声。何を言っているのかはわからなかった。光で白く霞んだ視界。全ての感覚がぼやけていた。自分というものが水に溶かされて、滲んで薄まってゆくみたいだった。

「マナ!! マナ!!」

 必死でその名を呼ぶ声がする。とても懐かしい感覚がするのはなぜだろう。だってその声は、ジーンでしょう? 自分で自分に問いかけるように、マナはその懐かしさに疑問を抱いた。微かに聞こえた外界の音は、あたりの騒ぎを届けてくる。

 だがそれも束の間。少しずつまた、マナの意識は水の中に戻されてゆく。浅い呼吸。水の隙間を縫って、マナは必死の思いで声を絞り出した。

「助けに、来て……ジーン……」

 その言葉を最後に、マナの意識は遠退いていった。


 ◆ ◆  ◆


「どこも異常はありませんね。一時的なストレスによる、ショック状態を引き起こしたのでしょう。念のため栄養剤を打っておきましょう」

 ギルドに頼み込んで来てもらった主治医。ジーンも普段、世話になっている男だった。

「えぇ、お願いします」

 彼の診察でも、原因はわからなかった。二、三日中に目覚めるだろう、と彼は見立ててくれたものの、本当にそうなってくれるのかは、誰にもわからなかった。

 主治医が去ってからも、ジーンの心は暗く押し潰されていた。シアンもずっとマナの側にいて、さっきから哀しげに啼いている。

「マナ……」

 ベッドに横たわるマナに呼びかけても、反応は返ってこない。小さな呼吸の音だけが、マナの身体は生きているということを伝えてくれる。

 何度も何度も思い返す。うわ言のような言葉を言ったマナが、必死に何かを掴もうとして、この自身の腕にしがみついたあの強い力。ジーンはその感覚を思い返すたび、マナが遠退いてしまうような気がして、ただただ怖ろしかった。ジーンはそのとき初めて、自分の身体を覆ってくれていた水の膜のようなものが、薄れてゆくような感覚を味わった。それは、自分の自信にもつながっていて、それが消えてしまうとわかった瞬間、果てしない世界に一人ぽつんと取り残されるような、そんな恐怖を感じた。

 その感覚に気づいたとき、自分はいつからこんなに弱くなってしまったのだろうという、愕然とした思いにも捕らわれる。一人で旅をしていたときは、こんな感情は抱かなかった。一人になる恐怖も抱かなかった。いや、違う。今、自分が抱いているものは、マナを失うことへの恐怖だ。マナが消えてしまうかもしれないという漠然とした現実に、自分は今怯えているのだ。

 と同時にジーンは、そんな自身に戦いた。いつの間に自分の中で、こんなにもマナの存在が大きくなっていたのか――

 ジーンは不意に手を伸ばした。マナの目尻から、涙が一筋、零れ落ちたからだ。悪夢を見ているのだろうか。自分もその夢の中に飛び込んでしまえたなら。そうしたら、助け出すこともできるかもしれないのに――

 その涙をぬぐいながら、そっと頬に触れる。温かなマナの体温が、そこに宿ったままになっている。そこから流れて、廻ってゆくこともできずに、そのままで。

 ジーンは椅子から立ち上がり、マナの額に自分の額をつけた。マナが見ている夢がどんな夢なのか、知りたかった。たとえ悪い夢でもかまわなかった。悪い夢ならば、自分が吸い取ってしまおう。獏にでもなんでもなってみせよう。

 だけど、何も見えなかった。マナのように、不思議な力があったなら、どんなにか、どんなにか――。ただただ、決定的な違いがわかっただけだった。自分には、マナのような力はないし、ましてや前身のカイルの記憶さえ、蘇らない。マナはただ独り、大きな孤独を抱えたまま、そこにいる。こんなにも側にいるのに、共有することすらできない。

(なにが、〝アスクレピオス〟だ……)

 助けたい人がすぐ目の前にいるのに、その大切な人一人救えやしない。それなのに、医術の神だなんて、笑わせる。研究所の者たちは、ノアの者たちは、俺に何を夢見た。

 とめどなく涙が溢れた。ジーンは誰にも見られないように、椅子に座り顔を伏せたまま、一人泣いた。


 その夜、シアンは妙な物音に目が覚めた。いつもなら、ジーンの部屋に入り浸っているうちに、眠くなって寝てしまうのだが、今日はマナの部屋にずっといることにしたのだ。ジーンも、マナがいつ目覚めてもいいように看病についてはいたが、一番はシアン自身がマナの側にいたかったという感情からだった。

 そのマナの部屋で、妙な物音がするのだ。正確には、マナの部屋というよりかは、部屋の扉から妙な物音がするのだ。人の耳には聞こえないような僅かな物音。金属が擦れ合うような、シアンにとっては耳障りな音。椅子に座り、壁に寄りかかって眠るジーンに異変を知らせるため、のっそりと身体を起こしたときだった。

 かちゃりと錠が開く音が小さく響いた。シアンは、マナのベッドの前に立ち塞がるように構えた。全身の毛を逆立てて、唸る。

 だが唐突にそれは、止んだ。シアンは不思議でならなかった。なぜなら、唸り声を止めたいとは思わなかったからだ。それなのに、身体が勝手にそうなってしまった。と同時に、聞こえてきた声があった。それは、狼同士で会話するときに使う、テレパシーのようなものだった。マナやジーンたちと会話するときとは、また違うもの。

 自身の身体の違和感を覚えながらも、薄く開いた扉の先を見た。そこに、人が立っていた。ちょうどジーンくらいの年の男。背丈も同じくらいなのではないか。警告を発するため、声を上げようとした。だがそれも叶わなかった。奇妙で威圧的な力が、それをさせないようにしている。そしてその見えない力は、目の前のこの男から発せられているのだと、シアンは思った。室内に入ってこようとする、その男に飛びかかろうとしたときだった。またもや、その奇妙な声が耳に入り込んでくる。必死でそれに抗おうとシアンは暴れたが、催眠のようなそれは徐々にシアンの意識を蝕んでゆく。

 やがて四肢が動かなくなり、呼吸が静かな寝息に変わった頃、その男、レグルスは滑り込むように室内に入ってきた。ぐるりと素早く見まわし、壁にもたれて眠るジーンに視線を据える。レグルスがマナのベッドに近づいても、目覚める様子は見えない。

 レグルスはそっと、マナに手を伸ばす。まず口を塞いで、それから担ぎ上げるように抱えようとした、そのときだった。宙を切り裂いて、白銀が走った。レグルスはそれを予想していたかのように、飛び退いだ。元いた場所には、ナイフが突き刺さっている。

(やはり、目覚めていたか……)

 レグルスは口元に笑みを浮かべた。なぜならレグルスは、このときを待っていたからだ。そのナイフを投げつけた人物、ジーンのほうにレグルスは視線を移動させた。

 そのとき、レグルスの背筋に冷たいものが駆け抜けた。ジーンの瞳が、異様に光っていたのだ。月の光を受けて反射しているにしては、底光りしている。と同時に、彼からは殺気を感じた。これは、レグルスにとっては予想外のことだった。

 そもそも研究所のデータでは、〝人を殺すことのできない男〟だった。武器も警棒で、電流は流れるものの、致死量は使わないだろうというデータ。だが、今目の前にいるこの男は、何者なのだろう。ナイフを使っているという時点で、かなり本気なのだろう。

 だがそれでもレグルスの中で、どこか侮っている部分があった。自分の力を信じる気持ちが強すぎて、揺らぐことのない湖面のようなその男の瞳の奥まで、見通すことができなかった。

 すっと、音がした。それは、あまりにも自然で力のない踏み出しだった。その自然体の動きに錯覚を覚えてしまったレグルスは、反応するのに僅かに遅れてしまった。鋭い刃と風が、目の前を掠めていった。反応できたからよかったものの、ジーンは今、こめかみを狙っていた。

 それでも表情一つ変えない。ただ淡々とこなす作業のように、また体勢を立て直して踏み込んでくる。その動き一つ一つが、優雅に、滑らかに、感じられた。しかしその動きには、一切の無駄がない。風のような刃が、素早いスピードでどこからともなく襲ってくる――

 もうすでにレグルスは圧倒され、かすり傷を何か所か負わされていた。

(くそッ!! こいつ……)

 何打目かで刃と刃を交えた向こう側に、ジーンの表情が垣間見えた。淡々とした呼吸のまま、静かな殺気を放つ目でこちらを見据えてくる。レグルスの背に、冷たいものが駆け抜けた

(この男は、データとは違う。今のこの男の戦い方、これは、暗殺術だ)

 先程から急所ばかりを狙っていたのだ、このジーンという男は。

(くそッ!! こんなところでオレは、死ぬわけにはいかないんだ!!)

 力技で、交えた刃を勢いよく弾き返した。そのまま突進するように、短剣を振り下ろす。レグルスの重みのある一撃一撃に、ジーンは顔をしかめながらも、確実に受け止めた。だが形勢は今や、こちらにある。壁際まで追い詰めたレグルスは、上体を右側に沈ませ、そのまま相手の腹を刺し貫こうと、短剣を握る右腕を前に出しかけた。

 そのときだった。ひやりと氷のようなものが、左の首筋に当たった。その刃は、そこに触れたまま、一、二秒そのままでいたような気がした。そして、こちらの刃がジーンの腹に到達する前に、ジーンはそのままレグルスの左側を駆け抜けた。

 気づいたときには、遅かった。その首筋に、熱いものが走った。咄嗟に手で触れる。血が流れていた。

 だがどうやらそこは、浅く斬られただけだったようだ。その場所は、頸動脈だった。しかも寸分違わず、正確な場所を斬っていた。その瞬間、さっきのあれは死の宣告だったのだと気付く。ジーンの未だ変わらぬ表情は、〝次は手加減しない〟と言っているみたいだった。

(牙を剥きやがったな、この死神め……)

 レグルスは、目の前に立つ男はつくづく化け物だなと思った。だが自分も同じ穴の狢。それどころかレグルスは、血が沸き立つ自身を感じていた。口元に自然と笑みが込み上げてくる。追い詰められた者が発する、やけっぱちのものではなく、本当に心の底から湧き上がってくる悦びだった。やっと本気になれる相手を見つけた悦び。

 再度、互いに構える。先に動いたのは、レグルスのほうだった。右手に持っていた短剣を、踏み込みながら投げつけた。それを避けるようなジーンの動作を予想し、上体を沈ませながら懐に飛び込む。相手は右手に持ったナイフを斬り上げるように、一線走らせた。それをギリギリのところでかわし、レグルスは左の拳をその顔めがけて走らせる。相手の驚くような見開かれた目が、レグルスの脳裏に焼き付いた。

 次の瞬間、ジーンの身体は投げ飛ばされ、その背を強かに床に叩きつけられていた。斬り上げるために振り上げたジーンの右腕を、レグルスは掴み、そのまま床に投げ飛ばしたのだ。

 その勢いのまま、レグルスはジーンの上体に覆いかぶさり、胴に拳を叩きつけようとした。だがジーンの足がレグルスの顎を蹴り上げ、その勢いのままジーンは地に立ち上がった。

 顎を蹴られ、口中を切ったレグルスは、血の混じった唾を床に吐き飛ばした。しかし見ると、相手も口の端を切っている。投げ飛ばす直前、レグルスが放った左の拳が入ったのだろう。思わずレグルスの口元に笑みがこぼれた。一度でいいから、あの小奇麗な顔を傷つけてみたいと思っていたのだ。その願いが叶った喜びに、ひとまずレグルスは満足した。

 しかし、ジーンのその瞳の光は、衰えることがなかった。それどころか、ますます強い光を放ち始めている。無駄なものが削ぎ落とされて、研ぎ澄まされてゆくナイフそのもののような輝きだった。つくづく怖ろしい男だと思うと同時に、レグルスの中でぞくりと震えるものがあった。自分の瞳にも異様な光が浮かんでいるのだろう。

 その光と熱に身を任せたまま、飛び出そうとしたときだった。ベッドの方向から、身じろぎをする衣擦れの音が響いたのだ。瞬間、ジーンの集中が途切れた。そして、その女は目を覚ましたのだ。

「マナ!!」

 目の前にレグルスがいることも忘れてしまったかのように、ジーンはマナのほうを見つめた。そのまま、マナの様子を心配そうに見守っている。

 そして、当のマナはと言うと、目を覚ました途端、知らない男とジーンが対峙している光景に、うろたえた。

「な、何? なんなの?」

 思わずそう口を開いたものの、状況が状況なだけに、誰も何も答えようとはしない。思わず、見知らぬ男への警戒の視線を向ける。

 レグルスはおもむろに、床に突き刺さった自分の短剣を拾い上げた。刃の先をしばらくじっと見つめている。さっきの隙だらけのジーンを討とうと思えば、討てた。だがそれではレグルスにとっては、意味がなかった。仕事としては、それをすることは成功と言えたことなのかもしれない。だがそんなことは今のレグルスにとっては、どうでもいいことだった。不意打ちで勝ったところで、何も楽しくはない。むしろ、そんなことをする自分に自分で興醒めてしまうだろう。

 その短剣を、肩の高さまで掲げた。そしてその切っ先を、真っ直ぐジーンへと向ける。

「オレは研究所で造られた。名はレグルス。この女を奪い返しに来た」

 〝この女〟の言葉と同時に、レグルスは顎でマナを指示した。マナは見知らぬ男にいきなり〝この女〟呼ばわりされたことと、顎で示す態度に、苛立ちを覚えた。尚もレグルスは、喋り続ける。

「研究所の者どもは、この女を奪い返し、どうやらオレとこの女との合いの子が欲しいらしいが、そんなことはどうでもいい。そもそもオレは、こんな乳臭い女になど興味はない」

「〝乳臭い〟ですって……!?」

 その言葉は、さらにマナを怒らせた。しかし、別の方向からも不穏な怒りの空気が立ち昇り始めた。

「合いの子だと!? ふざけるなよ……!!」

 レグルスは、ジーンのその反応に満足したように笑みを浮かべた。

「まぁ、聞け。オレだって、あいつらの言いなりになる気などさらさらない。だが、この女は奪還するつもりだ。オレはお前たちとは違って、自由の身ではないからな」

 そこまで言ったとき、唐突に廊下から唸り声が上がった。ひたひたと爪の音を響かせながらやってきたのは、ルナだった。唸り声を上げたまま、扉の前に立ち塞がっている。

「ほう、毛並みの綺麗な雌狼か。飼い主に会いに来たのか?」

 妙に優しい声を出すレグルスに、ルナは牙を剥き出しにした。ジーンもルナに合わせるように、身構える。レグルスはルナに手を伸ばした。ジーンの頭の中では、レグルスはルナに襲い掛かられ、組み伏せられている光景が浮かんでいた。しかし現実は、それらの一遍も起こらなかった。ルナは静かに床に身体を伏せ、頭を撫でられている。そしてそのまま、うとうとと眠りについてしまった。

 ジーンはシアンのときと同じだと思った。だが二頭とも、このレグルスという男の前で眠らされてしまったのだ。この男は狼、または動物への何らかの影響力を与えられる男なのだ。

 レグルスはにやりと笑うと、置き土産とばかりに自分の短剣を床に突き刺した。そしてそのまま、部屋を出て行った。まるで、またこの短剣を取りに来ると言っているかのように――。

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