2. 辺境のノア人
「先日お電話いただきました、清掃業務のホワイトクリーン、担当の高田と申します」
インターホン越しに、ジーンは快活な声を上げた。マナはその側で、腑に落ちない表情を浮かべながら、ずり落ちるマスクを持ち上げた。息苦しさと暑さで、汗が滲む。マナたちはさらに、青色の作業服に同じく青色のキャップを被っていた。そんな暑苦しい格好をしているのだ。汗もかいて当然だろう。
マナは最初、この格好で潜入すると決まったとき、異を唱えた。だが、駐車場の警備員として働いていたのだから、顔を見られているだろう、という理由から却下された。
それにしても、一見すると怪しい人々である。清掃業者というからこそ、なんとか通じる格好だろう。
「ホワイトクリーン……、高田様ですか? 少々お待ちください」
インターホンからは、事務員らしき女性の声が戸惑いを隠すことなく流れた。しばしの間の後、再び同じ声がインターホンに現れた。
「お待たせいたしました。〝ホワイトクリーン〟様は、本日スケジュールには登録されておりませんが……」
流麗な声だが、暗に〝訪問販売はお断りだ〟と言っているようにも聞こえる。しかし、ジーンも負けてはいない。
「おかしいですねぇ、本日午前十時から排気口の清掃依頼を当社にいただきまして、それで伺った次第なのですが……」
「午前十時からの清掃ですか? えーっと……、そのような依頼をお願いした記録がございませんが……」
事務員の女性は困ったといった感じの声で、言葉を濁している。インターホン越しに、パソコンのキーを繰る音がする。大抵普通の人ならば、このあたりで引き下がるのが普通の感覚といったところだろう。だがジーンは、〝普通の人〟の枠には収まらなかった。
「たしか、〝アイリーン〟という方が、電話応対されましたよ。その方に伺ってみては?」
「申し訳ございません。アイリーンは本日、休暇を取っておりまして……、あっ! ありました! 本日午前十時、ホワイトクリーン様、排気口の清掃業務……! たしかに、アイリーンの受付ファイルが登録されております。こちらの手違いをお許しください」
ジーンはその瞬間、うつむき加減になった口元をにやりと笑みの形に変化させた。というのも、昨夜潜り込んだときに、パソコンのファイルに小細工をしたのだ。今日の出勤予定名簿と照らし合わせ、本日休暇であるアイリーンのフォルダに、マナ特製の(〝手を染めさせられた〟とも言う)受付ファイルを忍ばせたのだ。
まぁ、あの流れのまま本人に携帯電話なり、自宅電話なりに直接確認をとられたらアウトだったが、さすがとでも言うべきなのか、個人のデータファイルも徹底管理されている企業。アイリーン自身よりも、アイリーンが作成したであろうデータのほうに喰らいついた。この会社の弱点を突いた、ジーンの心理作戦勝ちといったところであろう。
すぐに、入り口の錠が遠隔操作で解かれた。カシャという開錠の音が、妙に軽く聞こえた。扉を開けると、すぐそこは事務所で、マナたちを対応したであろう先程の女性事務員が事務所入り口に立っていた。
「先程は、失礼いたしました。どうぞこちらになります」
女性事務員は謝罪の言葉を口にすると、てきぱきとした動きで、マナたちを案内し始めた。排気口に辿り着くまでの間、マナたちは一室一室、扉の外からではあるが、室内の状態を観察した。どの部屋も研究に明け暮れているという雰囲気だったが、中には資料室や、薬品の保管のための部屋もあった。二人が探している個室の部屋は、とりあえず一階にはなかった。
しかしその観察も、唐突に途切れる。前を案内していた女性事務員が立ち止ったからだ。
「一階の排気口は、こちらになります。二階以降も同じ場所になります。よろしかったら、そちらもご案内いたしましょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です。案内、ありがとうございます」
ジーンがそう答えると、女性事務員は一礼し、退席の言葉を口にして事務所のほうに歩いて行った。
「それでは、清掃のほう、宜しくお願い致します」
その背が事務所に消えるまで見送ると、マナとジーンは顔を見合わせた。そして片方は、悪巧みをしている悪戯っ子のような笑みを浮かべた。それに対して片方は、ため息とも呆れともいえるような吐息を吐きだした。
「〝それ相応の誠意をもって、相対する〟んじゃなかったの?」
皮肉交じりにマナは、横目でそうジーンに問うた。
「〝それ相応〟だから間違いではないだろう? 〝相応〟なんだからさ」
ジーンはその言葉を強調した。たしかにその心意気は、マナも同じだった。正面切って普通に面談なんてしたところで、相手がそうぺらぺらと饒舌に語ってくれるとは思えない。ノア人、もしくはノアに関係している者だということを、我々は暴こうとしているのだから。
だけどまさか、こうも堂々と敵地に潜入できるとは、思ってもいなかった。二人は顔を見られている可能性も高いし、それはあまりにも大胆不敵だと思った。だから代わりの者をおとりに立てるのかと思っていたのだが……。
しかし、こうやって潜入したからには、マナも覚悟を決めざるを得ないだろう。一つ大きく息を吸うと、吐き出す息と共に言葉も吐き出した。
「そうね。間違いじゃあ、ないわね。でも、リスクも大きい」
「まぁな。それでも進むしか、ないだろう?」
マナは無言の肯定を、ジーンに視線で返した。とりあえず二人は清掃器材を取り出し、怪しまれないように掃除を開始した。それは廊下を歩く人々にも、清掃業者の者たちが真面目に仕事をしていた、という印象を植え付けるためだった。そこはかとなく、顔をあまり見られないように、見上げる姿勢だけは崩さないよう気を付けたが。
そして二人は、程よいところで作業を切り上げ、二階への階段を上がっていった。
目当ての人物の個室は、全部で六階ある建屋の中階にあたる三階にあった。その部屋の前に、ネームプレートが掲げられていたのだ。その部屋の位置を頭に叩き込み、ジーンたちは三階の排気口の掃除へと取り掛かった。排気口の網目カバーを、インパクトレンチを使いながら取り外してゆく。脚立の一番上に立ち上がったかと思った瞬間、ジーンはそのまま排気口の中へと侵入した。そして上から、マナも来るようにと手招きした。マナもぐらつく足元を抑えながら何とか脚立の一番上に立ち上がると、ジーンの伸ばした手に掴まり、上に引き上げてもらった。
その間、廊下を通った者もいたが、清掃業者の制服や、広げている清掃器材が功を奏したのだろう、問い詰める者は誰もいなかった。それにしても、排気口の中はやはり埃っぽかった。少しだけ、カビ臭い臭いもする。製薬会社としては、あるまじき環境なのではないだろうか。ジーンは本気で掃除をしたい衝動に駆られたが、今はそれよりも優先すべき火急の用がある。セル=インローブ本人に。
眼下には、網目越しにその人物の部屋の光景が広がっている。頭上からの様子しか確認できないが、髪の色は社員名簿に載っていた顔写真と同じだった。顔立ちもどことなく、似ている。
「彼がそうだ」
だがジーンは、小声でそう言い切った。彼が指差した先にあったのは、白衣のポケットからちらりと覗いた黒い石、輝石だった。たしかにそれは、上空からしか見えない光景であり、手掛かりでもあった。
彼はコーヒーカップを片手に席から立ち上がり、給湯室へと向かった。全自動のようで、〝ピッ〟というスイッチ操作の一音の後、湯と共に挽きたてのコーヒーの香りが漂い始めた。〝ピッ〟という先程よりも高い一音を響かせて、白いミルクが注がれる頃には、ジーンたちは彼、セル=インローブと同じ目線に降り立っていた。ちょうどコーヒーを淹れ終わり、振り返ったセルは、凍りついたように動けなくなっていた。目の前に銃を突き付けられたからだ。
「抵抗しなければ、傷つけたりはしない」
ジーンのその言葉に、セルは震える手のままで手にしていたコーヒーカップを、手近なテーブルに置いた。そしておとなしく両手を宙に上げた。その様子からもわかるように、どうやら彼には抵抗する気はなさそうだった。それよりも、なんでもいいから傷つけられずにこの場から一刻も早く逃れたい。そんな感情が、その蒼白な表情からは読み取れた。
「金が目当てか?」
セルは目を揺らしたまま、マナとジーンに尋ねた。ジーンは手にした警棒を突きつけて、銃を持つ正面のマナとは正反対の場所に回り込んだ。
「いいや、俺たちの目当てはノア人さ」
その言葉に、セルは身を震わせて反応した。
「〝ノア人〟……とは?」
しらばっくれることによって、自分は関係ない、ということを言いたいのだろう。だがジーンは逃さなかった。
「この輝石はなんだ? あのバラ園から掘り当てたものか?」
白衣のポケットに潜んでいる石を取り出して、セルの目の前に持ってくる。
「いえ、これは趣味の一環です。様々な石の収集が趣味なもので……」
「その趣味を会社の共有フォルダに入れておくのか。随分と寛容な会社なんだな、ここは。しかも個人の趣味の研究のために個室なんて与えるとは、いやはや……」
そこまで言うと、ジーンはセルの正面側に立つマナに合図をした。マナはその銃をセルの心臓に押し付けた。
「わかった! わかったから、頼むから撃たないでくれッ!!」
しかしセルはそう喚いたのも束の間、急に膝の力が抜けたように床に倒れ伏した。しかし意識までは失っていなかった。軽い脳震盪を起こしたように、焦点の定まらない目をしている。
「騒ぐな。騒ぐと同じ目に遭わせるぞ」
白衣の襟首を乱暴に掴み、ジーンはセルを揺すり起こした。
セルはジーンの持つ警棒の電流によって、倒れたのだった。未だ痺れの残っている揺れる目で、目の前にいる氷の刃のような鬼を恐怖で震えたままセルは見つめた。
「わ、わかっ、た……」
顎をがくがく震わせるセルを見ていると、マナの中に気の毒な感情が騒めいた。こういう時のジーンの容赦のなさは、薄ら寒いものを感じさせる。
だがだからといって、甘やかすわけにもいかない。マナにはできないことを、ジーンが代わりにしてくれているのだ。マナは、そう思うようにした。
「俺の質問に答えろ。お前はノア人、もしくはノアに関係した人間だな? 違うとは言わせない。地下深くにあるノアという国は、この輝石をエネルギー源にしていると聞く。こいつらの回収の任を受けて、お前は働いているのだろう? この地表で」
ジーンは光の宿らぬ瞳で、セルの瞳を覗き込んだ。セルは慌てたように首肯した。
「そっ、そうだ。そうだが……、なぜそんなことを、お前たちは知っているんだッ!?」
慌てて、半ば唾を飛ばしながらセルは喚く。
「静かにしろ」
どすの利いた声を出しながらも、唐突にジーンは口元のマスクと帽子を取った。
「この顔に見覚えはないか? 俺たちは、ノアの研究所で造られた人間だ。だからこそ知りたいんだ。俺たちを造り上げた奴らは、どんな奴らなのかを」
マナもそれに合わせるように、マスクと帽子を取った。それでも二人の雰囲気は、質問というよりも、詰問のほうが正しい。しかも、造った相手を知りたいという気持ちも、親のことを知りたいというよりも、敵の実態を知りたい、に近い感情だった。その燃え立つような感覚が伝わったのだろうか、セルは一つ身震いをした。
「わかった! わかったよ、君たちの気持ちは。だけど誤解しないでくれ。僕だってそんなこと、今初めて知ったんだから。ノアがそんな研究所を密かに造り上げていたなんてこと」
そこまで一気に言うと、セルは慌てていた呼吸を落ち着かせるように、一息ついた。
「そりゃあ、ノア国内でも噂では聞いたことがあった。だけど、たかが噂だし、それにそんな人が人を造り出すなんて、SFの世界にしか出てこないような話、実現するはずがないと、誰もが思っていた。それに何よりも、倫理監査局が黙ってないって……、そう、思っていたんだけど……」
セルはそう言いながら、尻切れトンボとなってしまった。目の前で鋭く光る二組の瞳を見ていると、セルは今までの概念を高らかに言い切ることはできなくなってしまった。それに何となく、あり得ることのような気がしたのだ。
「だけどたしかに、お上たちの今のあの雰囲気なら、やりかねないのかもしれない……」
ぼそりと呟いたセルの言葉を、ジーンもマナも聞き漏らすことなくしっかりと聞いた。〝お上〟というのは、官僚たちのことをさしているのか、それともセルの遥か上の世界のことを言っているのかはわからないが、セルよりももっと上の立場の者ということなのだろう。
セルはもう一度、今度はしっかりと身を起こして、目の前の二人をまじまじと見た。そう思うと、途端にこの二人が路頭に捨てられた孤児のようにさえ、感じられてしまった。国のエゴで勝手に造られた人間。あわよくば、お上たちのことだ、自分たちの手足になってもらうよう、操り人形にしようとして造られたのだろう。
だが何らかがあり、それはうまくいかなかった。そしてどんな縁なのかわからないが、今、自分の目の前にまで流されてきた。毛を逆立ててはいるが、ある意味では助けも求めているのかもしれない。情報提供という助けを。
だが、〝助けを求めているのかもしれない〟という考え自体、自分はノア的考え方なのかもしれないと、セルは思った。その考え自体が同じ目線には立っていない、支配者の目なのかもしれない――。
それでもセルは、話すことに賭けた。彼らを助けたいとか、哀れだとか、そういう弱者を見る目からではない。ただ単純に、セル自身、今のノアの在り方に疑念を抱き始めていたからだ。
「わかった。話すよ。だけど僕が話せることは、僕の知っていることだけだ。君たちが造られたであろう研究所のことは、知らない。これは本当のことだ。神に誓っても言える! その代わり、今のノアがどんな国なのか、どんな状況なのか、それは教えることができる。地表の人間のほとんどが知らない、あの国のことを」
そう言った彼の目は、何かの決意を秘めたように、静かに光っていた。ジーンもマナも、その光を受け止めるように、静かに頷いた。セルは椅子に座り直し、静かに語り始めた。
「僕はあの国で生まれた、生粋のノア人だ。本名はカミュと言う」
カミュと名乗った青年のシルエットが初めて、陽の光の下に現れ出た感覚を、マナは抱いた。そして一呼吸置くと、彼は説明を付け加えた。
「あの国では、ファーストネームだけが名前として許される。この地表……、僕たちノア人の間では、〝アルテミス〟と呼んでいるのだけど、アルテミスのようにファミリーネームは普通は名乗らない。家ごとに番号が割り当てられていて、それがファミリーネーム、戸籍、口座番号、すべてのサービス機関の割り当て番号になる。だからそういう個人情報は名乗らないし、このアルテミスほど、〝ファミリー〟の概念は強くないんだ。大事なのは、個人の能力。……そんな国だ」
間を置いて言った最後の一言は、吐き捨てるようなそんな響きを含んでいたのを、マナもジーンも聞き逃さなかった。と同時に、そんな話の一端からも、ノアという国がどんな国なのか、僅かでも窺える。無機質で、無味無臭。そんな感覚が漂う。
その感覚に割り込むように、カミュの滑舌のはっきりとした声が響く。
「僕だってね、元はエリートコースを何の疑問もなく、歩んでいたんだよ。今はこんな科学者崩れみたいになってしまったけどね。でもこれだって、僕自身が選んだことなんだ」
そこまで言うと、カミュは一つ息を吐き出した。それは息継ぎのためというよりかは、そうすることによって心を落ち着かせようとしているように感じられた。身体全体の力みが、ふっと和らいだと感じたそのとき、カミュは再度話し始めた。
「いつ頃からだろう。自分が生きてきた世界に疑問を持ち始めたのは。それまでは、何も疑わなかった。最高の科学技術で、地下世界ノアに与えられる光。君たちにとっては、人工的な光かもしれないけれど、それでも僕たちは何不自由なく生きてきた。それ以外、知らなかったからね。あのままノアにいても、僕は生き続けることはできたと思う。身体はね。だけど心は、息苦しさに耐えられなくなっていっただろうな」
ふとカミュは、その視線を窓の外に向けた。その目は、あのバラ園を見つめていた。風が揺らすバラたちは、小さく微笑んで笑う、無邪気な幼子のようだった。
「君たちにはわからないかもしれないけれど、このアルテミスはとても不思議な世界だよ。誰かに管理されているわけでもないのに、眠るときも、目覚めるときも、芽吹き方も、実り方も、それぞれに知っている。〝己が身体に受け継いできた遺伝子のなせる業〟……。科学的に言えば、そんな説明になるのかもしれない。だけど一番最初にそんな方法を思いついた遺伝子は、誰から、何から、導かれたんだろうって思うんだ」
「それがノアと、一体何の関係があるんだ?」
話が脱線し、たまらず口を挟んだのは、ジーンだった。
「まぁ、人の話は最後まで聞いてよ」
しかしカミュは、慌てることなく話を続けた。
「データが全て、数字が全てのノアでは、そういった神秘的なことは、誰も目を向けない。説明できないことはないと思っているんだ。説明できないことは、解剖して、それでもわからなければ解剖した切片をさらに解剖して……。永遠にそれをやり続ける。解剖した物体が粉々に壊されてしまっても、それでもまだ……」
深い哀しみを抑え込んだやり切れぬ想いと痛みを吐き出すように、カミュはまた一つ大きく息を吐き出した。そしてもう一度、揺れる花たちに目を向けた。
「ノアではね、花は育てないんだ。花は食べられるわけでもないし、何の意味もないからなんだそうだ。だけど僕は、このアルテミスに来て、花の種類の多さに本当に驚いたよ。僕はここに来て、それを学んだ。僕はね、ここで咲く花たちが本当に大好きなんだよ。その中でも、バラは特にね」
だからなのかもしれない。輝石の発見に、彼がバラを使ったのは。ただ単純に彼は、美しいバラが見たかった。たしかに趣味と言えば、趣味だ。だが任務もうまく組み合わせているから、趣味とも言い難い。そういう意味では彼は本当に、今のこの仕事を楽しんでこなしていたのだろう。
だが唐突に、その顔の前に鋼鉄の幕が下ろされたように、その瞳が翳った。もう彼の瞳は、バラを見ていない。その向こうに立ち上ってくる陽炎を見ているような、そんな瞳だった。そして不意に、口を開いた。
「君たちを造ったのは、僕が今まで話してきた〝典型的なノア人〟たちだと思う。そりゃあもちろん、ノア人の全てがそんな人たちばかりじゃない。僕の故郷の名誉のためにも言っておくけれど、平民の多くは、ここに住むアルテミス人の感覚とそう変わらない者もたくさんいる。だけど、あの国の頂点に君臨する者たちは、そうじゃない。僕が言いたいことが、わかるね?」
カミュは話しながら、言葉の奥にあるものを感じ取ってくれといった意味合いの問いかけを投げた。ジーンは即座に、その意を汲んだ。
「どんなに民衆がそうではなかったとしても、頂点に立つ者の意見に従わざるを得ない――」
「あぁ、そういうことだ」
カミュは深く頷いた。そして異様に光る目で、ジーンの向こう側にいる何かを見据えるように見つめた。
「だけどね、僕だってモルモットじゃないんだ。僕だって反骨精神はあるし、君たちにあのノアの国のことを話すって決めたときから、全ては決したんだ」
「決した……というのは?」
ジーンにとっては、何気ない質問のつもりだった。だが、カミュにとっては大いに意味のある部分だったようだ。彼は自嘲的な笑みを浮かべた。
「ふふっ。君たちにとって僕の行動は、取るに足らない小さな反乱に見えるかもしれない。だけどね、僕にとっては大きな賭けだったんだよ」
「あんたの立場が危うくなるってことか?」
「危うくなるか……。だけど、僕がもし殺されるのなら、僕にそれだけの価値があったってことになる。でも考えてもみてよ。この辺境のアルテミスで、輝石の発掘のため、バラを開発する男。自らエリートコースを外れた男。そんな男に、何の価値がある?」
そう言って、彼は歪な笑いを浮かべた。だけど、その歪んだ空間に落とされた言葉は、驚くほど飾られていない、素朴にさえ感じられる響きを持っていた。
「……生きる価値のない人間なんて、いるのか?」
僅かにうつむいたままで落とされたジーンの言葉。髪がその顔を隠して、その表情は読み取れない。だけど、さっきの言葉が素朴にさえ感じられたのは、心からの彼の素直な言葉だったからなのだということを、マナは次の言葉を耳にして、初めて知る。
「もしそうなのならば、俺は人から造られた存在なのに、生き延びてしまっている。それは、どんな言葉で説明すればいいんだ?」
初めて知る、彼の本心なのかもしれないと――
扉が閉まる。廊下を去る二人の足音が、自分の鼓動と重なってゆく。
カミュは二人が去ると、全身から力が抜けたように、椅子に倒れこんだ。水の中で空気を欲する魚のように、喘ぐように呼吸を繰り返した。最後に男が言った言葉は、カミュの心に突き刺さった。その衝撃が、きっと一番大きくて、こんなにも呼吸が苦しいのだろう。心の臓が鈍く痛んだ。
だけど、二人に言った自分の言葉は、本当だった。そう、大きな賭けだったのだ。二人がいる手前、あんな言葉しか吐けなかったけれど、自分はこれから確かに危うい立場になるだろう。下手すれば、殺されるかもしれない。それだけの価値があるとか、ないとか、そういう観点からではない。国のことを批判した反逆罪という罪で、殺されるのだ。
それでもいいと思った。自分にはそれだけの価値がある。そう思おうとした。それなのに、最後に男が言った言葉が見えない杭のように、抜けてはくれないのだ。
その頬を涙が一筋伝った。その杭の傷口は痛むのになぜだろう、心の底から湧き上がってくる強い力があった。それは衝動にも近い、渇望だった。人として生まれたのなら、当たり前のように欲する感情――
カミュは唐突に椅子から立ち上がった。そのまま扉を出た。階下に下り、会社を出た。不思議と誰も追ってこなかった。自分の車に乗り込んで、久々にまじまじと会社を外側から見つめた。そのとき、こんな考えが頭に浮かんだ。
(ノア人だから、アルテミス人だから、そういうことじゃないんだ。支配する側にまわることを、当たり前のように受け入れてしまえる者と、そうではない者なんだ――)
カミュはエンジンをかけて、走り出した。そのとき、窓から白衣を投げ捨てた。その白衣と共にたくさんの何かを捨てたような気がするけれど、不思議なほどにそれは気にならなかった。
こんなちっぽけな自分に何ができるのかはわからない。だが、ただただ目の前に広がる果てしない世界と、今まで味わったことのない自由と、大きな不安に、カミュは身震いが止まらなかった。
◆ ◆ ◆
ジーンはひたすらに、ペンを動かしていた。カミュから聞き出したノアの国のことを、どんな一端でもいいから、書き洩らすことなく記していった。この文書は、ケイロンに送る文書だった。しかし、暗号化の手は加えていない。長い報告書であったし、あらかじめそういった長い文書は、ここに送ってくれという場所の指定が何点かあったからだ。今現在、ケイロンがどこにいるのかはわからないので、場所は適当に決めざるを得ないが。それに、近くのギルドにその手の配達を請け負ってくれる知り合いがいたのも、幸運の一つと言えよう。
それにしても……
「おい、いつまで俺の部屋にいるんだ?」
さっきから視界の隅でちろちろ揺れている灰色の毛と、それを撫でている飼い主の手がジーンは気になって仕方がなかった。いつからか、普通に入り浸るようになっていたのだ、一人とこの一匹は。特に一匹のほうは、まるで自分の小屋であるかのように、人の部屋で眠り始めるのだ。ルナは全くそんなことのない野生の狼らしい狼なのに、このシアンはまるで飼い犬である。
しかしいざというときは、その辺の狼よりも恐ろしく狂暴化するあたり、飼い主に似ていると言えば、似ているのかもしれない――
ばつの悪そうな顔で、こちらにちらりと視線を寄越したマナは、
「だって、シアンがうとうとし始めているんだもの……」
撫でてないで叩き起こせ! と言ってやりたかったが、ふとジーンの心に悪戯心が湧き上がってしまった。
「じゃあマナも、ここで寝るのか?」
ほんの冗談のつもりだった。しかしマナの顔には、さっと朱が差した。
「そんなわけないでしょうッ!!」
勢いよく立ちあがると、乱暴に扉を閉めて、出て行ってしまった。あまりにも、意外な反応だった。てっきり〝馬鹿じゃないの?〟と言いたげな底冷えするような視線で、見下すだけかと思っていたのに――
なんだかそのあとは妙に、集中できなくなってしまった。シアンのいびきがうるさいからというのもあるのだが、ぼんやりとした瞳で〝カイル〟と呟いたマナを思い出してしまったというのが、一番の理由かもしれない。
ジーンは、手にしていたペンを置いた。宙を見つめて、心の中でその名を呟いてみた。白い煙のようなものが、立ち昇ってきそうな、そんな感覚を感じた。
あの研究所から引き出したデータに載っている名だった。カイルという男の名。カイルの遺伝子は、この身体を構成している。そしてその人物は今、この世に存在していない。その男の名を、マナは口にしたのだ。
マナは、その男の手がかりを知っているのだろうか。ジーンはそれを知りたいような、知りたくないような、奇妙な感覚を抱いた。自分のような、自分ではないような者のことを知ったところで、自分は今、ジーンとして人生を生きているのだ。それを知ったとしても、何ができようか――。
だが一方では、出身国や生まれた環境、血筋を知りたがるように、自分のルーツを知りたい気持ちにも捕らわれる。意外にも、その鍵はマナが握っていて、灯台下暗しとは、まさにこのことだなと思わされる。いや、もしかしたら、知らず知らずのうちに、自分で引き寄せていたのかもしれない。
マナは一体、何者なのだろう。不意にそんな疑問がジーンの中で湧き上がってきた。マナは、自身の遺伝子のルーツを知っているのだろうか。マナの前身の人物の記憶が甦ったのだろうか。自分にはそういった記憶はない。
大海原にぽっかり浮かぶ浮島のような自分を、ジーンは強く感じていた。