1. 花の香
遠くのほうで、音がする。規則正しいその音は、絶えることなく続いてる。暗闇の中だった。だけど、真っ暗闇ではない。等間隔に、薄ぼんやりとした白色灯が天井に対になってついている。その光景に混じって、独特な金属音が鳴り響く。ずっとずっと長く続きそうなその光景を、見つめていた。
長い夜だ。明けない夜だ。何の気はなしに、そう思っていた。
だがそれは唐突に、終わりを告げた。
「……あ、ごめん」
いつも通りの彼がそこにいた。隣の席から身を乗り出し、カーテンを手にして、押さえている。その隙間からは、強烈な光線がマナの顔に差していた。そこから見えた景色に、マナは目を凝らした。
緑茂る渓谷に、色とりどりの花が咲き乱れていた。それが風に揺れる様は、お祭りの鈴が鳴っているようだった。賑やかなその光景に、マナの心は躍った。隣で見ていたジーンも、その光景には圧倒されたようだ。
「……すごいな」
思わず口を突いて出た単純なその感想には、この汽車に乗るまでの苛立ちは彼の顔から消えていた。
そもそもなぜ汽車に乗っているのか。カルバリオから目的地のウィズまでの道程は、目と鼻の先なのにだ。そこには深い事情がありそうで実のところ、なかった。というのも、カルバリオからウィズまでの公道が、土砂崩れで封鎖されてしまったからだ。その撤去には、数日間を要するとのことで――。その数日間をカルバリオで過ごす宿泊費と、汽車で向かう交通費。この二つを天秤にかけたとき、彼の中では汽車のほうが勝ったようだ。
それでも彼は譲歩したほうだ。本来ならば、歩いて向かうはずだった道程を汽車を使うことになったのだ。しかもこの汽車、真っ直ぐウィズに向かう線ではなかった。花の街、フローリアへ向けての線なのだ。つまり、カルバリオからウィズに向かうのに、フローリアを経由しての迂回路をとることとなったのだった。その時点でジーンの苛立ちその一となったのだった。
しかし、カルバリオでいつ開通するかもわからない土砂崩れの復旧作業を黙って待っていたのでは、更なる苛立ちを募らせることになったであろう。なぜならそれが一番、お金を使う結果になったかもしれないからだ。彼にとってはそれが何よりの、苛立ちの要因なのだから――(さすが守銭奴と言うべきか)。
花が揺れる平和的でメルヘン的な窓の光景を見つめながら、マナはそんな現実的なことを考えていた。
(この花たちのように、この人の心ももう少し美しくなればいいのに……)
ため息混じりに、そんなことを思った。だが当の本人は、素知らぬ顔。すっかり機嫌も直したようで、窓の外の花たちに感心している。
フローリアの街が近づいている、ということなのだろう。揺れる車体とレールの鳴る音を聞きながら、マナは次の街へと思いを馳せた。
停車した汽車の出入り口から、たくさんの乗客が蟻の群れか何かのように溢れ出してくる。マナもジーンも、その一部となって駅のホームに降り立った。あたりは蒸気機関車の煙で満たされていたが、人々はそれでも方向を探知する特別な器官がある動物のように、それぞれの目的地に進んでいった。
マナたちはとりあえず、改札を出るためにその方向に進んだ。結果的には、人波に流されることが改札を出ることに繋がったわけだが。
それにしても、この街もまた大都市だとマナは思った。駅のホームの内装からして、卓越した技術力は感じていた。近代的な造りと、芸術性も兼ね備えたデザインは、ただの機能性や効率性だけを追い求める街ではないということを表している。その余裕は、街の文化の高さを匂わせる――
カルバリオともまた違う都市の香りに、マナの好奇心は最大限に発揮された。内装の可愛らしい雑貨屋さん、おしゃれなショーウィンドウのブティック、長蛇の列ができている小洒落たカフェ――。そんな好奇心をそそる店が集う通りを、マナはきょろきょろと首を振りながら歩いていた。そんなマナを、危なっかしいものを見る目で追う、ジーンの視線にもマナは気付いていた。それでもどうしても、好奇心のほうが勝ってしまう。彼は呆れながらも、どこへでも飛んでいってしまいそうなマナの後ろから、ついてきてくれた。
「どこか行きたいところはないの?」
思わずマナは聞いた。だけどジーンは素っ気なく、
「特にない」
と、答えるだけだった。ここも昔、訪れたことがあるということなのだろうか。それとも、マナの危なっかしい行動を見張っているほうが重要ということなのだろうか。なんだか、子守をされているような気がして、居心地が悪くなる。
「楽しいか?」
唐突に、そんな質問が後ろから投げかけられた。
「楽しいよ」
マナは振り返りながら、答えた。
「だってここは、美しいものや心躍るものでいっぱいだから」
「……ふーん」
頭の隅のあたりで人の話を聞いているんじゃないかという反応を、ジーンはわざとらしく示す。何がそんなにつまらないというのか。マナがそう思っていると、またもや突然に口を開いた。
「芸術なんてものは実際のところ、人間の〝無駄〟から生まれたものなんじゃないかと思うんだ」
何を言い出すのかと思いきや、芸術について唐突に語り始める。
「だけどその無駄を楽しめないのは、笑うことができないことと等しい」
しかもこんな、女子受けしそうな可愛らしい街で語るには、少々場違いというものではないだろうか。尚も彼の講義は続く。
「カラスは時に、無駄と思えるような、遊びの行動をとる。彼らはそれによって、感情をより高度なものへと進化させていったのではないだろうか。と同時に、道具を扱う技術も習得していった……」
突然のそんな科学者めいた言葉に、マナの目は点になる。言葉としては、彼のIQ値は高いと聞いてはいたが、実際にそういった様子を垣間見たのは、今が初めてだった。だからこそ、マナは面食らってしまった。マナの知っているジーンは、カメムシが嫌いで、泳げない守銭奴なのだから。そしてどこか、人が善い。研究所の人間とも、できるだけ衝突したくないという感情が、胸の底にはある。要は、戦いたくないのだ。本当は戦えるのに。
この人を見ていると、マナは美しいとさえ思うときがある。そんな自分は案外、ジーンとは正反対の人間なのかもしれない。
私は戦える。だけど私は、私の力を最も怖れてる。
マナはそんな感情には蓋をして、説明的で感情が見えないジーンの言葉へと、言葉を返した。
「あなたはあなたという人間を客観的に見て、自分を知りたいと思っているの?」
そんな言葉に、ジーンは片眉を上げた。
「いや、そういうわけでは……」
途端にしどろもどろとする。
「じゃあ、今のこの〝無駄な時間〟に対しての自分の感情を分析したいのね?」
「いや、無駄と思っているわけじゃなくて……」
尚も言葉の歯切れが悪い。何かを隠したがっているのだろうか。
マナは途端に声を張り上げた。
「無駄だって思っているんだったら、どこへでも好きなところに行けばいいじゃない! 私はもう少し、ここを見たいと思っているんだから」
ずかずかと、マナは自分の行きたい方向へと歩を進めた。その後ろから慌てた様子で、ジーンがついてくる。
「いや、だから、無駄なんだけど本当に無駄って思ってるわけじゃなくて……」
「何そのよくわかんない言葉。私、あなたみたいに頭良くないから、わからない」
「いや、だから……」
こうなると急激にジーンは弱くなる。マナの後をついて、うろうろしているように、他人の目には映るかもしれない。だけどマナも、本気で怒っているわけではなかった。ただ、何が言いたいのかわからないジーンを、少々邪魔だとさえ思っていた。さすが、〝剛〟と言われるだけのことはある。この場にケイロンがいたら、笑い転げていたことだろう。
だがそんな、遠くから聞こえてきそうな笑いさえも遮るような大きな声が、ジーンから飛び出した。
「俺にとって無駄は、必要なことだって言ってんの!」
マナはジーンの顔を、じっと見つめた。ジーンはなぜか、石のように固まってしまった。
「じゃあ、一緒に見ようよ」
こけっ。
ジーンが少しだけ、こけたように見えたのは気のせいだろうか。どうやらマナには、ジーンの真意がちっとも伝わっていなかったようだ。ジーンにとっては、マナと一緒に過ごす〝無駄な時間〟は必要なことなんだ、ということを言ったつもりだったのだ。ある意味では、勇気を出しての告白にも近い言葉だったのだが、それは一切、理解してもらえなかったようだ。マナの心は、ジーンのように心の微細な機敏を感知できるほど、繊細ではなかった。さすが、〝剛〟の女である。直球でなければ、わからないのである。
ジーンは、二、三歳老けたような心地になりながらも、マナの行動に今しばらく付き合うことにした。
マナの足取りは軽やかだった。だが後ろを行くジーンはと言うと、少し疲れた顔をしていた。長時間、いろんなところに振り回されたのだろう。それが今のジーンの顔に凝縮されて表されていた。マナはその顔を見て、若干頬がこけただろうかと思ったが、食べれば回復するだろうというなんとも雑な考えに終結したようだ。
「あ! あそこ何だろう?」
〝今度はなんだ!〟と言いたげな顔で、ジーンは視線を投げた。その先にあったのは、青色の大群だった。よく見るとそれは青色の花たちで、とするとそこは花畑と推測できる。さすが〝フローリア〟というだけはある。その名が表すように、街の郊外を囲むように、花畑が広がるのは圧巻である。その光景に興味を抱いたジーンは、特に不平を並べるでもなく、すんなりとマナの後に従った。
そうしてやってきた青色の花畑。風に乗って花びらが舞っていた。その花は、高芯咲きの花屋でよく見かけるような形状のバラだった。一面の青いバラ。品種改良のための区画なのだろうか。
それにしては、不思議な色彩のバラも所々混じっている。青いバラの中心部の一片だけが、真っ赤な花びらを持つ種がちらほら見受けられる。だがそれは少々、異様な光景だった。真っ青な花に一部分だけ赤――。まるで血が一滴、そこに落とされたように見える。毒々しささえ伴うそれを見たとき、ジーンは第一に青の使い方を間違っていると感じた。これを美しいと思うだろうか。製作者のセンスを疑う瞬間だった。
「……綺麗なんだけど、でもちょっと変なのもあるね」
マナの口から素直な感想が洩れた。ジーンは無言でそのバラに近づいた。棘だらけの茎が絡まる中も、構うことなく。マナはそんなジーンの様子にうろたえた。そんなにもこの人、花に興味のある人だったっけ? そんな驚きが第一だったからだ。
「ねぇ、君たち」
唐突に近くで声がして、マナは飛び上がりそうになった。振り返ると真後ろに人が立っていた。インテリじみたその男は、眼鏡の縁を押し上げながら、こちらに近づいてきた。
「君たちはちゃんと許可をもらったのかい? この敷地内に入ってもいいという許可を」
「す……、すみません。つい……」
その男の刺すような冷たい視線に気圧されて、マナは第一声、謝罪の言葉を口にすることしかできなかった。こちらはいい、だがそっちの男はまだだ、とでも言いたげに、眼鏡の男は鷹揚にジーンに近づいた。
「君! 話、聞いてたか!?」
男がそう声をかけると、しゃがみこんでいたジーンはようやく立ち上がった。案の定、手や頬に擦り傷ができている。そして、こんなことを言い始めた。
「すみません。僕、バラに興味があったもので。特に青いバラなんて貴重じゃないですか! 普通のバラとなんら変わりないのかなぁと、不思議に思いまして……」
男はじろりとジーンを見た。胡散臭い奴だと思ったのだろう(実際そうなのだが)。それでも尚も一方的に喋り続けるジーン。
「交配親はイングリッシュローズですかね? ハイブリット・ティー? それとも、フロリバンダ? 土は、赤玉土に腐葉土とかでしょうかね?」
矢継ぎ早に質問攻めに遭った男は、煩そうに顔を背けた。しかし実際、ジーンの手は土で汚れていた。本当にバラに興味があるのだろうか。
「土の割合は? もしかして、企業秘密ですかね? そこをなんとか、お願いしますよー!」
「仕事の邪魔だ! とっとと出て行け!」
ジーンのしつこさに、男はついに我慢ならなくなったのか、その一声で追い出してしまった。マナは、無理もないことだろうと思った。それほどに傍目に見ていても、眼鏡の男が哀れに思えるほどに、ジーンはしつこかった。まるで、バラの香りに誘われて飛び回る小蝿のような――。
しかし、あれほどしつこく食い下がっていたのに、追い出されると素直にそのバラ畑に背を向けた。それどころかマナに、〝早く行くぞ〟といった素振りで目配せする。
「?」
疑問に思ったマナだったが、その場から離れれば離れるほど、わざとそうしたのだろうか、といった疑念が湧いてくる。なぜならジーンはそれ以降、バラどころか花にも一切興味を示さなかったからだ。
「何してた?」
不意を突くように、マナはジーンに聞いた。
「急に聞くねぇ……」
ジーンは片眉を上げるのみで、表情の変化を抑えた。
「急なら、答えてくれるかなと思って」
フフンと鼻で笑ってから、ジーンは口を開いた。
「まったく、取調べみたいで、怖い怖い」
そして、けらけらと笑った。だけどそれ以上は答えてくれない。代わりに、こんなことを言った。
「なぜだろうね。なぜかはわからないけれど、きな臭い感じがしたものでね。だからちょっと、興味が湧いたのさ」
そんな言い方をするジーンのほうが、きな臭い。マナは正直にそう思ったが、言葉にはしないでおいた。まるで、自分だけがタネを知っている手品師のよう――。
ならばせめて、こちらのタネだけでも知っておきたいと思ったマナは、ジーンの上着のポケットにいきなり、ずぼっと手を突っ込んだ。
「うひゃあッッ!!」
お! これぞまさに、不意を突けた。
そう思うとマナは自然と、したり顔になっていた。それにしても、思っていた以上の反応だ。本人も予想外のリアクションが出てしまった恥ずかしさからなのか、顔を赤くして慌てふためきながらも、食ってかかってきた。
「ちょっと!! マナ!!」
ジーンはマナの手の中にあるものを、必死で取り返そうとする。それはケイロンから貸し出された、小型の携帯タブレットだった。ジーンの取り戻そうとする手から逃れながらも、指先ですいすい操作をして、目的のメール画面に辿り着く。そこには、こんな文字が躍っていた。
〝ガーソナコニノーガアジナンセンガプーク
チョーナガウサナセガーヨ〟
もはや、ちんぷんかんぷんの羅列である。そんなメールがもうすでに、数件。知らない人が読んだなら、気が狂ったかはたまた、宇宙人と交信しているかのどちらかに思われることであろう。
差出人は、ケイロンとなっていた。でたらめでこんな文章を送ったとは考えにくい。しかも、ジーンと二人で何かごにょごにょと話し込んでいたのだ。絶対にこの文章には、何かが隠されている! マナはそう確信していた。
だけど悔しいことに、解読できない。だからこそなお一層、知りたくなってしまうのだ。
「これ、どういうことが書いてあるの? 相手はケイロンだもの、暗号なんでしょう? しかも題名が〝蛇を喰らえ〟って書いてあるけれど、蛇は何を指しているの?」
こんな質問をするとジーンは、仕方ないなぁという顔をした。つくづくムカつく男だと再認識しつつも、知りたいという好奇心のほうが勝ったマナは、従順な犬のように答えを待つことにした。
「この題名ね、結構きわどいと思うんだよね、俺。だってバレちゃいそうなんだもの。まぁでも、マナみたいな人にとっては、撹乱になったみたいだから、メリットはあるってことなのかな」
「ふーん。ってことは、私は騙されやすいってことを言いたいの?」
「いやいや、そういうわけじゃあ、ないよ」
〝あんたという蛇を喰らってやろうか?〟という言葉が、舌の先まで出かかった。だが、そんな鬼のマナが顔を出す前に、ジーンはタネ明かしをしてくれた。
「〝蛇を喰らえ〟。これは、蛇=ナーガのことを意味しているんだ。だから題名の本意は、〝ナーガを喰らえ〟」
ヒントその一を差し出してくれるジーンは、先程の優越感に浸る顔は消え去り、今度は冷静な分析者の顔が、煙のように立ち昇ってくる。言葉という化学物質を慎重に取り扱う科学者のように――
「〝ナーガを喰らえ〟。これは単純にそのままの意味さ。〝ナーガ〟を喰っちまえばいい」
「えっ? ナーガって言ったって、伝説上の生き物だよ。それとも、その辺の蛇を捕まえて……」
「はいはいはい。やっぱり妄想家の君には、難しい問題だったかな」
いちいち癪に障る男である。ジーンの笑顔の裏側は、毒蛇だらけだとこのときマナは確信した。
「君の言うことが正しければ、この宇宙人みたいなカタカナ言葉は、意味をなさなくなってしまうだろう? つまり、〝ナ〟と〝ー〟と〝ガ〟の文字を、この宇宙人語から消せばいいのさ」
「……あっ。ってことは……」
〝ソコニノアジンセンプク
チョウサセヨ〟
「そこに、ノア人潜伏。調査せよ」
口に出して言ってみる。マナの中でやっと、パズルが完成した(頭の中のジーンウイルスは〝今頃?〟と、相変わらず腹立たしいことを言っていたが)。だが、理解るということはやはり、楽しい。たとえ、理解らなくてタネ明かしされての理解だとしても、わかった瞬間の、雲が消え去り晴れ間ののぞく青空が広がる感じは、心地良い。次は自分でその雲を払ってみたい、と思えるのもまた良い。
「まぁそれ以外にも、データ自体に暗号化をかけてやり取りしているんだけどね。二重対策をしないと危険だって言うからさ」
ジーンはそう呟いた。もちろんその二重対策を薦めたのは、契約主のケイロンだろう。
「とは言え、何も手がかりがない状態でノア人を探すって、結構大変だぞ」
そうぼやくジーンの意見も、尤もだとマナは思った。
「とりあえず、噂とか人から話を聞いてみるとか、地道にやってみるしかないんじゃない?」
そんな意見を発したマナを、ジーンは横目で見ながら、
「簡単に言うけどさぁ、警察でもない一般人がそんなことしてる図は、何かの押し売りか詐欺師に疑われるのがオチだぞ」
「じゃあ、どこかの調査会社を装ってみるとか」
「それじゃあ、本物の詐欺師だろう?」
「……そう見えるけど」
「え?」
最後の一言は、はっきりと聞こえたはずなのに、ジーンは聞こえなかったかのような反応を示した。それは、数秒経った今でも変わりない反応だから、どうやらその態度を貫くつもりのようだ。
しかし考えてみれば、端から見ればまるで、マナがジーンを苛めているようにも見えることだろう。マナとしてはそんなつもりはないのだが、しかしジーンものらりくらりとかわすのだ。その上手さはある意味、才能だなとマナは思うのだった。
だからこそ思うことは、彼は本気で怒るときがあるのだろうかということ。本気で怒ったときの彼は一体――。そんなことを考えていると、ジーンという人物の底知れなさばかりを、感じずにはいられないのだ。
「ん? どうした?」
ジーンは疑問の声を上げる。どうやらマナは、そう言われるまでずっと、ジーンを見つめていたことに気付かなかったようだ。
「うん……、なんでもない」
妙に意味深な返答になってしまった。そんな含みを持たせるつもりなど、なかったのだが――。そしてそれに飛びつくのが、ジーンという人物だ。
「え! もしかして、見惚れてた?」
大仰な身振りと共に、おどけた調子でジーンはそう言ったがマナは、
「……」
という無音と共に、しらけた視線をジーンに送った。元来た道を、ジーンよりも先に立って歩を進め始めると、後ろから、
「せめて何か言ってよー!」
と、ある意味では助けを求める声が追いかけてきた。ならば仕方がないとばかりに、マナはこんな一言をぼそりと放った。
「言葉さえも、もったいなく感じられて……」
とどめとも言える一言を。
「……えぇ、……えぇ、そうです。男女二人組。男のほうは、黒髪黒目の細身。女のほうは、ライトブルーの瞳に黒髪短髪。こっちはそんなに気にしなくていいでしょう。問題は、男のほうです。女みたいな顔ですが、妙に弁の立つ男です」
二人の後姿を見送りながら、一人の男が携帯片手に話し込んでいる。
「えぇ、そう、バラ園に。しかもあの男、サンプルに近づいて何かしていた形跡がありまして。……え? そうでしょうか……。ですが、私は心配で……」
男は気のない返事を何遍か返すと、舌打ちと共に電話を切った。
「だから報告したんじゃないか。大事になったって、俺は知らないからな……」
独り言とは言え、吐き捨てるようなその言い方は、直に相手がそこにいるかのようだ。そして、去りゆく遠くなった二人の後姿を見つめた。彼の上司が言うように、〝一般人には、わかりゃしないさ〟が通じる相手ではないような気がしたのだ。具体的根拠はない。ただ、勘がそう告げたのだ。
しかし――、それにしてもなんだろう、この感覚は。
男は首を捻った。あの女を、どこかで見たことがある気がするのだ。それとも今まで出会った女性の誰かに似ている、というだけなのだろうか――。男はそんな違和感を抱えながらも、いつか忘れゆく日常の一コマとして、二人をそのまま見送った。
コンコン――
ノッカーを叩く手つきも、どこか手慣れていた。正確に言えば、〝手慣れていった〟と表現したほうが、しっくりくる。
「はーい」
扉の向こう側から、女性の声がそう答えた。木目調の扉ではあるものの、全体的な造りは現代的な住宅である。
その家から出てきた女性は二十代後半の女性で、この家の雰囲気が似合いそうなほんわかした人だった。
「お届け物です」
透明フィルムでラッピングされた、アレンジメントされた花の寄せ植え植木鉢を持つ男は、花屋のエプロンをつけたジーンだった。
「まぁ! ありがとうございます! お早いですね」
受け取りながら女性は、嬉しそうにその花たちを眺めた。
「代金は、三〇〇〇プレになります」
ジーンの横から、これまた花屋のエプロンをつけたマナが顔を出す。今二人は、花屋での配達アルバイト中だった。こちらのほうは、ノア人を探すためとかそういった目的からではなく、ただ単純にお金を稼ぐためである。
だが、それとなぁくの聞き込み調査も、もちろん忘れてはいないのである。
「はい、こちらになります」
釣り銭なく、ぴったりの金額を払った女性に、ジーンはふと気にかかっていることを聞いた。
「あの……、つかぬ事をお伺いしますが、この街の郊外に、広大な青のバラ園があるのをご存知ですか?」
〝青のバラ〟と言った瞬間、女性は顔にぱっと光が灯ったように頷いた。
「知ってますよ! あのバラ、綺麗ですよね! 青いバラなんて、とても珍しいですよね。自然交配では、できないんでしょう? 青いバラって。花屋さんでは、まだ取り扱っていないんですか?」
どうやら元々興味があった話題のようで、こちらから質問を繰り返したり、合いの手を入れたりすることもなく、自ら喋ってくれる。やはり、女性と花の組み合わせだと、話題は豊富のようだ。
「えぇ、花屋ではまだ……。近いうちに出回るとは思うのですが、何分開発中の段階なものでして」
などと、またもや適当なことを言うジーンを、マナは横から一睨みした。だがちっとも、効いていないようだ。しかし、相手の女性は全く気付いてもいない。話は途切れることなく、流れてゆく。
「そうなんですかぁ……」
「えぇ。我が社でも開発段階なのですがね。しかし、あの広大な敷地を持つ会社は、どの会社なのかなぁと思いまして。ライバル会社とは言え、美しいバラを作るなぁとみんなで感心していたんですよ」
〝ハハハハ〟などと、漫画にでも出てきそうな、いかにも乾いていそうな空笑いを発して(マナから言わせると繕って)、女性に問いかけた。だがやはり女性は気にした素振りもない。さして、気にもしていないのかもしれない。
しかし、ジーンのことは気にかからなくとも、花のことにはやはり関心があったようで。意外にも重要な情報が、もたらされたのだった。
「あぁ、あの敷地はね、なんでも製薬会社が買い取ったそうよ。だからあんなに広いんでしょうね。でも製薬会社が、どうしてバラなのかしら? アロマとか、美容の薬効のためかしらねぇ……」
「製薬会社ですか……」
ジーンは急に神妙な面持ちで、その言葉を受け取った。ジーンの頭の中では早速、様々な仮説や推測のパターンが上がっているのだろう。その横でマナは、
「やっぱり地道に聞くのが一番だった」
と、ちょっと遠慮がちなドヤ顔で一人呟くのだった。
それから二週間。相変わらず花屋のアルバイトは、続いていた。その間も、ノア人に関する情報を集めるため、手がかりになりそうなものを片っ端から聞いた。ただの世間話やら、花に関する話やら、それこそその家個人の問題やら相談事やら――(正直、最後のこれが一番、込み入っていて話を聞くにも骨が折れることだったが)。
だがノア人の情報は、手に入らなかった。それどころか、ノア人という人種のことさえ、知らないのが普通だろう。そんな人々から情報を手に入れるのは、掴みどころがない。
ジーンはそちらのほうには、正直期待していなかった。それよりも、あの製薬会社のバラ園だ。アロマや美容用品のためでないことは、わかっている。そのためならば、青いバラを開発する意味がない。やはりジーンの心に引っ掛かり続けているのは、血のようなあの一片の赤――。
それが今、証明された。ジーンの目の前には、DNA塩基配列の解析結果が、机の上に載っている。個人向けの解析も請け負う企業に、ジーンは密かにあの青いバラの葉を送付していたのだ。
結果は、あのバラは普通のバラではないということ。そりゃあもちろん、青いバラという時点で、遺伝子改良をしていることは、ちょっと知識のある一般人でもわかること。しかしそれは、建前なのだ。ほんの表皮の部分でしかないことなのだ。
何枚かの解析結果を見比べる。そこに現れた差異が、様々な事実を教えてくれる。一見、偶然の産物で出来上がったように見える、あの赤い花びらを持つバラ。あれは偶然でもなければ、実験でもない。花の色を楽しむための開発でもない。
「……ビンゴだな」
ジーンは誰もいない、静寂に包まれた宿の個室で一人呟いた。
ダンッ!!
その静寂を突き破るように、唐突に扉は開かれた。タックルしてきたんじゃないか? と思えるくらいの激しい音だった。
「……びっくりしたぁ……」
さすがのジーンも、そんな普通のリアクションしかできなかった。なぜなら、その扉を開けた人物は、そんな開け方が似合わないマナだったからだ。
「シアン、ここに来てない?」
入室してのマナの第一声がそれだった。切羽詰っている様子にジーンは、ただならぬ気配を感じたものの、次の言葉でその緊張は急激に解けた。
「シアンが街中を嬉しそうに走ってるの、見かけちゃって。街の人は、普通の飼い犬だと思ってくれたみたいだったから、誰も騒いだりはしなかったんだけど、それでも放っておくわけにはいかないじゃない? それで、追いかけたんだけど、見つからなくて……」
ジーンは、〝なんだ、そんなことか……〟といった様子で、盛大なため息を吐いた。そして一言、こう言った。
「それって、飼い主のしつけの問題なんじゃないの?」
マナは少々イラッとした顔になったが、現在のジーンの様子を見て、苛ついた感情はそちらへの興味に移行していったようだ。変わりやすいと言うべきか、好奇心が旺盛と言うべきか、悩むところだが――。
「それ、何?」
ジーンが手にしている紙に視線を留めながら、マナはそれを覗き込むように近づいた。その紙には、ローマ字や数字、螺旋状の何かの模型図、表と棒線のマーカーが記されていた。
「あぁ、これか……」
途切れた集中力を再度取り戻すように、ジーンは視線をそちらへ戻した。
「あの青いバラを調査していたんだ」
一言、まずは簡潔に理由を述べた。その後から、詳しい説明が付け足される。
「あのバラ園にあったバラ数株と花屋に売られている普通の赤いバラを、塩基配列解析に調査依頼したんだ。そこには、確かな違いが見つかった。だが彼らは、それでもただの突然変異だと、しらを切り通すだろう」
マナはジーンのその説明を聞いても、いまいちよくわからなかった。というのも、
「突然変異でも意図的でも、あの赤い花びらを持つ青いバラ、あれのどこに問題があるの?」
そこまでジーンが追いかける理由が、わからなかった。その理由がジーンの口から明かされてゆく。彼は非常に落ち着いた様子で、静かにその説明をし始めた。
「そもそもあのバラは、なぜ赤い花びらをつけるのか。それは、何かに反応したからなんだ。赤い花びらの株からは、それに反応した痕跡が見つかった。いや、何かに反応すると赤い花びらをつけるように、遺伝子操作されたバラなんだ」
「その何かって何なの?」
マナは引き込まれるように、ジーンの説明に聞き入った。答えを急ぐ子供のように。
「磁性だ」
ジーンは一言、そう答えた。だがマナの中でその答えはまだ、しっくりきていないようだ。
「磁性に反応? なぜ?」
マナのような反応を示すのが、おそらく一般的な反応と言えることだろう。だがジーンはそこよりも一歩踏み込んで、自身の考えを述べ始めた。
「おそらく、ここからはあくまでも俺の推測なのだが、あの敷地の近くに、もしくはあの敷地内に、磁性を持つ何かが存在しているのだろう。そして、彼らはそれを探している。そのためのマーカー的役割として、あの一見青い観賞用に見えるバラは開発された。じゃあ、その磁性を持つ何かはどこにあるものだろう。空気中だろうか。いや、空気中にだったら、ピンポイントで一か所のバラが赤く色づくはずはない。何株ものバラが赤く色づくはずだ」
「じゃあ……、地中に?」
「あぁ、おそらくそうだろう」
マナは未だ、信じられないといった様子で、ジーンの話を聞いた。なぜならそれは――
「まるで、夢物語みたい。だって、磁性に反応を示す植物なんて聞いたことない……」
「あぁ、俺もそう思う。心の一方ではね。だがもし相手が、それほどに高い技術を擁する者と仮定すればどうなる?」
ジーンが何を言おうとしているのか、薄々マナにもわかってきた。それを口にしてみる。
「もしかして、あの製薬会社にノア人がいるって思ってる?」
ジーンは頷いた。そしてシンプルに、こう言った。
「俺はそう思う」
しかし、マナの中では、まだ疑問が燻っていた。
「じゃあ、彼らは何を探しているの? 地中にあるものって言ったら、土か虫か、砂利とか粘土とか……、もしかして、石?」
言いながらマナは、一つの答えに辿り着いていた。ジーンの目を見ると、そこには肯定ともとれるような色が現れていた。
「輝石を探していると言うの? だけど、輝石に磁性は……」
「彼らが探す輝石が、ただの輝石ではなく宇宙からきた石、隕石だとしたら? そしてこの地に落ちたその石には、未だ磁性が失われていない……、それどころかエネルギーを利用できるほどの強い磁性が、未だに残されているのだとしたら……」
「まさか……」
畳み掛けるようなジーンの言葉に、マナはそれ以上の言葉を失った。だがそう考えれば、様々なことが一致してくる。ケイロンも言っていた。輝石から、エネルギーを取り出す技術を彼らは確立しているということを。
考えてみれば、ノアという国は地中にあるという。しかもその地中は、大昔に隕石が落ちた地、コアなのだ。未だその地中には、大きな隕石が眠っている可能性が高い。それどころか、その磁性が未だ失われていないとしたら、普通に考えて、それを利用しない手はないだろう。
「とは言え、これはあくまでも俺の推測だ。推測は推測の域を出ない。だから今度は、この身で行動する番だ」
ジーンはそう言うと、自分の鞄の中から警備員の制服のようなものを取り出した。一瞬、逃げ出した研究所の警備員服かと思った。だがすぐに、あれは布切れにまで引き裂いて棄てたのだということを思い出す。ということは一体――
「花屋のアルバイトの次は、警備員のアルバイトだ」
急にジーンはそう言った。
「えっ! なんで……」
思わず口から出てしまった感想に、すかさずジーンはこう答えた。
「もちろん勤務先は、例の製薬会社だ」
◆ ◆ ◆
〇二‐九七、三三‐八八、一〇‐六六、四六‐五三――
さっきから数字の羅列ばかりが頭の中を回っている。
ジェファーソン=フィンドル、ロブ=ガイヤー、ジェイ=トール、ロベリア=ルイーズ――
あぁ、頭がパンクしそうだ。
マナは椅子に座りながら、頭を抱えた。これらの数字の羅列と、それにあった人の名前、顔立ち、これらを約百名分覚えなければならない。これがまず、この仕事の第一段階だった。なぜならこの仕事、駐車場の警備の仕事だからだ。
「警備って言うから、てっきり屋内の警備かと思ったのに。なんでこんなに余計にたくさん覚えなきゃいけないの……?」
マナが泣き言を言うと、すかさずジーンがたしなめた。
「これだって立派な警備じゃないか! 不審人物が屋内に入る前に、未然に防ぐ。上等な仕事だ」
「だからって、覚えることが多すぎる!」
そう、先程のマナの頭の中でぐるぐる回っていた数字、人名、顔立ち。それらは、総勢約百名いる製薬会社の社員の車体ナンバー、名前、顔立ちの組み合わせだった。それを覚えなければ、警備の仕事は始まらない。誰が職員で、誰が不審者なのか見分けられないからだ。ジーンにとってはこなせる仕事かもしれない。だがマナにとっては、非常に難しい仕事なのだ。
しかしジーンは、我が儘言うなとばかりにこう説明した。
「あのなぁ、これでもギルドに大金払ったんだぞ。この仕事にありつくために」
「えっ! そうなの?」
「そりゃあ、そうだろう。こんな大きな製薬会社の求人、そう簡単に普通のギルドで募集を出すわけがないだろう? 駐車場の警備とは言え、ありつけただけ大チャンスってやつだ」
そう言ったジーンも車体ナンバーに人名、顔立ちを覚えることに余念がない。
「それにもしかしたら、この中にノア人が紛れ込んでいるかもしれないからな……」
ジーンが言うように、その可能性と情報は得られるかもしれない。そう思えば、この仕事にも精が出るというものかもしれない。しかし――
「それにしても、狭いんですけど……」
マナが言うように、今二人がいる場所は駐車場の片隅、人が一人座れるくらいの小屋のようなスペース。そこに警備員服を着た二人が、詰めているのだ。人口密度は極めて高く、夏ならば不快を感じる指数だろう。それでもそこに、二人が詰める理由は――
「そりゃあ、一人で全部覚えるのが、めんどくさいからさ」
とのこと。結局、いいように使われている感が否めないが、これも仕事とノア人を見つけるという目的のためと割り切り、おとなしく業務に就くことにしたマナであった。
「で、結局やってることは、泥棒と一緒じゃない?」
「何か物を盗みに行くわけじゃないんだ。泥棒ではない」
「でも、情報は盗みに行くんでしょ?」
「〝盗む〟じゃない。〝学び〟に行くんだ」
物は言いようである。言い方一つで印象は違ってくる、の典型的な例であろう。
警備員のアルバイトを終えた二人は夜になり、夕飯をとるためにレストランに向かった。食事を終えた頃、唐突にジーンはこう切り出したのだ。
「よし、もう一度あの製薬会社に行こう!」
「えっ、なんで? もう夜だし、業務は終わってるし、第一会社閉まってるよ」
「だから行くんだよ」
ジーンは事もなげにそう言い放った。
そんな経緯を経て、二人は今、製薬会社の入口に立っていた。
あぁ、ついに私は犯罪に手を染めるのね……
マナの心境はまさに、犯罪組織に捕まった人質の気持ちだった。だけど腹の中ではこうも決めていた。捕まったときは、首謀者はジーンだと言おう。自分はただ、言われるがままにやらされているだけなんだと。そう思うと、捕まったときの自分が容易に想像できた。そして、〝私は操られているだけなんです〟と言って、よよよと泣いている図も。
だが実際は、もし捕まってそんな状況になったとしても、表情一つ変えずに台詞だと丸わかりの声のトーンで、そんなことを言ってみるのだろう。結果はもちろん、誰も聞く耳さえ持ってはくれない――
「……マナ?」
「えっ! 何? 何か言った?」
隣でマナの表情をじっと見つめるジーンは、それこそ不審者を見つめる目でマナの様子を窺っていたようだ。あぁ、また悪い癖が出てしまったのか、とマナは思ったが、しかしこれがときには力に変わるのだ。この妄想とも言える力を強く信じ、そこに念の力を注ぎ込むように作用させていく。するとそれが現実にそうなる――
マナの力はそんな風にできていた。言葉にしてしまえば、ごく簡単なことに聞こえるのかもしれないが、本当はもっと複雑怪奇で、ひどく感覚的な世界なのだ。だから、本当のところはマナ自身にしかわからない世界なのかもしれない。
その力が今、必要とされていた。とりあえずは、屋内警備員が夜も寝泊りしていなくてよかったと思った。心置きなく、入り口の開錠に集中できる。
だがこれは、思っていたよりも簡単に開錠させることができた。問題は、入り口を開けてからだった。
「ちっ! 警備システムか……」
駐車スペースは人に管理させておきながら、屋内管理は機械任せとは。妙なむらっけのある会社だと、ジーンは思った。その分、つけ入る隙はありそうだが――。
それにしても壁に備え付けられた、この無機質の箱。不審者が侵入すると管理会社に自動的に連絡が行くシステムになっているのだろう。しかし、このシステムを破壊すればそれはそれで、管理会社に通知が行くことになるだろう。ということは、この装置を破壊せずに、停止させなければならない。厄介な作業だとマナは思った。ジーンも薄々それを感じ取ったのか、〝大丈夫か?〟と小声で聞いてきた。こんな状況では空元気を吐くわけにもいかず、マナはただ一言、〝やってみる〟としか言えなかった。
意識をそのコンパクトな警備員に集中させる。すると、音楽の旋律が流れ込んでくるように、様々な文字がマナの中に流れ込んできた。それは、プログラミング言語だった。マナは慌てた。よくわからない文字の羅列に、翻弄される。これがジーンだったならば、この言語を理解することができるのかもしれない。
マナはよっぽどジーンを頼って、読み取ったその言語を口にしてみようかと思った。だがそれよりも速いスピードで、マナの中に次々とその言語が入り込んでくる。とてもじゃないが、そんなことをしている暇はなかった。
「あ……」
思わずマナの口から、声が洩れた。ジーンは棒立ちになったままのマナを、心配そうに見つめる。そのとき、マナの中で不思議な変化が起こっていた。一度もこの言語は学んだことがない。触れたこともない。それなのに、この言語がわかり始めていたのだ。
不思議な感覚だった。一度も触れたことがないのに、わかっているこの既視感――。まるで条件反射の行動のように、対応する言語が次々と溢れ出してくる。これはまるで、この身体が覚えていることのようだった。
思い返せば、あの研究所から逃げ出すときも、パソコンに触れたとき、同じ感覚を抱いた。一度も触れたことはないのに、だけど私はわかっている。いや、私自身ではなかった前の時代の私の遺伝子が、それを記憶しているのだ。まるでそれは、前世の記憶を呼び覚ますような――
「……マナ?」
ジーンは不安な面持ちで、マナを見つめた。マナは無言で機械と対話していたが、ジーンにとってはぼんやりしながら立ち尽くす光景にしか、見えないのだ。精神的におかしくなったのかと、ジーンは心配になった。
だがやがて、警備システムは灯していた命の火のような緑色のランプをゆっくりと消し、静かに電源を落とした。
「なんとか、できちゃった……」
思っていたよりも軽く聞こえるそんな言葉と共に、マナはそう言った。
「大丈夫か? どこもおかしくなってないか?」
ジーンは心配そうな面持ちで、マナの顔を覗き込んだ。
「そんなに心配しないでよ。どこもおかしくなんて、なってないよ」
マナは小さく笑って、大丈夫なことをアピールした。しかしそれでもジーンは、不安そうだ。
「いや、無理させたかなと思って……」
妙なところで心配性というか、世話焼きというか。そんな心配そうな表情をするジーンの顔を、マナは見つめた。この力に頼りきっているくせに、いざとなると心配そうな顔をする――。〝どっち!〟と言って、問い正したいような、そんな気持ちになった。
だが、その暗闇の道の先が呼んでいるように、ぽっかりと口を開けて二人を待っていた。その先には、得体の知れないノア人の名があるのだろう。その輪郭を、暗闇の中から見つけ出そうとするかのように、マナは闇の製薬会社に足を踏み出した。
「ううん、大丈夫。それよりも……」
マナは歩みながら、こう言った。
「きっとこの奥に、私たちが探している何かが隠されているはず。だから、行こう」
妙にやる気になったマナに戸惑いつつも、従うような形でジーンも歩を進めた。
暗闇の室内に様々な医療機器や、パソコンが並ぶ光景は、別の生命体がそこに存在しているような、そんな錯覚に囚われそうになる。その何者なのかわからぬそれらを起こさぬように、マナとジーンはその部屋に静かに入った。決して、自ら目を覚ますような者たちではないことはわかっているのだが、それでもなんとなくそうせずにはいられなかった。
機械独特の香りが、室内に残り香となって漂っている。その整然と並んだ機械の路地をすり抜けるように、マナとジーンはパソコンが並ぶ区画までやってきた。マナはその一つを起動させた。小さな電子音を響かせて、機械は粛々と進行してゆく。ジーンはその様子を静かに見守っていたが、一方では、
「大丈夫なのか?」
と、心配性な顔も見せた。
「たぶん、大丈夫」
マナはそう言うと、閉じた目を見開いた。
画面は起動の呪文のような文字列を終わらせると、パスワードを要求してきた。でたらめな文字列を入力したところで、跳ね返されるのが落ちだろう。それどころか、三回以上間違えた場合、操作自体をロックされるかもしれない。ここは製薬会社なのだ、セキュリティも高く設定されている可能性は否めない。
マナは再度画面に意識を集中させた。入り口の警備システムのときと同じ感覚だ。機械に問いかけるように、頭の中でプログラミング言語を展開する。機械はまるで人間のように、マナがした質問にすらすらと答えてくれた。それらを頭の中で繋ぎ合わせ、入力してゆく。Enterキーを押すと、画面はしばらく添削をするように、入力文字を読み取った。マナにとっても、ジーンにとっても、長く感じられる瞬間だった。
「よしッ!!」
短く、そしてなるべく小声で、ジーンは最小限の歓声を上げた。画面は次へと切り替わり、デスクトップ画面が現れた。
「どうやら、俺たちを歓迎してくれたみたいだな」
「さぁ? 表面上の歓迎かもしれないよ」
「機械も仮面をつけることができるのか?」
「最近の機械は、器用になってきているみたいだからねぇ……」
「おいおいおい。怖いこと言うなよ」
軽口を叩きながらも、画面は次々と切り替わっていった。マナは手当たり次第に、手掛かりになりそうなファイルを開いていった。バラの品種リストから、薬剤のリスト、製造方法、化学薬品の割合……。実に様々なファイルが並んでいた。しかもこの会社はペーパーレスに努めているのか、何でもかんでも電子文書化されていた。その日、社員がこなすべき仕事のto doリスト、なんてものまで出てきた。
おかげでマナたちは、社員の名前と業務内容、そして顔まで記憶することができた。顔写真まで業務用として共有ファイルサーバーに収めてあるなんて、個人の携帯電話みたいだなと、ジーンは呆れ半分で思った。というのも、ハッキングされた場合、セキュリティもくそもなく、職員の情報が駄々洩れになる。全てを電子化というのも、難ありだなと、ジーンは一人冷静に思った。
それにしても、違和感が残る。ジーンは不意に、つと画面を指さした。後ろから伸びてきたその指先に、マウスを操作していたマナの手も止まる。
「このファイル、開けてみてくれ」
マナはその言葉に従うような形で、〝鉱石組成表〟と名付けられたファイルをダブルクリックした。たしかにそのファイルだけが、異質のタイトルだった。開くとそこには、輝石の組成表が記されていた。しかも、類似した種類の組成がリストになって表記されている。
「このファイル、作成者は誰?」
その質問にマナは、オプションタブからファイルに関する情報画面を表示させた。
「えーっと、セル=インローブ。どうやら彼だけ、個室を与えられているみたい」
「他のファイルも開けるか?」
「うん、大丈夫」
マナはするするとマウスを操作した。以前にも、こんなことがあったような気がする。誰かが後ろで指示を出して、それに従ってパソコンを操作して――。
そのことを考えたら、いとも容易く、そのイメージが頭の中に浮かんだ。その光景には、ジーンに似た人がいた。だけど少し雰囲気が違う。ジーンよりも大人びていたし、髪も今のジーンよりも少し短め。かと言って、スポーツ選手くらい短いわけでもなく、程よくまとまっていて清潔感を感じさせた。どこか科学者然としていた。そのすぐ側で椅子に座って、ちょうど今のマナのように、パソコンを操作している女性もいた。その人は、髪の色は違えども、雰囲気は自分に似ていると思った。しかしこの人もまた、今の自分たちよりも、大人びていた。
不意に二人は顔を寄せ合って、何かを相談し始めた。一瞬マナは、この二人はキスするんじゃないかと、そう思った。それくらい二人の距離は近かったからだ。だがその会話の内容は、仕事のことだった。
「この塩基配列のモデル図だと、誤解を受けてしまいやすいと思う」
「……そう? ま、専門のあなたがそう言うから、そうなのかもしれないけど」
女性はそう言うと、素っ気なく一つ、ため息を吐き出した。
「少しは画像処理班の苦労も考えてよね、カイル」
そこで急激にそのイメージはフェードアウトしてゆくように、遠退いていった。
「……カイル」
知らず知らず、マナはその名を口にしていた。まるで、熱に浮かされたような、ぼんやりとした感覚だった。
「……、今、なんて言った?」
焦点も定まらないような、ぼやけた視界の中で、そのジーンの問いかけは、マナの幻覚を遮るように耳に響いた。
「……?」
ジーンのほうに振り返ると、その瞳は揺れていた。
「え……、私……」
「なぜ君が、その名を知っているんだ?」
ジーンのその表情には、明らかな動揺が見て取れた。だけどマナは、本当にわからなかった。さっき見えた映像がなんだったのか。
いつも見る自分の妄想とはまた違う。なぜならマナは、塩基配列だとか、画像処理班だとか、カイルだとか、そんな名前を知らないからだ。知らないのになぜ、そんなイメージが出てきてしまったのか――。マナ自身が聞きたかった。
「わからない。わからないけれど、そんな声が聞こえた」
「??」
案の定ジーンは、怪訝な顔でマナを見つめた。だが、先程の動揺は完全には消えていないようだった。
「偶然、浮かんだ名前だってこと?」
マナは曖昧に頷いた。自分の中のその現象を、マナは上手く説明できなかった。
しかし、マナはマナで浮かぶ疑問があった。
「その名前の人を、ジーンは知っているの?」
「……」
その質問には、ジーンは何も答えてくれなかった。代わりに、
「彼が作成したファイル、全部開いてみてくれ」
そんな指示が飛んだ。マナも、この質問はこれで終わりだと察し、作業に集中することにした。
青いバラの開発研究、そのバラの遺伝子組み換え過程、バラが色を変化させる素因、反応を示す物質……。これらは全て、ジーンの憶測を証明していた。
「やはりな……」
証拠は揃ったとばかりに、ジーンは再度セル=インローブの写真に向き直った。
「ひとまず、このセル=インローブとやらに話を伺ってみることにするか」
「どうやって? 直接本人に会うにしても、怪しまれるだけでしょう?」
ジーンはにやりと笑って、画面を見据えた。
「それ相応の誠意を持って、相対するつもりさ」
マナはジーンのその表情を見て、嫌な予感を覚えずにはいられなかった。