見合いとあの雨の日
「ぷっはははっ!! くく、くぷはは! ま、まさか本当にウチの予定通りことが進むなんてっ、あっははは。も、もう舜ちゃん最高や! ご褒美にチューしたる!」
「やめろこの淫乱女ッ!」
「きゃふっ!」
昨日の騒動の引き金となった味覚破壊兵器を製作した張本人は、終始爆笑し続け、終いには薄紅の唇を接近させてきたので思い切りチョップを食らわした。
頓狂な悲鳴を上げた清美はうぅと唸りながらその黒い瞳を涙で濡らした。身を屈めて頭を擦る清美を睨め付け、舜助はどすんと畳に腰を下ろす。
一夜明けて時刻は二十時。平沢氷華の護衛任務の開始時間だが、舜助は未だに自宅にいた。頭を擦りながら腰を落ち着かせた清美はてへへと笑う。
「だってぇ、たぶん氷華ちゃん元気ないだろうなぁと思うて、少しでも気を解してもらおうと思ったんよぉ。せやけどまさか本当にラッキーハプニングを起こすなんてぇ。舜ちゃん昔から予想外の出来事に遭遇したら慌てる癖あったけど、まさか本当にしちゃうとは」
さらにぷーくすくすと笑うので手を拳に形に変えると、その変化を見た清美は慌てて取り繕う。
「ごめんって舜ちゃん。ウチもまさか本当にことが起きるとは思ってなかったんよ。それに舜ちゃんにも責任はあると思うで」
「……まぁ、そうだけどよ」
釈然としない思いだったが一理あるので押し黙る。あの後三時間ほど昏倒した舜助を待っていたのはさらに三時間の正座だった。太腿に厚さ十センチ近くの本を平積みされ、落としたら警察に通報すると脅迫された。そしてそのままの流れで護衛任務は終了した。終始、凍えるような視線を向けられて心臓が縮み上がりそうだった。
「それで、姉貴は知ってんだな。平沢が何か問題抱えてるって」
「まぁな。このままお悩み解決待ってても埒があかんと思っとったからちょいと後押ししたつもりやったんやけど、やり過ぎたみたいやね。ごめんなぁ」
清美は悪びれもなく謝罪し、扇子で自分を扇ぐ。その様子を見て舜助はついため息を吐く。この自由奔放さは今に始まったことではないが、付き合わされる身にもなってほしいものだ。
静かな駆動音を漏らす扇風機の弱い風を浴びながらうんざりとした表情で清美を見つめる。舜助の視線に気付いた清美は扇子を涼しげに扇ぎながらお茶目にウインクしてくる。本当にうざい。
「知ってんなら早く教えてくれ。もう俺あいつの護衛任務してたらいつか刺されそう」
「そうやろなぁ。好かれてないみたいやし、まあ覗き見すれば当然か」
「もう一発、食らいたいか」
「ご、ごめんて舜ちゃん。だからそんな怖い顔せんといて。さらに辛気臭い顔になっちゃうよ」
「ほっとけ。御託はいいからさっさと教えろ、ティアが風呂に入ってるこの時間しかチャンスはねぇんだ。あいつが新人賞落選くらいで悩むような奴じゃないことくらい俺だって判ってんだよ」
飄々とした態度に苛つきながら本題を切り出す。そう、あの平沢氷華が何度も経験している落選について悩むはずがないのだ。あの陰鬱な表情から察するに、問題はもっと深刻なものだ。舜助の真剣な眼差しを受けた清美はこほんと咳払いすると話し出す。
「なぁ、舜ちゃん。氷華ちゃん家がお金持ちなんは知っとるよな?」
「ああ、そりゃもちろん。あんなマンションに一人暮らししてんだから相当の金持ちなんだろうな」
「母親は外資系企業の社長で、父親も祖父の代から続く名の知れた建設会社の社長でしかも県議会議員。せやから挨拶回りとかそういう宴会? まぁセレブの集まる所とかに何度か連れ回されたりしたんねんてん、氷華ちゃん」
「なんかその、大変そうだな」
「そうみたい。せやからここらの有力者にはある程度顔が知れてんのよ氷華ちゃん。そんでしかも氷華ちゃんは平沢家の次女でな。まぁ姉ほどではないにしろ、それなりに期待もされてるみたいなんやわ」
「あいつ、姉妹だったのか」
てっきり一人っ子だと思っていたのでかなり意外だった。それにしても平沢の姉か、あの冷淡少女がもう一人と思うと身震いしてしまう。慈しむような表情で平沢家の家庭事情を語った清美は、一転して真剣な瞳で舜助を射抜く。思わず居住まいを正す。
「舜ちゃん。本気で氷華ちゃんのことを助けたいと思うてる?」
「助けるって大袈裟な。平沢ならこっちが手を差し伸べるまでもなく勝手に一人で助かりそうなもんだが。まぁ一応本気だ、悩みを解決すれば晴れて俺は自由の身だ。もうあんな言葉の暴力を受けずに済むし、松ランクのバクから狙われる少女を守るっていう重責からも解放される。あのブレイドって奴も俺が平沢から離れれば、もう俺の目の前に現れることはないだろう。本来の標的を狙ってこの街から去ってハッピーエンドってわけだ」
「くす」
舜助が自分の計画を洗いざらい話し終えると、それに黙って耳を傾けていた清美が可笑しそうに笑みを零す。舜助は憮然とした表情をしながらジト目で清美を見返す。
「なんだよ、何がおかしい」
「いや、ほんと舜ちゃんは素直じゃないなって」
「何を言う。姉貴の目は節穴か? 俺ほど素直に生きてる人間もそういねぇぞ」
「人間か……。……うん、そうやな。舜ちゃんほど捻くれてる男もおらんな」
「人の話、聞いてた?」
なははと笑い、その口許を扇子でを隠す清美。一瞬何か思い詰めたような目をしたのが気になり、思案しようとした舜助の思考を読んだかのように清美が快活な声を上げる。
「さぁて舜ちゃん。ここで問題です! どんな完璧に近い人間だって一人の人間には違いありません。故に悩むことだってあります。氷華ちゃんほどの女の子が未だ解決できないその問題とはなんでしょうか!? 制限時間は十秒やで、さぁスタートっ!」
そう言ってチクタクと自分で効果音を呟く清美は、楽しそうに目元を緩ませ微笑んでいた。時間制限を設けられた舜助はとっさに思考する。人は自分の自由を摑み取るためなら思考の速度だって何倍でも加速させることができるのだ。
あの才色兼備の平沢氷華が抱える問題は何か。いや、この場合平沢だから発生した問題なのだろうか。性格、容姿、環境、育ちの良さ、生い立ち、多才な能力等々。そこまで平沢の情報の脳内で並べ立てたところでタイムアップがきた。
清美が妙に高いテンションで喜色満面な笑みを作って、回答を要求してくる。
「時間終了やで! さぁ答えをどうぞっ!」
「…………平沢の性格を鑑みるに、あいつはきっとその問題を共有しようとしない。頼り方を知らない奴に頼れってのが無理な話だ。しかしその性格ゆえに解決できてないのだとしたら……。……答えは物理的に平沢一人じゃ解決できない問題、か?」
自分でも要領を得ない答えだと思い、思わず首を捻る。その答えを受けた清美は渋い顔をして顔の前で指を交差させて×印を作り、ぶっぶーと効果音を口ずさむ。
「その答えじゃ及第点もあげられへんな。じゃあ可愛いお姉ちゃんがヒントを教え足る、よく聞いときぃ。いくでぇ…………ある所でプロと素人のチームがバレーボールの試合をしました。その時に素人チームはあるミスで多く失点しました」
冗談めかしてそんな例え話をした清美は茶目っ気たっぷりにぺろっと舌を出す。その仕草を気にも留めず思考を始めた舜助の頭に、天啓とも言うべき答えが降り注いできて、その仮定に驚愕し思わず清美の顔を凝視した。
打って変わって真面目な表情をした清美はその視線に頷く。にわかに信じがたい仮定だったが、とりあえず舜助は立ち上がり真実を確めるために黒のスーツを着用して宙を蹴ると、居間に一言残していった。
「姉貴、とりあえず服を着ろ!」
清美は終始、全裸だった。
「お前さ、お見合いすんの?」
「…………」
自宅から平沢家までの約十キロの距離を超速で走破した舜助は、何とか部屋の中に入れてもらい平沢から二メートルほどの距離を置いた所で、胡座を搔きつつ単刀直入に質問した。
問われた平沢は、悩ましげに眉間に指を押し当て瞑目すると、小さくため息を吐く。そして舜助を冷めた目で見つめてきた。
「何故そのことを知っているのかしら? 志波くん、あなたやはりストーカーなの? ストーカーで覗き魔なんて本当に救いようのない屑ね。この低能」
「いやだから、あれは下心でやったんじゃなくてだな……。第一お前の裸なんて興味ねぇよ」
「これだから童貞は憐れよね。無意味に意地を張って楽しいかしら?」
「なんで俺こんなに虐げられてんの? なんで?」
開口一番に罵倒された舜助は、この毒舌に慣れてきている己を自覚して絶望した。舜助を一瞥した平沢はすぐに目線を眼前のノートPCに戻し、執筆を再開する。蓄えた萌えの知識を混入させた新作を書いている最中なのだが、その白い指の動きは少し鈍い。いつもの軽やかな指運びではなかった。
舜助は意を決してもう一度質問する。
「姉貴が教えてくれたんだよ。で、いつあんの? お見合い」
「…………あなたには関係のないことよ」
「ああ関係ねぇな。関係ねぇけど関係あるんだよ」
「激しく自己矛盾しているようだけど」
「大丈夫だ、俺の中では何も間違ってねぇから」
そう間違っていない。平沢が結婚しようがどうしようが関係ない。ただこの状況から抜け出すためには、取り敢えずこのお見合いを阻止しなければならないと判断したまでだ。
舜助の目力に気圧されたわけでもあるまいが、平沢はもう一度嘆息しその視線と声音に明白な拒絶の意を乗せて、舜助にぶつけてきた。
「…………どうやっても引き下がってはくれないの?」
「ああ。お前に拒絶されたら今度は、その縁談を持ち掛けたお前の両親に直談判するつもりだ。姉貴に問いただせばお前の実家の住所くらい教えてくれるはずだ」
「あなたは私の両親がどういう人か知っているの? 自慢ではないけど、私の両親の前では志波くんのような矮小な存在は認識すらされないわよ」
「表向きなことは知ってる、あとは知らん。あとお前、説明するのにかっこ付けて俺をただ罵倒したいだけだろ」
「そんなことはないわ、ゾンビくん。けどそうね、私は今その件で実家に呼び出されたりしているから、一時的とはいえ実家に帰ってからもあなたのその死に腐った目と母親の相手をするなんて、これ以上の拷問はないわね」
憂鬱な表情でそう結論付けた平沢は疲れたような吐息を漏らす。まさか自分の邪眼が拷問レベルにまで達しているとは思わなかった。昔、日が暮れるまで練習しても出せなかった邪王炎殺黒龍波を今なら出せるかもしれない、憤怒とか憎悪で。
そんなことを思いつつ、舜助は一つの事実に気付いてそれを指摘する。
「お見合いを進めてるのは母親の方なんだな。いやこの場合は強要されてるって感じか。お前が勧められた程度でそんな疲れた顔するわけないもんな」
「人の粗探しが得意なんて流石志波くんだわ。得意技だものね」
「いや粗探しは俺の百八の特技に入ってないんだけど、何勝手に得意技認定してんだよ。あとそんな部分で尊敬されても全然嬉しくねぇよ」
いつもならこの場合笑顔で罵倒してくるのだが、その表情は凍てつき、わずかに疲労の色を滲ませている。本人も相当疲れているようだった。何故か一向に話が進まないので舜助は満を持して核心に触れる。
「単刀直入に訊く。お前はお見合いをしたいのか?」
「だから、あなたには関係のないことよ。言っておくけど私はあなたのようなスケベで不幸面なチリ毛を信用してはいないの」
「すまんが俺の目的を達成するためには、お前の意思を確かめなきゃならない。それに姉貴も心配してた」
「あなたの事情とシスコンに私を巻き込まないでくれるかしら。ひどく不愉快だわ」
眉を寄せて嫌悪感を露わにそう答えた平沢はツンと顔を逸らす。平沢は頑固者らしかった。おそらく自分も平沢も可愛げがないというやつなのだろう。平沢は面倒くさそうにため息を吐き、毅然と言い放つ。
「……お見合いを件については私が自分で何とかするわ。だから人の事情に首を突っ込まないでもらえるかしら」
「……何とか、ね。つまり乗り気じゃないってことだな?」
「当然でしょう。いくら年齢的に結婚できる年だからと言って、高校二年生でお見合いなんて馬鹿げてるわ」
瞳を鋭くして吐き捨てるようにそう呟く平沢。これならお見合いを邪魔しても別に平沢の意思に反することではないということだ。いや別に反しても強硬するつもりであったが。
「一人で解決できないからそんな疲れた顔してんだろ。執筆のペースが明らかに落ちてる、お見合いのことがお前の中でネックになってるんだろ。俺が手助けしたいって言ってんだ、人の厚意は素直に受け取ったほうが得だぞ」
「あなたの手を借りるなんて末代までの恥よ。あなたと違って私は有能だからこの程度の問題、自力で解決できるわ」
こちらを見ることなく凛とそう言い放つ平沢のその発言は絶対の自信の表れではない筈だ。ただ単に頼り方を知らないだけなのだ。今まで様々なことに一人で挑戦し、一人で対処してきた彼女は困った時に人に頼る術を知らない。
問題に、夢に、ラノベという才能の壁に立ち向かってきた彼女がRPGゲームをすれば先手必勝とばかりに『戦う』のコマンドを選択するだろう。彼女は逃げも隠れもしない、表面上は冷徹で冷淡で冷血な氷のような少女だがその内側にある心には、魂には、きっと狂おしいほどに苛烈で熾烈な豪炎が焚かれているのだ。
そう仮定した舜助は逃げ道を作ることにした。彼女の目の前に『逃走』のコマンドを示してやった。
「そうか。なら俺を使えばいい、道具のように使用すればいい。頼るんじゃなくてな」
「物は言いようね」
「そうだな、けど本質的には違う。頼るという行為は言わばその相手に身を委ねるってことだ、しかし使うというのはそこに俺の意思は介入しない。お前に使われるなんてまっぴら御免だが、俺としてはお見合いを邪魔できるなら何でもいい」
「なぜ……?」
懐疑的に呟いた平沢はソファから立ち上がり、舜助の前にその身を屈ませるとその黒い双眸でこちらの瞳の中の感情を読み取るように覗き込んできた。舜助はその綺麗な瞳から目を逸らすことができず至近距離で見つめ合う。努力や夢の次に嘘が嫌いな舜助は正直に自分の思いを告げた。
「……自分の利害のためだ。それ以上でも以下でもない」
「そのためだけにあなたは私に手を差し伸べるの? にわかには信じられないわね。知ってる? キャラクターの動機は複数にしたほうが読者に説得感を与えやすいそうよ。最も効果を発揮する理由が自己防衛と復讐心とあとは…………愛情」
桃色の唇から紡がれた最後の言葉にだけ薄っすらと渇望が滲んでいた。きっと彼女は両親とあまり反りが合わなくてだからこそ衝突しているのだろう。レールを用意した両親からの愛情を感知できなかったのだろう彼女は。氷の少女は少しばかり愛に飢えているように見えた。
しかし非モテぼっちの志波舜助には彼女の望む言葉を伝えることはできない。目の前の澄んだ瞳の中に垣間見えた縋るような色も、きっと孤独な舜助が幻視したものだ、幻覚だ。
そう決めつけた舜助は低いアルトボイスを静まり返った室内に響かせる。
「強いてあげるなら……妹のためだ。俺の妹にはとある事情で同性の友達がいない。だからまぁ少し癪だけど、この問題を俺が解決した暁にはお前が友達になってくれないか?」
その時の舜助の目はいつもより澄んでいた。死んだ瞳に一瞬だけ光が戻った。その様を間近で見た平沢はわずかに眉を上げ目を見開き、驚きの表情を作った。そして呆れとも感嘆とも受け取れる息を吐き、立ち上がり舜助を見下ろしながら告げる。
「そう…………けど、使うと言ってもこんなゴミ」
「おい、人をゴミ呼ばわりとはどういう了見だ。確かに俺は道具みたいに使えと言ったが、それは決して使用済みカイロ的な意味じゃないぞ」
「ごめんなさい、流石に失礼だったわね。ゴミにも利用価値はあるものね、リサイクルね」
ゴミに対しては申し訳なく思っていても舜助には失礼とは思っていないらしい。つまり舜助は再利用の価値もないゴミ未満の存在らしい、少なくとも平沢の中では。
何か吹っ切れた舜助は続けて立ち上がり、陰険な笑みを口の端に刻む。
「ならゴミにも劣る俺になら何しても良心の呵責は起こらないだろ」
「…………そうね、それでどういう方法も用いて解決するつもりかしら?」
「それを今から考える」
一瞬だけ慈しむような視線を投げてきた平沢は一転して呆れたように眉間に指を当て溜息を吐く。舜助としては拒否されることも予想していたので、考えるだけカロリーの無駄と判断していた。平沢の憐れみの視線を振り切るために質問する。
「で? お前は俺を使うのか、それとも使い捨てるのか?」
「人聞きの悪いことを言わないで頂戴。でもそうね、今回に限りあなたを利用させてあげる」
女王様みたいな尊大な台詞を呟いた平沢は今までで一番の柔らかい、けれど少し疲労の色が見える笑顔を見せた。その顔を見て理由は判明しないが心の中で安堵の息を吐いた舜助だった。
「それで現状を把握したいのだが」
「そうね、特に黙秘事項があるわけでもないし。掻い摘んで説明するなら夜のこの時間帯になるまで実家に貼り付けにされていて、お見合いの話は志波くんと出会う前からあったのよね」
ソファに腰を落ち着かせ対面した二人は作戦会議を始めた。タイトルは『ドッキドキ! 真夜中で二人だけの秘密な、大作戦』。昭和かよ。
平沢は視線を宙に遊ばせながら現状報告をする。心なしか疲労の色も薄まっているように見える。
「お見合いの理由はそうね……私が次女で、あと一年もしない内に三年になるからかしら」
「すまん、その論理の飛躍は俺には理解できん。判りやすく説明してくれ」
いつも通り「あなたこんなことも理解できないの? その頭の中は脳味噌という物が入っていないのかしら」的な罵倒が来ると思ったがそんなことはなく、平沢は気分を害した風もなくおもむろに語り出した。
「……私の家は両親ともに会社の社長なのだけど、かと言って別に名家でも由緒正しい家柄でもないのよね。父親の方は祖父の建築業が当たって新興隆起した程度なの。だからエリート思考と言うわけでもない……何というか家の人達の思想が古臭いのよ」
苦虫を噛み潰したような表情をしてそう語る平沢は、心底うんざりしているようだった。今の言葉を咀嚼した舜助はこう解釈した。
「つまりは女は家庭に入れってことか?」
「はぁ……そういうことよ。変に学を持っているのも敬遠される理由になるから大学進学は必要ないだろうって考えなのよ、あの人は」
そう言って平沢は溜息を吐き、その様子が彼女の心労の深さを物語っている。あの人、と複数系じゃない辺り父親は賛同していないのだろう。所謂親バカというやつか。舜助の両親はそういうのとは無縁なのでよく理解できない。それにしても結婚かと内心で呟き、平沢は眺める。
月明かりの下の青白いこの空間内で、その絹の如し黒髪は青い燐光を纏わせ神秘的な光を灯している。白い肌に鼻筋の通った端正な顔立ち、黒水晶のように美麗な双眸。確かに嫁にしないのは勿体無い、方法はちゃんと選んだほうがいいが。
家事スキルも高くそれなりの勉強もできる専業主夫希望の舜助としては是非とも婿入りを所望したいところだが、その怖そうな母親を姑にはしたくないし、何よりこの毒舌お嬢様と同居をしなければならなくなる。そんなのは御免だ、表面だけ見れば平沢は優良物件なのでかなり惜しいところだ。
「そういや、お前姉がいるんだろう? その姉はどうしてるんだ? 大学とか行ってるんじゃないのか?」
「姉は今年で二十一歳。大学にも通っているけど、姉は……特別なのよ。平沢家には私達姉妹しかいないから家を継ぐのは姉で、専門的な知識が必要になってくる。だから大学にはきちんと通わせているわ」
そう語る平沢は嫌悪というか何というか複雑な表情をしていた。色々面倒くさい姉妹関係なのだろうと思い突っ込まず、先程思考した案を口にする。
「婿養子取っちまえば済みそうな話だがな」
「婿養子はあくまで姉さんの補佐になるだろうから、会社を切り盛りするのも、父の地盤を継ぐのも姉になるでしょうね」
「はぁ……。そうなのか、じゃあパーティとかも姉と一緒に出席してんのか?」
「……あなたのお姉さんは何でも知っているのね。ええそう、けど基本出席するのは姉で私はついでというか、たまに姉の代役で出ることもあるし、対外的に私のことを知らしめたいだけなのよ、あの人は」
ふっと冷たい吐息を出し瞳を鋭くする平沢のその目には戦意が宿っていた。あの人、と言うからには相当母親とは険悪な関係らしい。今までの説明で舜助が大体状況を理解した、と踏んだらしい平沢は話を続ける。
「一応説得は試みたわ。大学には行きたいし、お見合いも今はするつもりはない、と。それで返ってきた言葉が『我儘を言わないで』だったわ」
疲れたような吐息を漏らしつつそう呟く平沢の瞳には諦観が滲んでいた。
「我儘、ねぇ。金銭的に見て大学には行けるんだろ平沢家は。つまり、自分の言うこと聞かなかったら我儘か、お前の母親すげぇな。一応確認だが、お見合いする相手のことは知ってるのか?」
「ええ、何度かお会いしたことはあるわ」
「ならお前的に結婚してもいいと思える相手じゃないのか?」
そう訊くとはっと、嘲笑して吐き捨てるように返答してきた。
「冗談を、相手はもう三十半ばよ」
「おいおい、お嬢さん。滅茶苦茶に政略結婚の匂いがしますねぇ」
今どきそんなことを本気でしようとしている家があることに驚愕した。
「父親は反対してるんじゃないのか?」
「父は、何も。母には意見できないでしょう。それで何かいい方法はないかしら?」
あまり期待してなさそうな声音でそう問われて、少々苛ついたがそれでも案を考える。まずは相手を落とすゴシップなんてものを考えてみる、ロリコンには死の制裁を下すべしだ。しかし仮にそれが成功しても今回のお見合いがおじゃんになるだけであって、次回のお見合いを設定されるという堂々巡りをするだけだ。
あとはラブコメとかでよくある『私の恋人をフリをしてくれないかな?』作戦。取り敢えず平沢母にお見合いをするメリットがないと思わせれば十分なのだ。なんなら舜助が相手役になり、どこぞの大企業の御曹司だの有名大学在学とか言ってあとは色々補強すれば今回のお見合いくらいは回避できる、しかしそれだとちゃんとした解決は望めない。
脳が熱暴走を起こす寸前まで思考回転数が上がるが妙案が浮かんでこない。平沢は熱心に策を考える舜助を見つめて小さく苦笑し、付け足す。
「志波くん。私としては今後一切この問題が永久に出てこないようにしたい。欲を言えば家族との関係修復もしたいの」
「話し合いで解決しないなら、もういっそ縁を切るしかねぇだろ」
「私は家族を苦手としているだけで、別に嫌悪しているわけではないからそこまではしたくないわ。けどそうね、結局あの人にとって私は管理したい所有物の一つなんでしょうね」
自嘲げに呟いた平沢のその怜悧な面貌に陰鬱な影が差す。
そうなのかもしれない。仕事で親が家を空けることが多い志波家でも、昔は清美が母親代わりで舜助の面倒を見ていた。あの頃はやれ勉強しろとか、やれ服を裏返して脱ぐなとか、やれ目が死んでいるから遠くの緑でも見て浄化しろとか言われたものだ。
しかしそれは所有欲の発露ではない、親代わりとしての責務と愛情の裏返しだ。だが平沢家は違うらしい。支配し、管理下に置き、所有物の如く振る舞う。いくら養っているからと言ってもそれで物みたいに扱っていい理由にはならない。子供だって一人の人格を持った人間だ、舜助からすれば勝手に産んだのだから独り立ちできるまでは、面倒を見るのが親の責務であると思っている。
成績優秀で、スポーツ万能で、執筆関係で蓄えた大量の知識を保有し、容姿も秀でている。そんな平沢氷華の何が不満なのだろうか。
そこである一つの事実に気づき平沢に質問を飛ばす。
「お前は……親に反抗したことがないんだろうな」
「え? あるわよ、現に今も反抗しているじゃない」
「それは反抗じゃなくて応戦してるだけだ」
「何が違うのかしら」
「子供の反抗なんてのは意味不明で理不尽で自分勝手なもんなんだよ。その点、お前は親が用意した土俵に上がって勝負してるだけだ、そんなのただ対抗してるだけだ」
「……意味がよく分からないわ」
平沢は本当に意味が分からないらしく、首を傾げる。きっとこの女は母親に『平沢氷華』個人として見られた経験が皆無なのだ。過去に閉ざされつつある自分の世界に閉塞感と絶望感、焦燥感を抱いていたと言っていた。きっとそう感じる以前の平沢はより優秀であろうと、より所有物として価値があらんと頑張って来たのではないか、そう思った。
「お前の人生の目標はライトノベル作家になることだろう? その夢に親が必要か?」
「ええ必要よ。衣食住が整っていなければろくに執筆できないもの」
「そういう意味じゃなくてだな……今のお前は親に認められたくて努力ってやつをしてるのか?」
「昔はそうだったかもしれないけど、今は違うわ。ねぇ、あなたは結局何がいいたいの?」
平沢は訝しげに瞳を鋭くし、声のトーンを落とす。要領を得ない質問に苛立っているようで、鋭利な視線が舜助を貫く。
「おいやめろ、恐い声出すなよ漏らすだろうが。……何が言いてぇとだな、平沢。お前は今まで親に我儘言ったことないだろ? 意味もなく反抗したり親の言うことに刃向かったり、無視したりしたことあるか?」
平沢は顎に手を添えて思案するとやがてふるふると首を振る。
「幼い頃はあったかもしれないけど、大きくなってからは……ないわね」
「だろうな。だからお前の親も所有物の如くお前を好き勝手にするんだろうよ」
「? どういうことかしら」
「まず言うことを聞かない奴は動きの予測ができないから支配したり、管理下に置きづらい。それに、好き勝手やってる奴を利用するメリットがない。例えばお前がパーティでお前を他人にひけらかしている最中にお前が突拍子も無いことをすれば、平沢母の評判も落ちるから支配しようとは思わなくなる」
舜助の話に平沢はふむふむと頷く。
「一理あるわね」
「つまり、何が言いたいかっつうとだな……もっと我儘してもいいと思うんだよ俺は。親の言うことを聞かなきゃならん場合もあるだろうが、それだってケースバイケースだろ。まして結婚なんて当事者の自由意思で決めるもんであって、親が勝手に決めていいもんじゃねぇよ。それと」
「それと?」
無垢な感じで小首を傾げる平沢。その仕草に少しドキリとした舜助は咳払いしてから告げる。
「親は勝手に俺らを産んだんだから大人になるまで育てる義務があんだよ。ちょっとくらいの我儘も許さないなんて親の責務を放棄してるだけだ」
「……親の責務なんてあるのかしら?」
「あるよ。子供にも子供の責務があるのと同じように、親にだって同様に権利と義務がある」
「……今までそんなこと、考えたこともなかったわ」
平沢は呆然とそう呟いて顔を逸らして窓の外の月を見上げる。久しぶりの美しい月夜だった。
その反応もむべなるかな、と思う。物扱いされたら捨てられないように頑張るのが普通だ。ネグレクトとかDVがあっても子供が親を嫌いにならない理由はそれだ。子供にとって親は神で、世界で、全てだ。だから、どんな理不尽な仕打ちを受けても嫌いになったりしないし、むしろ好かれるよう、捨てられないように努力する。
「で、反抗したらお前の親はどんな反応するかね。流石に縁を切るなんて手段はとれないと思うが」
「今までそんなことしたことないから予想もつかないわ。流石にそんな手段は取られないのではないかしら。一人暮らしも何だかんだ言って認めてもらっているし、それに父は私達姉妹には甘いから」
「なら資金的援助がなくなるとか、縁が切られるっていう可能性は皆無だな。そういう心配をする必要はないか」
なんとか突破口が見え作戦会議の終焉が見えてきた。舜助はこの時のためにポケットに忍ばせていた眼鏡を取り出し、格好つけて両肘をガラステーブルに付けると、話を進める。
「では平沢君。君の意思を聞かせてもらおうか? 反抗しますか、しませんか?」
「……そうね、今まで母親の呈示する条件下でずっと結果を求められ続けた気がするけど、これを続けても支配から逃れることはできないものね。…………反抗、してみようかしら。…………決めた、私家出するわ」
「ああ、そうか。それもいいと……家出?」
「ええ、私一度はしてみたかったのよ」
そう言う平沢は憑き物が取れたような晴れやかな表情をしており、心なしか瞳が輝いている気がする。かすかに身体を震わせてそわそわしているし、何やら氷華嬢は吹っ切れたようだ。
「いやいやいや、ちょっと待て。家出は流石にやりすぎじゃないでしょうか」
「そうかしら、だって家にこのままいたらお見合いに連れて行かれるだけだし、一人暮らしの家も割れているから結局は同じよ。だから、取り敢えずお見合いを無視するには家出するしかないわ」
「家出するって……それでもいつかは話合いをしなきゃいけないだろ」
「ええ、最終的にはそのつもりよ。けど今のこの状況ではそもそも要求を呑んでもらえないから、一度家出をして私の意思が硬いことを証明し、それでも要求が呑まれなければまた家出をすることを示しておく必要があるわ」
積極的な姿勢でそう話す平沢を舜助を唖然とした顔で見つめた。言っていることは間違っていないかもしれないが、やっていることは幼稚極まりない。
「家出するっつってもどうすんだよ、ホテルを転々とするのか? 金は? 宿泊の記帳は偽名か? 平沢家がお前を見つけ出す可能性は? 学校は?」
「お金は……どうかしら。カードが止められるかもしれないわね。あと学校に通っていたら家の者がおそらく迎えに来るでしょう」
「カードとか平沢さんマジパネェっス。しかしずっと学校サボるわけにも行かんだろ」
「その点は大丈夫だわ。だってお見合いは明日だから」
「明日っ!?」
確かに明日は祝日だが普通社会人がそんな日に縁談を予定するだろうか、いや有給という手もあるがそれならわざわざ会社を休むということで、ロリコンは凄まじいと思った。それにしても明日、かなりの瀬戸際だったようだ。
平沢はさっきからそわそわしっぱなしで、まるで遠足前日の夜の小学生みたいだ。平沢は乗り気で段取りを決めていく。
「今回を乗り切れば次の日取りを決めるのにも時間がかかるでしょうし、その間に交渉の機会が作れるはずよ」
「それでどこに一泊するんだお嬢様」
「もちろん志波くんの家に決まっているじゃない」
「はっ?」
思わず素で驚いてしまった。一体どういう経緯を経て彼女の脳内でその結論が出たのだろうか。呆けた表情をする舜助に対し平沢もまた、こちらの反応が意外だったのか不思議そうな顔をしている。
「いやいやいや、何をご冗談を」
「冗談ではないわ」
「……女友達の家に行けよ」
「いないわ」
そういえばこの女も舜助と同じぼっちだった。どうしようかと頭を悩ませる舜助を見て平沢は少しむっとした表情を作る。
「志波くん、私に人の厚意は素直に受け取れと言ったわよね。少々癪だけど、その言葉通りにしたまでよ。とりあえず志波くん、お姉さんに至急協力要請を」
協力要請とは氷華嬢、かなりノリノリである。しかし旅行の準備の時みたいなテンションになっている平沢はとても新鮮で、不覚にもギャップ萌えしてしまった。
「平沢、方向音痴なら先に言っといてくれないか。おかげで一時間近く家で待ちぼうけ食らったんだが。俺お前に住所教えて駅までの道のりと降りてからの道も地図に書いて渡したよな。なのに駅に着くことはおろか、俺んちと真逆の方向に歩いてたのはこれ如何に? コンパスも渡したほうがよかったか」
「…………うるさい」
あの後舜助は家まで連れて行ってやろうかと思い、《LQ84-I》を装着しようとしたのだが素気無く断られてしまった。自分の足で行く、の一点張りだったので舜助は平沢を置いて自宅に跳び返り、小一時間待っても訪れなかったので捜索しに行ったら平沢が路頭に迷っていた。
そして現在、漆黒のスーツ越しに背中に平沢をおぶって早歩きしていた。位置は高度五十メートル上空、身体がスーツに触れているので地上から平沢の姿が見えることはない。
しかし平沢は羞恥で頬を真っ赤にして唇を尖らせていた。方向音痴が露呈して恥ずかしいらしい。所謂へそを曲げている状態だった。一度は平沢と一緒に走って向かうことも考えたが、流石に十キロの距離を走るのは過酷だと思ったのか、渋りながらもおぶることを許可された。
「志波くん、私を馬鹿にしているでしょう。第一、人には必ず欠点というものがあり、その短所を受け入れないのは人としての器が小さいことの自ら証明しているのであって」
「開き直りやがった」
こんな調子で三十分かけて志波家に到着した。
「夜分遅くに申し訳ありません。親しい間柄でもないのに一泊とはいえ、図々しくお願いしてしまって」
「ええよ気にせんといて。ウチは大歓迎やで」
にこやかに微笑み返した清美の姿が一瞬で搔き消えたかと思えば、平沢の背後に忍びよる影が忽然と出現した。そして標的の脇の間に差し込まれた華著な両腕が、その慎ましかな塗り壁を鷲摑みにした。可愛らしい悲鳴が上がる。
「ひゃうっ!」
「事情は聞いとるでゆっくりしていってなぁ、なんなら何泊でもしてええからな。そこの愚弟のことはいないものとして扱ってくれてよくてよ。あ、だけど姫ちゃんのことは大切に接してあげてよ。この娘、人見知りやけど氷華ちゃんならすぐ仲良うなれると思うわ。それにしてもなかなかどうして、ちょうど手に収まるくらいの良い乳持っとるなー。舜ちゃんの言っとった話と違うやんけ。ぜんぜん貧乳じゃないやんけ。これを貧乳ゆうたらほかのぺったんこさんに失礼……」
「あなたの方が断然失礼よッ!!」
怒濤の勢いで舌を回した清美の熱弁を、短い怒りの咆哮が掻き消した。平沢は刹那の間に拘束から逃れると、一瞬で距離を取り左足を軸とした華麗かつ、鋭い蹴りがしなやかな脚から鞭の如く放たれた。
それは鋭く清美の横腹を的確に捉え、対象を吹っ飛ばし縁側を超えて庭の池まで標的を飛ばす。清美は勢いよく着水し、水飛沫が派手に水上に散った。
しかしあのお風呂の時と言い、毒舌でしかも武闘派とか完全体セルかよ。
そんな感想を抱いた舜助は直後に悪寒を感じた。平沢がゆっくり振り向き微笑する、がしかし目がまったく笑っていない。
「言ってた話って、何かしら。これはもう本格的に記憶消去するしかないようね」
「ちょ、ちょっと待て。姉貴の冗談を真に受けるな平沢。ほ、ほら深呼吸しろ。落ち着け、落ち着け」
「お兄さん、この人怖いですっ」
冷や汗を流す舜助の背中に隠れたティアラがぎゅっと舜助の服を摑む。透き通るアイスブルーの瞳を潤ませ、その身体は怯えにより震えており、その様はまるで小動物のようであった。
ゆらりやらりと舜助たちにゆっくりとしかし確実に距離を詰めてくる平沢とティアラの目が合う。ティアラは思わずか細い悲鳴を漏らす。
「ひぃっ!」
「………………」
その時ピタリと進行が止まる。不気味な笑顔を貼り付けていたその顔が平素の冷めたそれに戻り、淀みのない所作でティアラの前に跪くとひょいひょいと手招きする。ティアラは警戒しながらもゆっくりと舜助の背中から離れ、視点の高さが同じくらいになった平沢の顔を見つめる。
そして平沢は無表情のままぺたぺたとティアラの顔に触れていく。
「ひゃあっ」
「……………………志波くん」
「……何だ」
素早く検分を終えティアラを抱きしめた平沢は、華やかなドレスを着て華著な肩を露出させたティアラの肩越しに、舜助を上目遣いで見つめて切り出した。
「この子、いくらで売ってくれる?」
「非売品だ。あとペットじゃない、俺の妹だ」
「嘘……妄想ではなかったの……!」
「おい何、素で驚愕してんだよ。すげぇ傷ついたぞ今」
愕然とした表情をする平沢はそれでもティアラを離すどころか、むしろ抱きしめ直した。細い腕がティアラの背中で交差される。
「えっと……」
いきなり顔を触られたかと思えば急に抱きしめられたティアラは戸惑いながらも、危険ではないと判断したのかされるがままになっていた。初対面とはいえ清美以外の女性に抱擁されたことのないティアラは困惑しながらも、照れたように少し頬を染めていてすごく可愛かったです。まる。
舜助がその光景を穏やかな気持ちで眺め、思わずにへらと笑う横で感慨深けな声が響く。
「ええなぁ」
「ああそうだな」
「ほんま大好物どすえ」
生返事をした舜助はそこでびくっと肩を震わせ真横に首を振る。そこには濡れた髪から水滴を滴らせ、どころか全身びしょ濡れの清美がいた。その顔は頬が上気し目はとろんとしていて、はぁはぁと息は乱れその口はだらしなく開いている。瞬間移動とすら言える回帰能力だった。そして全裸だった。
「ちょ、どっから湧いてきやがった! 身体拭けそして服を着ろ! ああ、畳が濡れるから取り敢えず縁側に行け! 自分で歩けッ、しなだれかかって来んな! 胸を当てんな!!」
「当ててのよ」
「黙れ変態ッ!」
「それじゃあティアラちゃん、一緒にお風呂入りましょうか」
「はいっ、氷華さん!」
「お前らは高速で仲良くなりすぎだろッ!」
清美の介抱とツッコミに忙しい舜助はそれでもお風呂という単語に反応し、即座に清美を放り出すと速攻でお風呂場へと移動する二人の前に回り込み、淀みのない所作でティアラの前に傅く。
「ティア、今日こそお兄さんと一緒に」
「え、いやお兄さんその」
「ティアラちゃん」
どう対応していいか戸惑うティアラに平沢は身を屈めて耳打ちする。途端にティアラは遠慮気味に聞き返す。
「いや流石にそれはお兄さんが」
「いいのよ。この変態ロリコンはこれくらい言わないと諦めてくれないわ」
「そ、それじゃ」
数秒間葛藤したティアラはにこりと微笑む。瞳は優しげに細められそこから暖かな視線が注がれる。それはもう聖母のような慈しみの込められた微笑であり、舜助はだらしなく表情を輝かせる。桜色の唇から鈴のような綺麗な声が漏れ、その声色は少なくとも舜助には天上の讃美歌に聞こえた。
「今のお兄さん、いつにも増してキモいです」
「ッ!?」
現実は残酷だった。キモいという罵倒もそうだが、いつにも増してということはつまりいつも舜助のことを気持ち悪いと思っていることである。その言葉の意味を理解した舜助はばたりと力なく倒れ、気絶したまま血の涙を流し続けた。
二人の足音が遠ざかっていくのを最後に舜助の意識は途切れた。
「はあ……、凄い……」
「はいっ、私も初めて見た時は感動しました」
平沢は思わず感嘆の息を漏らし、ティアラが楽しげに声を弾ませる。
志波家の風呂場は二箇所あり、冬場は室内の精巧に敷かれた石畳の浴室で身体を洗い、木製の円柱状の浴槽で疲れを癒やす。しかしこの時期は専ら室外のこの露天風呂に入浴する。大浴場と言える規模の風呂場は両側を三メートルはある竹垣に囲まれ、開けた前方からは志波家の広大な敷地を一望できる。正確には、その敷地の一部を望める。
武家屋敷のような離れらしき建物が散見され、時代劇に出てきそうな敷地一帯を取り囲む高い築地塀が遠方に見える。回遊路の随所に手水鉢、その付近には等間隔に石灯籠内が立ち、その内側に焚かれた灯火が闇路を照らし蛍火のように瞬く。
中央にある巨大な池水に青白い月光が降り注ぎ水面を幻想的に煌めかせる。その池の中央には一島を置き、立派な四阿が建っている。まるでどこぞの名所旧跡を買い取って、まるごと日本庭園にしたかのような印象を平沢氷華は受けた。
一糸纏わぬ姿で真っ白なハンドタオルを胸元に握りながら剥き出しの肌で、涼やか夜気を感じて少し身震いする。もう七月直前とはいえこの時期はまだ初夏である、澄んだ空気は少し肌寒い。
平沢は急いで木造りの桶を手に取り、大人が余裕で五人ほど入れそうな木製の長方形の浴槽から湯気の立つ熱いお湯を掬い、ゆっくりと身体にかけていく。控えめな水音と共に肢体に温かな熱が広がっていくのを感じる。
平沢はすぐにでも目の前の湯船に浸かりたい衝動をなんとか抑え、木製のバスチェアに腰を下ろした。同じように隣で腰を落ち着かせたティアラは、慣れた様子ですぐ前のカウンターに並ぶ容器から、とろりとした液体を手に取り、健康的な色合いの肌をすっ、すっと撫ででいく。途端、真っ白い泡がもこもこと泡立ち、大量に湧き上がった泡がたちまち剥き出しの小さな肢体を覆っていく。
「あ、こっちのがボディソープでそっちのがシャンプーです」
気持ち良さそうに身体を洗っていたティアラは突然思い出したように、はっと小声を漏らすと勝手が分からない平沢に教えていく。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ。つい夢中になってしまいました」
言葉を交わし自分の身体の洗浄に戻ったティアラは、ふふんと鼻歌混じりに隅々まで身体を洗っていく。平沢はその様子を微笑ましげに眺め、面白いように表情の変わる子だなと思った。
平沢も倣って示された容器から液体を手に取り、雪のように白い肌を撫でつける。肩、胸、腹、腰、脚と順に洗っていたところで隣から「あのっ」控えめ声が聞こえた。そちらに顔を向けると、泡の隙間からなめらかな肌を覗かせるティアラが少し頬を紅潮させて、恥ずかしげに呟く。
「その、お背中、お流し致しましょうかっ!」
「ふふ、ありがとう。じゃあ交代ずつ洗いっこしましょうか」
「は、はいっ!」
きらきらと蒼い瞳を輝かせる少女が、先程から一生懸命に背中にその小さな手を伸ばしているのを横目で見ていた平沢は思わずくすりと笑みを漏らす。すっとこちらに向けられた背中にピタっと手を添わせたと同時に、小さな背中がぴくりと反応する。
絶妙な力加減で吸い付くような肌を撫ででいくと満足げな嘆息が聞こえた。その声にまたもやくすりと笑ってしまう。平沢の胸中には穏やかであり和やかな気持ちが広がる。こんな心地よい感情を見出したのはいつぶりだろうかという物思いに耽りつつ、ごしごしを繰り返していたら急に「ひゃあっ」と可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「え? どうかした?」
「あ、その、て、手がその」
「……あっ」
思考の海に潜り過ぎ、気付けば背中を撫でていた手は脇を抜け胸の方まで来ていた。そこで不意に悪戯心が芽生え、つい指を這わしてしまった。なだらかな曲線を描く膨らみが指に柔らかな感触を与える。油断していたティアラは途端にびくりと身体を震わせ、蠱惑的な声を漏らす。
「ひゃうっ!」
「……あ、ごめんなさいっ!」
正気に戻り急いで手を引っ込める。自分でも今の行動が理解できなかった。今まで他人に悪戯をするどころか冗談すらいったことがなかったのだ。にも拘らず面識を持ってまだ数十分しか経っていない目の前の少女を、慌てさせたいという願望がふと湧き上がってきた。
自分の意味不明な行為に僅かな不安感を感じつつ、指先を見つめていると視線を感じた。目線を転じるとそこには眉を寄せ、むっとした表情を作るお人形のような可愛らしい顔があった。
「もう、びっくりするじゃないですかっ! 私だって怒るんですからね」
「あ、その、ごめんなさい」
「むぅ~~、……っぷ」
自分に非があるので素直に謝罪の言葉を口にし、ぺこりと頭を下げる。そして顔を上げた先で視線を交錯させると、ティアラが不意に可笑しそうに吹き出す。平沢もそれにつられて笑みを溢す。
「ふふふっ」
「ぷふくすくすっ。今度は氷華さんの番です。背中向けてください」
「はい、分かったわ」
笑いを引っ込めた平沢はティアラに背中を向ける。やがてピタッと背中に紅葉のような手が添わされ思わずぴくりと身体を揺らしてしまう。
少し弱い擦り方が妙にむず痒く、思わず身体を捩らせる。その時、背後から怪しげな笑いを含んだ吐息が漏れたのを聞き、急いで振り向こうとしたが遅かった。
小さな両手が脇の下から伸びてきて、絶妙な力加減で胸に触れてきた。くすぐったくて思わず笑い声を上げてしまう。
「お返しですっ!」
「や、だめっ。待って、くすぐったいっ! ひゃあっ、ふふくくく、あははっ!」
二人の楽しげな笑い声が風呂場に響く。目尻に涙を溜めるほどに笑った平沢は、心の中で先程の不安感が消えるのを感じると同時に、自身のあの不可解な行動の理由を判明させた。
平沢はこの一緒にお風呂に入るというシーンを懐かしんでいたのと同時に、ティアラのことを妹のように思い始めていたのだ。
実姉と最後にこんな風なやり取りをしたのは、小学校低学年の頃だ。平沢は無意識にあの頃と今を重ね合わせていた。
お互いが一度目の洗いっこを済ませ、肌を擦るようの大型のブラシで再び身体をごしごし擦り、二度目の洗いっこを開始する。今度は平沢が先に洗われる番だ。
柔らかい毛が密に植えられたブラシで泡まみれの背中をごしごしされていると、ふと背後から感嘆を滲ませた声が囁かれる。
「……氷華さんすごく綺麗な肌してますね。スタイルもいいし、憧れますっ」
「そう? ありがとう、嬉しいわ。まあどこぞの男は私の身体になんて興味がないみたいだけど」
つい声に怒りが混じる。あの男に興味を持たれればそれはそれで悪寒が走るのだが、どうやら女のプライドを傷つけられたことに対し、静かに憤慨していたようだ。
声音から平沢の心境を察したのかティアラは思わず苦笑を漏らす。
「あはは……。実はお兄さん、嘘が大嫌いのくせに意地張っりですから。それはたぶん嘘ですよ。本当は興味あると思います、だって男の人ですから」
「それはそれでセクハラで訴えるのだけど。それにしても嘘が嫌いね、嘘は泥棒の始まりという言葉を本気にしているのかしら」
「ふふっ。たぶんお兄さんのあれは潔癖症なんです」
ブラシで背中を擦られながら平沢は、ティアラのその声音に慈しむような響きが伴っていることに気付いた。
「お兄さんに以前、失礼を承知でなんで友達を作らないのか訊いてみたんです」
「人間強度が下がるから、とか言ったのかしらあの男は」
平沢は最近目にした台詞を引用してみる。ティアラは意外にもその台詞を知っていたらしく、小さく吹き出し笑い混じりに続ける。
「お兄さんが読んでた本の台詞ですね。まあそういう理由ならよかったんですけど、お兄さん曰く『人間関係は妥協の上で成り立っている。つまり嘘をつくことに抵抗のない人間ほど友達が多い、良く言えば協調性のある奴、悪く言えば本音を言う勇気のない場の空気に呑まれた臆病者だ。逆説的に友達のいない俺は、つい本音を漏らしちゃう正直者と言うことだ。協調性が必須な現代社会で俺みたいな奴は特殊な人間だ、故に弾かれる。皆と足並み揃えられなきゃ邪魔者扱いだ、資本主義社会はぼっちを助長させる社会システムである。俺も生まれる時代と世界が違えば聖人扱いされていたことだろう』らしいです」
「随分と長ったらしい言い訳ね。あの男の場合、例え嘘がつくのが上手くても友達はできなかったでしょうね。まずあの見た目が問題よ」
冷たい声音に背後のティアラが僅かに気圧される。それをブラシ越しに感じ取った平沢は内心でしまった、と少し後悔する。
あの男のことを語る時、自分は常よりさらに冷たい言動をしてしまう。このまま自分があの男に対してだけのみ、冷たい氷の機械になってしまいそうで少し不安になる。
平沢は人が傷付く姿を見て愉悦に浸るような下衆ではないと自負している。平沢の中の志波舜助は、気持ちの悪い変態セクハラ野郎であるが、少なくとも嫌ってはいない。
お見合いの対策を提案してくれた今となっては
むしろ、
「けど……嫌いではない。かと言って好きでもないこれは断言できる。だからって友達になりたいとは思わないけど」
「あはは、そうですか。何だか複雑な気分です。……お兄さんに友達ができてほしいけど、けどそうなると帰ってくる時間とか遅くなって一緒にご飯とか作れなくなっちゃうし、かと言って氷華さんが友達になっちゃったらライバルが増えちゃう」
「何か言ったかしら?」
「っい、いえ! 何でもありません! こ、交代しますかそろそろ」
ティアラは慌てたようにそう言うと、素早くブラシを平沢に渡して背中を向ける。後半は口の中でぽしょぽしょ呟いている感じだったので、その台詞が平沢の耳に届くことはなかった。
ティアラの態度に軽く小首を傾げつつも、その背中にブラシを這わせる。しばらくお互い何故か沈黙を守り、湯船へお湯が吐き出される音と風鳴りだけが響く静かな空気をティアラがぽつりと破る。
「お兄さんはきっとバクの中でなら友達ができたでしょうね」
「っ!?」
自分の夢を狙う奴の名前が唐突に出てきて、思わず息を詰める。平沢は無言でブラシを擦り続けることで先を促す。
平沢の意を汲んだのかぽつぽつと語り出すティアラのその声には深い憐憫の色があるように思えた。
「バクはとても仲間意識が強い生物で、特に発言に対する責任とか虚言、裏切りや反逆には強烈な抵抗感を覚えます。だからお兄さんはバクの社会では生きやすかったと思います」
その言葉に確信が込められていたことに平沢は疑問を抱いた。何故この少女はそこまでバクの感覚というものを断言できるのか、まるで実体験のような言い草だった。
再び思考の海に没入しようとしていた平沢をティアラの悲哀と羨望の混じった声が引き留めた。
「そのことをお兄さんに話した時に返ってきた言葉は『俺は虚言も吐くし自分の行動にも責任を持たない人間だからそうはないらい。俺は殺意や復讐心を理由に殺しを行う奴だ、自分も穢れているくせに穢れている他人を拒絶する、性質の悪い潔癖症だ』でした。だからきっとお兄さんは氷華さんに憧れています。私から見ても氷華さんはとても綺麗だと思います、外面も内面も。無色透明ですけど何色にも染まらない、そんな印象を受けます」
「私はそんな大層な人間ではないわ。きっとあの男は私を嫌っているのではないかしら」
「そこは素直じゃないお兄さんなので、どうでしょうか」
最後に笑顔混じりにそう言ったティアラは身体中の泡を流し、容器から手に取った液体を、そのさらさらと細い水色の髪に撫でつけていく。ティアラのその切り替えの早さに唖然としつつ、自分も背中の中程まである黒髪を洗い出す。
長い髪は手入れが大変なのだがそれでもばっさり切る気にはなれない。平沢としては髪に愛着があるわけではないが、きっと女としての本能が髪を短くすることを拒絶しているのだろうと解釈している。
お湯で泡を流しきりさらりと髪を搔き上げる。付着した水滴が飛び散り、青白い月光の下で水玉が燐光のように輝き弾ける。身体中の全ての泡を流し終え、いざ湯船に溜められたお湯へ脚から入っていく。ちゃぷんと音を立て全身を浴槽に浸からせる。ざざざーっとお湯が湯船から溢れ出す。
心地よい温度が全身を包み込み思わず脱力した吐息を漏らす。
「はぁ……」
「湯加減はどうですか?」
身を屈めて覗き込むように平沢を見下ろすティアラにちらりと視線を飛ばし、瞼を下ろして感嘆を漏らす。
「ええ、最高よ」
「それは良かったですっ。それじゃあ私も失礼します」
にこりと平沢に微笑みかけたティアラも、脚から入浴し湯船の中に腰を落ち着かせ、「はふぅ……」と感嘆の息を吐き顔を緩々に弛緩させる。
五十センチほど離れて隣合った二人はしばらく風呂の余韻に浸り続け、何となく平沢は両手で透明なお湯を掬い、意味もなく零す。ちらりと横目でティアラを見つめる。少女特有の健康的な肌を露出させ、額の両側に垂れた細い水色の穂先から雫がぽつりと落ちて、水面に波紋を浮かばせる。空間そのものが青く発光しているような幻想的なこの場所で、水色の髪が月明かりを吸い込み、淡い群青色に光って見える。
澄んだ空気が頬を撫でていく。竹林の揺れるさらさらとした静かな音が耳に心地いい。その居心地の良い静寂を風鈴のような声音が静かに破る。
「……氷華さん、お見合いするんですよね」
「……ええ、ドタキャンするつもりだけどね」
お見合いの件は風呂場に行く途中で話していた。一応しばらく家を出るから探さないでくださいという旨を書き記した置き手紙を残してきた。だが、おそらく明日になれば電話が断続的に鳴ることになるだろう。
「なんだか氷華さん、清美さんから聞かされていた印象と少し違います。何かもっとこう誰も寄せ付けない凛とした雰囲気を纏っているというか、糸がピンピンに張っているような感じの方かと思っていました。だから清美さんも気にかけていましたよ、強い女の子って感じがするけどともすればいつ切れてもおかしくない緊張感、危なっかしさがあるって。けど今の氷華さんはその緊張の糸が解けてしまっている感じがします」
正面を向いたままそう感想を述べたティアラは、ちらりと平沢に大海のような色合いの双眸を向けてくる。平沢は両手で掬ったお湯へ視線を落としながら、ぽつぽつと言葉を水面に溶かしていく。
「そうかしら……ええ、そうかもしれないわね。今はお風呂に入っているからその糸が解けちゃっているのかもしれない。いえ、それだけではないわね。こうして同性の子と二人きりで入浴しているこの雰囲気のせいもあるし何より……志波くんが手が差し伸ばしてくれたかしら」
そうあの男、志波舜助が力になりたいと申し出てきた。平沢には見てくれはいいが嫌な女だという自覚はある。故にその申し出は意外だった、拒絶をしたにも関わらず引き下がらず、平沢は不審感さえ覚えた。しかしそれと同時に心の奥でほんの少しだけ、期待してしまった。
平沢氷華は昔からクールな少女だった。しかし幼い頃は冷たくても、今のように冷め切ってはいなかった。感性がごく一般的な少女であったという点と少しばかりの妄想癖があった点も含めて、『ピンチの平沢氷華を颯爽と助けてくれるヒーロー』というシチュエーションを度々想像したものだ。
故に期待してしまった。『お前が好きだからとか、お前の傷付く姿は見たくないとか』、歯の浮くような台詞を不覚にも期待してしまった。冷静に考えてみれば、あの男がそんな台詞を冗談でも言う筈がないと判る。しかしそれでも、そんな台詞を聞けずに落胆している自分がいた。
「お兄さんは優しい人ですから。妙に捻くれた雰囲気を出してますけど、本当は優し過ぎる人です。だからとても傷つきやすいです」
ティアラは星が燦然と輝く夜空に慈愛の込められた視線を投げる。その横顔は十才の少女にしては大人びていて、平沢は僅かに目を見開いた。
「私はバクなんです」
「……!」
唐突に何の気負いも感じさせずティアラは告げた。平沢は内心で驚愕する一方でどこか納得していた。目の前の少女はどこか人間離れした雰囲気を漂わせていた。先程の確信めいた説明に合点がいった。可憐さと少年ぽさを兼ね備えた容貌に陰鬱とした暗い影が差す。伏せられた瞳の上で長い睫毛が悲しげに揺れる。
「それも氷華さんを狙うバクと同じ松ランクの娘です。半年前までバクと騎士は世界中の大空の闇に紛れて戦争をしていました。騎士はバクを根絶やしにするために、バクは生存権を賭けて戦いました。バク軍は初期の頃は数で圧倒していましたが、徐々に騎士の武力に押されていきました。私も最前線で松ランクの娘として、一騎当千と呼ばれる能力を暴力的に振るいました。……戦争中盤くらいでしたか……両親の訃報を耳にしました。それからは憎悪と復讐心を糧に力尽きるまで戦いました。あの時の私は鬼気迫る戦い方をしていて完全に死ぬ気で戦っていました」
ティアラはそこで言葉を切りそのキメの細かい頬に自嘲の笑みを刻む。平沢は無意識にその少女の小さな肩に手を触れさせる。ぴくりと反応したティアラは平沢に優しげな微笑みを返し、言葉を続ける。
「戦争の終盤、それこそ終戦間近の時に私はついに力尽きました。昼間だったと思うんですけど空は暗くて、夜中みたいでした。泥濘んだ地面に崩れ落ちるように座り込んで、荒野から突き出ていたコンクリート壁に背中を預け、両足を投げ出して脱力しました。朦朧とする意識の中で、複数の足音が近づいてくるのを聞きました。目の前にはバイザーを上げた五人の騎士が私を囲むように屹立していました。全員男で反射的に能力を行使しようとしましたが、それより早く取り押さえられてしまって。そして彼らは私を、強姦しようとしました」
「……ッ!」
「……その、氷華さん。痛いです」
「……っ、ごめんなさい」
僅かに声を震わせて語る少女の肩を、平沢は無意識の内に強く握り締めていた。急いで手を離し、そして拳を握る。平沢の心に沸々と憤激が満ちる。思わず歯を嚙み締める。
いくら敵だとはいえ相手はまだ年端もいかない子供で、しかも女の子だ。平沢の脳裏には容易くそのシーンが再生された。ぼろぼろの少女を無理やり押さえつけて、下卑た笑みを浮かべその卑しい手で少女の無垢な身体を蹂躙しようとする男達の姿が。
「私はその様子をどこか他人事のように見ていました。私はこのまま汚されて、用がなくなったら殺されるのだと諦めていました。その時、目の前の男が突然うつ伏せに倒れて、その男の背部装甲は無残にひしゃげて切り裂かれ、鮮血が迸っていました。続いてもう一人が遥か彼方に吹っ飛ばされて、残りの三人は応戦しようとしましたが瞬殺されました。一人は首を跳ね飛ばされ、もう一人は腹部に風穴を空けられ絶命し、最後の一人は身体を上下に分断されました。その惨状を演出したのは漆黒の騎士でした」
それまで陰鬱と影の差していた可憐な表情に光が宿り、その瞳が輝きを取り戻す。
「その騎士は血塗られた鎧を脱ぎ捨てると私の方へ、今にも崩れ落ちそうな足取りで歩み寄ってきました。ひどくやつれた顔をした若い男の人でした。その時に私は本能的に悟りました。この男が父と母を殺したのだと、その瞬間身体の奥底から力が漲ってきて、私は全力でその男に能力を行使しました。私の能力は空間に作用する氷結系ですので、たちまち生身の男を凍り付けにしようとしました。降り始めた雨すらも冷気で凍結させ、男は自分の身体を蝕む氷は払い除けることもなく、ひたすらに前進してきました。そして私の前で膝を折ると勢い任せに抱き締めてきました。暴れる私の耳元でその男の人は囁いたんです」
そこで平沢の方を向いたティアラは瞳を細めて泣き笑いのような表情を見せた。思わず平沢はその脆い表情を凝視する。色の薄い唇が熱っぽい吐息を漏らす。
「『ごめんな』って。嗚咽混じりに何度も何度も囁きかけてきました。能力から解放された雨粒が私たちを濡らしました。雨に体温が奪われていく中で私は、ふと目の前の男の人が繰り返す謝罪の意味を悟りました。どういう意味だったと思います?」
今にも崩れてしまいそうな表情で問いかけられ、平沢は黙考した後に答える。
「そのティアラちゃんを襲おうとした男たちに変わって謝罪したのではなくて。そのお人好しは」
平沢としてはそうとしか思えなかったが、どうやらティアラは別の解釈をしたらしい。ゆっくり首を左右に振り、自分の答えを嚙み締めるように呟く。
「たぶんその男の人は……お兄さんはきっと、私を含めた全てのバクに対して謝罪をしたんだと思います。戦争を仕掛けてごめんな、自分たちの勝手で君たちを駆逐しようとしてごめんなって。バクは人の夢を食糧としていますが、別に経口摂取によるエネルギーの補給もできるんです。ただそれだとコストパフォーマンスが悪くて、大量に摂取しなければならなくなり、結果的にコスパが良い夢の方を食べてしまうのです。ですからバクと人間には共存の可能性が十分にあるんです」
「それは……ただの理想論よ。人間はその道を純粋に歩んで行けるほど単純じゃない。志波くんのような人間なんて世界で一割にも満たないでしょう、だって人間は醜く、愚かで嫉妬深くて、すぐに他人を蹴落とそうとする」
過去の自分がその負の部分に晒されたように、人間はそんなに寛大な生き物ではない。もしそうであるならば、平沢が排除されるようなことはなかったはずだ。今までの話を聞いて平沢は仮定の過去を想像してしまった。もし、志波舜助ともっと前に出会うことができていたらきっと自分は……。
「氷華さん? どうかしました?」
「え? いえ何でもないわ」
ティアラの声で想像を消した平沢はそう取り繕うと、夜天を見上げた。初夏の星空にはぽっかりと白く冴えた満月が浮かんでいた。
「この格好、ここだと似合わないわね」
「まぁそうだろうな。姉貴が戦争で得た莫大な報奨金で作った和風趣味全開どころか、旧態依然とした佇まいの志波家じゃあその寝間着は似合わんだろ」
縁側の板敷の廊下で二人は対面した。片や烏の行水を終え藍色寝間着に着替えた少年と、片やじっくりと露天風呂を満喫した少女が廊下で鉢合わせた。
舜助がショックで失神している間にお風呂を済ませた平沢の装いは、いつものネグリジェで色は清楚な純白だった。一瞬不覚にもウエディングドレスを幻視してしまったことは黙っておこうと、舜助は決意し庭に見渡す。
美しい日本庭園の白砂と観念的に昇華された枯山水が見渡せる。大池に清廉に並び立つ松並木。同じく庭を見通した平沢が一メートルほど間を空けたところからぽつりと呟きかけてきた。
「少し散歩をしない? 夜風に当たりたい気分なの」
「あ? あ、ああそう行ってらっしゃい」
「何を言っているの? あなたの一緒に行くのよ」
平沢は未だに軽く上気させた端正な顔立ちに疑念を浮かべると、そそくさと草履を履いて庭へパタパタと駆けていった。呆気に取られた舜助はつられるようにあとを追う。単独行動が常の舜助はまさか自分が誘われているとは思いもしなかった、悲しい性である。
時刻は午後十時。お子様体質のティアラは必ず九時には就寝するので、今頃は夢の中だろう。バクであるティアラはこの半年間で夜型から昼型へ矯正していた。しかしそれでも寝付けなかった時があるらしく、その時は昼間に座布団の上で猫のように丸まって寝息を立てる。
清美はおそらく一人で晩酌しているのだろうと思いつつ、舜助は平沢の後方を付いて行く。ここで隣に並ばない辺りがぼっちの舜助らしかった。
壮麗な佇まいの本宅から離れた二人は、青い月明かりを頼りに白い玉砂利の庭を歩く。石灯籠から漂う菜種油の燃える甘酸っぱい匂いが鼻腔を刺激し、風でそよぐ火先が二人の影をわずかに変える。
庭園の奥まった場所には小さな池があり、そこには朱塗りのアーチ橋が架かっていて、欄干には擬宝珠が据えられている。その橋の中央で立ち止まった平沢は、欄干から少しだけ身を乗り出して池を見下ろす。
一メートルほど離れて隣に並んだ舜助は横目で平沢を見る。平沢は手に紙袋を持っていて、その中身を欄干から落とす。餌である、清美から拝借したのだろう。
見る見る餌にありついて来たニシキゴイは、青い水面に万華鏡めいた色彩の乱舞を披露した。その様子を冷たい表情ながらも目を輝かせて眺めている平沢を、少し可愛らしく思ってしまった。やがて欄干から身を離した平沢は、こちらに向き直り唐突に口火を切った。
「ティアラちゃんのご両親を殺めたのは志波くんなの?」
「っ……ああ、そうだ。ティアから聞いたのか。知らなかったとはいえ俺は償いきれないことをしたと思っている。互いに命を賭けてぶつかり合い、俺が生き残った。チートで妹の両親を殺して得たものは、通常時の俺の実力で序列二百位という立場と、松ランクを二人も殺したという実績。姉貴によれば一部の騎士からは羨望されているらしい。皮肉なもんさ」
欄干に背を預けて嘆息する。戦場ではどちらかが死に、どちらが生きる。そこに勝ち負けなんてない。舜助はティアラに復讐されても仕方がないと思っている。
平沢が距離を一歩詰め、さらに質問してくる。
「つまり贖罪として家族に迎え入れたということ、だから妹として可愛がっているの?」
「違ぇよ、それは違う。ティアは俺に救われて、俺はティアに救われた。もしかしたら互いに恩義を感じて、こういう関係を続けているのかもな。或いは一種の精神安定剤として、共生しているのかもな」
舜助は口の端に自嘲の笑みを刻む。互いに傷ついた心を舐め合っているだけなのかもしれない。何の理由もなく人間とバクは共生できない、そう断定づけられるほどにあの戦争で、人間とバクは怨恨を残した。
もう一歩、平沢が距離を詰めてくる。凍て付いた表情のまま質問を飛ばす。
「つまりは同情ということ?」
「俺はそういうの大嫌いなんだけどよ、された方は惨めな思いするだけだし。けどたぶん、そうなのかもな」
同情は恐ろしい。これを女の子にされてしまったらすぐ好きになって、速攻で告白して、即フラれてしまう。フラれるのを前提としてしまう辺りが、なんとも悲しい。
少し目を濁らせる舜助にさらに一歩、平沢は歩み寄る。もう二人の距離は手を伸ばせば余裕で触れられる位置だ。その黒い瞳の中にまたもや縋るような色を見てしまい、舜助は即座に視線を切る。
この間合いは個体距離に分類される。別名、友人同士の距離と言える。生半可に心理知識を囓るとろくなことがない。舜助と平沢は少なくとも友人関係ではない、守る側と守られる側の人間だ。不意にあの雷の夜を思い出す。あの時は密接距離、つまり夫婦や恋人の距離感。しかしあの時の舜助はどうかしていたし、平沢もあれは不可抗力である。
しかし今は平沢の方から距離を詰めてきた。それについ特別な意味を与えようとしてしまう。心の中で首を振る。もう同じ轍は二度と踏まない、そう決意したのだ。勘違いも思い違いも厄介極まりない。そう理解しているのに。
平沢が歩みを止める。黒く輝く双眸が舜助を射抜く。真摯な表情から目を離すことができない。桜色の唇から凛とした声が響き渡る。
「私の力になりたいと思ったのも同情……かしら?」
「……自分の利害のためだ。俺は同情はされど同情をすることはねぇよ。この際言っておく、俺はお前の護衛を下りるつもりだ。この前あの松ランクと遭遇し、戦いにすらならなかったことを考慮して護衛を委任するつもりだ。姉貴は俺が仕事を続けることに、俺の実力に賭けてたみたいだが、買いかぶりすぎだ。姉貴のスーツは修復中だからそうだな……団長か副団長が平沢のことを守ってくれるだろうよ。松ランクが本当に襲来した以上、事は重大だ。いくら多忙のトップだからって動かざる負えないだろうさ」
「……そう」
平沢は静かにそう呟くと顔を正面に戻して、池の向こうを見つめる。舜助も身体を翻して欄干に手をつけつつ、同じように広大な庭を眺める。ふと舜助は重要案件について話し合っていないなと思い、顔を固定したまま平沢に問いかける。