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負けず嫌いと夜の空中散歩

「舜ちゃん一人目クリアおめでとさん! お礼にお姉ちゃんが抱きしめたる! 舜ちゃーんっ!」

「一人目クリアって何だ?」

 綾瀬の独白を聞いたその夜、晩飯を食べ後片付けを終えた舜助に清美が抱きついてこようとした。その抱擁をするり躱す。背後でむぎゅという呻き声と共に清美が畳に倒れる音がした。肩越しに視線を移すとそこにはおでこを擦って涙目の清美がうぅと唸っている。

「何だって綾瀬ちゃんのことや。お悩み解決おめでとさん。せやからご褒美でお姉ちゃんが熱い抱擁をしてあげようとしたんにぃ」

「あれで解決なのか? 随分と呆気ないもんだったな。つーかなんで知ってんの?」

「ふふん、お姉ちゃんは舜ちゃんのことなら何でも知ってるんやで。例えばここ一週間、性欲処理しとらんとか」

「おい何でそんなこと知ってんだよ。いや、まずしてないからね。一週間に限らず」

「いくら姫ちゃんがいてしづらいからって、意地を張んなさんな。なんならお姉ちゃんが性欲の捌け口になったるよ」

 そう言ってげへへと下品な笑みを浮かべる清美。だから涎出てる。舜助は身の危険を感じて一歩後退る。するとそこに後片付けを終え、暖簾を揺らすことなく台所から戻ってきたティアラが頬を紅潮させて恥ずかしそうな声を掛けてきた。

「その、男の人は色々と大変なんですね。私のせいでお兄さんが困るのは嫌です。私にできることがあるなら何でもします」

「なんでもっ!」

「いや、何で姉貴が反応してんだよ」

 舜助への台詞に何故か清美が反応し、するするとティアラに近付くと身を屈めて耳打ちする。それを黙って傾聴していたティアラの顔が突如、火を噴く。瞬時に清美から二メートルほど距離を取り、口を戦慄かせながら捲くし立てる。

「なっ、ななな、なに言ってるんですか清美さんっ!? そ、そんなはしたないことできません! あ、べ、別にお兄さんのことが嫌ってわけではなくて、その、あの、まだ心の準備がっ!!」

「おい、純粋無垢な少女に何吹き込んでだよ。ティア、姉貴の言うことはだいたい冗談だからいちいち気にしてたら身が保たねぇぞ」

「もぉ、その言い草だとウチがいい加減な女みたいに聞こえるやん」

「いやそう言ってるんだが」

 ティアラが顔を真っ赤にしながら慌てて、清美が何故かぷんすか怒っていた。壁掛け時計が示す時刻は夜の七時三十分に差しかかろうとしていた。そろそろバクが活動を始める時間帯である。つまりあの冷血美少女の元に向かわなければならない、そう思うと少しだけ気持ちが億劫になる舜助だった。

 そんな舜助の心情を知ってか知らずか羞恥に顔を染めていたティアラがちらりとこちらに視線を向け、今度は明後日の方向を向いて不気味に微笑する。

「ふふ、お兄さんは一人落としたから今度は二人目を落としにかかるわけですね。ふふふ」

「あの、ティアラさん……?」

 冷徹な微笑に伴ってティアラの背後の大気がぱきりと割れるような音を立てる。瞬時に和室内の空気がぐっと下がる。急に鳥肌が立ち、思わず腕をさする。ふふふと畏怖さえ感じる微笑みを湛えるティアラに恐る恐る声をかける。

「いや……そんなわけないじゃないですかー。第一、あいつほど攻略難度が高そうなヒロインもいないと思うぜ。何かもう仮に付き合っても手を繋ぐまでに最低一年はかかりそう」

「そ、そうやで姫ちゃん。こんな腐れ童貞の愚弟に氷華ちゃんが靡くわけないやん。あはは、姫ちゃん冗談好きやなぁ」

 身体をわずかに震わせ、にこりと強張った笑みを貼り付けた清美が支援をしてくる。トップ3の実力を誇る瞬神・蒼騎士を戦々恐々とさせる水髪蒼眼の少女の名はティアラ・プリセット、恐ろしい娘である。

 二人の取り繕った言葉を聞いてティアラは寒気を感じさせる笑みを引っ込めると、花の咲くような喜色満面の微笑みを浮かべる。

「そうですねっ。お兄さんがその氷華さんという方を落とせるわけないですもんね。その綾瀬さん? はきっとただのまぐれだったんですよ。ええ、きっとそうです」

「何だこの複雑な気分……」

「ええから、さっさと氷華ちゃんのとこ行ってきぃ。機嫌の良い今がチャンスや」

 あはっ、と微笑むティアラに聞こえないように清美が小声で囁きかけてくる。舜助は首肯を返し、そろそろと居間から出て行きスーツを装着すると宙を蹴って一気に上空に踊り出る。不意に夜空を見上げると白い月を灰色の雲が隠していた。曇天である。

 青白い月光の下の夜天を好む舜助は小さく嘆息すると、さらに宙を蹴って夜の闇を疾走していった。



「出ない。居留守か? これが出禁ってやつか、あはは。じゃねぇよ」

 一人ノリツッコミを披露し現実逃避をした舜助は正気に戻り、もう一度ベルを鳴らして応答を待つ。高級タワーマンションのエントランスに到着した舜助はかれこれ五分間、こうして何度か呼び出しをかけてはいるが如何せん、全く反応が返ってこない。いつもなら毒づいてから自動ドアを開けてくれるのだが、今日は返事すら帰ってこない。

 この前なんて「あの、私は産業廃棄物の処理は受け負っていないので、お引き取り下さい」と冷淡とした声で言われて深い心の傷を負ったのは記憶に新しい。このマンションに警備員なるものがいたら流石に怪しまれかねない。

「……仕方ないか」

 面倒くさげにため息を吐き、一度エントランスから立ち去って人気のない小道に入り込む。そこで機械音を小さく反響させながらスーツを装着し、一気に壁を駆け上がるかのように垂直に上昇する。風を切り、そのままの勢いで疾駆し、丁度マンションの十五階辺りで鋭角に軌道修正するとその件の部屋の前まで駆けて、大気を振動させて窓の手前で急停止する。

「……暗いな」

 バイザーを上げて窓越しに部屋を覗き込んだ舜助は訝しげに呟いた。月明かりがないという理由もあるが、それでも暗過ぎる。あの抑えめな間接照明も点灯していないようだ。視線を巡らせた舜助はそこで、いつも通りにクリーム色のソフアに背筋を伸ばして腰掛けている少女を発見する。こちらに気付いていないようなので、窓をノックしようと拳を作ったところで思わず息を呑む。

 背中に定規でも仕込んでいるのではと訝しむほどピンと伸ばされた背中、お手本のような綺麗な姿勢もいつも通りである。しかし明らかに違う部分があった。駆動しているノートPCはそのキーボードを叩かれることなく沈黙している。そのキーを叩く細い指は膝に交差され、真剣さを纏わせる黒い瞳は無気力に虚空へ向けられていた。

 その表情は陰鬱と沈み、時折淡い色の口許が小さくため息を吐く。舜助が何度か見たあの仄暗い顔がそこにはあった。無意識に窓をコツンと叩いた。その音に全身をびくりと反応させた平沢は、恐る恐るこちらに顔を向けて一瞬だけ表情を強張らせる。しかしその顔もすぐにいつもの氷のような無表情に戻る。

 その表情の変化に何故か苛ついた舜助は、またもや身体を傾けて垂直に急降下し、スーツも脱がずにエントランスに入っていく。ちゃっかりバイザーを下ろした舜助はそそくさと奥に進む。バクの性質を応用したこのスーツは写真には写っても、映像に映ることはない。つまり天井の端に設置されたそれぞれの監視カメラには、エントランスの扉が勝手に開き奥の自動ドアもそれに続き、エレベータが不自然に駆動し始めたという一連の流れが一種の心霊現象に見えたことだろう。

 目的の階に到着をした舜助はずんずんと早足に歩を進め、ある一室のインターホンを強く押す。呼び出し音が鳴り響き、しばらくして連続に複数の鍵を解錠する音が続く。その音が鳴り終わった瞬間に舜助は勢いよくドアを開けた。眼前には驚いたように目を見開く平沢が立ち尽くしていた。

「……………………」

「……………………」

 二人の間に重苦しい静寂が降り注ぐ。ここまで勢いよく来た舜助は発する言葉が見つからず、直立する。不意にこちらへの視線を切った平沢がするりと身を翻し、奥のリビングへと消えていった。少し呆気に取られた舜助は数秒後に入室する。

 リビングに辿り着いた平沢は間接照明を点け、ゆったりと淀みのない上品な所作でソファに腰を落ち着かせる。後に続いた舜助はソファに座らず、ガラステーブル前で立ち止まり静かにバイザーを上げ、平沢を見下ろす。

 冷め切った表情をした平沢はこちらを一瞥することなく、真っ直ぐに正面を見つめていた。口は噤まれ透き通った声が漏れることはない。時計の秒針が静かな部屋に音を刻む。痺れを切らした舜助は口火を切る。

「なぁ、何かあったんだろ。言いたくないなら無理に言う必要はないが」

「じゃあ言わないわ」

「なっ!?」

 こちらが多少気遣って声を掛けたというのにこの返しである。表面上はいつもの冷淡とした平沢氷華である。しかし今回はそれが平素ではなく、取り繕ったものであることは明白だった。

 いつもなら極力気に止めないようにしているその反応に、舜助は若干苛ついていた。その苛つきの原因は未だに判明していないが、とにかく心が波立っていた。

 そんな舜助の心境を声色から感じ取ったのか平沢は、こちらを見向きもせずピシャリと冷酷かつ突き放すように言い放つ。

「仮に何かあったとしてもあなたに話す義理はないし、その時は自分で解決するわ。自分の問題であるのだから当然でしょ」

 拒絶の意思を如実に示したその発言からは、完全に『誰かに頼る』という選択肢が排除、除外されていた。余人ならそれを絶対の自信として捉えるだろうが、舜助からすればそれは『頼り方を知らない人間』の発言に思えた。

 きっと、この少女は頼り方を知らないのだ。今まで人間関係などのあらゆる問題、試練を乗り越えてきたであろう彼女は頼り方を知らない。頼るという判断を下せるほどの親しい他人を持つことなく、完璧超人の彼女はきっと親のことも信用はしていても、信頼はしていない。

 故に、頼り方という分野に関して無知な平沢氷華にいくら頼れと言ったところで、無理な話なのだ。舜助の言葉が届くことはないに等しい。

 その結論に達した舜助はカシャと手を鳴らしてぐっと力強く拳を握る。その常と違う舜助の態度をようやく察知した平沢は、フっと小さく息を吐きおもむろに腰元から封筒を取り出す。ソファの間に挟んであったらしく、舜助の視点から見えないように巧妙に隠蔽されていた。

「仮にあるとするならばコレかしら」

 淡々とそう呟いてこちらに差し出してくる。舜助はバイザーを上げて漆黒の手でそれを受け取り、中身を拝見する。一枚の白い紙を広げて文章に目を通す。そしてわずかに目を見開く。

「…………一次選考落選通知か」

 文章の内容を要約した言葉を呟く。しかしそれもむべなるかな、この落選した作品は平沢が舜助に出会う以前に執筆した物語であり、つまりラノベらしくない創作物なのだ。

 十年近く前のラノベの中には一般とラノベの中間みたいな作品も好評を博し、『ラノベを読んでラノベを書いた』人間の枠から外れた平沢のような作者も売れる可能性があった。しかし現在は判りやすく萌えを注入した作品でなければまず売れない。ヒット作を分析し市場をマーケティングすれば容易に判る厳然とした事実だ。

 最近の新人賞の大賞などはどこも鳴かず飛ばずらしいから、今こそ平沢のような人材が必要とされているのだろう。しかしそれでも多少の萌え要素を入れていなけば、新人賞受賞は困難を極める。平沢の書く物語は一般文芸よりのラノベテイスト風の作品なのだ。つまり多少、押しが弱い。

 スーツの稼働率と同じ理由だな、と内心で皮肉る舜助。押し押しのオンパレードだった。そこで平沢がおもむろに立ち上がり窓際に歩みを進め、立ち止まると綺麗に磨かれ鏡のようなツヤを誇る透明な窓ガラスに指を添える。

 そして雨音のようなどこか心地良い声音でぼつりと呟く。その表情はこちらからは窺うことができない。

「私、曇天とか雨天は太陽が顔を出している時は好き。暑いのは苦手だから。……けど、夜は嫌い。だって」

 ゆっくりと振り向き、活力のない儚い笑みを零し、哀切さを滲ませた星空のような瞳で舜助を見つめる。その先の言葉を舜助は無意識に呟いていた。


「「あの美しい月が見えないから」」


 綺麗にハモった。透き通る声と少し低いアルトボイスが重なる。その声が小さく反響しやがてしん、と部屋が静まり返る。「あなたと台詞が被ってしまうなんて、それはつまり同じ思考をしていたということ。もう私、死んだほうがいいかしら」的な毒舌を覚悟した舜助は身構える。しかしそんな罵倒が平沢の口から放たれることはなかった。

 代わりに聞こえてきたのは通常の抑揚の薄い声ではなく、弱々しい嘲るような声音だった。新雪のように白い肌に自嘲の笑みが刻まれる。

「これで五十一回目の落選。流石に最初の頃に感じた無力感とか才能の壁とか悔しい気持ちはもう湧いてこないわ。だから何かあった、と言うほどのことでもない。故に志波くんが深刻に捉える必要もない。だからその装い、早く変えたら? 見てるこちらが暑苦しい」

 その時だった。白い肌に一筋の透明な雫が流れ、床に音もなく落ちた。輝く黒色の右目から一滴の涙が零れた。続いて左目からも一滴、ぽつりと床に吸い込まれていく。当の本人は指を目許に触れさせ、涙を流す気はなかったのか、ひどく動揺した顔つきをしている。ここにきて初めて平沢の生の感情が浮き出た表情を見て、舜助は先刻とは違う意味で息を呑んだ。

 志波舜助は不謹慎ながらもその涙を綺麗だと思った。意味が判らないと言った風の迷子の子供のような不安さを醸し出すその表情を不覚にも美しいと思った。

 ぽろぽろと止めどなく出てくる涙を、目をぐしぐし擦って止めようとするが水滴は一向に止まる気配を見せない。氷の華のように端麗で凍て付いた顔立ちの少女が嗚咽を漏らすことなく、表情を崩すことなく静かに黙って泣いていた。

 その様は一幅の絵画の如く見る者を魅了した。舜助も例外なく見蕩れ、間の抜けた顔をしながらその眉目秀麗な少女に歩み寄りつつ、スーツを一気に膝の辺りが露出するほどまで変形させると、おもむろにポケットから黒色のハンカチを取り出し、必死に目許を拭うその色白な手を摑んで握らせた。小さな白い手は表情とは打って変わって、暖かった。

 眼前の少女は呆けたように口を小さく開けて、濡れた瞳でこちらを見返してくる

「俺、ちょっと夜風に当たってくるわ」

 そう一言言い残して平沢の反応を見ることなく、踵を返し早足で部屋から出ていった。



 屋上。胡座をかく。

「フー、…………月が見えねぇな」

 極黒のスーツをバイザーが下りる一歩手前まで変形し直した舜助は首を傾けて夜空を見上げた。空を覆う雲は低く垂れ込み、先刻よりも色を灰色から黒色に悪化させていた。雨天の前兆か、夜風は少し湿り気を帯びている。あまり気持ちよくはない。

 舜助が屋上に来てから十分が経過していた。平沢は泣きやんだかと、珍しく他人のことを気にしていた。衝動に駆られてハンカチまで渡してしまい半ば自動的な行動だったとはいえ、忸怩たる思いだった。綾瀬の件もそうだが、最近の舜助は女の子に甘い気がする。舜助は男女差別を嫌う傾向があり、それ故に女だからって優しくしようとは思っていない。

 ティアラは天使なのでこの考えからは除外される。それに冷めた人間が他人に優しくしたらロクでもないことになる。

「慣れないことはするもんじゃないな」

 右手を目の前に翳して嘆息するように呟く。真っ黒な装甲の奥、生身の手にあの暖かくて柔らかい感覚がまだ残っている。

 あれは中学二年の後半だった。真面目が取り柄だった舜助は担任から生活委員会、高校でいう風紀委員会のような組織の委員長をしてみないかと勧誘された。あの頃の舜助はイジられキャラとしてスクールカーストの底辺にいた。毎日容姿でイジられ続ける日々を過ごし、精神が摩耗していた。

 小学生が先生とかに『イジメてるんじゃないんですー、イジってるんです』みたいな言い訳をクラスメイトの口から聞くほどまでにはイジられていた。

 そんな自分をあの頃の舜助は嫌っていた。だから自分を変えたくてその誘いに乗ってしまった。副委員長になったのは同じクラスのかなり可愛い女子だった。非モテ男子の性というか当然の如く浮足だった。その女子は勧誘に渋っていたようだが、舜助が委員長だと聞いた途端に快諾したらしい。その事実を知った舜助は完全に舞い上がっていた。その子のことを好きになるまで一週間とかからなかった。

 だがしかし、もちろんというか当然というか幸福ばかりではなかった。幸福の反対は不幸である。いざ委員長になってみたはいいが、会議でろくに議長も務められなかった。舜助は致命的なまでにリーダーシップまたはカリスマ性というのが欠如していた。

 議会進行はグダグダで副委員長には迷惑をかけるし、他の同学年の生徒はおろか後輩にも舐められる始末。終いには議会が終わった後に担当の教師からは叱責されるしで、踏んだり蹴ったりだった。

 そんな中でもその女の子は嫌な顔を一つせず、舜助が迷惑をかけていることについて謝罪した時も笑顔で一緒に頑張ろう、と言ってくれた。その可愛い笑顔を信用したが、すぐにその感情は不信に変わる。当然の如く周囲からも『志波舜助は使えない奴』という認識を持たれていたが、その認識が強まるほどにもう一つの共通認識が誕生していた。

 それは『あの志波は頑張ってフォローしてるりなちゃんは健気でいい娘だな』という印象が認知されていたのだ。そしてある放課後に断片的に聞いてしまったのだ。

 副委員長をやるのがりなちゃんの罰ゲームの内容だった、と。そこで舜助は悟ったのだ。おそらく舜助が委員長をやることを知った他の女子が考案したのだろう。その罰ゲームを言い渡されたりなちゃんは、それ以前から渋っていた副委員長という職務を引き受けなければならない状況になり、仕方なく職務を全うすることにした。

 きっとりなちゃんはあの笑顔の裏でほくそ笑んでいたのだろう、棚から牡丹餅な状況になったと。つまり自分が頑張れば頑張るほどりなちゃんの男子株は上がるのだ。舜助は見事に利用されたのだ。

 この経験から舜助は二つの教訓を得た。一つは簡単に人を信じないこと、特に女子に対しては懐疑心を持って接すること。二つ目は利用できるものは利用したほうが得だということ。

 皮肉にも舜助が好む価値観は、るりちゃんの活躍によって形成されたのだ。故に舜助は綾瀬が自分に見せたあの脆い部分と笑顔を信用していない。頭を撫でで笑ったのは単に舜助の撫で方が上手だったからであり、決して『舜助に撫ででもらったから喜んだ』わけではない、絶対に。

「慣れないことをすれば後悔することになる、勘違いするな、思い違いをするな、か」

 自嘲げにそう呟く。さらに目が死んでいく感覚を味わっていると、背後から屋上へと続く鉄製の扉が開く音がした。そちらを振り返ることなく、ぼーっと前方の摩天楼を見つめる。カツカツと床を叩く足音が迫り、舜助の一メートルほど真横で音が止まる。横目でそちらを見ると、清楚さを漂わせる白いワンピースを着た平沢が丁度腰を下ろしたところだった。今日は珍しく寝間着ではなかった。

 平沢は湿り気を帯びた夜風を受けて少し顔を顰める。端正な目許が少し赤くなっていた。

「………………」

「………………」

 痛いほどの静寂が場に満ちて、風鳴りがやけに大きく聞こえる。視界の端で艶のある黒髪が靡いた。舜助は正面を見据えたまま先程の美しいとさえ思った涙を思い出す。

 涙は女の武器というが正直言って、舜助は簡単に涙を流す女が嫌いだ。綾瀬のあの悔し涙あるいは自分が情けなくて流した嫌悪の涙、あれを見た時ですら心のどこかで冷めた自分が激しい嫌悪に身悶えていた。

 しかし平沢の涙を見た時、微塵も嫌悪はしなかった。あの透明な雫には悲哀も悔恨も嫌悪も憎悪もない、ただ純粋な涙だった。

 綾瀬は感情のままに涙を流したが、平沢は違った。心ではなく、もっとそれより奥深くにある魂と呼ばれるものが流させた涙だと思った。平沢は嘘をつかない。いつも自分が思ったことをそのまま口にする。その彼女が悔しくないと言えば、内にある心もまた悔しく感じていないのだ。けど、魂と呼ばれるほうはあの冷血少女に涙を流させるほどに悔しがっていたのだ。

 あの涙は彼女の負けず嫌いを象徴していた。彼女がこれまで築き上げた功績は、スキルは、才能を振るうままに打ち立てられ研鑽されたものではなかった。何よりも彼女自信が負けたくないと、もっと上に行きたいと望んで築いた努力と負けん気と向上心の結晶なのだ。

 第一、負けず嫌いでなければ五十作品落選し続けた状態で、プロになるために熱心に執筆し続けるなんて所業はできない。書きたいだけならアマチュアのままでいいし、金銭欲があるなら高給の仕事に就くための資格取得やら技術訓練やらに励めばよいのだ。

「その黒いの、私は着れないのかしら?」

 沈黙はあっさりと破られた。考えに耽っていた舜助はその高く澄んだ声で、意識を思考の海から引き上げる。のそりと声の主の方を見る。平沢は興味深そうにこちらを見つめ、いや正確にはスーツの方を見ている。

「あ? ああ、これか。着れないな、これはオーダーメイド品でID登録してて、俺にしか着れないように設定してあるんだ。仮に別の新しいのを作ってもその夢想ってやつが、低すぎたら着ても稼働率が低すぎてまともに動けなくなる。まぁ平沢ほどの逸材なら一気に稼働率九十パーセントオーバーは確実だろうな」

「そう。要するに着れないのね、残念」

 そう言う割りには全然残念そうな表情を見せず、こちらから視線を切った平沢は顔を上向けて曇天を見つめる。そんな様子を舜助は訝しむ。

 平時の平沢ならこんな質問はまずしてこない気がする。やはり何かあったのは自明の理。その瞳はどこかそこではない遠くを見ている気がした。このままでは平沢がどこか遠くに行ってしまいそうな気がして、そう考えたから思わず口を滑らせた。

「あのさ、俺が連れて行ってやろうか?」

「えっ?」

 怜悧な容貌が舜助を見て今度は平沢が訝しむ番だった。引っ込みのつかなくなった舜助はしどろもどろに続きを口にする。

「いやだから、その、俺の《LQ84―I》の稼働率は七十パーセント前後で反重力/慣性フィールドの範囲は半径五メートルなんだ。つまり、平沢の手を引くなりしてゆっくり上昇すれば、間接的に空に浮かべる、ということだ」

 何とか説明し切った舜助は息を吐く。その言葉を黙って聞いていた平沢は顎に手を添えて思案顔になり、数秒間黙考したのちに決断した。

「そのお誘い、快く受けさせてもらうわ」

 言うやいなやすっくと立ち上がり、歩み寄って来る。つられて立ち上がった舜助にすっと右手を差し出してきた。訳が判らず今度は舜助が思案顔になると、冷たい視線を向けられた。

「私の厚意で志波くんに紳士的な立ち振る舞いをすることを許可するわ。女を待たせる男は嫌われるわよ」

「待たせなくても嫌われてるけどな。はいはい、判りましたお嬢様」

 嘲笑を浮かべて急かしてくる平沢にうんざりしつつもその手を取る。漆黒の手の上では、雪のように白い平沢の華著な手はよく映えた。

「いくぞ」

「落としたら呪い殺すわよ」

「判ってるよ。笑うな、怖い」

 うふふと底冷えするような微笑を湛える平沢に心底ビビリつつ、超低速で階段を登るかのようにゆったりとした足取りで宙を蹴っていく。時間をかけて高度を上げついに真下に屋上の床が失くなった時は、さしもの平沢も少し身体を震わせた。さらに高度を上げ天を衝かんばかりに屹立する摩天楼より遥かに高い位置に来たところで停止する。

 眼下にはミニチュアセットのような街並みが広がっている。ライトを照らして走行する車や往来を行く人々、街のネオンに住宅街から漏れる光。今日は月明かりがないので、それらがいつも以上に光り輝いていた。高度が上がったことで風が強くなり、平沢の真っ黒な髪がさらさらと宙を流れる。

「この辺でいいか。手を離すぞ」

「え、ええ。よろしく」

 少し声を上擦らせて応答した平沢の手をゆっくりと離す。舜助の手が完全に離れた時に平沢が小さく可愛らしい悲鳴を上げる。

「ひゃあっ」

「大丈夫だ。俺がこんだけ近くにいれば絶対に落ちることはない。俺が気を失わない限りは大丈夫だ」

「そう…………。……ふぅ、とても綺麗ね」

 舜助の説明を聞いて安堵したように表情を和らげた平沢は、さらりと髪を掻き上げて、眼下の町並みを眺めて感嘆の息を漏らす。どこまでも続く地平線に眩く輝く街の光、これで風が涼しかったから最高だなと思う。つられて息を漏らす舜助。

「こんなに綺麗に見えるもんなんだな。いつもよく見てないから気付かなかった」

「いつもこんな景色を見ているのね。自由に空を飛べて少し羨ましいわ」

「正確には跳んでるんだけどな。まぁ、俺も最初の頃はよくはしゃいだもんだよ。まさか自由自在にこの広い空を跳ぶことができる日がくるなんて思いもしなかった。俺は走るのが好きだから尚更嬉しかったよ」

 そう感慨深げに言った舜助は目を細めて地平線を見つめる。その様子を平沢はまじまじと見つめ、呆けたように驚嘆を滲ませた声を漏らす。

「驚いた。今のあなた、目の濁りが幾分か薄くなっているわよ。やっとまともに見れる顔になったわね」

「おい待て。その言い方だと普段の俺の顔がまともに見れないレベルみたいじゃないか」

「だからそう言っているのよ志波くん。あなたは知らないかもしれないけど、実は私志波くんと会話をする時は顔を直視せずに、視線を少し横にずらして背景の方を見るようにしているの。ましてや志波くんのその生気のない目なんて見てしまった日には、私のこの宝石の如く美麗な瞳まで死んでしまうわ」

「俺の目はそんな強力な感染力を持つ病原菌的なものは出してない。笑うな、傷つく」

 平沢はにこりと小さくえくぼを作り、八重歯を覗かせる。なんか見た者に幸福を与えそうなほど見目麗しい微笑だった。思えば今日初めてまともな笑顔を見た気がする。こんな形でお目にかかりたくはなかったが。

「…………いい気分転換になったわ、ありがとう」

 ふっと笑みを消した平沢は舜助の顔を覗き込むようにして見つめ、また笑む。瞳は優しげに細められ、はにかんだ笑顔だった。それは嘲笑も罵倒もない、ただ純粋な笑顔で、舜助は初めてそんな平沢の笑い顔を見た。

 呆けた顔で見蕩れたその笑顔は一瞬で消え去り、またいつもの冷たい表情に戻った平沢は眼下の街並みを見つめ続け、その顔からは如何なる感情も読み取れはしなかった。



「雨、降ってきたな」

 あれからさらに十分ほどお互い沈黙を守ったまま、眼下の街などを見つめ続けた。そして今は部屋に戻り舜助は窓際に立って外を眺めた。驟雨だった雨粒がどんどん篠突く雨へと変化していく。平沢は身体に纏わり付いた湿気が気持ち悪いとか言ってシャワーを浴びている。

「ん? なんだこれ?」

 平沢に返してもらったハンカチをポケットに入れようした時に、こつんと指に何かが当たった。不思議に思い、取り出すとそれは簡素な紙に包まれた飴玉のような物だった。包みを開くとそこにはピンク色の飴玉があった。そして紙には『作ってみましたぁ。姫ちゃんと一緒に作ったから味は保証する。by清美』と書かれていた。

「嫌な予感しかしねぇけど……。ティアが一緒に作ったなら、いや待て。実はこの情報が真っ赤な嘘という可能性も。かと言ってティアラに味の感想を聞かれちまったら答えられないし。嘘は嫌いだからなぁ、つくのもつかれるのも。…………頂きます」

 葛藤しつつ飴玉を見つめる。見た目は何の変哲もない普通の飴玉である。覚悟を決めて口に放り込み数回舐める。普通の苺味だった。

「なんだよ、普通にうめぇじゃん。姉貴、いつの間に料理の腕を上達させたんだ」

 それから数十秒ひたすらに舐め続け小さくなってきたので噛み砕く。途端に口の中が激辛地獄と化した。舌が焼けるように熱いを通り越してただ痛かった。中身の粘性のスライムみたいな物が舌にへばり付いて、辛味を拡散し続ける。

「う、うえぇ! から、辛いッ!! 吐く、吐く!」

 完全に気が動転した舜助はキッチンの水道水を含んで吐き出すという選択肢を思いつくことができず、一目散にトイレに駆け込んだ。そして扉を開き切る直前に視界の端で扉の表面に表記されたその文字を捉えた。

『Bathroom』

 まさか舜助が風呂場に突撃するという自殺行為を犯してくるとは思ってもみなかった平沢は鍵をかけていなかった。完全に扉が開いた。そして眼前にその光景が飛び込んできた。

「え?」

 平沢はちょうど髪を拭いているところだった。右手に握られたバスタオルは、濡れていつも以上に艶やかな黒髪に押し当てられていた。最上の絹糸のような黒髪が照明の光を眩くはね散らす。そして彼女はまずパンツを着用する癖があるのか、腰元は白い布に隠されていたがそれだけだった。

 ほっそりした腰から両脚にかけては野生動物を彷彿とさせるしなやかな筋肉に包まれ、腹部は優美な曲線を描き抜けるように白い。そしてその少し上には艷やかでなめらかな肌が緩やかな稜線を描き出し、慎ましやかな二つの膨らみが曝け出されていた。

 二人の身体が凍り付いた。硬直した二人はただ視線を交錯し続ける。ピタっとシャワーから落ちた水滴が床で弾ける音がした。先に硬直が解けたのは果たして、舜助の方だった。一狙撃手としての抑制も忘れ、尚且つ嘘が嫌いな舜助は率直な感想を述べた。

「それは乳と呼ぶにはあまりにも小さすぎた。小さく、薄く、硬く、そしてあまりにも平坦すぎた。それは正に絶壁だった……。……いやすまん。流石に言い過ぎた。正直言うと、俺が予想してたより大きいし、緩やかな曲線してるし、何より塗り壁みたいに柔らかそうだ」

 脳内が情報処理の負荷で完璧にオーバーヒートしていて、盛大に口を滑らせた。自分でも何を言ってしまっているのか理解できていなかった。舜助の解説を黙って聞いていた平沢の硬直がようやく解ける。

 呆然と見開かれていた瞳はその内に氷点下の獄炎を燃え上がらせ、わずかに開いていた口許からは獰猛な八重歯が覗き、途端に紅潮したその顔には、最大級の憤激と羞恥を混合させた表情が浮かぶ。

 瞬間、平沢は超速の踏み込みを見せると一気に舜助の懐に飛び込み、ぴったりと合わされた人差し指と中指が鋭利な細剣のように閃き、突撃技の如く放たれた指先がヒュンと風を裂いて舜助の目元に突き込まれる。

「痛ってええええぇぇぇぇッ!! 目が燃えるように」

 神経を抉るような激痛を感じ悲鳴を迸らせたが、その叫声は蹴りが鋭そうなしなやかな脚から放たれた鞭のようなしなりを伴う脚技によって中断させられた。寸分違わず舜助の股を蹴り上げる。

「ーーーーーーーーーーッッッッ!!」

 声にならない悲鳴を上げ身体を後方に傾けた舜助の胸に、掌底の形にされた平沢の手が置かれる。直後にドスンと音がして風呂場の空気が振動した。密着状態から打ち込められた勁力は余さずその莫大な衝撃力を対象に与え、舜助は身体を一度ビクンと跳ねさせて白目を剥き、そのまま廊下に倒れ伏した。直後に浴室の扉がバタンッと乱暴に閉められた。 



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