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過去の大戦と短距離走者

「な、なんや舜ちゃん! そ、その隣の女の子誰やねん!? ど、どういうことなん!? お姉ちゃんに飽きちゃったのっ!?」

 清美の驚愕と絶望の入り混じった叫び声が市立貝塚高校生徒指導室に響き渡った。平屋を囲む竹垣が叫声に驚いたかのようにざわつく。清美は顔を蒼白にして、まるでこの世の終わりのような顔をして舜助に抱き付いてきた。病み上がりの舜助はそれを躱すことが出来ず、勢いそのままに縁側の板間の廊下に倒れ込み、したたかに後頭部を打ちつける。一瞬視界が暗転した。

 六月二十七日月曜日。あの惨敗から丸二日が経過していた。舜助はあの後案の定風邪を引き、二日間寝込んでいた。体調はまだ完全には回復しておらず、力なく馬乗りしている清美に文句を飛ばす。

「おい、姉貴。どいてくれ、身体が保たん」

「ど、どういうことなん舜ちゃん!? 氷華ちゃんに靡かんかった舜ちゃんがなんでこんなサブヒロインみたいな女の子を連れてきとるん!? やっぱりお姉ちゃんのご奉仕が足りんかったん!? 待って、急いで脱ぐから!」

 恐慌した調子でそう捲くし立てると、桜色の着物の襟元に手を伸ばす。舜助は清美の慌てぶりが伝染したかのように声を荒げる。

「何故、脱ぐ!! いったい何するつもりだ!?」

「ナニをするんよ。この体勢でやることなんて一つしかないやん。騎乗――」

「アウトッ、アウトだッ! こんな昼間からおっ始めようとすんじゃねぇよ!」

「それはまるで夜であれば問題ないかのような言い草ね。軽蔑するわ、この色欲魔」

「サブヒロインは余計です。その言い方、まるであたしがそこのチリ毛のことがす、す……好きみたいじゃないですか! こんなやつよりそこにいる雀の方がまだマシです!」 

 舜助の男としての魅力は雀以下だった。

 斜め上から憤慨の込められた苛つき混じりの声が降り注ぎ、和室の方から嫌悪感を露に侮蔑の言葉を浴びせかけられる。アクアマリンのような瞳が舜助を見下ろし、平沢がその黒曜石のような瞳で舜助を一瞥し、畳の上に敷いた上質な藍色の座布団に正座していた。そのスカートに覆われた太腿の上には、空になった小さなお弁当箱が据えられている。

 四限目が終了し昼休みを迎えた舜助は一人で生徒指導室に赴いていた。のらりくらりとした足取りの舜助を尾行してきた綾瀬と平屋の玄関前で落ち合い、今に至る。綾瀬のクラスでの立場を考慮しての誘導方法だった。仮に一緒に生徒指導室に向かえば妙に勘ぐられるのは明白だった。向かう先が基本、生徒が昼休みに立ち寄らない特別棟方向なら尚更だ。

 なんとか清美にどいてもらった舜助は起き上がり、するすると和室の用意された座布団に座る。横一列に並んだ座布団の平沢が座るところから一個空けて座った。隣にお邪魔しようとしたら本能が警告を発し、身の危険を感じた。未だに怒り冷めやらぬといった感じの綾瀬が二人に挟まれる形でするりと上品に座り、胸の前で腕を組む。どうやら癖らしい。

 流石猫被り状態の綾瀬文、随分と様になっている。少しばかり感心しながら、そういえば初めて会った時も腕を組んでいたな、と思い舜助はそこではたと、驚愕の事実に気付いて目を見開く。綾瀬は今、腕を組んでいるため豊かな胸がさらに強調された状態になっている。そして位置関係的に綾瀬の向こうには平沢が座っている。

 故に平沢の胸部が全く見えなかった。貧しい胸がさらに強調されてしまっていた。これが胸囲の格差社会かと、内心感慨深げに呟いていると、唐突に平沢がすっくと立ち上がり舜助の目の前に屈んでじっと見つめてきた。

「な、何だよ」

 どぎまぎする舜助をたっぷり三秒探るように見つめた後、平沢の右手が閃いた。

「っいってぇ!! 目が、目が焼けるように熱いッ!!」

 神速の目潰しを喰らった。両手で目を抑え、額を何度も畳に打ち付けて悶絶する。そんな舜助の耳に冷徹で怒気の込められた声音が落ちてくる。

「何か女性の尊厳を踏み躙るようなことを思われた気がしたわ」

 冷め切った表情でそう呟いた平沢はそそくさと自分の座布団に座り直す。その怜悧な横顔をまじまじと見つめながら少し引いたように問いかける。

「どういう関係か知らないけど、流石に理不尽じゃない? 今の対応」

「その男にはあのくらいの躾をしなければ、効果がないのよ。それにこれは私たちの問題であって綾瀬さんには関係のないことよ。それとも何? もしかしてその金だわしのことを慕っているの? 随分な物好きがいたものね」

 顔だけ綾瀬に向けて無感動に言い募る平沢に対して、綾瀬は少し吊り上がった水色の瞳を鋭くし眉根を寄せて怒気も露に憤慨する。

「ち、違うわよッ! 馬鹿にしないでくれる! 今の言葉、あたし史上最大の侮辱よっ! こんなチビチリ毛のことをす、す、好きになる人間なんてこの世にいないしッ!!」

「ごめんなさい訂正するわ。そうね、志波くんに好意を抱く生物なんてこの世で精々カマキリくらいだもね」

「何俺共喰いされちゃうのかよ」

「ウチは舜ちゃんのこと好きやで。なんならこの場で食べちゃいたい」

「やめろよ、絶対にやめろよ。姉貴が言うと冗談に聞こえないから」

 清美は舜助に向けて鷹揚に微笑む。その笑顔がひどく恐怖を感じた。平沢に関しては綾瀬にぺこりと頭を下げているし、謝罪された綾瀬は毒気を抜かれたような顔をしながらも「判ればいいのよ、判れば」とか言っている始末だ。この調子では一向に話が始められなさそうなので、舜助は場を仕切るように咳払いを一つして切り出す。

「皆さん、今日は金曜の夜の件について話すためにここに集合したんだろ。ならさっさと会談始めちまおうぜ、昼休みもそう長くないんだし」

「ここは志波に同意ね。あたしまだご飯食べてないからお腹ぺこぺこだし」

 賛同した綾瀬はお腹を擦りながらくっきりとした眉を八の字にしてをうぅと呻く。制服の上から見た感じではそれなりに細く、対してお尻は大きい。おまけに胸もでかい。なんという完璧なスタイルだ。どこかの誰かさんと違って身体がすでに完成されている。ふむ、と頷いたところでその魅力的な肢体の向こうから殺気を感じたので、急いで正面に向き直る。下手をすれば今度は失明されかねない。

「てか綾瀬、仕草は撫子ぶってるけど口調は素のままだし、短気でがさつで粗暴な感じが言葉から滲み出てるぞ。もうちょっと擬態したらどうだ、クラスは違えど平沢もいるし、何より憧れの蒼騎士様の前だぞ」

「あ、ありがとう…………じゃないわよ! 短気とがさつと粗暴? は余計よ!」

 威勢よく叫びながらも粗暴のところで少し首を捻った綾瀬のことを、舜助はやはりこいつアホの子だなと思った。内心で小馬鹿にした舜助の腕を綾瀬は摑み取ると、総合格闘技めいた技でがっちりとホールドしてきた。腕の関節がみしみしと嫌な音を立てて軋むと同時に激痛が襲いかかる。

「痛てぇ! 何すんだお前! 骨砕けるっての! お前、白兵戦専門じゃないのかよ!」

「はっ、お生憎様。刀が使えない状況も想定して肉弾戦も鍛えてるのよ! 里芋みたいにずっとじっとしてるあんたとは違うのよ!」

 勝ち誇ったような笑みを浮かべる綾瀬はさらに腕の締まりを強くしていく。何とか腕を動かすがその動きは微々たるものだ。だがしかし、さらに関節を決められたことによって肘にちょくちょく豊満なバストが当たっている。柔らかい感触が腕に広がり、舜助は内心でほくそ笑む。

 綾瀬の不完全猫かぶりを指摘したのはこのための布石。綾瀬のような好戦的でプライドが高そうな戦闘大好きっ子なら、小馬鹿にすれば物理的な反撃をしてくると舜助は踏んでいたのだ。所謂ラッキーハプニング待ちである。桃源郷とは痛みに耐えることでようやく到達することのできる場所なのだ。

 努めて派手に痛がる素振りを見せる舜助はその時、冷水をぶっかけられたような悪寒を二方向から感じ取った。次いで冷淡とした声が耳を叩く。

「…………屑が」

「舜ちゃん、あとで大事な話があるんや。…………逃げんなよ小僧」

 平沢が夏場に放置したバナナを見るような薄目で一瞥してきた。同時に清美がにこりと微笑するが、全然目が笑っていない。舜助は冷や汗を流しながら乾いた声で綾瀬に言葉を掛ける。

「お、おい綾瀬。蒼騎士様の前だ。少しは自重したらどうだ」

「誰のせいだと思ってんのよ……! たくっ、まぁそうね。けど驚いたわ、まさかあの蒼騎士様が閻魔のお膝元に住んでる生徒指導員なんて。あ、すみません失礼なことを」

「ええよ別に、かまへんかまへん。そう呼ばれとんのも知っとるし、それで怖がられて校内の風紀と治安が安定するならいくらでも呼ばれてええよ」

 舜助の腕を解放した綾瀬は申し訳なさそうに頭を下げる。それを受けて清美は鷹揚に微笑み返す。貝塚高校の閻魔で瞬神・蒼騎士、それが志波清美という女性だ。一万人いる騎士の中で団長、副団長に次いでトップ3に君臨する強者。

「綾瀬文。獏討騎士序列は四百五十位。得物は超速再生能力+高周波を付加した日本刀タイプの刀が一本。騎士登録をしたのは約八ヶ月前、戦争の終盤やな。たった八ヶ月でこの序列を獲得することはなかなかできることじゃないで」

 すらすらと事務的に綾瀬の経歴を並び立てていく清美。最後の方で誉められた綾瀬はえへへと頬を緩ませる。調子を良くした綾瀬はつい口走る。

「ありがとうございますっ。でもまさか蒼騎士様がゴキブリみたいな機体を装着しているこんな奴のお姉様だったとは驚きました」

「おい、俺のことは馬鹿にしていいが機体のことは馬鹿にするな。あのカラーリングは俺の誇りだぞ」

「そうなのねゴキブリ」

「おい平沢。何便乗して毒づいてきてんだよ。あのね、言葉の綾だからね今の。あと、お前に言われた悪口の中で過去最低だぞ今の」

「あんたに名前呼ばれる筋合いはないんだけど。なに? 喧嘩売ってるの?」

「お前もいちいち突っ込まなくていいから。スルーしろよ」

 舜助がツッコミを頑張っていると、扇子を縦に振る音が場を沈ませた。広げた扇子で自分を扇ぐ清美は垂れ気味の優しげな目を鋭くし、トーンの下がった全身が総毛立つような悍ましい声を出した。

「そのゴキブリみたいな機体を着た奴に助けられたんはどこのどいつやっけなぁ?」

 清美の雰囲気が一変した。殺気立った気配が正座したその全身から放出され、空気が一気に重くなる。微風に吹かれさらさらと音を立てていた竹の葉が急になりを潜める。心なしか呼吸が苦しい。蒼騎士の発する圧力が三人の身体に重圧をかける。常に冷たい無表情を崩さない平沢ですら顔に緊張が走った。

「……えっと……その……あの……それは」

「それは何? 舜ちゃんから聞いたけどその松ランク、舜ちゃんに挨拶に来たんやろ。そんで舜ちゃんが自己中なの知っとったからあんた等を目の前で殺して、激昂させようって策も取らんかった。つまり舜ちゃんがろくでなしな性格でなかったらあんたは今、五体満足でいることもなかったってことや」

 態度を急変させ凄みのある声で正論を述べていく清美に、綾瀬は完全に萎縮していた。声は震え、身体も怯えるように心なしか震えて顔は青ざめている。平沢は緊張した面持ちでこくりと喉を鳴らす。清美は威圧したままさらに続ける。

「本当は今ここに横須賀くんも連れてきたかったんやけど、彼はウチに怖がってるからなぁ」

 清美は悩ましげに嘆息する。横須賀夜一は貝塚高校の一年生であり、この高校は一ヶ月に五回遅刻すると生徒指導員から遅刻指導を受けるのだが、横須賀はその時にトラウマを植え付けられたらしく、清美のいるこの生徒指導室には絶対に近づかないようにしているのだ。

「力づくで連行してこようとも思っとったけど彼、土曜に家に謝罪しに来たんよ。『自分の力不足で兄貴を危険な目に合わせてしまいました、すみません』ってな。まぁあんたは志波家を知らんし、横須賀くんより頑丈やなさそうやから別に家にわざわざ謝りに来んくてもええけど。それでも、この部屋来た時に一言あっても良かったんとちゃう?」

 清美は鋭利な視線を躊躇なく綾瀬に突き刺す。完全に清美の放つ雰囲気に呑まれてしまった綾瀬は顔を俯かせると、震える指でスカートをくしゃと摑む。対して平沢は毅然と清美を見つめていた。当事者ではないにせよ、この状態の清美を直視するにはそれなりの精神力を要する。

 痛いほどの静寂の中、息苦しくなってきた空気を舜助の平素と変わらない声がぶち壊す。

「姉貴、それは筋違いってもんだろ。あの状況でまだ戦える状態だったとしてもあの松ランク、ブレイド・サジタリウスには太刀打ちできなかったぞ。戦力差を弁えた上で動かないのが定石だし、俺だって騎士になった時から危険な目に遭うことくらい百も承知だ。謝罪する必要性は皆無だ」

「それは……そうかもしれんけど……。お姉ちゃんだって弟傷つけられたら黙っておれんの! それにこの娘はそんな戦力差云々やなくて、ただ単純に松ランクにビビッとっただけやろ。はっ、戦争未経験者はこんなんばっかやから嫌になる。その点、横須賀くんはなかなか肝が座っとるで。彼、まだ騎士なって二ヶ月やのに」

「えっ……!」

 力なく俯いていた綾瀬が弾かれたように顔を上げる。その顔には驚愕が張り付いていた。驚くのも無理はないだろう。いくら適性があれば誰でも装着できるパワードスーツだからって、少なくともたった二ヶ月であんな戦闘機動は普通取れない。

 それに《獏騎大戦》。去年の五月から十二月までの約七ヶ月間続いたこのバク殲滅を掲げた騎士とバクの戦争は、騎士軍約一万に対してバク軍約五万で展開され、世界中の空で死闘が繰り広げられた。騎士軍で約五千人、バク軍で推定四万人の死者を出して終戦を迎えた。

 現存するバクはその残党であり、現在の騎士の総勢数一万人はこの半年間で増員された分と戦争に参加しなかった、参加できなかったまたは戦場で負傷し戦線復帰できなかった騎士を含めた数なのだ。

「横須賀と比べるなよ、あいつは天才だ。それこそ騎士になるために生まれてきたといっても過言じゃない。それにあの戦争は参加しないほうがいい類いのやつだ」

「確かに、そうかもしれんな」

 前者と後者、どちらも含めて同意する清美。二人は哀愁の込められたため息を漏らす。それほどまでにあの戦争は激闘の連続だった。地獄と言ってもいい。表情に陰が差した清美に向かって質問したのは意外なことに平沢だった。

「そこまで言うなら、志波さんがそこのを助けに行けばよかったのでは?」

「そこのを、って何だよ。名指しすらされないのかよ」

「そうしたいのはやまやまやったんやけど。ウチのスーツはその戦争でひどく損傷してしまってな、今急ピッチで修復中なんよ」

「姉貴、その状態でよく俺に『もしもの時は駆けつけたる』とか言えたな」

「いやぁ、それはあれや。そう、アカネちゃんが駆けつけるって意味や。それにウチのスーツがあんなんぼろぼろになったんも、半分は舜ちゃんの責任やで」

「うっ、悪かったよ。だから修復代の借金半分を肩代わりしてんだろうが。もうそれで許せよ」

「いいや、あかん。ここはもう身体で払ってもらうしかあらへん。舜ちゃんの童貞はウチが貰ったる……じゅるり」

「ちょ、涎拭けって。奪わせないからな、絶対」

 平沢と綾瀬を置いてけぼりにして姉弟トークを続ける二人。平沢の一言で一気に重苦しい空気が弛緩した。本人はそれを意図してやったわけではないだろうが。

 俯いて表情に陰が差す綾瀬に向かって清美は打って変わって、お気楽に笑って軽い声をかける。

「綾瀬ちゃん、ごめんなぁ。怖がらせてしもうて、ウチも大好きな弟が傷つけられてちょっと気が動転してたわ。さっき言ったことは気にせんでええからな」

「…………あの」

 綾瀬は顔を上げて遠慮気味に清美に問いかける。その表情にはまだ怯えの色が残っているが力強い瞳で清美を見つめ、声は芯の通った意思を感じさせるものだった。

「もしあたしと横須賀が戦ったら蒼騎士様はどちらが勝つと思いますか?」

「そりゃあ、横須賀くんやろなぁ。経験とか騎士でいる期間とかそんなのは関係あらへん。あんたの抱く夢は、横須賀くんより押しが弱いで」

 清美は冷静な声音で即答した。贔屓でもなんでも一騎士として戦力差を分析した上での結論だった。綾瀬は目を伏せるとぎゅっとスカートを握り、くっと呻き声を押し殺した。またもや少し重くなった空気を察した舜助は視線で何とかしろと訴える。当の清美はえぇーウチがぁみたいなじと目を返してきたがこほんと咳払いして、空気を切り替える。

「いやぁ、綾瀬ちゃん。気負うことはあらへん。むしろ綾瀬ちゃんと横須賀くんが雑魚だったおかげで久しぶりに舜ちゃんとイチャイチャできたしぃ。結果オーライやで」

「志波さん、その話をもっと詳しく聞かせてもらってよろしいですか? そこの男を猥褻罪で訴えたいので」

「おい。何で罪に問われるんだよ。俺は何もしてないぞ」

「詳しく聞きたいの、仕方ないなぁ。恥ずかしいけど話したるぅ」

 少し上気した頬に両手を添えてや~んとかほざく清美。恥ずかしいと言っている割にその表情は嬉々としていた。

「大したことはしとらんけどなぁ。舜ちゃん熱あったから汗をかくのが一番かと思うて、舜ちゃんの布団に入って裸で一緒に寝たり、お粥をあ~んして食べさせたり、熱の下がってお風呂に入る舜ちゃんのお背中流したり。それと風邪の時は寂しくなるやん? だから一晩中一緒にいてあげたりしたんよぉ。舜ちゃんがまだウチの裸に興奮してくれてお姉ちゃん、嬉しかったわぁ」

「今のを録音させてもらったわ。警察に届けてくるから私はここで席を外すとするわ。ごきげんよう、シスコン」

「すみません待ってください平沢さん。俺の人生を強制終了させないでください」

 何処から取り出したのか平沢の右手にはボイスレコーダーが握られていた。用は済んだとばかりに素早く立ち上がった平沢はそそくさと部屋から出ていこうとする。舜助は安泰の人生を歩むために痺れる足に鞭打って、平沢の進行を止めようとその白のニーハイに包まれたしなやかな足を摑もうとする。だが、あと少しというところでひょいと躱され舜助は畳の上を無残に滑る。

 平沢は足元の舜助を生ごみを見るような目で見下ろし、片足でげしげしと顔を踏み付けてきた。そして罵詈雑言を連発しつつさらに踏む力を強めていく。

「人工芝、天然芝、ド変態、スチールウール、エロ犬、金だわし、鬼畜、鳥の巣、変質者、下衆野郎、死に目、ひとでなし、不幸面、畜生、ロリコン、発情猿」

 白い足に踏まれて新しい扉を開きそうになる舜助だった。

 生徒指導室は混沌の様相を呈していた。平沢は極北の氷河みたいな視線を放出し、踏まれる舜助は苦し嬉しいような複雑な表情を作り、唇を嚙み締める綾瀬は憧れの蒼騎士様から『雑魚』呼ばわりされて一層落ち込み、清美はマイペースに和室の端に設置された小型の冷蔵庫からおやつのチーズケーキを取り出して、頬を緩ませながらぱくぱく食べていた。

「おい、それ俺が買ってきたチーズケーキ! 勝手に食ってんじゃねぇよ!」

「弟のもんは必然的に姉のもんになるんやで。う~ん、美味しい」

「横暴だッ!」

「喋るな駄犬。その口、ホッチキスで強制的に閉じるわよ」

「怖ぇから! あと怖い」

 校舎に取り付けられたスピーカーから昼休み終了を告げるチャイムが聞こえてくるまでその馬鹿騒ぎは続いた。



「はぁ、今日はとんだ災難だったぜ」

 茜色に染まる空の下、昇降口から三々五々に生徒が吐出されていく。往来を行く生徒たちに混じって、疎らにいる生徒たちの間を縫うようにのらりくらりと通過していく舜助。独りで行動する時間が長いと上手く人混みをすり抜けるスキルが自動的に磨かれるのだ。

 その表情はげっそりとしており、適当に人気のない所に行ってスーツを着用してさっさと帰宅して、水色の髪の天使に癒されようと決意する。肝心のスーツケースは舜助の頭上二メートルの空中で、所持者を追尾している。覇気のない瞳でとぼとぼ帰路を辿る舜助は、正門に差し掛かった所で見知った顔を発見する。

 長身でガタイのいい生徒が女子生徒と会話していた。男の方は見るからに貝塚高校の一年生だが、女子の方は制服ではなくセーラー服だった。おそらく他校の生徒だ。

 舜助は常時発動型のステルス能力をさらに強化してその二人の横を通り過ぎようとする。しかしそこに活力漲る声が掛かる。舜助はぎくっと肩を揺らして憂鬱げにそちらに視線を寄越す。

「兄貴じゃないスか! どうしたんスか辛気臭い顔して。目の下の隈がさらに濃くなってまスよ!」

「うるせぇ。何してんのお前。いや、何となく察知してるんだけどね」

 舜助は上背のあるその男子生徒、横須賀夜一を見上げる。剣山のように突っ立った黒髪に鳶色の三白眼、キリリと尖った眉と満面の笑みを刻む口元から鋭利な犬歯が覗く。あの夜に多文化混合の騎士服を纏っていた五月蝿い野郎だ。

 舜助がさらに目を濁らせていくと、そこにそこに鈴の音のように可愛らしい声が割って入ってくる。

「あ、あの、夜一くんの先輩さんですか? 私、開盛高校一年の桜井弓月ですっ!」

 そちらに目をやると、くりっと大きな瞳とかすかに紅潮した頬の端整な顔立ちをした小柄な少女がいる。舜助はぼーっとその女の子を一瞥し、横須賀にまたかと呟きかける。横須賀は苦笑しながら指で頬を搔いて首肯する。

「夜一くんには危ない所を助けてもらって、感謝してもしきれないくらいです。あの、それで……夜一くん。私はあなたにどうしてもお礼がしたいです。だからこれから、お茶しませんか!」

「えっ、いやそんなに恩義を感じなくても。オレはただ義務を果たしただけだから」

 桜井という少女に横須賀はしどろもどろに声を返す。この男はいかついそれこそ任侠映画に出てきそうなヤクザ顔の顔面兵器なのだが、女の子に弱い純情少年だった。そんな横須賀に桜井は熱っぽい視線を注いでいる。

「こりゃ落ちてるな……」

 小さくそう呟いた舜助は嘆息する。こういう場面に立ち会うことは今まででも何度かあった。この男は騎士の任務とかっこ付けてバクの脅威に晒された人を見境なく助けるのだ。そして助けた相手が今のところ全て女の子という事実。

 この男には主人公補正でも掛かっているのかと訝しむ舜助は、相手にするのも馬鹿らしくなって踵を返すついでに横須賀に腹パンして歩行を再開する。拳が痛い、あいつ腹筋硬すぎだろマジで。

 億劫げに歩を進める舜助は道の角を曲がって人気のなさそうな所で立ち止まると、スーツを着用しようとする。するとそこで背後から声を掛けられた。また何かとのそりと振り向くとそこにいたのは意外な人物だった。

 その人物は一言こう告げた。

「あんたどうせ暇でしょ。話があんの。ちょっと付き合ってよ」



 カランと鈴を鳴らしてコーヒーショップに入る少女に続いた舜助は入店した瞬間、前方の少女に向けて店にいる客たちの視線が集中したのを感じ取った。見てくれは華麗な撫子風の美少女なので、客の反応も仕方がないのかもしれない。

 対面式のテーブルに腰を下ろした二人はそれぞれ思い思いの品を注文する。やけに可愛いウエイトレスさんの美尻をちら見してから舜助は眼前の少女に質問する。

「それで、何のようだ? 言っとくが俺は暇じゃない。これから家に帰って晩飯の用意をしないといけないんだ」

 舜助が億劫げにそう呟くと相対した綾瀬は意外そうなむしろ驚いたとばかりに目を見開いて返答してきた。

「へぇー意外。あんたが料理してんだ。てっきり蒼……清美さんか、母親が作っているかと思った」

 流石に場所を選んで二つ名を口にすることはなかった。普通の一般家庭ならそういう役割分担なのだろうと他人事のように思いつつ言葉を返す。

「両親は海外赴任中で、姉貴は料理がド下手だ。だから俺が作るしかないんだよ。って前置きはいいからさっさと話せよ。お前だって同じ学校の生徒に俺と一緒にいるところなんて見られたくないだろう」

 一応座高より高い位置に窓がある場所を選んで座ったが、どこで共にいる所を見られるやもしれん。曲りなりにも綾瀬は校内で五本の指には入るほどの美貌を有しているため、平沢ほどではないにしてもそれなりに有名人なのだ。

 舜助自身、妙に勘ぐられて仮に嫉妬の対象になんてなれば、一年と三ヶ月続けているこの平穏な学校生活が終了することになる。いや、舜助レベルだと嫉妬の対象にすら成り得ないという結論に達し、内心で少し落胆した。

 そんな舜助の心境を知りもしない綾瀬は気まずそうに視線を彷徨わせ、口を開いては閉じを繰り返していた。余程話しづらいことなのだろうか。しばし二人の間に沈黙が満ちて、いざ綾瀬が口を開こうとした時、間が悪く先程のウエイトレス(プリ尻)さんがオーダー品を運んできて机に静かに置く。

 綾瀬が小さくお礼を言うとウエイトレス(微巨乳)さんは、にこりと微笑み返してトレイを抱えて去っていく。今の対応を見て綾瀬は案外、律儀というか素直な性格なのかいうと利益にもならない情報を取得してしまった。

「うわぁ、美味しそう。いただきます」

 律儀に合掌するとテーブルの品をぱくりと食べて幸せそうに頬を緩める。とても美味しそうに食事をする女だった。少なくともこんな表情は学校では見たことがない。綾瀬の前には苺のショートケーキにチーズケーキにチョコケーキ等など計六品のデザートが並べられている。この夕刻にそんなに食べて晩飯が入るのかと少し気にしながら、自分の分のチーズケーキを食べる。美味い。

 しかし、舜助が他人のことを意味もなく気にかけることは稀なケースだ。目の前の少女がつい、姉の清美と被ってしまった。清美もよく夕飯前に間食をしてティアラによく注意されている。

 あっという間に一個完食した綾瀬は、次はどれにしようかと品定めすると不意にこちらを見つめて小さく吹き出した。こういう馬鹿にしくさった笑みは現在も自分に対して、クラスメイトが陰でしているのを何度か見ているので少々イラッときた。苛立ちの混じった声が漏れる。

「何だよ。そんなに人の外見を嘲笑して楽しいか」

「いや、そうじゃなくて。ホントにチーズケーキ好きなんだな、って」

 綾瀬は薄っすらとニヤついた笑みを浮かべたまま目線を舜助の手元に移す。そこには綺麗な断面図を晒したケーキと角砂糖を二個入れたブラックコーヒーがある。綾瀬は笑いを含んだ声音で続ける。

「昼休みも清美さんに食べられて怒ってたし。沈黙の暗殺者さんは甘い物が好きなんだと思うと可笑しくて」

 そしてさらにくすくすと微笑む。何故かは知らないが綾瀬は上機嫌のようだ。この笑みも猫被り時の鷹揚としたものではない、ただ純粋な微笑だ。今さら舜助の前で演技をする必要もなかろうと不思議に思いながら補足説明する。

「その二つ名で呼ぶな、厨二くさい。ちなみに沈黙の暗殺者サイレント・アサシンってのは俺が戦争初期に使っていた狙撃銃の異名だ。正式名称は《アキュラシー・インターナショナル・L115A3》、使用する弾は338ラプア・マグナム。俺の愛用しているヘカートⅡの50BMG弾に比べれば威力は劣る、まぁ元々対人狙撃銃だからなL115は。けど専用サプレッサーが標準装備になってるし、最大射程が二千メートル以上ある。この銃に撃たれた者は射手の姿も銃声も聞くことなく絶命する、故に与えられた通り名がこれなのさ。バクは耳もいいから対バク線には有効活用できたんだ。まぁ結局はすぐに威力不足と判断してヘカートⅡに変えたんだが」

 つい熱弁してしまった。饒舌に銃の解説をする舜助を綾瀬は呆然と見つめ、苦笑を返してきた。

「ごめん。銃には全然興味がないのよね、私。けどよく知ってるわね、銃オタクってやつ?」

「別にそういうわけじゃない。ただ自分の使ってた銃だから知っているだけだ。あいつのおかげで何度も命を拾ったからな」

「そうなんだ。…………ねぇ、やっぱり戦争は苦しかった?」

 そう質問してきた綾瀬の表情は陰鬱なものだった。舜助は訝しげに眉根を寄せて問い返す。

「なぁ、今のお前何か変だぞ。もっと快活というかうざいくらい元気だったろ、昼休みの時。何か妙にしおらしくてハッキリ言って気持ち悪い」

「なっ。うっさい! あんたの方がキモイわよ、このチリ志波。…………ただ蒼騎士様はすごいなって思っただけ。何でもお見通しなんだなって」

 綾瀬は少し振り切ったような顔をしてそう呟いた。舜助が黙って続きを促すと綾瀬はぽつりぽつりと語りだした。

「あたしの夢はさ、誰よりも速くなることだったらしくてさ。それで騎士として強くなって蒼騎士様に会えた時、弟子にしてもらおうと思ったんだ。最速の騎士の下で修行すれば今のあたしはもっと速くなれるって思った。だから蒼騎士様にすでに弟子がいるって知った時は驚いてなにより悔しかった。それでいざ弟子に会ってみれば狙撃しか能のないこんなやつだった。その事実を知った時に怒りが湧いてきてね」

「それで急に斬り掛かってきたわけか」

「うん。なんでこんな男が蒼騎士様の弟子なんだッ、って思った。全然納得できなかった。けど、あのレベル5にぶっ飛ばされて情けなく宙を転がってる時に、志波があのブレイドってやつにガンついてるの見て納得しちゃったんだ。ああ、こいつはあたしより強いんだなって」

 そこでペールブルーの瞳がじっとこちらを見つめてきた。その瞳には強い羨望が色濃く浮かんでいた。その視線を受け、何だか背中がむず痒くなってきた舜助はつい口走ってしまった。

「これは強さじゃない。ただの技術だ」

「なにそれ? 誰かの受け売り? 全然似合わないわよ、その台詞」

「ほっとけ」

 つい羨望する黒の剣士の台詞が口を突いて出てしまった。舜助の機体のカラーリングは彼の影響を受けたものだった。真顔で指摘した綾瀬はその美しい顔に自嘲の笑みを刻む。

「判断力でも負けて胆力でも負けた。そりゃそうよね、『誰よりも速くなりたい』。そんな漠然とした夢を抱えるあたしがレベル5に手も足もでないのは当たり前のことよ」

 綾瀬は横須賀に負けるというその予測を気にしているようだった。『押しが弱い』、パワードスーツの適性というのはずばりその者が抱く夢の押しの強さだ。どういう原理かは知らないがその押しの強さを判定するのはあの鋼の騎士服で、認められた者だけが着用することができる。故にスーツはオーダーメイド品だ、好き勝手に量産はできない。

 そして押しの強さ加減でスーツの性能は高低する。再生力、走力、反重力の展開範囲等など。舜助の《LQ―84I》の稼働率は七十パーセント前後で機体から発生する反重力/慣性フィールドの有効範囲は半径五メートルだ。

「あたしの《IA―79F》の稼働率はせいぜい五十パーセント弱。反重力のフィールドはたったの半径三メートル。あの高周波の刀がなかったら序列四百五十位なんてなれなかった。……ねぇ、横須賀の序列っていくつ?」

「…………六百四十位」

 綾瀬はフっと自嘲の息を零す。目を伏せて力なく呟く。

「二ヶ月そこらの騎士相手にこの程度の差しかつけることができない」

「いや、あいつはアレだ。天才なんだよ、なんつーか戦闘勘? みたいなやつが鋭いんだよ。反応速度も俺より数倍速いし、喧嘩慣れしてるから肉弾戦も得意だし、なんか白兵戦も得意だし。けど遠距離は苦手だ……まぁあいつの稼働率は八十パーセント前後だって言ってたから、わざわざ狙撃銃使うより走って接近した方が効率がいいんだろうけど」

 何の気なしに綾瀬のフォローをしたつもりがただ横須賀を賞賛しただけになってしまった。なんとも憎たらしい男である。綾瀬は長い睫毛が揺れる瞳をこちらに向け、率直に質問してくる。

「ねぇ。志波の横須賀もその強さはどんな夢からきてるの? そんなにその想いは強いの?」」

 どこか切迫した響きを持った声だった。その瞳に縋るような色を見た気がした。舜助は数秒黙考した後、おもむろに語り出す。

「……横須賀の夢はよ、俺を超えることなんだとよ」

「……はっ? それってどういう」

 拍子抜けしたような声を出して言葉の意味を懸命に理解しようとする綾瀬。舜助は苦笑混じりに呟く。

「あいつはとっくに俺を超えてるのにな。…………あいつと初めて会ったのは二月の雪の降る夜だった。いつも通りに哨戒していた俺はバクを一体発見した。そんで少し驚いた。今にも大学生くらいの女性に襲いかかりそうなバクをあいつ。殴り飛ばしたんだ、全力でな。俺が狙撃で始末してからあいつに事情を聞いて唖然としたよ。あいつ、バクをしっかり視認してなかったんだとよ」

「えっ? じゃあどうやって……」

「何でも偶然その女性の後ろを歩いてたら、なんだかその女性の前方の空間が歪んで見えて、そこから殺気がしたから思い切り殴ったんだとよ。流石の俺でも言葉が出なかった。それで俺は横須賀を姉貴に推薦してあいつを騎士にした。それからだ、あいつが俺のことを兄貴と呼び始めたのは」

 呆然とした表情で舜助の話を聞いていた綾瀬は小さく吹き出すと苦笑する。

「野生の獣なのあいつは。けどまあ、あたしよりは具体的な夢ね。……ねぇ、あんたは? あたしはあんたの夢が知りたい」

 少し身を乗り出してこちらに顔を近づけ、まじまじと見つめてくる綾瀬。ブラウスの下から自己主張する美しい稜線を描く柔らかそうなお山が眼前に迫る。舜助は少しどきまぎしながらもどうせ隠すようなことでもないしと思い、自信満々に答えた。

「俺の夢は…………妹をバクから守ることだ!」

「……………………はぁ?」

 横須賀の夢を告げた時以上に拍子抜けした声を漏らす綾瀬は、すとんと腰を下ろし「え? 何言ってんのこいつ? 頭大丈夫?」みたいな目で見つめ

てきた。舜助はその視線に若干心を痛めながらも続きを口にする。

「まぁ妹って言っても義理だけどな。もう超可愛い、目に入れても痛いどころかむしろ気持ちいいくらいだ。この前なんて二人で熱帯魚を主に販売している近所の店に行った時、悲哀に満ちた表情で水槽を見つめて「この子たちもあそこに行くのでしょうか?」って言って、向かいの寿司屋を指差しちゃうくらいの純真無垢な天使だ」

「いや、それは流石に……。ていうか志波、妄想も大概にしなさいよ。聞かされるこっちの身にもなりなさい」

 綾瀬が一歩引いた目でこちらを見つめてくる。その表情には少量の怖れが滲み出ていた。その顔にムカッときてすかさず反論する。

「妄想じゃねーよ。綾瀬お前、俺のガンつきシーンを見てたってことは当然その後も目撃してたよな。松ランクを撤退にまで追い込んだあの巨大な氷の柱と塊、そしてあの真っ白な世界を」

「うん、見てた。急に辺りの温度が下がって雨も凍ってたし。志波が意識失いそうな感じになった時にあんたを抱き止めた人がいた。すごい小柄だった、けど藍色のケープを羽織っててフードも被ってたから顔はよく見えなかった。…………じゃあやっぱり、あの子が?」

 大方予想がついていたようで確認するように問いかけてくる。舜助は首肯を返し、その予想を肯定した。圧倒的な攻撃力に瞬時に気温を低下させる力、スーツの内部機構にまで侵食する冷気。

「俺の妹ティアラ・プリセットはバクだ。それも松ランクの娘で、推定では彼女自身があの年でもうすでに竹の上クラスの戦闘能力を有する」

 予想を事実に塗り替えられた綾瀬は少しばかり驚いて「やっぱりね」と呟く。その表情にはかすかに畏怖が浮かんでいた。

「あんな桁違いの力、特殊能力を使えるのはレベル5だけ。まさかその娘だとは思わなかったけど。なにあんた、まさか攫ってきたんじゃないでしょうね? いくらバクだからってあんな小さい子を……」

 綾瀬は顔に恐慌を貼り付けて「ロリコンは死ね」みたいな殺気を目力の込められた瞳で放出してくる。舜助は手で額を押さえて思わず嘆息する。

「違ぇよ。俺が無理やりに同居させてるみたいな言い方するな。お互い同意の上で共同生活してんだぞ、何より家族だ」

「そんなこと言って実は一緒にお風呂入ってますとか言うんでしょ、このロリコン!」

「ちょ、お前。ばっか、声がでけぇよ……!」

 瞬間、周囲の客から白い目を一斉に向けられた。あの美尻ウエイトレスさんなんて顔を蒼染めている。舜助としてはぜひとも交代で背中の洗いっことかしたいのが、如何せんティアラが顔を真っ赤にして断固拒否してくるので達成できずにいる。しかし、着替え中だと知らずカーテンを開けてしまいその小さな真っ白の桃を目撃したことは黙っておこう。

「ま、まぁ、そういうことだから俺はティアを守らなくちゃいけない。バクは仲間意識が異常に強いからな、もしティアが人間側についたとあちらにバレたら襲撃されかねない。まぁティアなら余裕で撃退しそうだけど、兄としては妹を戦わせたりはしたくないわけですよ」

「ふ~ん、なるほどね。ね、今度そのティアラちゃんに会わせてよ。言うならばあたし達はティアラちゃんに助けられたってことだし、お礼がしたい」

 「お願いっ」と顔の前で両手を合わせる姿が妙に可愛らしく、つい首肯してしまった。気付いた時にはすでに遅く、綾瀬ははにかみながら小さくガッツポーズしている。ティアラも同性の友人ができれば喜ぶだろうと仕方なく納得する。ここで話が一段落ついたと思った舜助は手元のブラックコーヒーに口をつける。少し苦い。

 そこで舜助はある言葉を思い出し、まだ話は終わっていないと思い直す。机にカップを置き、ケーキを咀嚼しながら会うとしたら何か手土産的な物を持っていったほうがいいだろうかと、楽しそうに思案している綾瀬にこの質問をするのは少々憚られたがそれでも口を開く。

「『誰よりも速くなることだったらしい』」

「っ!?」

 舜助の言葉を聞いた瞬間、綾瀬の表情が固まった。ゆっくりと真面目な顔をした舜助を直視し、瞬きをする。構わず舜助は言葉を重ねる。

「綾瀬が言った言葉だ。今この言葉を思い出して俺は一つの仮説を立てた」

 そこで一度言葉を切る。妙な沈黙が流れ、綾瀬がこくりと喉を鳴らす。フォークが皿の上に置かれた音がいやに響く。舜助は一度瞑目し、浅く息を吐くと瞼を上げ告げる。


「お前さ、一度バクに夢を喰われてんだろ。そしてまだその夢を追い続けているから一向に強くなれないんじゃないか?」


 舜助の核心を突く言葉がいやに反響した。水を打ったような沈黙が二人の間に満ちる。しばらくして目を見開いていた綾瀬が小さくため息のような息を吐くと、心を整えるかのように瞑目して一度深呼吸し、やがて露になった青みがかった瞳が記憶を探るように宙に視線を泳がす。

「……そう。あたしは一度バクに夢を喰われた。あれは高校の入学式の前日、夜の八時くらいだったかな。その日は夜風を浴びながらランニングしてたんだ。そしたら急に目の前に黒い影が落ちてきてそして……」

 言葉を切ると左手で右腕を摑み大きく息を吐く。その行動はその時の痛みを、恐怖を、得体も知れない絶望を思い出し必死に耐えているようだった。ややあって左手を離した綾瀬はじっとこちらを見据えて話を続ける。

「あたしさ、陸上選手になりたかったんだって。しかも短距離走者スプリンター。実は結構有望だったみたいで中学のだけど全国大会に出場したこともあったらしくて、色んな大会で走ってる映像とかトロフィーとか盾を両親から見せてもらったけど、なにも思い出せなかった。医者は部分的な記憶喪失だって言ってた。けどあたしはその言葉を信じなかった。だって」

 一度顔を俯かせて肩をわずかに震わせつつ、しばらくして顔を上げる。その表情は泣き笑いのように不安定で、今にも崩れてしまいそうなものだった。舜助は思わず息を呑む。綾瀬は震える声で続きを口にする。

「記憶はおろかその想いまであたしの中から消え失せてた。陸上に関しての記憶も情熱もぽっかり抜け落ちてた。汗を流して時には涙を流したかもしれないその記憶も悔しい思いも嬉しい思いも全部、消えてなくなってた。バクに喰われた夢は二度と抱くことはできない……! またその夢を追うことも、叶えることも、思い描くことさえできない……!」

「それでなんでまだ速くなりたいなんて、思ってるんだよ?」

「だって!」

 下がった眉が上がって、力ない瞳が怒気も露に吊り上がりそこから一筋の透明な雫が流れ、テーブルにぽたりと落ちた。嚙まれた唇が開き悲痛な声が放たれる。

「完全に消えてないんだもん……! 記憶も想いも失くなったはずなのに、毎朝五時にはベットから起きて、ランニングシューズを玄関で履いて靴紐を丁寧に結んで、普段通りもしない道をまるで走り慣れたランニングコースを走るみたいな感覚で走って、前髪がおでこに張り付くほど汗をかいて、疲れた感覚があるのに……それが妙に心地よくて、達成感があって、なにより身体が喜んでるのを感じるの……!! 毎朝走らないと妙にそわそわしちゃって、授業に集中できないし、友達と話をしてても上の空になっちゃうの……! こんなのでどうやって諦めろって言うのっ!」

 舜助をあらん限りに睨み付けた綾瀬は、唇を嚙み締めると顔を俯かせて両手で顔を覆う。時折嗚咽が漏れて本人は必死に抑えようとするが、止められない。

 舜助は周囲からの視線を感じたがそんなものは意に介さず、泣きじゃくる綾瀬に向けて優しく、それこそ子守唄を聞かせるような柔らかい声音で囁く。

「……俺もよ、夢を喰われちまったんだ。お前と同じくらいの時期に」

「……え?」

 泣き声を漏らす綾瀬がわずかに両手をどかして顔を上げる。濡れた水色の瞳がじっとこちらを見返してくる。視線で続きを促された舜助は哀愁漂う声音で話し出す。

「俺も短距離走者を目標に頑張ってた時期があったらしく、今だって朝にランニングしないと気が収まらない。綾瀬と同じだ、月の綺麗な夜に走ってたら目の前にバクが現れて必死に逃げたけど、あっさり喰われちまってよ。姉貴が駆け付けた時にはもう俺は生きる屍と化していた。何の気力も起きなくて、一ヶ月も学校休んじまったぜ」

「……ぐすっ、あたしは二ヶ月休んだ」

 綾瀬がすっと鼻を鳴らしながら声を返す。舜助は苦笑し「おかげで勉強に追いつくのが大変だった」と呟く。それに綾瀬が首肯で同意を示す。

「まぁ、俺クラスともなると廃人期間は一週間そこらで、あとの三週間は姉貴に弟子入りして騎士になって戦いの稽古をしてたけどな」

「えっ……!? たった一週間で。あたしは喰われてから五ヶ月経って騎士になったのに……。どうして? なんでそんな早くに復帰できたの?」

 綾瀬が濡れた声で不思議そうにそう問うてきて、舜助は肩を竦めて返答する。

「さあな。大方その程度の夢だったんじゃねぇの?」

「それは違う!」

 両手を下ろした綾瀬が身を乗り出して力強く否定してくる。目元は薄く赤くなっており、頬には薄っすらと涙の軌跡が残っていた。舜助はどきりとしながらも綾瀬を押し返して座らせ、軽く咳払いする。

「まぁ仮に俺のその情熱ってやつが強かったとして、約一ヶ月の間鍛錬に励んだ俺は丁度その頃に勃発した獏騎大戦に終戦までの約七ヶ月間参加し続けた。都合よくというかバクは夜行性だから当然、戦闘も夜の内に行われた。だから学校には普通には通えたし、まぁその頃は稼働率が低かったせいで回復能力が上手く発揮されなくて生傷も絶えなかったが、制服で隠せる範囲だったしそれに影が薄かったおかげもあってクラスメイトにも先生にも不審がられることはなかった、一人を除いて」

 舜助がそこで言葉を区切ると綾瀬が苦笑する。対して舜助はげっそりとした顔をする。

「あの女ぁ、傷の手当とかほざいて制服脱がしにかかってきやがって。あの時ほど身の危険の感じたことはない。まぁそういう感じで日夜戦い続けてきたわけだ。夏休みとかオーストラリアまで遠征とか言って走って赤道越えて南半球の端くらいまでいったからな。移動だけで疲れるし何より姉貴が俺のペースに合わしてくれないからついて行くのに必死だった。冬休み、ちょうど戦争終盤の頃にロシアまで移動して極寒の吹雪の中戦ったし、流石に銃は使えなくて白兵戦やってぼろぼろになるし。いや本当、綾瀬はあの戦争に参加しなくてよかったと思うぜ」

 あの頃を思い出して顔面を蒼白にさせる舜助を見て綾瀬はくすりと笑い、そして自身にとって重要な質問を飛ばす。

「ねぇ。なんで志波は戦えたの? あたしは初陣の時は怖くてただ逃げることしかできなかった……」

「復讐だ」

 自嘲気味にそう呟く綾瀬に向かって舜助は即答する。あまりに芯の通った声に綾瀬は少々面食らったような顔をする。そんな綾瀬に舜助は厳然と告げる。

「一時期とはいえ、俺をあんな腑抜けにしたあいつらに復讐するためだ。バクを皆殺しにするつもりで俺は戦争に参加した。まぁ結局は松ランクを二体、チートで倒しただけなんだが」

「チート?」

 こくりと小首を傾げる綾瀬に肩を竦ませてみせると、そこで話しを打ち切るように咳払いし、持論を述べていく。

「綾瀬がどうかは知らないが、少なくとも俺はバクに感謝している。夢を喰われたおかげで時は金なり精神が身に付いたし、損得勘定とか危機察知能力が上がった。そして何より努力や夢がクズみてーなことだって知ることができた。結局よ、夢のために努力したってバクに喰われたら全てが水の泡だ。そのために費やした時間や金や労力も全部無駄になる」

「そんなことっ!」

 眦を吊り上げ、腰を浮かせて立ち上がりかけた綾瀬を手で制すと「お前が特殊なだけだ」と続ける。

「夢を喰われた奴は大抵夢を抱くことすら諦めるか、新しい夢を見つけるか、絶望して自殺するかだ。喰われた夢を追い続けることのできる人間なんてお前みたいな強者だけだ。だから俺は強くない。言ったろ、『これは強さじゃない、ただの技術だ』って。だからそのアレだ、アレ」

 舜助はそこで言葉に詰まり頬をぽりぽりと搔くと、腰を浮かしておもむろに右手をかざし、綾瀬の頭上まで持っていき、あと少しで髪に触れると思った所でぴたりと停止させる。こういうのはイケメン(笑)がやって初めて効果を発揮するわけであって、不幸面死に目の舜助がやったらむしろ逆効果という結論に達した舜助は締めの言葉のみを告げる。

「綾瀬は俺より余裕で強いし、なんなら横須賀よりも想いじゃ負けてねぇよ。まぁただもっと強くなりたいなら、その夢を抽象的じゃなくて具体的にするこった。だからアレだ……姉貴の言葉なんて気にすんなっ」

 呆然と小さく口を開けて黙って話を聞く綾瀬を尻目に早口でそう締め括ると、すぐさま不格好に空中で停止させていた手を引っ込めようとする。しかしその右手は素早く摑まれる。白く柔らかい手をぎゅっとその右手を握り、青みがかった癖のない黒髪に強引に引き寄せられる。舜助の右手は所謂頭なでなで状態にされてしまった。

「ちょ、おまっ」

「もしかしたらあたしは雑魚って言われたことを気にしているのを口実にして、本当のところはきっと判ってほしかったんだ」

 動揺する舜助を意に介さず、綾瀬はぽつぽつと言葉を紡ぐ。空いた左手を胸に当ててぎゅっと握り締める。一言一句嚙み締めるように呟く。

「あたしが今まで会ってきた騎士たちの中であたしと同じ境遇の人はいなかった。みんな本当の意味でバクの恐ろしさを、夢を喰われるかもしれないという不安感を知らない。あたしはただ自分のこの気持ちを共有してくれる人が欲しかっただけなんだ。戦い続けていればいつかそんな人に会えるかもって希望を持って今日まで戦ってきたんだ。……あたしはただこうやって」

 わずかに俯かせていた顔を上げた綾瀬の真っ直ぐで純粋な光を灯した瞳が舜助を射抜いた。不覚にも見蕩れてしまった舜助に向かって花の咲くような微笑を見せる。

「お前は強いって言ってほしかったんだ」

 一種の無邪気さを感じさせる声音でそう独白した綾瀬は思い出したように頬に紅葉を散らして、腰を浮かせたままの舜助を上目遣いで見つめる。その少し熱っぽい瞳を乾ききらない涙で潤ませたままじっと向けてきて、恥ずかしそうにぽしょりと呟いた。

「あ、あのさ……撫でてくれないの?」

 凄まじく切実そうな視線をぶつけられて、舜助は息を呑み力なく吐き、肩を竦ませると優しく撫でつける。さらさらとした髪に指が抵抗なく入り込んでいく。そのナデナデを目を細めて猫みたいに気持ちそさそうな表情で受けた綾瀬は口許を緩ませ、子供のように無垢な声音で呟く。

「えへへ、気持ちいいな」

 その様はとてもいじらしく、舜助は目の前の少女が本当にあの綾瀬文なのかと訝りながらも、流されるままに頭を撫で続けた。



 

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