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戦闘大好きっ娘って本当に面倒ですよね

 日付は六月二十四日金曜日。時刻は午後十時を回ったところ。この数日平沢氷華は、舜助持参のラノベ・漫画を読み漁っていた。ガラステーブルの上に置かれているノートPCはなりを潜めている。

 ぱらりとページを繰る音が消え、続いてぱたんと文庫本を閉じる音がした。正面のソファで少女漫画を読み耽っていた舜助はおもむろに顔を上げる。持っていた本を静かに机に置いた平沢はしばらく余韻に浸るかのように瞑目する。わずかに長い睫毛を揺らし思案しているようだった。その何気ない仕草すら美しく見えるのだから末恐ろしい。

 ふっと短く吐息を漏らすとすっと目を開ける。背筋をピンと真っ直ぐ伸ばしながら口を開く。

「いくつか質問してもいいかしら?」

「ああ、いいぞ」

 舜助も本を閉じて傾聴の姿勢を取る。あの日から四日目の今日、平沢は漫画五百冊、ラノベ二百冊と数十作品のアニメ群を全て網羅した。この女、舜助以上の速読家だった。

 舜助の返答を受けた平沢はテーブルの上に一冊のラノベを置く。それはエロ路線と熱い展開を組み合わせることでヒットを飛ばした、ラノベ界随一のエロと燃えを売りにしたラノベだ。ちらりとその本に視線を飛ばして質問してきた。

「これはただの官能しょ」

「やめろそれ以上言うな! それは名前を呼んではいけないあの人の名前くらいのNGワードだ。つーかちゃんと読んだのか? 激熱だっただろうが」

「アニメーションの方も見させてもらったけど、あれはただのエロア」

「違うから、全然違うから! あれはエロと燃えの結晶なんだよ。健全過ぎる物語は売れないんだよ。ラノベは聖書や道徳の本じゃないんだ。ドラ〇もんだってしずかちゃんの入浴シーンあるだろうが! あれだって充分エロいぞ」

「それとこれとは格が違うと思うのだけれど。まぁいいわ、売れている以上面白い部分があるのは確かだろうし考察してみるわ。次の質問」

 腑に落ちない表情ながらも話を切り替えた平沢が次に提示してきたのはとあるアニメDVD。日常系アニメの代表作と呼び声高い一作だ。そのDVDを半目で見つめてから質問を飛ばしてくる。

「拝見さしてもらってなんとか見続けたのだけど、これはつまらないと思ったわ。いつになったら面白くなるのだろうと思いつつ見続けた結果、つまらないまま最終回を迎えてしまったわ」

「つまらないんじゃなくてお前の視聴スタンスがこの作品に合ってないんだよ。基本日常系は登場キャラを愛でつつ、かつ和やかな心境で視聴するアニメなんだよ。この作品は一時期ブームを巻き起こしてだな、放送中とか放送終了時期にギター始めた奴なんて百パーセントこの作品に影響されてるからな。CD発売された劇中歌とか売上十万枚超えたからな。〇ステでランキング入りもした。今どきアニメ関連のCDで十万なんて数字出せないから」

 舜助の熱弁を黙っていた聞いていた平沢はふむと首肯すると、一言口にした。

「つまり声優さんのおかげだと」

「そうじゃなくて、いやそれもあるけど、キャラも魅力的だったから。放送中幾度となく嫁が入れ替わり立ち代わりしたものだぜ」

「志波くんは節操なしなのね」

「節操大有りだわ! 今まで他人の女の子と手を繋いだことないくらい節操しっかりしてるわ」

 いやただ単に気持ち悪がられただけなんですけど。

 しかしこれは困った。思わず額に手を当てて嘆息する。前髪に手が当たらないのが何気に悲しい。平沢は一般人でありながらラノベを書いているという特異なケースだった。普通は漫画やアニメの世界に憧れてラノベ作家を志すものだが、平沢はアニメや漫画、ラノベに触れることなく志している。

 それ故か、漫画とラノベは食い入るように読んでいたしアニメはテレビの前でちょこんと座り興味津津といった体で視聴していた。その様子は玩具を買ってもらった無垢な子供みたいで、ギャップ萌えが激しかった。思わず好きになってしまいそうだった。

 むくりと顔を上げる。眼前の少女はクールな表情で何事か思案していた。平沢は努力家だった。多才さに溺れることなくひたむきに頑張り続ける奴だった。その証拠に今もメモ帳に耐えず鉛筆を走らせている。作品ごとの感想を綴っていた。本人なりに必死に面白い部分を発見しようとしているように見えた。

 『夢』と『努力』。この二つは舜助が奉仕活動よりも嫌うものだ。夢は叶えるためではなく思い描くものだと思っているし、確実に良い結果に結び付くと確証のある努力以外は時間の浪費だと思っている。

 舜助にとって平沢の行動は目障り極まりなかった。彼女はなぜこんなにも努力するのだろうか。才色兼備の彼女ならラノベ以外を極めれば近い内にプロになれてしまうだろう、そう確信するほど彼女の才能は凄まじかった。

 昨日の夜、清美に平沢の経歴を纏めたレポートを見させてもらった。思わず驚愕に目を見開いた。彼女は英才教育で幼少の頃から書道、茶道、生花、弓道、日本舞踊、琴、ピアノなどの楽器類や歌唱など様々な習い事をこなし、中学の頃は数多の運動部から助っ人として頼られ、サッカーでは強豪相手にダブルハットトリックを決めたり、水泳のリレーでは当時の中学生日本記録のタイムにあと二秒のところまで到達したり、陸上の短距離走もまた然り。

 あくまで助っ人であったため正式な記録には残らなかったようだが、畏怖さえ覚えるほどの功績の数々がそのレポートには記されていた。そんな彼女でも才能がからっきしない分野があった、それがライトノベル。

 集中して鉛筆を走らせる平沢に舜助は一つ素朴な質問を投げた。

「なぁ、お前は自分が極められない分野にただ挑戦したいだけなんじゃないか? それこそバトル漫画の某主人公みたく、自分より強い相手と戦いたいんじゃないのか?」

「いえ、それは違うわ」

 平沢は即答で否定した。鉛筆を机に置くと顔を上げ、その美麗な双眸を向けてくる。その瞳には苛烈な炎が灯っていた。しかしそれも一瞬。その炎は急速に沈下し、端正な目元は優しげに緩む。瞳に哀愁漂う灯火を宿らせ目線を窓の奥、篠突く雨を降らす暗い黒雲が垂れた夜空に移動させる。そしておもむろに懐かしげな声音を響かせた。

「あれは三年前だったかしら。当時の私は良家のお嬢さまとしてひたすらに親の敷いたレールの上を必死に走っていた。その様が恐ろしかったのでしょうね、日を追うごとに私の周囲から他人がいなくなっていった。この時の私は懸命に親の期待に答えようとしていた。しかしそれと同時に、私は自分の世界が狭く閉ざされつつあることに恐怖感と閉塞感、焦燥感を抱いていた。そんな時だった、ある一冊の本に私は出会った」

 すっくとソファから立ち上がると窓際に歩み寄る。窓に付着した雨滴に這わすように指を滑らせる。次第に雨は豪雨となっていく。防音のしっかりとしたこの部屋にも雨音が侵入してくる。土砂降りの雨音を搔き消すかのように、清流のせせらぎのような声が冷たく響く。

「その本の中の登場人物は私と同じ境遇にありながらもとても人生を謳歌していた。親からの重責とか重すぎる期待を一身に受けてなお、自己を貫いていた。親の言いなりになっていた私にはその姿はとても眩しく見えた。そして私はその本の影響を受けて、少しだけ心変わりした。自分のために人生を消費しようと考えた」

「それがラノベだったわけか……」

「そう。その時から私はライトノベル作家になりたいと思った。生まれて初めて『夢』というものを抱いた。流されるまま過ごしてきた人生にようやく目的と呼べるものができた。とっても嬉しかった」

 そこで言葉を区切り肩越しに振り向いてきた。その横顔は儚くも明るく、嬉々としたものであるはずだ。そのはずなのだ、なのに何故。

 その表情はあの雨空みたく憂鬱としていた。前に一度垣間見せた、あの仄暗い顔だった。少なくとも生きる目的を見つけた人間がする表情ではなかった。

 その時。無意識だった。勝手に身体が動いていた。舜助は今まで類を見ない俊敏性を発揮して平沢の隣に並んだ。舜助の肩が平沢の腕に触れそうで触れないそんな距離だった。身長差が恨めしい。平沢は小さく口を開けて、珍しく驚いたような表情をしたがそれも一瞬。すぐにいつもの氷のように冷たい表情に戻ると、視線を舜助から窓越しの雨空へと戻す。

 妙な沈黙が二人の間に満ちた。その静寂を切り裂いたのは舜助だった。

「なぁ、なんでそんな暗い顔してんだ。何か悩みがあるなら話くらい聞くぞ。力にはなれないかもしれないけど」

 あまりに直球過ぎる言葉だった。ここはさり気なく探りを入れるのが定石だ。そんなことはもちろん舜助も理解していた。舜助は曲がりなりにも狙撃手だ。感情の制御はお手の物であり、どんな時でも平常心を保ち冷静に思考し、最善の策を用いる。そんな舜助だったからこそ、今現在も狙撃手を続けられているのだ。影が薄いという要因ももちろんあるが、それでもあの戦争を生き残った騎士だ。こんな状況で判断をミスるような男ではない。

 しかし今の舜助は見た目では判別できないが、深く動揺していた。不覚にも傍らの少女の力になりたいと思ってしまった。その感情には条件だとか任務放棄のための利害とかそんなものは微塵もない、嘘偽りのない想いだった。

 だがしかし、案の定その想いが平沢に届くことはなかった。静かな囁き声が耳に届く。

「ありがとう。けどこれは私の問題だがら。私、志波くんのことを信用してないから。だから相談できない」

 そんな想いがあったから舜助は決定的なチャンスを逃してしまった。この場面、物語ならヒロインが初めて主人公に弱みを露見させたシーンだ。ここで主人公は優しい声音で語りかけ、最後には『俺なんかで良ければ力になるから』とか言って締め括るのだ。そしてその言葉にヒロインの心が絆されて、ぽつぽつと悩みを語り始める。

 予想通りの返答に少し落胆する舜助は、空を見上げる。今日はあの美しく白く冴えた月も、幻想的な青白い月明かりを見えない。強風、暗闇、雨天。こんな日にバクが現れたら、いくら雪影の演算補助があってもまず初弾ファーストショットは成功しない。騎士、志波舜助は頼れる狙撃手から役立たずにたちまち下落する。そんなことを考えて現実逃避していた。

 自分でも驚くほどに『信用してない』という言葉に対して落ち込んでいたらしかった。闇空を反映したかのように舜助の心はどんよりと曇っていく。目からさらに光が失われていく感覚を味わう舜助の聴覚が、その時雨音に搔き消されてしまいそうなほどの小さい囁き声を捉えた。

「……今はまだ」

 か細い、それこそ蚊の鳴くような低音量の澄んだ声だった。思わず隣に顔を振る。眼前の少女はただ空を見上げていた。その横顔からはいかなる感情も読み取れなかった。

 独りでいる。これが舜助と平沢の共通点。孤高な少女と孤独な少年。夢に向かって努力する点は気に入らない。けどぼっちでいる、その部分は評価しないでもなかった。

 心臓の鼓動が上がっていく。視界が狭まり平沢のその怜悧な横顔しか見えなくなる。

 少し勇気を出してもいいだろうか。歩み寄っても構わないだろうか。もしかしたら彼女とは。

「なぁ平沢。俺と友達に」

 閃光。続いて轟音。二人の肩が同時に飛び上がる。心臓が身体の中でもんどり打つ。天を割らんばかりの爆音だった。舜助は胸を擦りながらため息を零す。

「っびっくりした……。でかい雷だな、こりゃ近くに落ちたか」

 驚愕の余韻がまだ心臓に残る中、冷静に状況を把握した。見た感じ雷を落としそうな暗雲が空を覆っていたから、予想はしていたが何とも間が悪い。しかし、舜助は少し安堵していた。どうせ言い切ってしまったところで断られるのは火を見るより明らかだ。あの流れで拒否されたら舜助は今夜、枕を濡らす自信がある。

 その時、くいっと思い切り袖が引かれた。身体を安堵で弛緩させていた舜助はそのままに身体を傾かせる。だがなんとか足を踏ん張り転倒を防ぐ。完全に油断していた。何だぁ、とその箇所を見るとそこには雪のように白く細い指がしっかりと袖を握っていた。そこから視線を上昇させ、華著な腕を辿っていくと次に視界に入ったのは、抜けるように白いきめ細やかな肌。続いて宝石のような輝きを放つ双眸。

 誇張ではなく文字通り宝石のようだった。黒い瞳は目尻に溢れんばかりの雫を溜めていた。今にも流れ落ちてしまいそうだ。つまり、瞳がうるうるしていた。唇は軽く嚙み締められ、眉は頼りなさげに下がっている。潤んだ瞳がこちらを見返してくる。

 その今にも泣き出しそうな表情に不覚にも呼吸を忘れるほどに見惚れてしまった。眼前の少女は目に見えて怯えていた。よく見れば身体も小刻みに震えている。

「えっと……その……平沢?」

 気の抜けた声が口から溢れる。舜助は激しく動揺していた。この女、もしかして雷が怖いのか。信じられなかった、日頃のあの態度を見ている舜助からすれば平沢は雷とか澄ました顔で受け流してしまいそうだからだ。それこそ眉一つも動かさずに。

 類を見ないほど動揺した舜助は思わず口を滑らせてしまった。

「あ……そういえば俺がアニメDVDに紛らせて面白半分冗談半分で持ってきたホラー系の奴には一切触れてなかったよな。もしかして平沢、そういう幽霊とか雷とかの怖い系は苦手なのか? 落選した原稿にもホラー系は一作もなかったし」

「そ、そ、そんなことあ、あるわけないでしょう。溝鼠が、口を慎みなさい。あんな音が無駄に大きい放電現象なんてこ、怖くないわ。そ、そもそも幽霊なんて網膜が誤って投影した姿に過ぎないわ。あ、あんなのはいないと思ったら絶対にいないのよ」

 声がやけに震えていた。少し涙声だし。全く説得力がない。いつものあの超然とした雰囲気は消え去り、声も凛として芯の通ったものではなくなっていた。

「いや、お前一応姉貴からバクのこととか騎士のこと聞いてるだろ。この二つの存在知ってて幽霊がいないとかよく言えんな」

「それとこれとは存在が別でしょう。第一、私はその騎士もバクも肉眼で見たことはないのよ」

「ああ、そうか。俺も騎士状態のところは平沢に見せたことないか。折角の機会だし見せるか。見て驚け! あの姿を見れば流石のお前でも思わず格好いいと言ってしまうこと請け合い」

 そう言ってソファの横にあるスーツケースと取りに行こうとして、はたと気付く。身体が動かん。視線を投げるとそこには服の袖をがっちり摑んだ小さい手が。力強く摑み過ぎて少し赤くなっている。視線を上向けると涙を溜めた瞳が見返す。

「おい離せ」

「言われるまでもなくそうしたいのだけど。志波くんの服なんてダニが大量に潜伏していそうだから。けどあなたはそれでいいの?」

「何がだ?」

「目と鼻の先に校内一と言っても過言ではない超絶美少女がいるのよ。この機会を逃してしまえばあなたこの先、一生女の子とこんな距離で会話することもできないのよ」

「なんで一生できないのが前提なんだよ。できるよきっと! ……たぶん。まぁ確かにお前の言にも一理ある。しかし俺の雄姿を見せつける絶好の機会でもあるし、ここは諦めるしか……。俺にとってはお前に格好いいの一言を言わせるほうが重要だ」

「たとえ天地がひっくり返ろうとも私が志波くんのことを褒めることはないわ、絶対確実に。だから大人しく諦めなさい」

 何だこの押し問答は、と内心で辟易していると一際強く袖が引かれた。意外にも力が強くて思わずよろけてしまう。そして数センチ先まで可憐な顔が近付く。反射的に離れようとしたが文字通り袖を引かれて離脱は叶わなかった。

 甘く蠱惑的な香りが鼻腔を刺激する。至近距離で潤んだ瞳と視線が交錯する。浅い息遣いが頬をくすぐる。小さく開いた桃色の唇の奥、ちらりと赤い舌が覗いた。舜助の心臓が激しく脈動する。やがて掠れた声が口から漏れる。

「俺の騎士姿はまた今度拝ませてやることにする。感謝しろ」

「それはこちらの台詞よ。それと私が志波くん如きを賞賛するなんてありえないことよ」

 そこで会話が途切れ、部屋に雨音と秒針の音だけが響く。お互い無言のまま顔を見合わせていた。そこで二人してハッとすると同時に顔を正面の窓に素早く向ける。舜助の肩が平沢の腕に確実に触れ合う距離だった。

 そこから平沢が落ち着くまでの数分間、二人は無言で寄り添ったまま窓の向こうを見つめ続けた。



「うおっ……! 何だ?」

 数分立ち、二人が相対してソファに腰かけたその時けたたましい警報音が鳴り響いた。スーツケースが発生源のこの耳障りな音は、緊急通信受信時に鳴る特有のものだ。驚く舜助の脳裏にある可能性が過る。

「まさか松か……!」

 舜助の顔から血の気が失せていく。スーツケースに飛び付くと応答する。スピーカーモードにされた通信口から聞こえた声は悲痛な叫びだった。

『兄貴助けてくださいッスゥ! オレ今二体バク相手してて応援まだ来なくてとにかくオレピンチッ』

 ぶつと音声が途切れる。通話を終了したのだ、舜助の方から。舜助はふかふかのソファに座り直すと冷めた紅茶を一気に飲み干し、一言呟く。

「紅茶をもう一杯頂けるだろうか?」

「いやよ」

 即答だった。声の主は先程の醜態が嘘のような平常運転をしていた。冷めた表情で自分の分だけ紅茶を継ぎ足していく。二杯目の紅茶に一口飲むとその黒い瞳がこちらを刺す。

「それより何、今の? ひどく不快な声が聞こえたのだけど」

「あ? あれは気にしなくていい。気にする必要もない」

 そこで再びの通信音が二人の会話に割って入る。舜助は無視を決め込もうとしたが、前方から恐ろしく冷たい視線を刺されて心底ビビリつつ仕方なく通信を受ける。

『なんだよ。要件を手短に纏めろ、五文字以内だ』

『そンなン無理スッよ! ああ! 切らないでッ! ガチでピンチなンすよ! 敵はバク二体、《戦風》の見立てだと両方竹の中ランクらしいンス!! オレ一人じゃ手に負えないンスよ! だから兄貴、早く助けに来て下さい!! ッぐはァ!!』

 そこで通信が切れた。おそらく横須賀の人工知能《戦風》が装着者が攻撃を受けたことで無理やり通信を切ったのだろう。横須賀が複数のことを同時進行できない馬鹿であることも、戦風はしかと認識しているらしい。

 面倒くさくなって思わず嘆息する。そんな舜助の様子を見ていた平沢は何を思ったか、舜助の空いたティーカップに紅茶を注いだ。唖然とする舜助を尻目に平沢は言葉を告げる。

「それを飲んでさっさと行って来たら、友達なのでしょう? 類は友を呼ぶとは言い得て妙ね」

「あんな終始喧しくて暑苦しい奴と一緒にするな。俺史上最低の悪口だったぞ、今の。言っとくがあいつは友達じゃねぇ。ただの同業者だ、それ以上でも以下でもねぇ」

「本来の仕事はバクを殲滅することでしょう。志波くん、あなたは護衛任務が嫌なのでしょう。つまりこの状況、一時的とはいえ合法的に私の護衛を辞めることができるのよ。良い機会ではなくて?」

 澄ました声でそんなことを言ってくる。まるで嫌われるのは慣れているとでも言いたげな態度だった。舜助はしばらく黙考すると早々に結論を出す。「しゃーねー、行くか。また通信掛かって来ると思うとげんなりするし」

「正直な人ね。そこは嘘でも『いや俺にとってはあいつより平沢の方が大事だから』みたいな歯の浮くような台詞を吐けるようになれば、少しはモテるのでないかしら。幼児相手には」

「いやそれはモテるとは言わねぇ、好かれるって言うんだ。つか何だよ今の声、俺のものまねのつもり? 無駄に激似じゃねぇか、どっから声出してんだよ。あと俺は嘘が嫌いなんだよ」

 完全に平素に戻った平沢に言い返したところ、平沢の肩がぴくりと反応した、まるで気になる言葉を言われたかのように。少し気になったが、次の返しを受けて舜助は急いで発進準備を整える。

「そうなのね。……急いだ方がいいんじゃない? あなたの不在を狙ってその松ランクという輩が私を襲いに来るかもしれないわよ」

「そん時きゃあ、姉貴が駆け付けてくれるだろうよ。けどまぁアレだ……十分でカタをつける」

「あまり期待はしないでおくわ。不意打ちくん」

 そう言ってにこりと笑いかけてくる。全然嬉しくない。

「不意打ちが狙撃手の専売特許なんだよ。ちょっくら行ってくる」

 スーツケースを胸の高さまで持ち上げ密着させる。するとケースは舜助の身体を取り込むように胸から全体に向けて、機械的な駆動音を響かせながら形を変形させていく。上半身と下半身を同時進行で覆っていったスーツは最後に頭を包み込み、がしゃという音を響かせてバイザーが顔を隠す。真っ黒なアイセンサーから銀色の光が迸る。視界に拡張現実の情報が表示されていく。それに合わせて機械音声が耳朶を叩く。

『オ久シブリデスマスター。オ勤メオ疲レサマデス。前回の装着時より体重ガ一・七キログラム減少。サゾカシ激務ダッタノデショウ』

「久しぶりだな雪影。まぁある意味激務だな、平沢の相手をするのは」

「これが志波くんの騎士姿……」

 一人と一機の会話に澄んだ声が割り込んでくる。顔を向けるとそこには立ち上がってこちらに歩み寄ってきた平沢の姿。数秒間、その澄んだ瞳でじーっと舜助を見つめると微笑して一言。

「なんだかゴキブリみたいな姿ね、あなたにお似合いだと思うわ」

「言うと思ったよ。……真っ黒格好いいじゃねぇか、漆黒だぞ漆黒! ブラッククロームに輝く機体だぞ」

「ねぇ。さっきも思ったのだけど……あなた本当に背が低いわね。いえ、訂正するわ。その色、あなたの目同様に真っ黒でお揃いね」

「訂正ってそっちかよ……。それ訂正って言わねぇから、もっとひどくなっちゃってるから。あと身長のことには触れるな、デリケートな問題なんだよ」

 そこで平沢は大きく身体を真後ろに仰け反らせると顔に驚愕を貼り付けて、口をわななかせながら低いダンディーな震え声を絞り出す。

「っなんて図体してやがる……!」

「おい喧嘩売ってんだなそうなんだな! 何今の声、超格好いいんだが。やめろ、俺を見下ろすな」

 スーツを着用して多少は背丈が伸びた舜助だったが、それでも平沢との身長さは頭一個分はあった。その時またしても警報音、雪影が勝手に接続する。途端に大音量の声が鼓膜を揺さぶる。

『兄貴! 早くッ』

「うるせぇ!!」

 一喝して通話を切る。面倒くさいがさっさと行くしかない。がしゃりとスーツを鳴らし平沢に背を向け、声をかける。

「それじゃ行ってくるわ」

 しーん。

 返答はなかった。所謂シカトである。舜助の舌打ちを残して黒い影は部屋から出ていった。



『高度二千メートル二到達。演算ヲ開始シマス』

 その声共に視界に狙撃に関する情報が浮かび上がる。風速なんて目も当てられない、これは外すなと思いつつアイセンサーの望遠機能を作動させる。

 距離は八百メートル。なぜこんな高所なのかというと視線の先の馬鹿騎士が逃走しつつ低高度までバクを誘導しないから。一人の騎士が二体のバクに追われていた。空中を駆けて騎士を追い立てるのは青白い月光を鎧に滑らせる漆黒のバクたち。得物は段平の大剣を二本ずつ、両者共に二刀流だった。

 逃げるのに必死の横須賀の機体装甲には、幾筋もの裂傷がはっきり視認できるほど濃く残っていた。松ランクの前には竹と梅の騎士は脅威的には霞んでしまうが、それでも強い。何より速い。

 先日、舜助がミニガンの斉射を経てヘカートで射撃したバクは竹の下だったが、一つ序列が上がるだけでその戦闘力は格段に跳ね上がる。その証拠に竹の下の斬撃を頭で受けて掠り傷だった舜助の装甲と、同質の堅牢さを誇る横須賀のスーツが傷だらけなのだ。流石に渾身の一刀の元で切り伏せられることはないだろうが、幾度も強力な斬撃を浴び続ければ危険だ。

 死にもの狂いで疾走する横須賀が急速に下降し、そして雲群に突っ込む。一瞬遅れてバクたちも雲に潜る。雷に打たれないないかどうか、わくわくします。

『マスター、ソノ思考ハ汚イデス』

「お前まで俺の思考を読むのかよ。勘違いするな、俺はバクも含めて三者共に勝手にくたばってくれたら良いのにと思っただけだ」

『尚ノ事酷イと思イマス』

「ほっとけ。一応宣言しちまったからな、十分でカタをつけるって」

 そう言って舜助は狙撃体勢に移行する。膝撃ち姿勢になるとフリップアップ・カバーを跳ね上げる。

 軽く銃身に指を滑らせる。舜助は狙撃前に必ずこの動作を行う。一種の癖であると同時に必ず当てよう、と銃に思いを告げる仕草でもあった。狙撃銃は鈍色の光で無言の返答をしてくる。今日はヘカートⅡではなく対戦車ライフルだ。竹の中と聞いて急遽武装を変更した。

 ヘカートⅡがもし擬人化したら「この浮気者」と冷たく罵られそうだ。そのイメージ像が何故か平沢氷華の姿だったのは気にしないことにする。すでに三者の姿が雲の中に消えてから十秒が経過していた。雪影に質問を飛ばす。

「雪影。雲の中まで軌道演算できるか? 出てきた所を狙い撃つ」

『オ任セアレ』

 静かに雪影が応答したその直後、視界に未来視とも言うべき予測軌道が表示される。雲を見越した視界の先で三つの影が縦横無尽に駆けている。アイセンサーが懸命にその姿を追尾する。未来視で見たその場所をわずか三秒後にバクが高速で通過する。

 舜助は無線を開いて横須賀にコールする。しばし間が空いて応答が返ってくる。

『兄貴! 来てくれたンスか!?』

 スーツのアイセンサーがあれば八百メートル先の舜助のことは余裕で捕捉できたはずだが、やはり逃げるのに必死で気付いていなかったらしい。また五月蝿くなる前に要件のみを伝える。

「横須賀、今から俺がカウントするからそれに合わせて急上昇しろ。俺のステルスが機能して奴等は俺の存在を察知していない。雲から出てきたところを狙撃する。胸部に当たれば御の字、脚部に当たっても体勢を崩すはずだ。そこをお前が仕留めろ。もう一体は俺が引きつけるから一撃で決めろ。以上だ」

『合点承知の助でスッ!』

「うざっ……。まぁいい。カウント開始する。五、四」

 カウントを呟きつつ、把手を引いて初弾を薬室に送り込む。銃床を肩付けし、銃口を高速演算によって導かれたその通過ポイントに照準する。スコープを最高倍率に上げる。照準線の交点をわずかに微調整する。引き金に指をかけわずかに撓ませる。

「三、二、一。上昇。空の彼方まで駆け上がれ!」

 その掛け声と共に影が鋭角に方向転換し一気に急上昇。残りの二つの影がそれを追随する。わずか三秒後、雲に風穴を穿ち一つの影が雲海から跳び出してきた。その姿を視覚が認識したと同時にトリガーを引き切る。

 耳を聾する轟音と網膜を焼かんばかりの派手な銃口炎が銃口から迸る。大気を切り裂き飛翔したタングステン・カーバイド被甲の五十口径徹甲弾は、続いて跳び出してきたバクの胸部下の腹部に衝突した。聴覚センサーが甲高い衝撃音を捉え、バクの身体が弾かれたように吹っ飛ぶ。半ば自動的に把手を引き次弾を装填。

 薬莢が排出され空中を回転している間に横須賀は空中で身を翻すと、ある一点で身体を急停止させる。まるで地面に足を接地したかのような姿勢になると思い切り足を撓め、溜められたその莫大なエネルギーを放出した。

『おっりゃああァァ!!』

 勝手に開かれた回線から横須賀の叫び声が聞こえた。薬莢が宙に落ちるのとほぼ同時に横須賀の身体が爆発的に加速した。一瞬で最高速に達すると衝撃波を発生させながら急下降する。落ちる先には弾着の衝撃から体勢を立て直しきれていないバクの姿。

 急接近する横須賀に両の大剣を振り下ろすが、その不安定な姿勢での剣撃の威力など高が知れていた。横須賀の両手には所持者の背丈をゆうに超える巨大な西洋剣が握られていた。空中で三本の剣が甲高い金切り音を響かせて衝突し、派手に火花を散らす。しかしその均衡も一瞬だった。

 横須賀の水平に放たれた一閃は容易く二本の剣を叩きおり、振り抜かれた切っ先はその先のバクの漆黒の鎧の隙間に吸い込まれ、その内側の肉を切り裂き骨を断った。

 抜きざまに放たれた斬撃は標的を絶命せしめる、筈だった。そこでバクは憎悪とも執念とも取れぬ行動に出た。首を半ば切断されたバクは身を翻し攻撃直後で背中がガラ空きの横須賀に襲いかかろうとする。しかしその頭部に

銃口が据えられた。

 バクの背後にいたのは舜助だった。横須賀が仕留め損ねるのを計算して狙撃直後に駆け出していた。立射姿勢で引き金に指をかけながら一言呟く。

「この距離なら高度とか風速とか関係ねぇな」

 直後に引き金を引き絞る。数十センチ先から放たれた対戦車ライフル弾は夜の闇を血の赤に染めた。把手を引かずに即刻真上へ退避する。数瞬後、その場所を暴力的な風切り音と共に二本の大剣が通過する。

 舜助はさらに跳躍すると月を足裏に立射の体勢を取る。真上に銃身を向けてスコープに覗き込む。視界の距離計は百メートルを示している。天地の逆転した宙吊りの体勢で標的を狙う。素早く把手を引き再装填。聴覚センサーに先程のバクの身体が飛散する音を捉えながら、引き金に指をかける。

 視線の先のバクは雲海を背後に、身体の前で二刀を交差させ突撃の体勢を取る。両者の間に緊張が迸る。先手必勝と舜助がトリガーを引き切ろうとしたその時。バクの背後の雲にぼふんと小さな黒穴が空きそこから一つの影が突撃してきた。

「ッ……!」

 舜助は鋭く息を詰める。未定義反応、つまり横須賀ではない。

「新手かッ……!」

 即座にそちらをポイントしようとした舜助は恐るべき光景を目にした。厚い雲を突き破ってきたその影が、気配に気付いて振り向こうとしたバクの首元を鎧の間をすり抜けて行き掛けの駄賃とばかりに切り裂いたのだ。兜と厚い面頬が宙に吹っ飛ぶ。舜助は本能的に宙に飛んで生首と化したバクの頭部を撃ち抜く。射抜かれた頭部が鮮血を迸らせる。そして氷塊を割り砕いたような爆音を伴って爆散、残された騎士鎧に包まれた身体もそれに続く。

 無意識的に把手を手前にリターンし排莢する。その真鍮色に輝く薬莢を目前にまで迫った影がキャッチする。

「…………」

「…………」

 両者は二メートルの距離を空けて相対したまま沈黙した。片方は天地を逆転させて、もう片方は雲海をバックに両腕を胸の前で組んでいた。まるでそれが癖であるかのように。

 舜助は脳内で眼前の騎士を考察する。そう、その影は騎士だった。見た目は舜助と似たスタンダードな形だ。しかし装甲が全然違っていた。騎士の鎧は基本的に重装甲で舜助の機体もその例に漏れていない。だが目の前の騎士は全体が優美とも言える群青色の輝きを帯び、装甲も比較的華著な部類に入る。その装甲は月光を浴びてほとんど深い青色に見えた。

 全体的にスリムな印象を受ける長駆を鎧う装甲の胸部のアーマーは、横長の金属片を重ね合わせた和風の具足のようになっていた。しなやかさを感じさせる脚部に、Vの字を後ろに傾けたような形をした頭部と炯々と光る紫色のアイセンサー。

 そして右手には一振りの日本刀が握られている。刀身の上を青白い月光が滑る。しかしただの刀ではない。舜助はおもむろに人差し指でその刀を指差し、問う。

「その刀、バクの超速再生能力を採用しているな。あんな正確無比かつ乱暴な斬撃をすれば刃こぼれしなければおかしい。だがその刀は新品同然に輝いている。……貴様、何者だ?」

 バクの驚異の再生能力はあの全身を覆う鎧にも作用する。その能力は騎士の装甲にも応用されている。しかしその再生能力は一瞬で回復されるというものではなく、しかしそれでも一分すれば嘘のように鎧の傷も修復される。この能力を武器にも採用しているのは聞いたことがあった。装甲全体より規模の小さい刀などなら一瞬で修復されてしまうだろう。しかしこの刀はそれだけではない。

 問われた騎士は無言を貫いていた。再度質問する。

「その刀は高周波ブレードと見たが如何に?」

 今現在もその刀は微細だが音叉のように揺れ続けている。刃の高周波振動は異音を伴い、しかしそれも徐々に可聴域を超えたクリアなそれに変質する。これのおかげで刃は今なお折れることなく、そしてこの振動を伴った斬撃だったからこそバクの首はいとも容易く宙を待ったのだ。

「先の剣撃、雲を突き破るほどの速度で駆けながらの抜きざまの一閃。恐ろしい芸当だ。貴様……何者だ?」

「…………」

 予断なくその騎士に銃口を据えたまま再三質問する。風鳴りだけが静寂を紛らす。重い沈黙と一方通行の会話は無限に等しい時間続くかに見えたが、終わりは呆気なかった。

「おーい、アーニーキー! 何してンすか?」

「はぁ……」

 せっかくこれから格好良くこの騎士と対話して、この邂逅がきっかけで両者はライバル関係に発展し、鎬の削り合い、お互いを倒すために技の研鑽に励み、そして舜助がピンチの所にこのライバル騎士が現れて「お前を斬るのはこの俺だ」とか言って共闘するという熱い展開を演じようと思ったのに、台無しだ。

 舜助はうんざりとしかし、瞳を鋭くしてその呑気な声で空気をぶち壊しにした張本人をバイザー越しに睨め付ける。横須賀がこちらに向かって小走りで近づいてきていた。

 その姿は奇抜そのものだった。まず頭部には鍔広のまるでカウボーイハットのような深紅のパーツが取り付けられ、前面は漆黒の鏡のようなゴーグルになっており、その奥で黄金色のアイセンサーが光っている。

 続いて上半身は真っ赤に発光する武者鎧のような装甲に覆われ、脚部は極黒のブラッククローム(本人曰く兄貴とお揃いらしい)。そして極めつけは背中に鉄の剣帯で吊られ、握られた刀身と同色の銀色の鞘に収められた巨大な西洋剣。

 欧米と和風と洋風がごちゃ混ぜになった出で立ちをしていた。はっきり言って不審者だった。

 鋭利な視線に串刺しにされたその男は場違いなほど気の抜けた声を出す。

「いやー流石っスね兄貴! オレ仕留め損ねてヤバイと思ったんスけど、そこをすかさず兄貴が狙撃してくれて、オレ肩越しに見てたンすよ。超カッコ良かったですッ!! その後も油断なく銃構えてて超痺れましたッ!!」

「……横須賀」

「ハイッ、何スか兄貴!」

「一発食らっとくか?」

 騎士に向けたままだった対戦車狙撃銃を身体を捻り、逆さに見える横須賀の眉間部分にポイントする。銃口を向けられた横須賀は身体を大袈裟に仰け反らせ、頓狂な悲鳴を上げる。

「ちょ、待ってください! オレなんかしましたッ!?」

「心配するな。弾は装填済みだ、あとはこの引き金を引き絞るだけだ」

 トリガースプリングの軋む音を聴覚センサーで捉えた横須賀は泡を食ったように身振り手振りで喚く。

「マジで待ってください!! 洒落になんないスよ、マジでッ! ちょっとそこの人もなんとか言ってやってくださいッ!」

「…………兄貴」

 唐突に群青色の騎士が口を開いた。横須賀が歓喜したように弾んだ叫び声を上げたため、銃身を鳴らして黙殺する。視線を謎の騎士に転じるとその騎士は再度発声した。

「…………貴様は何者だ?」

 金属質の残響を伴うやや高めの声が夜天に殷々と響く。眼前の騎士は何かしらの機能を作動させて声を変えているようだった。しかし声の雰囲気は男のそれだった。舜助は訝しげに眉根を寄せながらどう返答したものかと悩む。本名を言ってしまったら危険な気がする。万が一にもこの騎士が舜助のことを知っていた場合、色々と面倒なことになる予感がある。

 いっそ偽名でも名乗っておこうかと口を開く。

「ジョン、ジョンだ」

「ジョンか。ありふれた名前だな……偽名か」

「ちょ、そこの騎士さん駄目ですよ、今兄貴がカッコつけたんスから。ちなみに今のジョン・ドゥってのは日本でいう名無しのことなんスよ」

「お前は黙っとけ、撃ち殺されたいのか」

 空気も読まずに横須賀が横槍を入れてくる。横、横、五月蝿いなこいつは、と内心イラッときた舜助に対し群青の騎士は再度質問してくる。

「再度問う……。…………貴様は何者だ?」

「聞いて驚け、見て驚け! この方をどなたと心得る!? 獏討騎士序列二百位の漆黒の騎士、人呼んで《沈黙の暗殺者サイレント・アサシン》。控えろォ! 群青の騎士よ!」

「なんでお前が答えてんだよ。あと何だその二つ名は? 初耳だぞ」

 舜助が問うと何故か横須賀は偉そうに両腕を組んで我が事のように語り出す。ウザさ極まれり、だった。

「極黒の騎士よ、兄貴はもっと自分が有名人だってことを自覚したほうがいいです! オイ、群青騎士! この方はな半年前に終戦を迎えた《獏騎大戦》の初期から最期まで最前線で活躍した戦士だぞ! バクからは神出鬼没の狙撃騎士と恐れられ、戦争中盤ではあの松ランクをたった一人で二体も倒したんだぞ!!」

「ッ!」

 横須賀の大声が終わるより早く、眼前の騎士は突然舜助に切り掛かってきた。その剣閃をすんでの所で回避する。鋭利な切っ先が顎を掠り火花を散らす。大きく後方に跳躍した舜助は久しく地上を下に立ち尽くした。

「危ねぇ! オイやめろ! やんのかゴラァ!」

 近くにいた横須賀に群青騎士が連撃を見舞う。迫り来る剣閃を巧みに躱す横須賀はがなり声を上げながら後方に退避する。その横須賀を追撃することなく群青騎士は刀を正中線に構えると、その切っ先を舜助に向け戦意の篭った声を投げかけてくる。

「やはり貴様が狙撃騎士か……。……《瞬神・蒼騎士》の弟子かッ!」

 同時に空気を踏み込む。大気が振動し彼我の距離五メートルを瞬時に詰めてきた。水平に放たれた撫で斬りをあわやという所で回避し、さらに後方に下がる。

 何故か眼前の群青騎士は舜助に敵意を抱いている。圧倒的不利な状況だった。相手が白兵戦型なのに対し、舜助は中・遠距離型。通常なら銃火器を用いる舜助の方が有利だが、如何せん相手が常に間を詰めてくる。これでは照準を合わせる時間もない。

 耳元を刃が掠め、空気が唸る。空気を裂く音が鼓膜を刺激する。氷柱を背中に突っ込まれたような悪寒が走る。全身が総毛立つ。高周波の刃が躊躇なく装甲を削る。装甲表面に断続的に火花が散る。舜助は空気を蹴りステップを踏んで巧みに躱そうとするがそれでも避けきれず、至る所に裂傷を刻む。装甲の自己修復が追いつかないほどの連続剣撃だった。

「兄貴に何しやがんだテメェ!!」

 群青騎士の背後を取った横須賀から巨大な西洋剣を大上段で振り下ろす。即座に連撃を中断した群青騎士は振り返り、身体を半身にする。銀色の剣閃が具足表面を掠め、虚しく空を切る。一時的に硬直する横須賀を左手を添えた一刀で斬り裂く。その刃は横須賀の顔面の鏡面ゴーグルを水平に真っ二つに切断し、内部の黄金色のアイセンサーが露出する。

「チッ!」

 すぐさま横須賀は体勢を立て直すと後方に退くついでに群青騎士に脇腹にローキックを突き刺す。群青騎士は堪らず上体をぐらつかせる。そこを退避した横須賀のリボルバー拳銃が狙い撃つ。撃鉄を起こし発砲。銃弾は頭部に命中する。弾かれたように頭部が後ろにカクンと仰け反る。しかし拳銃弾如きでは堅牢な装甲を誇る騎士服には傷一つ付けられない。しかしそれでいい。

「狙い撃つ」

 横須賀と群青騎士が高速の戦闘を続ける最中に二人から距離を取っていた。対戦車狙撃銃で群青騎士の真横、百メートル先から狙撃する。引き金を引き絞ろうとしたその時、体勢を整えた群青騎士がこちらに向き直る。立射姿勢で即座に発砲。轟音と銃口炎を視覚・聴覚センサーが捉えるより早く舜助はこの攻撃が悪手だったことに気付く。

 群青騎士の胸部の前で夜闇を切り裂いた流星のように輝く小さな光が、左右に分かれて彼方へと消え去った。群青騎士の身体を掠めていったその光は、高周波の刀によって切断された弾丸の欠片だった。その信じがたい事実を舜助が理解した時には、眼前まで群青騎士が肉薄していた。右手のライフルがしなやかな脚部によって蹴り上げられる。

 一瞬身体を硬直させた舜助は即座にバック転による蹴り上げを群青騎士のバイザーに叩き込もうと、重心を後方に移動させる。しかしそこに狙い澄ましたような半円の軌道を描く足払いをかけられる。堪らず舜助は尻餅をつく。その刹那が致命的だった。

 刀を宙に放った騎士は空いた右手で拳を作り、自分の頭上に振り上げる。引き絞られた右腕が月明かりを受けて獰猛に輝く。顔の前で両腕を交差し防御態勢を取ろうとし、その拳を舜助は見上げそして、硬直した。まるで金縛りにあったかのように指の一本まで全く動かない。視線がその拳に集中して離れない。目を限界まで見開きそれを凝視した。横須賀の叫び声さえ舜助の耳には届いていなかった。そして鉄槌の如き拳打が突き出される。


 甲高い金属音が夜闇に木霊する。高速の拳打が眼前の空気を裂いて迫り――――コツンと軽い音を鳴らした。時が止まったような静寂が流れる。風鳴りの音だけが響く。


「………………はっ?」

 舜助の口から嗄れた呻き声が漏れる。ほぼ同時に舜助の視界が真っ黒に染まる。続いて身体に重量のある物体が伸し掛かってきた。その重みをなんとか手で横にずらすと視界が晴れる。肩口に深い青色の装甲が見えた。

「……えっと……?」

 何故かつい先刻までこちらを攻撃しようとしていた群青騎士が舜助に覆い被さっていた。力なく舜助に倒れ込んだ件の騎士は糸が切れた人形のようにぴくりとも動かない。軽く揺すってみたが結果は同じだった。

「……気絶して……るのか?」

 一瞬、横須賀が何かしたのかと思ったが、仮にあのタイミングで全力で西洋剣を頭に叩き込んだ所で気絶まで追い込むことは不可能だ。舜助に無防備にその身を預ける騎士はそう判断できるほどに強かった。それに、と思い周囲を見渡す。発見した。

 左斜め前方、十時方向にいる横須賀と舜助の距離を雪影が弾き出す。視界の距離計には二百メートルと表示された。少なくともあの一瞬で接近して剣を頭部に直撃させる余裕はない、つまり。

「勝手に失神したってことか……」

 舜助の拍子抜けした声が夜闇に虚しく木霊した。



「うっ……んうっ……」

 あれから数十分経ち、舜助は取り敢えず群青騎士を背負って横須賀と共に下降した。雲海を突き抜けて聳え立つとある摩天楼の屋上に着地し、騎士を横たえた。あのまま高度二千メートル上空に放置しようかとも考えたが、バクの空中を走る能力を応用した反重力/慣性フィールドによって第三法則を無視した常識の範疇を超えた騎士の空を掛ける力、無反動の推進力は装着者の意識が健在の時にのみ発動する。

 つまりこの騎士は舜助に放置されたら、高度二千メートルから地上に真っ逆さまに落下する。それを理解していながら置いてけぼりにするほど舜助は冷薄ではない。舜助は横須賀に通常の哨戒任務を言い付けて、自分は気絶したままの群青騎士を見守るという名目で仕事をサボっていた。

 どうせ元の勤務場所ところで「志波くん自分の言葉に責任も持てないのね、呆れるを通り越して軽蔑するわ」みたいな感じで罵倒されるに決まっている。今日に限って松ランク来襲なんていう不幸も起こらないだろう。アスファルトの床に胡座をかいてそんなことを思っていると、突然隣から呻き声が聞こえた。そちらに視線を寄越すと緩慢な動作で件の騎士が起き上がったところだった。

「大丈夫かぁ?」

 取り敢えず声を掛ける。騎士は確認するように視線を巡らせた後、舜助の顔(もちろん素顔はバイザーに隠されて視認できない)をぼーっと見つめてくぐもった声を出す。

「あたし……気絶してたの? あなたが助けてくれたの?」

 あたし? この騎士、もしかして気づかない内に中身が入れ替わっているのではと突拍子もなく訝しむ。そんなことはないのだがしかし、その声は先刻聞いた威圧的な声音ではなくそうまるで。

 女のそれだった。

「お前、もしかして女か?」

 気付けばそんなことを口走っていた。すると突然、眼前の騎士が肩を戦慄かせて怒声を放ってきた。力任せに紫色のアイセンサーが輝くバイザーを跳ね上げる。

「何!? 女が騎士やってたら駄目なわけ!? あたし、そういう男女差別嫌いなのよね!」

「なっ……!?」

 舜助は思わずたじろいだ。急に怒鳴られたということもあるが、露になった素顔が見知った顔だったからだ。色素の抜けたような真っ白な肌に尖るような顎先、小ぶりな鼻に青みがかった綺麗な瞳。気の抜けた声が口から漏れる。

「お前、……綾瀬文か?」

「そうよ! 何か文句あるのっ! ってなんであたしのこと知ってんの?」

 威勢よく言い返したきた綾瀬は一転して訝しげな視線を向けてくる。仕方がないのでこちらもバイザーの下の素顔を晒す。

「あんた……誰?」

「おい、クラスメイトだぞ。我ながら自分のステルス能力が恨めしい」

「同じクラス? ……えーっと待って今思い出すから」

 舜助の顔を見た綾瀬はこちらに向かって「待って」といわんばかりに掌を向けると、額に手を当てて記憶に検索をかけているようだ。ややあって目を見開くと舜助を不躾に指差して叫声を上げる。

「ああ思い出した! あんたクラスのスチールウールだっ!」

「おい、何で俺の中学二年の頃のあだ名知ってんだよ」

 中学二年の理科の授業、スチールウールを使用した酸化実験をした時に付けられたあだ名だ。冗談でアルコールランプを自分のチリ毛に引火させられそうになった時は流石に肝を冷やしたものだ。その悪行を厳しく注意しなかった理科担当の高山のババアは今でも許さない。

「ちょ、目が死んでいってんだけど。キモい」

「キモくはねぇよ」

 バットトリップしたせいで目がさらに死んだようだ。何故舜助の出会う女子はこうも的確にトラウマを抉ってくるのだろうか。新手のいじめかと訝しむ。

 そんな舜助を「何こいつ? 素人童貞?」みたいな目で見てきた綾瀬は突然「あっ!」と叫ぶと、勢いよくこちらに詰め寄ってくる。清涼感のある香りが鼻腔をくすぐる。ペールブルーの瞳が怒り心頭といった感じで舜助を睨む。

「ちょっと! あいつ連れて来なさいよ! あのうるさい奴!」

「ちょ、顔近けぇから! は? あいつ? 横須賀のことか、何で?」

「だってあいつ、あたしに嘘ついたのよ! 絶対許さないっ……今度こそあのバイザーごとぶった斬ってやる!!」

 眉間に皺を寄せて瞳に憤激の炎を灯す綾瀬。やっと離れてくれた。数センチ先に華麗な顔があると心臓が保たない。あの直情馬鹿が嘘なんていう高等テクニックを使えるとは思えないが。疑問に思って問う。

「嘘ってなんだよ?」

「あいつ、あんたのことを序列二百位だの、なに? サイレント・アサシン? とか言ってたじゃない。しかもレベル5をたった一人で二体も倒したなんて。はっ、こんな弱っちい奴がそんな高序列者なわけないじゃない」

 憤慨した様子で捲くし立てる綾瀬、最期に嘲笑も付け加えてきた。

 獏討騎士序列、これは総勢一万人の世界中に散らばる騎士に与えられた強さランキングみたいなものだ。それで舜助が序列二百位であることを納得できないようだ。舜助は嘆息交じりに呟く。

「それは……ああ、そうだ。この序列は間違いだ。俺にそんな実力はない。狙撃手如きが一人で松ランクを倒せるわけがない」

「あら、随分と自分への評価が低いのね。そんな態度見せたってあたしのあんたへの評価は変わらないわよ! 残念だったわね」

「別に変えたいわけでもねぇよ。あとな、今のは謙遜って言葉を使うといいぞ。そうか、知らないか?」

「なっ!? そんな単語くらい知ってるわよ! 馬鹿にしないでくれる!」

 柳眉を逆立てて獣の如く舜助に嚙み付いてくる。巨乳の子は往々にして、という俗説が本当かどうか確認するための実験だったが、これは事実と認めければ。今度学会で発表しよう、そう心に決めた舜助は今更ながらの真実を告げる。

「お前、猫被ってたんだな。もしかしたら、と疑ってはいたけど」

「はぁ!? ええそうよ。別にあんたみたいな天然芝に知られたところであたしに被害があるわけでもないし」

 偉そうにそう言うと自慢げに胸を逸らす。重なり合うその具足の向こうにあの大きな二つのお山があると思うとドキドキする。舜助は可哀想なものを見るような視線を綾瀬に注ぐと、諭すように言う。

「綾瀬。今のは風評被害の四文字で済んだんだぞ」

「うっさい! 黙れ、志波! そんな四字熟語知らなくても生きていけるの!」

「いや、風評被害は四字熟語じゃないぞ」

 綾瀬はアホの子だった。皮を剥げば高圧的な高飛車タイプの女だった。横須賀並みに鬱陶しい。舜助がうんざりした顔で肩を落とすと綾瀬はまた何か思い出したのか、「あ!」と再び声を上げるとまた詰め寄ってくる。何こいつ俺のこと好きなの? ととち狂った思考をすると同時にまた威圧的に質問してこようとしてきたので寸前で待ったをかける。

「待て。腹を割って話すというか、もうちょいゆったり会話しないか?」

「はぁ? いきなりなによ。ゆったりってなに?」

 怪訝そうな視線をこちらに向けてくる綾瀬に対し、舜助は自分の首元を差し示す。意図を理解した綾瀬は不思議そうにしながらも首肯で同意を示す。そして二人して首元の装甲を指で押す。するとその部分が軽く沈み込みスーツが機械的な音を立てて変形し、両者の生身を頭部も含めた上半身まで露出させる。

「これならバクが突然襲いかかってきても対処できるだろ。さぁ話していいぞ」

「いったいこれになんの意味があるのよ? まぁ胸が苦しかったからありがたいけど、別にこんなことであんたに感謝してないから!」

「はいはい、劣化ツンデレ乙」

 綾瀬の敵愾心の抜け切らない反抗的な視線を受け流し、舜助は百八の特技の一つ盗み見るスキルを発動させた。そしてステルス効果を付加された視線でそれを見た。アメリカンなデザインの文字が大きくプリントされたTシャツを押し上げる二つの膨らみを。そう、このためにスーツを脱がせたのだ。

 シャツの上からも歴然とその形、大きさが見て取れる。シャツがはち切れんばかりだ。そして彼我の距離は数十センチ、手を伸ばせばすぐ相手の身体に触れることのできる超至近距離である。この距離からの視姦、思わず頬の筋肉が弛緩してしまいそうだ。努めて平然を装う。

 しかしその企みをすぐに終了した。綾瀬はこちらの一視線を的確にトレースしたのだ。そんな馬鹿なと驚愕する。舜助の生来から備わっているこの影の薄さはバクの野生の獣の如き感知能力さえ逃れる高ステルスだ。それがわずかこんな短時間さんびょうで破られるとは。

 ゆっくりと舜助の視線を辿っていった綾瀬は、その視線の終着点を認識し、顔を怒りで紅潮させた。

「このっ変態ッ!」

「あべしっ!」

 必殺の右フックが鳩尾に突き刺さった。肺腑から息が吐き出され床の上で身体を丸めて悶絶する。その様子を睥睨する綾瀬は苛烈に言葉を重ねていく。

「変態! クズ! チリ毛! チビ! 死に目! 不幸面! あ、あと変態!」

「ふっ、語彙が貧困だな。その程度の罵倒で俺は屈しない!」

「なにその自信……全然カッコよくない。つーかキモい。うずくまって言う台詞じゃないわ」

 眼力を込めて舜助が綾瀬を見上げ返す。綾瀬は引いた目ですすっと距離を取る。なんとか身体を起こした舜助は仕切りなおすように咳払いする。

「っそれでなんか話があるんだろう?」

「キモっ……じゃなくてええそうよ」

「あの真顔の小声で罵倒すんのやめてくんない。すげー傷つくんだけど」

「うっさい! あんた蒼騎士様の弟子でしょ」

「あ? そうだが」

「やっぱり!」

 そう返答すると綾瀬は胸に自分の手を当てて恍惚とした表情で熱っぽい吐息を漏らす。その手、胸に埋まりませんか大丈夫ですか、と心配を名目にチラ見する。今度はバレた様子はなく、というか当の綾瀬は虚空を見つめてその瞳はキラキラ輝いていた。まるで恋する乙女である。

「何お前、もしかして蒼騎士のファンなの?」

「そうよ! 瞬神・蒼騎士様……。獏討騎士序列第三位の騎士の中の騎士……! 深い青色の鎧を身に纏い、一振りの長剣でバクを斬っては捨て斬っては捨ての華麗なる剣舞……! その剣速は騎士最速クラスであまりの凄まじい機動速度から付いた字名あざなが瞬神・蒼騎士様……! 獏騎大戦においてその剣で三体ものレベル5を斬って捨てた最強の剣士……! はぁ……蒼騎士様……」

 聞いてもいないのに蒼騎士への賞賛の美辞麗句を並び立てる綾瀬。どうやら熱烈な信仰心を持った崇拝者のようだった。そこで舜助は残っている脚部の装甲を見つめて合点がいったように頷く。

「ああ、それでその装甲色なのか」

「そう。まぁ群青色なんだけど月明かりに照らされたらすごく蒼騎士様の装甲の色に近くなるの! だ・か・ら!」

 今まで機嫌が良かった綾瀬は、途端に輝いていたその瞳を半目にすると不機嫌そうにこちらを睨み付けてきた。トーンの下がった声を浴びせかけられる。

「だから許せなかった……! あんたみたいな弱っちいチビが蒼騎士様の弟子ぃ! そんなわけない、蒼騎士様がこんな狙撃しか能のない役立たずを弟子にするはずがない! そんな嘘、蒼騎士様に対する最大の侮辱よッ!!」

 八重歯を剥き出して獰猛に吠える綾瀬。青みがかった瞳が敵意に燃えていた。散々な言われようである。しかし気持ちは判らないでもない。舜助だってもしティアラのことを侮辱されようものなら、そいつを血祭りに上げるつもりだ。火に油を注ぐ結果になるのは明白だが、舜助は嘘が嫌いなので事実を口にする。

「そんなこと言われても事実だしな。それに、通常の序列は団長・副団長が決定するけど俺のはその蒼騎士が決めたことだからな」

「あんた、もう一発殴られたいの?」

 綾瀬は額に青筋を立ててもう一度拳を握る。拳打されるのを防ぐため、前置きも前振りもないに急な提案を提示する。

「じゃあ確かめてみるか、嘘か本当か。本人に」

「本人って蒼騎士様に会えるの!? う、嘘じゃないでしょうね!?」

「俺は嘘が嫌いだ。俺は一応あの人の関係者だから、普通に会えるぞ」

 舜助の提案に途端に瞳を輝かせる綾瀬。一気に上機嫌になった綾瀬は念を押すように舜助の眼前に人差し指をズビシっと突きつける。

「約束よ! 絶対会わせなさいよ、絶対だからね!」

「ああ、約束する」

「絶対、絶対だからねっ! やった……!」

 強く念を押した綾瀬は、嬉しそうにはにかんで小さくガッツポーズする。その笑顔は学校で見せた余裕のある鷹揚としたそれではなく、年相応の可愛らしいものだった。なんとか殴られずに済んだ舜助は小さく安堵の息を吐く。

 しかし次の瞬間、舜助は背筋が凍るほどの悪寒を感じた。反射的に立ち上がり真後ろ六時の方向へ振り返る。その時、けたたましい警報音が屋上に鳴り響いた。緊急通信を知らせる音だ。即座に装甲を変形させバイザーが下りるよりも早く応答する。

「どうした!」

「兄貴! ヤバイッス! バクが出やした、それも戦風の予測じゃ竹の上くらいじゃないかって!」

「落ち着け! すぐに向かう」

「ちょ、今の本当?」

 舜助につられて装甲を元の形態に戻しつつ立ち上がった綾瀬が訊いてくる。舜助の首肯に合わせて二人のバイザーが下りる。雪影が起動、視界の距離計に一キロと表示され銀色のアイセンサーが対象を捕捉する。こちらに背中を向けた横須賀のさらに先、プラス四キロ先に件のバクを発見した。各種センサー圏内ぎりぎりの位置だ。

 すると隣から嘲るような声が聞こえた。そちらに視線を投げる。

「レベル4くらいでビビってんじゃないわよ、情けない。あたしが一瞬で仕留めてあげる。あんたが手を出す暇なんてないわよ。それじゃお先!」

 挑発的な目でこちらを一瞥した綾瀬は床を蹴ると矢継ぎ早に宙を踏み込む。大気が振動し風切り音を残して疾走していった。凄まじい加速だ、あっという間に一キロの距離を走破し横須賀の側に並んだ。舜助も宙を蹴り疾駆する。二人に挟まれる形で急制動をかけ急停止した舜助は傍らのアタッシュケースから対戦車狙撃銃を取り出す。

 このケースは騎士のスーツ同様の反重力が付加されており、戦闘時は騎士を追尾するように飛行設定されている。安全装置セーフティを外し素早く把手を引き銃弾を発射可能にする。フリップアップ・カバーを上げてスコープを覗き込む。最大倍率にして照準線の中央に敵の姿を収める。アイセンサーの望遠機能が作動する。

 視線の先のバクはかなりの巨軀だ。鮮やかな赤銅色の重鎧を一部の隙もなく着込み、鏡のように磨かれた鎧はこの悪天候でなければさぞや美しい輝いたことだろう。関節部分は細かく編んだ銀鎖で覆っており、十字に切られた面頬の奥から途轍もない視線の圧力を感じる。全体的に重厚な印象を受けた。見る限り武装の類いはない。

 普通なら剣の一振りぐらい持っているものだが。そこまで考えて背筋に悪寒が走る。早口で雪影に問う。

「雪、奴の驚異査定をしろ。迅速に」

「了解。――――驚異査定、竹の上ト推定。マスター如何サレマシタ、心拍数ガ急上昇シテオリマス」

「もう一度査定しろ。あれは本当に竹の上なのか?」

「ちょっとなにぶつぶつ言ってんのよ? あたしはもう行くからね」

 舜助の異変に気付かない綾瀬は好戦的な目で前方のバクを睨み据え、左手に持った黒い鞘の鯉口を切り、じゃりんと刀を鞘走らせた。鈍色の刀身が冴える。綾瀬は刀を正中線に構えると足を踏み込もうとする。そこに叫びが迸る。

「ちょっと待て!!」

 その声が自分の声だと舜助は遅まきながら気付いた。傍らの二人から注がれる怪訝な視線を気にすることなく思考する。スコープの中の敵を凝視する。この背筋が痺れる感じ、以前感じたことのあるものだ。緊張から一回瞬きする。すると一瞬、バクの背後に炎のようなどす黒い光が見えた気がした。

「……あれは」

 掠れた声が喉から絞り出される。今の光を舜助は二度見たことがあった。しかし半年前まで続いた大戦の最中に見たその光は限りなく黒に近いダーククリムゾンだった。少なくともあんな真っ黒ではなかった。嗄れた声が漏れる。

「退避だ……逃げるぞ」

「はぁ!? なに言ってんのよ! あんたまでビビってんの?」

「兄貴どういうことッッスか?」

 綾瀬が高圧的に、横須賀が不可解げな声を上げる。その言葉につい苛ついてしまい声を荒げる。

「いいから早く逃げ――」

「ほう、貴様はおれの力を理解したか。流石だな」

 スコープの中のバクが消えたと認識した時には突然、肩にかしゃりと音を立てて手が置かれていた。全身の毛が総毛立つ。

「なっ!?」

「えっ!?」

 四キロ先に直立していた敵が忽然と自分たちの傍に現れたのだ。驚愕の声を漏らす二人を尻目にバクは舜助の肩を摑むと思い切り握り潰した。

「ぐあっ!?」

「ふむ、生身のほうまで潰せなかったか。やはり硬い」

 舜助の肩部装甲が無残にひしゃげていた。わずかに穴が空き少しだけ肩が露出する。そこからの二人の行動は早かった。綾瀬は軽いバックステップで瞬時に間を確保し、刀を振り抜こうとする。横須賀は素早く安全装置を外し遊底スライドを引き、自動拳銃で牽制射撃をしようとする。彼らのその動きは優秀だった、しかしあまりにも遅すぎた。

 転瞬、綾瀬の刀にヒビが入り刀ごと本人も紙切れのように吹っ飛ばされた。同時に横須賀の拳銃が真っ二つに切断され、その身体はぼろ雑巾の如くぶっ飛ばされて回転しながら宙を激しく幾度かバウンドしたあと、無残に転がり停止した。圧倒的戦力差だった。

 彼方の宙で仰臥した二人は一向に起き上がる気配を見せない。その一秒後、舜助はライフルを放り、右手に拳を作る。拳が届くほどの至近距離の戦闘においては刀や銃より拳打の方が速い。しかしその拳の上に静かに赤銅色の篭手に包まれた手が置かれる。頭上から異質な響きを伴った声が降り注ぐ。

「まぁ待て。しっかり手加減はした、死んではおらんだろう」

 ぐしゃりと拳が握り潰された。

「ぐああぁぁぁぁァァ!!」

 悲痛な断末魔が夜闇に響き渡る。思わず片膝をついた舜助は自分の右拳を左手で抑える。器用に手部装甲だけが木っ端微塵に砕かれていた。真上から神妙な声が落ちてくる。

「ふむ、手のほうまで硬い。手をばらばらの肉片に化するつもりだったのだが。人間の技術は凄まじいな」

「はぁ、はぁ、はぁっ……! お前……松ランクだな」

 息も切れ切れに声を絞り出す。顔を上げた舜助は赤銅の兜を睨みつける。バクは腕を組むとかしゃりと鎧を鳴らして大きく首肯する。

「如何にも。我は十一の地球騎士の一人、ブレイド・サジタリウス。今日は貴様、シバシュンスケに挨拶をしに推参した」

「挨拶だと……」

「貴様とは聖戦中に相見えることがなかったな。しかし我は貴様のことを知っているぞ。仲間を傷つけられ悔しいか? ならばあの時の姿になるがよい、我等の同胞だった蓮舞騎士の内二体を討ち取ったあの力を見せてみろ」

 硬質な声を響かせ、圧倒的圧力を込めてこちらを睥睨してくるブレイドと名乗ったバク。舜助はその圧力に呑まれることなく睨め付けながら力なく答える。

「……無理だ。あれは……もう、使わないと約束した」

「あのすばしっこい蒼い奴とか? フン、気に食わん。それとも憎悪する人間のためには戦えんか?」

「ッ!?」

 夜空を暗く覆う雨雲が唐突に雫を落とす。極黒の装甲の上で雨滴が弾ける。雨滴は次第にその量を増し、篠突く雨が剥き出しの掌から体温を奪っていく。

 舜助は呼吸も忘れ頭上のバクを凝視した。赤銅色の鎧を濡らしながら全身に雨を受けたままバクは微動だにせず、そのまま沈黙する。ある一つの雨粒が鎧に爆ぜて水音を立てた時、眼前のバクは殷々とした声を響かせた。

「知っているぞ、貴様のことを。知っているぞ、復讐に駆られ蓮舞騎士たちを殺したことを。知っているぞ、我が同胞の年若い少女を守るために人間を鏖殺したことを」

「……………………何故、それを……?」

 ひどく掠れた声が零れる。喉が渇き音を発する度に痺れる。思考が纏まらない。過去の記憶が脳内で断続的にフラッシュバックする。あの時の感情が、憎悪が、復讐心が、憤激が蘇ってくる。

「人間が、憎いか?」

 厳かとも言える芯の通った声が落ちてくる。注がれる視線の圧が舜助を貫く。降り注ぐ雨音に紛れて舜助の掠れ切った声が小さく響いた。

「俺は……俺は……」

 

 ばき、と雨音を搔き消す一際大きな凍結の音が雨天に木霊した。


「ッ!」

 ブレイドは弾かれたように電撃的に反応した。消えたかと思うほどの速度で退避する。数瞬後、眼前の空中に錐のように鋭い氷柱が忽然と出現し、空間を貫いていた。

 そして瞬き一回分の間に世界が変貌した。視界は真っ白に染まり、空中で凍て付いた数千の雨粒が音もなく落下していく。大気中の水蒸気が一瞬で凝結して濃密な氷霧と化し、舜助の装甲表面にびっしりと霜が走る。

「……これは……」

 渇いた喉から吐き出された息は真っ白だった。初夏のこの時期に吐けるようなものではない。つまり一瞬の間に周囲一帯の気温が急激に低下したのだ。

 後方に跳び退るブレイドの軌跡に無数の細氷が散っていく。赤銅色の鎧は舜助以上に霜に覆われていた。一際大きく後方宙返りをしたブレイドが空中に着地した瞬間、その足元の冷気が爆発的に拡散した。極寒の冷気が恐ろしい速度で重鎧を蝕んでいく。

「何……!?」

 さらにステップを踏んで退避したブレイドは即座に、その場から軋むような音と共に細氷を砕きながらバック転を連続で繰り出す。その動きを追うように一瞬までブレイドがいた冷気の霞から、直径数メートルもの巨大な氷柱が幾つも突き出てくる。

「チィッ!」

 空中に足を接地させたブレイドが舌打ちをしたと同時に、足元からブレイドを貫こうとした氷柱が一瞬で無数の細氷に変貌する。しかしその一瞬の停滞が運の尽きだった。

 ブレイドの四方の空間に忽然と巨大な氷塊が現れ、一気に加速してブレイドに殺到した。大音響の粉砕音が大気を震わす。四つの質量物体が直撃した衝撃でブレイドは体勢をわずかに崩す。

「くおっ! 邪魔が入ってしまったな、今日はここで退くとしよう。また会おぞ、少年。しばしの別れだ、我が――」

 その台詞は頭上と足元から現れた氷柱に遮られた。瞬時に姿を消したブレイドがいたその空間で氷柱が互いに衝突し、軋むような音を伴って破砕した。無数の小さな氷の欠片が地上へ落下していく。

「…………ぅっ」

 その様を見届けた舜助はたまらず左手で剥き出しの右手を強く抑えつける。右手は血の気をなくし真っ白になって、激しく震えていた。

 極寒の中、思い出したように全身が震え出す。歯がカチカチと音を鳴らし、吐く息が一層白くなってきた。冷気が内部機構にまで侵入し、体温調節機能を狂わす。

「…………寒い」

 その一言をきっかけにしたかのように張り詰めた緊張がほどけて、急速に意識が遠退く。雪影の警告する声が聞こえる。

 このまま意識を失えば、反重力の加護が消え去りそのまま地上に向けて落下する。霞がかってきた視界の端には、高度三百メートルの文字。

「お兄さん!」

 意識を完全に失う直前、切迫した声が聞こえた気がした。直後に身体を抱き止められたと思ったところで記憶が途切れた。

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