無関心少女は孤高であった
青白い月光を浴びながらがりがりと頭を搔く。もじゃもじゃの髪が指先に絡み付く。
時刻は午後七時時半。涼しい風が頬を撫でる。地図を片手に目前の建物を見上げる。そこには天を衝くかのように屹立した高級なタワーマンション。奇しくもそこは舜助が狙撃ポイントにしていた場所だった。
「あの銃声聞かれてたな……」
面倒くさい声が口から漏れる。科学の粋を結集したパワードスーツはバクを鹵獲し、その肉体を解析して製造された物だ。装着者を視認出来るのは特定の者だけで、その能力は触れた武器にも付随される。
銃声も剣戟音などの戦闘音も、銃口炎などの視覚的情報も一般的な人間には干渉しない。言わばバクと騎士は幽霊のような者だ。特定の者にしかその姿は見えないし触れられない。
故にこの建物の最上階に暮らす彼女には全てが聞こえ、見えていたかもしれない。
「それなら説明が省けて楽だけどな。物解りがいい奴ならなお良し」
そう一人ごちるとマンションの中に入って行く。エントランスの内装は豪華であった。床は徹底して磨き上げられ照明の光を反射し、清潔感のある空間へと仕立て上げていた。視界の端には如何にも高価そうな革張りのソファが置かれていた。
「エントランスにソファなんてあるのか……」
何となくそう呟く。高級なだけあって警備も厳重、呼び出しをかける。ベルを鳴らして数秒間応答を待つが反応がない。もう一度呼び出しをかける。やはり反応がない。
「居留守か……。勘弁してくれよ」
思わず肩を落とす。このまま待ちぼうけを喰らい続けて今日は部屋にすら入れてもらえないのかと、思ったその時やっとスピーカーにノイズが走った。
「……どちら様ですか?」
高く澄んだ声が鼓膜を揺らした。声から美しい雰囲気が滲み出ていた。これから学校一と言っても差し支えない美少女に対面するのだと意識すると少しだけ心拍が上がった。わずかな緊張を誤魔化すように口を開く。
「アポを取らせて戴いたセキュリティポリス(SP)の志波です」
盛大に口を滑らせていた。しかし先方は気分を害した風もなく一言。
「どうぞ」
音もなく開く自動ドアを見て舜助は内心拍子抜けしていた。ふざけた回答にツッコまないのもそうだが、名前を聞いてあの変態の関係者であることは容易に理解できた筈なのだ。
「毛嫌いしてたんじゃなかったのか」
何か釈然としない思いだったがとりあえず舜助はエレベータに乗り込み、十五階のボタンを押す。微かな一瞬の浮遊感の後すぐさま鉄の籠は上昇を始めた。わずか数秒で目的地に到着し扉が開く。
隅々まで掃除の行き届いた廊下を進み、表札も出ていない一室の前で立ち止まる。インターホンを押すとよくある電子音ではなく、上質な楽器じみた音が響いた。防音もしっかりしているのか、中の気配は一切感じられず、
「いや」
常人なら感じ取れないその気配を狙撃手の本能が鋭敏に察知した。人がゆっくり近づいて来る気配。それは扉を隔てた所でピタリと停止する。そして数秒後、これまたゆっくりと遠ざかっていった。
「おいちょっと待て。何その覗き穴から相手の容姿を確認して、不審者と断定したかのような態度は。人を見た目で判断するなッ」
扉を殴りそうな拳を懸命に抑える。ここでもし通報でもされてしまったらそれこそ面倒だ。そう思いながらも視線は下方へと吸い寄せられる。そこには照明を鈍く照り返す黒いスーツケースがある。舜助の愛用する携帯型パワードスーツ《LQ‐84I》の持ち手部分を握り締める。
「実力行使に打って出るか……」
そんな危険な思考が脳裏を掠めた。すると舜助の思考を読み取ったのか、気配が再び接近し続いて扉ががちゃがちゃがちゃと鍵を開けるような硬質な音を立てた。数秒後、複数個の鍵が完全に解錠されたが扉は開くことはなかった。スーッと気配が遠のく。
「そんなに俺の傍に近く寄りたくないか、そうですか」
勝手に入って来いと解釈した舜助は頬を引くつかせつつ、ドアを開けて重いスーツケースと共に入室する。玄関口にゆっくりにケースを下ろし部屋内を観察する。
部屋へと通じるドアが廊下に沿って三つある。その他に廊下の脇にはバスルームやトイレへと続くドアがある。廊下を進んだ先には控えめな間接照明に照らされたリビングダイニング。所謂3LDKという奴だ、一人で住むには広すぎる間取りだ。
死角を殺しながらの扉からの侵入をしていく。素早く室内掃討をして行き、ついにリビングに侵入。バスケしたことないけど。
まず目に飛び込んできたのは部屋の壁に沿って設置された木製の棚。そこには眼を見張るほどの大量の本が収納されていた。本棚は複数あり、冊数は目算でも百は軽く超えていた。
来客を想定していないのか比較的簡素なリビングだった。最低限の調度品に機能的な家電類、ビジネスホテルさながらのシンプルな部屋だ。正面には高級ホテルかよと思わず突っ込みたくなるほどのガラス張りの巨大な窓があり、そこから街を一望出来る。
その窓からの月光を浴びて佇む一人の少女に否応にも視線が引き寄せられた。この部屋で唯一温かみを感じるクリーム色のカウチソファに腰かけ、小作りなガラステーブルの上の稼働しているノートPCに視線を注いでいた。
束の間、身体と精神が硬直した。
流れるような黒髪は月の光を浴びて神々しい雰囲気を漂わせている。華著な身体はピンと真っ直ぐ伸ばされ、星空を封じ込めたように美麗な黒い瞳はただ一点を凝視している。少し小ぶりな鼻と淡い色彩の唇がそれに続く。その肢体は月明かりの下でも判るほどに、雪の如く白かった。
その光景はとても絵画じみており、幻想的だった。
無音に近い部屋の中で、ネグリジェとかいうワンピース型の寝間着(少なくとも初対面の男の前でするような格好ではない)から伸びる細い腕の先で踊る指先が発するキーの叩く音だけが響いていた。
「……ッ」
思わず息を吸い込む。無意識の内に呼吸を忘れていた。それほどまでに目の前に広がる景色は現実離れしていた。月明かりの下のその姿はとても儚げで妖精のようであった。
凝視されているのに気付いたのか、真剣さを纏わせていた瞳が舜助を射抜く。端整でキリリっとした眉を不快げに寄せ不機嫌そうに一言。
「そんなところで突っ立ってないで座ったら? 煩わしいから早く座りなさい」
鳥肌が立つほどにひどく冷めた声だった。無感情な瞳で一瞥してくる。舜助はそそくさと玄関まで戻りケースを回収すると、それをソファの傍に置いて自身もそこに腰かけようとした。
そこにピシャリと一声。
「私の正面に居座らないでくれるかしら。あなたの存在、非常に目に毒だから。死神と相対する趣味はないの」
「それは俺の顔面が死んでいるということか!」
思わず声を荒らげてしまった。平沢はさも当然とばかりに返答する。
「ええ、その通りよ。その濁った死んだ目と不幸面を直視し続けられる訳がないでしょう。ごめんなさいね私、伊達や酔狂で死人とお話する気はないの。判ったらさっさと視界から消えてもらえるかしら、あなたのその箒みたいな髪が酷く邪魔だから」
辛辣に言葉を紡ぐとにこりと笑う。初めて見る平沢の笑顔はとても美しく、苛烈に舜助の心を抉った。思わず泣きそうになった。舜助は押し黙ると大人しくソファに降ろしかけた腰を上げ、テーブルから二メートルほど離れた床に胡座をかく。この距離は心理学的には社会距離と呼ばれる、改まった場や業務上上司と接する時などに取られる距離感である。
舜助の情けないその様を一瞥し、まるで興味を失ったかのように視線を手元のPCに戻す平沢。静寂が場に満ちる。この沈黙を速攻拒絶された舜助はむしろ居心地がいいと思っていた。昼も夜も単独行動を貫く舜助はこのような普通なら気まずいと思う沈黙を好んでいた。
それは平沢も同じなのか全くの無関心を決め込んでいる。清美の相性が良いという言葉はこの共通点のことを指していたのだ。あの意味の判らない質問もちゃんとした意図があった。
変態性とも呼べる歪んだ感性と孤独体質。少なくとも後者は清美が持ち合わせていないものだ。
時計の進む秒針と軽やかなキーの音だけが空気を震わす。このまま黙ってても埒があかないと思った舜助は意を決して口を開く。
「おい」
「ひゃあっ!」
可愛らしい叫声が静かな部屋に響く。舜助は最初、平沢から発声されたものだと気付けなかった。あの冷徹とも言える態度と雰囲気からは想像もできない高い声だった。
少しソファから身体を浮かせて驚きを表現した平沢はこちらを見て得心がいったとばかりな顔をした。
「ああ、そういえばあなた居たのね」
「それは俺の存在感のなさを指摘しているのか」
「そんなこと言ってないでしょう、被害妄想も大概になさい。幽霊屋敷のお化け役か蒟蒻が適任だと思っただけよ」
「さりげなく俺の容姿も貶めてんじゃねぇよ」
巧みに影の薄さと容姿と髪質をその歯牙にかけた平沢は眩しいほどの満面の笑みを浮かべる。うっすらとえくぼが出来るとか綺麗な形をした八重歯があるとか、そんな益体もない知識を得てしまった。
黒髪黒目で容姿端麗、成績優秀、お嬢様で聞いた話では運動万能らしい。天は二物を与えんと言うが目の前は三物も四物も与えられていた。掛け値なしの美少女だった。
「品行方正で優等生なんてことを小耳に挟んだんだが、とんだガセだったな」
「あなたのそれは盗み聞きでしょう」
「っ貴様なぜそのことを知っている!」
「あなたのような人とそんな情報を共有するような人なんていないでしょ、常識的に考えて。消去法でいけば盗聴しか残らないわ」
淡々と決めつけてくる平沢。事実だから何も言い返せない。舜助はじと目で平沢を見返す。その視線は淡いピンク色の服に包まれた胸元へと伸びる。とんとん拍子で長所を挙げていったが、少なくともスタイル抜群ではないらしい。
そこでキロリと鋭い視線を浴びせられる。冷たい吐息が口許から漏れたことに舜助は気付いた。
「何か失礼なことを思われた気がするわ。その下心に満ちた下卑た視線を即刻切りなさい。さもなくば潰すわよ」
どこから持ってきたのか、その手には鋭利に研がれた鉛筆が握られていた。何人か殺しているような犯罪者の眼をしていた。冷や汗が頬を流れる。
「いや、そのあれだ。影が薄いことを短所と決めつけているその一般通念が間違っているのと同様に、慎ましいのが欠点という一般論もおかしんだよ」
「……そうね、あなたの言う通りかもしれないわね。ごめんなさい、みっともない姿を晒してしまって」
舜助の抗弁に納得したのか申し訳なさそうな顔をしながら、その今にも閃きそうだった手を下ろす。舜助が安堵の息を吐こうとしたその瞬間を狙い澄ましたかのように一言。
「自分の醜い部分を直視したくないのは弱い人間の性ものね。私はとても寛容な人間だからあなたのような憐れな人間に慈悲を与えることができるの。こんな可憐な少女に気遣われるのだから感謝なさい、そして自信を持って」
ソファからゆっくりと立ち上がった平沢は文字通りこちらを見下ろしながら神託の如く言葉を落とした。舜助は少々気圧されたが、このまま憐れまれるのも癪だったので負けじと言い返す。
「ああそうなんだよ。俺ってば余人では到底感知できないほど影が薄くてな。この目の下の濃い隈さえ取り除けば必殺仕事人に出演できるレベルなんだよ。顔も申し分ないほど整ってるし、教養もある。クラスの合唱祭の練習で頼まれてもいないのにラジカセを職員室まで人知れず取りに行って、クラスの連中に驚かれるほど気が利く。それにクラスの打ち上げの時、相手が出席の有無を訊いてくる前に断りを入れられるくらい気が遣える。存在する次元が違えば幻の六人目になっていただろうし、生まれる時代が違えば俺が猿飛佐助の後継者になっていたことだろう。現在もCIAが工作員としてヘッドハンティングしようかと本気で検討しているほどの逸材だぞ俺は」
舜助が女なら間違いなく惚れるくらいの格好いいキメ顔をしつつ嘆息することで美辞麗句を締め括る。その様子を平沢は呆然とした表情で見つめていた。だがそれもごく数秒間で、その表情はすぐに嘲りの色を浮かべた。頬に嘲笑を刻み、フッと馬鹿にしくさったため息を漏らし鼻を鳴らす。
「それは全てあなたの主観を通しての評価でしょう。知ってる? 例えその黒ずんだ目元を治したところでその光のない眼を矯正して、死に顔を整形しない限り端正な顔立ちにはならないわ。それと合唱祭の件はいつの間にかラジカセがあったことに関して、心霊現象ではないかと恐怖の悲鳴を上げたのではなくて? 打ち上げの有無はきっと相手は訊かずに済んで安堵していたのではないかしら。言っておくけど、あなたのその影の薄さはこの現代社会では何の役にも立たないわよ」
綺麗に髪を掻き上げて満足そうに嘆息する平沢。どこかスッキリした顔つきをしている。見事に論破されてしまった気がする。筋が通っている気がするのが余計むかつく。黙り込んだ舜助はそれでも反駁を試みる。
「じゃあ、なんだ。そこまで上から目線で言うからにはさぞや自分に自信があるようだな?」
舜助が意地が悪そうな顔で苛立ち交じりにそう言い返すと、平沢は自信ありげにその服の上から少し隆起している胸を逸らす。
「少なくともあなたのような人間よりは優れていると自負しているわ」
「今度は客観的に評価してやるよ。まず国語学年五位、英語学年十位だ」
「私は両方とも学年首位よ」
「クソッ、成績じゃ勝てねぇ! なら、この辺りで名の通っている進学校に通っている」
澄ました顔をしていた平沢は途端にその冷気を纏わせた瞳を優しげに細め、舜助に暖かい視線を送ってきた。
「なんと哀れな男。自分がお情けで面接を通過したことを知らないなんて……。真実は時に残酷ね」
「おい、なんでお前がそんなこと知ってんだよ。そんなわけないだろ……違いますよね?」
「現実から目を背けてはいけないわ。少なくとも良識のある面接官ならこんな常時不幸を振り撒いて、周囲の人々を不幸のどん底に落とし入れていそうな男に合格を与えたりはしないわ」
脳裏にその面接官の顔を思いだして軽く絶望する舜助。そんな舜助を見て平沢は「もう終わりかしら」と言わんばかりにこちらから意識を切ろうとする。舜助は騎士として備えた胆力を発揮して必死に喰らいつく。
「あ、あとは……料理が上手いとか。それと超絶天使の妹への愛情がマリアナ海溝並みに深いとか」
「料理なんて先入観やその時の体調、舌の感覚や食した人間によって評価が変わるわ。後者はただのシスコンじゃないあなた、次元の区別もできないような愚者なの? 知ってるわよ、そういうの俺の嫁とか言うのでしょ。けどそれってほんの数週間経てばころころ変わるのでしょう?」
汚物を見るかのような眼で蔑んでくる平沢。確かに一時期は心酔したヒロインも次期のアニメが始まれば掌を返すかのように呆気なく変わる。アニオタは一夫多妻制を尊重しているのだ。だが何よりもそのことを平沢が知っていたのが舜助には驚きだった。氷華嬢はこの分野に精通しているのだろうか。
論理誤差。事実をしっかりと確認・分析せずに、推論を先行させ他人を評価してしまうこと。この心理が人を見た目で判断することに繋がっている。例えば「金持ちのボンボンだから、甘やかされて育てられている」等。つまり、高貴な雰囲気を漂わせるお嬢様だからと言って二次元系に興味がないと決め付けるのは早計だということだ。
「以上かしら。随分と長所が少ないみたいね、人工芝くん」
「おい、なんで俺の中学の時のあだ名知ってんだよ。」
ちり毛を例えて人工芝。苗字と掛けている所もポイントだ……全然嬉しくねぇよ。にこやかな微笑を湛えて舜助のトラウマを的確に抉ってくる平沢。平沢はそれきり興味を損失させたのか舌刀を収め、目線を手元に固定し直す。その横顔は誠に遺憾ながら美しいと認めざるおえない。
清廉潔白という言葉が似合いそうな容姿をした少女は、毒舌、暴言、失言を得意とするツンデレを遥かに超越したただの嫌な女だった。冷た過ぎて触れた途端に火傷をしてしまいそうな冷血で苛烈な氷の華。触れ続けることの出来る者が存在しないであろう高嶺の花。それが平沢氷華という名の、周囲に不可視かつ堅固な壁を作り、真の姿を知る者が極端に少ない一人の少女。
自分とは似ているようで途轍もなくかけ離れている存在だと舜助は思った。舜助は友達と呼べる存在を足かけ十七年持ち合わせていない孤独な少年。小学生の頃、『無言鬼ごっこ』という唐突に始まり前兆もなく終了する、クラスメイトから畏怖された遊びを共にした竹下君も中学に上がると同時に舜助と疎遠になった。中学生、つまり思春期の始まりだ。それは周囲からの評価に過敏になる時期である。きっと竹下君も他の生徒と同様に自己承認欲求が肥大化したのだろう、そしてその意識が警鐘を鳴らしたのだ。
志波舜助と一緒にいれば自分の評価が下がると、自身のステータスが下落すると。
舜助はその事を恨んではいなかった。自己保身を優先するのは生物として当然のことだ。草食動物だって集団の仲間を犠牲にしながら数時間後には何食わぬ顔をして食糧を漁っている。まるでそれが必要な犠牲であったかのように。そんなのはただの偽善で、仲間意識という名の欺瞞だ。
「なあ、お前友達とかいるのか?」
「唐突ね。いないわ。特に必要とも思わないし」
平沢は特に気分を害した風もなく、こちらを見ずにひたすら無関心にそう答えた。虚勢でもない本音なのだろう。舜助はその答えにひどく共感していた。実際友達がいなくても生きてはいけるし、友達を持たなくてもコミュニケーション能力を培うことは出来るだろう。社会に出て必要になる会話術は学校生活で多用する『仲良くなるため』のそれではなく、『上手くやるため』の会話だ。
友達がいない=憐れな人間という中高生が持つ一般論からくる憐れみ、侮蔑、同情の視線を耐える覚悟さえあれば友達なんて作る必要はないのだ。彼女は孤高であっても孤独ではない。
「なんで作ろうとは思わないんだ? 言っておくがお前を護衛する人間として回答を要求する」
「そう。守る側と守られる側として話すなら、まず自己紹介をしなければいけないのかしら。一応礼儀として、あなたに通す礼儀なんて皆無だけれど、それでも礼儀として」
「何回礼儀と言うつもりだ」
「私は平沢氷華。普通ならあなたのような凡庸な人間が、私のいるこの聖域に足を踏み入れることさえできないほどの聖人よ。あなたのお姉さんに感謝することね」
「お前は神様かなんかか?」
「私の前世は冥界の女神・ヘカートよ」
「お前のその性格は前世から変わらないんだな」
奇しくも舜助の愛銃と同じ名前である。まだあの鋼鉄の塊の方が目の前の少女より可愛げあると舜助は思った。舜助は黙って続きを促すと平沢は特に心の準備をするでもなく、淡々とその理由を話していった。
「女は一般的に見た目が重視されるわ。だから端整な顔立ちをしている私はとても恵まれた女なのだと思う。けれどそれは長所であり短所だった。小学校の高学年、異性のことを意識し出す年頃ね。その頃から私に好意を寄せる男子が出てきてね、当然の如く嫉妬を買ったわ。中学生になってからはその嫉妬に駆られた女子たちが私を唾棄すべき女として排除しようとしてきたわ。私はそういう色恋沙汰に興味がなかったからその様は、とても憐れで滑稽に見えた」
平沢は自嘲するでもなく、同情を誘うような仕草をするわけでもなく、冷淡とまるで他人事のように語る。舜助とて十一年、学校生活を続ける上で存在を軽んじられたりと幾度となく辛い経験を味わってきたが、その経験も平沢のそれの前では霞んでしまう。少なくとも舜助はいじられはしても、排除されるようなことはなかった。
「だから同性の友達なんて、いえ、利害などの不純要素を持たない友情なんて私には培うことはできない。男とはそもそも友達にはなれないしね。理由はこんなところかしら。こういうお仕事では何よりも信頼関係の構築が必要だと聞くわ。私はあのお姉さんの弟という時点であなたのことを微塵も信用していないけれど」
「その説はすまなかった。次は俺が話す番だな、流れ的に考えて」
そこでその先は言わせないとばかりにピシャリと声が割って入る。
「いえ、その必要はないわ。名前だけ教えてくれる? 頭に鳥の巣なんて作っている怪奇な人の経歴なんて興味がないから」
「それは俺のちり毛具合を揶揄しているのか!」
月明かりの差し込む部屋で少年のツッコミを真顔で受ける少女の姿がそこにはあった。