護衛任務は果たして楽なのか
木製テーブルの上に朝食を並べていく。献立一、鮭ときのこの包み蒸し・とろろ昆布のすまし汁・五穀米・苺ヨーグルト。献立二、海苔の卵焼き・里芋と鶏の煮物・納豆・梅干し。献立三、和風ミニオムレツ・彩り野菜汁・キャベツと豚肉のおかか和え・納豆と海藻のサラダ。
朝食にしては豪盛すぎる食卓である。三人揃って合掌するとこの三種類の定食をぱくぱくと咀嚼していく、ティアラが。あとの二人はそれぞれ献立一と二の定食を食す。もそもそと舜助が焼き鮭を食べている間にもティアラの前に並ぶ品々が驚くべき速度で、その異界に通じているのではないかと本気で信じている驚異の胃袋に食道を通って吸い込まれていく。どうでもいいけど咀嚼する度にこくりと動く喉って何かエロいなと思いました。
舜助の隣で昆布のすまし汁を器用に音を立てないよう飲み込んだ清美は、目の前でぱくぱくごっくんを繰り返しているティアラを、まるで手塩に掛けて育てた弟子を見るような憂いを帯びた瞳で見つめる。
「ほんま姫ちゃんはよお食べるねぇ。お姉ちゃん感激やわぁ。ちょっと前まであんなに小さかったんに、あかん泣きそう」
感慨深げにそう言うと、和服の袖を口許に持っていきしおらしいポーズを作った。まるで嗚咽を堪えるかのような動作だ、わざとらしいことこの上ない。確かにちょっと前にティアラは志波家に引き取られた、半年前の話だが。少なくとも懐かしむほどの過去話ではない。そんな清美を見たティアラはむっとした表情を作ると、口をリスみたいにもごもごさせながら反論しようとしてきた。可愛いなぁ。
だがしかしその可愛らしい口から音が漏れることはなかった。口に物を入れている時は喋ったらいけないという清美の言い付けをしっかり守っているのだ。下卑美さんも割りと常識を弁えた人物である。
「見てぇ舜ちゃん! 口もごもごさせとる愛らしいなぁ、食べちゃいたい! ……げへ」
非常識を超えた変態道を弁えた人物であった。
言葉を発せないティアラはお茶碗を置くと高速で手をシュバババと動かした。手話で反駁しようということらしい。なになに、ち・い・さ・い・っ・て・い・う・な。どうやら『小さい』というワードに反応したらしい。
ティアラの身長は百三十センチ前半である。十才女児の平均身長が大体百四十センチ前後なので、少し小さいの部類に入る。そしてその情報をティアラも知っているのでなおさら気にしているのだ。舜助がこの前PCでネット検索した際に『十才 女児』と入力した所、予測変換で続けて『平均身長』と出て来たのだ。
むぅとした表情から本人が相当コンプレックスとしているのが判るが、その低身長は女性は大概抱きつきたくなるくらい愛らしい姿だ。ところで『小さい』と気にしているのは背丈だけなんですかね、ホントは他の部分も気にしているのでは。例えば胸とか。
もごもごしていたティアラは口に大量に含んだそれをごっくんと飲み込むと、じと目で清美を見つめた。
「小さくありませんっ。これから大きくなるんです、育ち盛りなんですっ。モデルさんみたいな大人の女性になるんですっ。お兄さんも私の背が伸びるって思いますよね……あ、ごめんなさい……なんでもありません」
途中まで瞳に炎を宿して熱弁していたティアラは瞬間、申し訳なそうに目を伏せる。その目は遠慮がちにちらちらと清美と舜助を交互に見ていた。清美が百六十センチ前半なのに対して、舜助は百五十センチ前半である。十七歳男児にしては低すぎる背丈であった。突然ですが、何故プリセットという名前なんでしょうか。答えは……お尻がぷりっとしてるから! …………はぁ、身長ほしい。
そう内心落ち込んでいる舜助を清美はフッと嘲笑した後、ティアラに満面の笑みを見せる。何か裏がありそうな胡散臭い微笑。
「姫ちゃん、そう悲観する必要あらへんよ。……そういえばこの愚弟は背が低い子が好みや言うとったなぁ、それで胸が小さければなお良しとも」
笑顔に比して声はえらく棒読みだった。その声にティアラの肩がぴくりと揺れたのと同時に、手に握られていた箸がぱたりと机に置かれる。目の前にはまだ三分の一くらいの朝食が残っている。
「ごめんさい、私もうお腹一杯です。お二人とも宜しければどうぞ」
苦しげにそう言って料理を進めてくる。その声には激しい葛藤の色が残っていた。そんなティアラを尻目に清美は黒い瞳を輝かせてぼそりと呟く。
「姫ちゃんの残り物……ごくり」
「おいティア、今言ったことは嘘だからな。だから無理するなよ」
それと同時にきゅるるると腹の虫が鳴った、ティアラの。静かにお腹を抑えると茹でダコのように真っ赤になった顔を伏せる。数秒間その華著な身体をわななかせると、恥ずかしそうに口をもごもごさせながら上目遣いで舜助に欲しがるような視線を向けてきた。
「その……やっぱりまだご飯食べます。お兄さんのもらってもいいですか? 私のはもうないので」
ちらりと視線を動かす。舜助もその視線につられて隣に顔を向けるとそこには、ティアラの食べかけを恍惚とした表情でしっかりねっとりと食していた清美の姿があった。もうほとんど残っていない。先ほどの棒読み発言はこれを狙ってのことだったようだ。
「はぁ、まったくこの人は……。いいぞ、好きなだけ食べて」
「ありがとうございますっ」
満面の笑みを舜助に披露して、もぐもぐと幸せそうな顔で食べかけを咀嚼していく。眼福、眼福。舜助が長閑な気持ちに浸っていると、突然ティアラがうぐっと声を漏らし苦しそうに胸を叩く。喉に引っ掛けたのだと理解すると同時に咄嗟に手近にあったお茶を差し出す。
「ティアお茶っ」
「ありがと……ございます」
律儀にお礼をするとこくこくとお茶を飲み干していく。おおっ、喉が何度も動いて……ドキドキ。
「ぷはっ……。ふー、助かりました……あっ」
「どうした?」
九死に一生を得たような顔をしていたティアラの顔がぼっと火を噴いた。あうあうと口許をわななかせると、ちらりと一瞬だけ気恥ずかしそうにこちらを見つめた。見事なまでの流し目であった。
「に、二重で間接キスしちゃいました……」
そう言うと穴があったら入りたいとばかりに顔を俯かせる。剥き出しの白い肩がほんのりと色づいていた。
「あ……」
つられるように舜助の顔も赤くなる。舜助が渡したのはペットボトルのお茶であり、ティアラが食べていたのは一度舜助が口をつけた物だ。気まずい沈黙が居間に満ちる……ことはなかった。なぜなら、
「はうんっ! 駄目やウチぃもう我慢できん! そういや姫ちゃん、胸が小さいこと気にしてとったよな。ウチが揉んで大きくしてあげるっ」
なん……だと。ではなくて。思わず『胸、小さい、気にしてる』に反応してしまった。
妙にエロい声が耳を刺激し舜助は横目で見ると、そこには荒い吐息を繰り返し頬を上気させて着物を脱いで胸元まで露出させた清美がいた。それなりに大きい膨らみが作り出す谷間には朱が差し、それは本人の興奮度合いを示していた。舜助は今にも飛び掛かりそうな清美の背後に回り込んで、両脇に手を差し込んで押さえ込む。
「やめろ、流石にそれは許容範囲外だ。俺の目が黒いうちは絶対ティアには手を出させねぇ! 落ち着けこの変態ッ!」
「や、離せぇ! 身体が疼いとるのっ、もう我慢できんの! ウチは誰の指図も受けん!」
「無駄に格好いい台詞を吐くなっ! おい、暴れんな! 危ねぇっての」
「ちょ、どさくさ紛れてどこ触っとんねん! なんやついにお姉ちゃんの身体に欲情したんか!?」
「しとらんわ! 誰が三十路前の行き遅れ女に欲情するか!?」
「まだ行き遅れちゃうわ!! おどれぶっ殺すぞッ!」
清美に年齢の話はタブーだと今更ながら思い出す。じたばた年がいもなく暴れる清美をなんとか押さえ付ける。視界端にアップに纏められた黒髪の下の真っ白なうなじが飛び込んできたり、時々なんか柔らかい感触が腕に伝わってきたがそれらは努めて気にしないようにした。
この醜い攻防は平行線を辿るかに見えたが、決着は意外にあっさりと着いた。
「食事中に暴れるんじゃありません!」
第三者の介入である。
暴れる二人はそちらに目を向ける。そこには背後に黒い炎(物理)を纏ったティアラが屹立してこちらを睨め付けていた。高熱の炎は周囲に陽炎を発生させていた。心なしか髪が逆立っているように見える。アイスブルーの瞳の奥に地獄の業火が灯った。
恐怖を体現したその姿を視界に収めた二人はそのままの姿勢で激しく震えつつ、現実から逃避した。二人は奇しくも同じことを思った。
――――ああ、最近の幼女は『闇の炎に抱かれて消えろッ!』が実践出来るのか。進んでるなぁ、と。
二人の思考はそこで途切れた。
「「ごめんなさいごめんさいごめんなさいごめんなさい」」
「もう怒ってませんからいい加減こちらに来て下さい。せっかく淹れたお茶が冷めちゃいます。……早く来ないと怒りますよ」
矛盾した発言をするのは水色の髪をちょこちょこ指で遊ばせている蒼眼の少女、ティアラ・プリセット。壁際で二人揃ってぶるぶると震えながら体育座りをしていた姉弟は、その少々苛立ちを含んだ声を聞きつけて速攻でテーブル近くまで戻った。
テーブルには湯呑みが三つ置かれわずかに湯気を立てていた。あの後食器の片付けをティアラ一人にさせるのは申し訳ないと思ったのだが、身体が恐怖の尾を引きまくっていて一歩も動くことが出来ずに後片付けは終了した。
先程の『食魔神モード』ティアラを思い出して舜助は思わず身震いした。ティアラ曰く『食事中はしっかり座って食べなければなりません』らしい。故にそれを妨げる者には死の鉄槌が下るのだ。あの状態のティアラは『松ランク』のバク並みに恐ろしい。
ふと隣に座る清美に目をやる。彼女の和服は明るい黒色から淡いピンク色に変わっていた。そう、あの煉獄の炎は器用に着物のみを燃やし尽くしたのだ。引火した途端、高速で清美が庭にある池に飛び込んでくれたおかげで事なき終えた。ちなみに舜助は清美を盾にしたおかげでほぼ無傷である。
頭の中で回想を終えた舜助は視線をティアラに戻す。ティアラは何故かじーっと自分の眼前にある湯呑みを真剣に見つめていた。どこか緊張感のある顔つきをしていた。すると途端にその表情が弛緩して口許に小さな笑みが浮かぶ。まるで小さな幸せを嚙み締めているかのようだ。
不思議に思いこっそりと湯呑みをチラ見するとそこには、一本の茶柱が。可愛いやっちゃのう。その光景を見たらついさっきまであった恐怖心が消えさっていった。手元の湯呑みを一口飲みほっと息をつく。
「清美さん」
澄んだ声が名を呼ぶ。呼ばれた本人はびくりと大きく肩を震わせる。どうやらまだあの恐怖心から抜け出していないようだ。いやビビリすぎだろ、気持ちは判るけどよ。
怯む清美は恐る恐る視線を声の主に向ける。ティアラは氷のような冷たい表情(決して怒っている訳ではなく、これが通常の表情なのだ)で短く告げた。
「お兄さんにお話しなければならない件があるのでは?」
「あ……。そうやった、あ、姫ちゃんさっき食べたあの海苔卵焼きおいしかったで。甘さ加減がウチ好みやったわ。姫ちゃんにウチの胃袋、完全に摑まれてしもうたわ」
「ありがとうございます。ただそれを作ったのはお兄さんです」
「あの卵焼きはあかんわ。海水飲んだみたいな塩っぱさが口の中に広がったわ」
「おい、なんだその高速掌返しは。あと俺がそんな初歩的なミス犯すか。晩飯抜きにすっぞ」
舜助のその脅し文句の威力はかなり高い。清美は家事全般のレベルがとても低く、特に料理の腕は壊滅的だ。フライパンを使わせればどんな物でもまる焦げにする。食べればもれなく発癌リスクが高まる出来栄えだ、味は秋刀魚の腸ですかってぐらい不味い。
それを清美も理解しているはずだが、何故か清美は自信ありげな表情でこう告げた。
「ええもーん、姫ちゃんに作ってもらうから」
「ああ、そんなことだろうと思ったよ。それでも保護者かっ」
「清美さん、本題に入りませんか」
冷たい声音が清美を正気に戻させた。はっとすると一つ咳払いして今度は舜助の方を向いた。大きい卓袱台の周囲に緊張が走った気がして、舜助は思わず居住まいを正す。
清美はいざ話し始めようとして口を閉じ、開け、また閉じてを繰り返した。
「おい、さっさと話せよ。おどれは金魚か」
「えぇ~、あんな人間に観賞されるしか存在意義を見出だせない淡水魚と一緒にせんといてくれる、傷心してしまうやん。握り潰すぞ」
「どの部位をだよ、怖ぇーよ。そんな目でお祭りの時金魚見てたのかよ。思わず金魚に同情しそうになっちまったじゃねぇか」
清美はおよよとしおらしいポーズを作るとわざとらしく言葉を紡ぐ。
「傷心と言えばアレやな、昔もこんな感じで舜ちゃんにウチ傷つけられたわぁ。そうあれは舜ちゃんが五才の時やった」
「何いきなり語り出してんだよ。それともこれが話さないといけないことなのか」
「ちゃうわ、そんな訳ないやろ。まあ黙って聞いときぃ。初めて二人一緒に銭湯に行った時や、当然のようにウチらは女湯に入った。あん時の舜ちゃんの表情は今でも鮮明に思い出せる、眼ぇキラキラさせて感激しとったわ。なんでやと思う?」
「そんな昔のこと覚えてねぇよ。大方初めての銭湯ではしゃいだ、それがオチだろう」
「そうやな。あん時ある意味はしゃいでたわ。ひとしきり浴場内を見渡した後な、舜ちゃんウチにこう言ったんよ」
そこで言葉を切ると清美は心の準備をするかのように一つ深呼吸し、充分に間を空けてから続きを口にする。
「『お姉ちゃん、おっぱいがたくさんあるよ』ってな」
「…………」
「うぅ、それって……」
その言葉の意味を理解したティアラは涙ぐむ。そんなティアラに清美は頷き掛ける。どこか悟ったような声音で続ける。
「あの頃のウチはおっぱいと呼べるほどのもんを持ち得ていなかった。あの時はまな板やったんや……」
自分の言葉に傷ついたのかぐぅと嗚咽を漏らす清美。その様を気の毒に思ったのか、ティアラがそのわずかに震える身体に抱きつく。
「もういいんです。もうやめましょう、清美さん。これ以上言っても誰も幸せにはなれません!」
「それからや、ウチのバストアップ人生の幕が開けたのは。ありとあらゆる方法を試し続け、舜ちゃんが中学生になった頃ついにAAだったおっぱいがCカップに到達したんや。あの時は嬉し涙で枕を濡らしたもんやで。そう考えれば舜ちゃんには一応感謝せなならんのかな、絶対にしないけど」
「しねぇのかよ」
抱き合う二人を見てなんだこの茶番は、と思っているとティアラがキッと睨み付けてきた。
「最低ですねお兄さん。女性の尊厳を踏みにじるその発言、お天道様が許しても私が許しません」
「いや、んなこと言われてもよ。餓鬼がイメージするおっぱいなんて大抵でかいぞ、餓鬼の間じゃ形がはっきりしてるくらいの大きさが相場なんだよ。てか餓鬼じゃなくても世の男は大体巨乳好きだ」
「え……!」
何故か愕然とした表情になるティアラ。ぱっと清美から離れると、不安げな瞳が見返してくる。
「お兄さんもそうなんですか?」
「いや、俺は」
「舜ちゃんは貧乳好きやで」
「なんであんたが答えてんだよ」
「そうなんですか」
「そこ、納得しないっ」
清美の発言に騙されて安堵の表情を浮かべるティアラに向けて、弁解を試みる。舜助は自信を込めて断言した。
「違う。俺は貧乳が好きなんじゃなくて、貧乳なことを気にしている女の子のことが好きなんだ! そこらのただの貧乳好きとは一線を画す男なんだよ!」
「いったいどこからくるんや、その自信。声を大にして言うことのもんやないで、それ」
呆れたような不躾な視線を浴びさせてくる清美。ほっとけ。
「あ、そうなんですか。…………じゃあこのままの状態を維持しないといけないのでしょうか、いえどこまでが貧乳の部類に入るか判りませんし、小さすぎるのもやっぱり……」
呆気に取られた様子のティアラは何やらぽしょぽしょと独り言を呟いていた。その声は蚊が鳴くように小さく、舜助には聞き取ることが出来なかった。
「ってそうじゃなくて、話あんだろうが。俺だって暇じゃねぇんだ、俺にはこれから少女マンガを読むという重大な任務があってだな」
「だから今その話をしとるやん。罪には罰を、や」
そう言って何かよからぬことを考えついたのかにやりと笑う。嫌な予感しかしない。
「ほな今から適性検査するからな。質問するから真面目に答えるんやで」
「はぁ? 適性? 何のだよ」
「これはある仕事をあんたに任せるかどうかをウチが判断するための検査や。せやからちゃんと答えよ。質問は検査後にのみいくらでも受け付けたる」
頑固な清美がこう言うからには質問しても絶対に答えてくれない、と経験則で導き出した舜助は黙って頷く。その様子を見た清美は満足げに頷き返すと質問を開始する。
「ええか、いくで! まず質問その一。世界にはキリスト教や仏教など様々な宗教がある。しかし、もし宗教の存在しなかったらこの世界はどうなっていたと思う。答えてみぃ」
質問の意図は全く判らなかったが、一応答える。
「宗教の影響力は凄まじいからな、宗教戦争とか起きるくらいだし。もしなかったら、中東のゴタゴタも魔女狩りも、悪質な新興宗教の勧誘もない素晴らしい世界になったんじゃねぇ。いっそ本当に無くなればいいんじゃねぇかまである」
至極真面目に返答した舜助に清美は問い返した。
「ええ答えやな。せやけどええんか、本当に宗教なくなってしもうたら巫女さんの脇の下ぺろぺろできなくなるんやで」
「それはダメだわ。全言撤回する」
「即答ですか!?」
「いや、だって巫女さんがいなくなったら日本が世界に誇れるとこが、四季がある、くらいしかなくなるぞ」
高速掌返しをした舜助をティアラは「何こいつ。童貞?」みたいな眼で見つめる。十才少女にそんな視線を向けられて胸をときめかせる舜助だった。その二人に構わず清美は質問を続ける。
「質問二! あんたは今砂漠にいます。するとそこに喉を渇かせた人が現れて、あんたに失礼を承知で水をせがんできます。あんたはなんて答える?」
「水がないなら美少女のオシッコろ過して飲めばいいじゃない」
「それなんてマリーアントワネットですか!? 老廃物飲ませようとしないで下さい! その人が可哀想ですっ。」
机をバンッと叩いて憤慨するティアラ。
――架空の人物のことまで気に掛けるなんて優しいなティアは。良いお嫁さんになることだろう、絶対に結婚はさせないけど。
舜助としては真面目に答えたつもりだったのだが。そんな舜助を憐れに思ったのか清美が助け舟を出す。
「舜ちゃん、ちゃうちゃう。なんでろ過するんや。それじゃあただの真水になって意味ないやろ」
「あちゃー、そうか。そうだよな、俺としたことが失念していた。貴重な栄養素を捨てちまうところだった。必要な塩分摂取出来て良い暑さ対策になるのに」
「そして汗も舐めれば塩分補給は完璧やな」
「そういう問題じゃありません! あとそこ、老廃物舐めない! なんなんですか一体。二人とも何意味が判らないみたいな顔してるんですか! 疑問を感じる私がおかしいんですか!?」
捲し立てるようなツッコミを終えたティアラは息も切れ切れに肩で息をしている。その頬は赤く染まっていて、とてもエロスを感じました。
「次、質問三や!」
「まだやるんですか……! 私もう疲れてきたんですけど」
「まだまだいくでぇ! 一般的にゴミを集める車両のことをゴミ収集車と言います。ですが、実は別名があるんや。何て言うでしょうか?」
「はぁ? アレ別名があるのか。なんだろうな…………ニート輸送車?」
「どこに輸送する気ですか!?」
「どこってそりゃ強制的にハローワークに輸送すんだよ。そんでそれでも働く気のない奴は、コンクリートの詰まったバケツに両足突っ込ませて東京湾に放り出す」
「残念! 正解は護送車でしたぁ。舜ちゃんなかなかおしい回答やったで」
そう言って可愛らしくウインクを一つする。ティアラの冷たい眼でドキドキした舜助の心臓は、そのウインクに対しては鼓動を早めることはなかった。
「不正解なのかよ! どっちも似たようなもんだろう」
「ぜんぜん違いますよ!? 護送車はまだ延命の余地がありますけど、輸送車は一歩間違えれば溺死ですよ!」
ティアラの弁は一理ある、と舜助は思った。なぜなら輸送車は運転手の独断と偏見で職業安定所をスルーして、そのまま海まで直行するかどうかを決めるのだから。
「それじゃこれで最終問題や」
「ようやく終わるんですね……」
ティアラの憔悴し切った顔のその蕾のような口から弱々しい声が流れる。ここはお兄さんの出番なのでは、と考えた舜助は素早く膝枕の準備を始める。だがそれもすぐに徒労に終わる。なぜならティアラの傍らにいる女性が蛇のような獰猛な眼でこちらを睨め付けてきたからだ。何コンダだよ。
「自分が思う最低に気持ちわるい台詞の述べよ。裁定はウチがする。参考までにウチの台詞はこれや!」
そう勢いよく言うと清美は傍らにいるティアラに抱きついて、頬付りしながら一言。
「ああ可愛らしい水髪蒼眼の少女よ、お姉さんと一緒に遊ぼか? なあにただの怪しい人や、ふふふ」
そう言葉を切るとふうと耳元に息を吹き掛ける。ひぃとか細い悲鳴を上げたテぃアラは必死に清美を引き剥がそうともがく。
「ちょ、離れてください清美さん! こんなことする清美さんは嫌いですっ」
「ええやんそんな照れんくてもぉ。姫ちゃんの照れ屋さん」
本気で清美のことを倦怠しているのだが、どうやら当の本人はそれを『ツンデレ』と解釈しているらしい。性質の悪い着物美人である。
「そうだな……。じゃあこれでどうだ?」
「ええよ、なんでも言うて?」
小さな手に頬を押さえ付けられながらも清美は先を促す。ティアラが本気で嫌そうな顔をしていたが、舜助はスルーを決め込んでその言葉を厳然と告げる。
「最近、行きつけの幼稚園に不審者が出るらしい」
「負けたぁ!!」
言動で気持ち悪さを表現した清美が即、敗北を認めるほどの攻撃力をその言葉は有していた。悔しさのあまり畳に拳を打ち付ける清美。
「お兄さん、最低ですね。そんなお兄さん、私きら」
「すいませんでした冗談ですだからホント勘弁してください」
冷ややか視線を浴びた舜助はすぐさま体勢を土下座に移行し、真摯に謝罪した。一日に二度も『嫌い』と言われてしまえば流石の舜助も立ち直ることが出来ない。そこに悔しそうに眉根を顰めた清美の判定が下される。
「流石のウチでも敗北を認めざるおえん、変態としての格が違いすぎる。それに残念な感じに性根が歪んどる。おまけに不幸な面して眼が死んどるし、合格や」
「おい、最後の方検査結果じゃなくてただの悪口だったぞ。てか、今ので合格って俺にどんな仕事を任せるつもりだ」
瞬時に顔を上げた舜助は清美を睨め付ける。その視線を意にも介さず、清美は胸元から扇子を取り出して縦に振って広げると、得意げに自分を扇ぐ。その瞳は眼力に溢れ、艶やかな口許から鋭い声が流れる。
「なあに、ただの護衛任務や。一応言っとくがこれは『獏討騎士』志波清美からの依頼や。異論反論抗議質問口応えは認めへんよ」
獏討騎士。それが正式名称であり、その騎士たちが所属するのが獏討騎士団という団体だ。真夜中の空を哨戒しバクを発見次第殲滅するのが主な仕事というより、これだけが仕事内容だ。
清美は偉そうに舜助に言い付けたが、これは別に階級制だとか未だ日本に根強く残っている年功序列が騎士団の内部構造に組み込まれているとかではない。
騎士団は単純な実力主義を掲げており、つまりこの場で騎士、志波清美の申し付けを突っぱねるには実力行使に出るぐらいしか方法がない。まるでバトル漫画の『ここを通りたくば私を倒してみろ』みたいな一見馬鹿らしい仕組みを騎士団は採用しているのだ。だがしかし、これにもそれなりの理由があるのだ。
第一に騎士は基本の哨戒任務で給与が発生し、バクの心臓を騎士団内の技術開発局に引き渡せばその給与に報酬が加算されるという仕組みをしている。まずこれが実力主義を助長させている。
騎士が装着しているスーツは堅牢な装甲と高度な空戦能力を装着者に与える。それはつまり舜助のような高校生でもバクとまともに戦える能力を持てるということだ。言ってしまえば適性さえあれば大抵の人間は才能とか死ぬ気の努力とかしなくてもそれなりに戦えるようになる。そうなると、騎士にとって年齢の高低はさほど重要ではなくなる。したがって年功序列制は邪魔にしかならない。
階級制も細かく決まっているわけではなく、簡単に団長と副団長を決めているだけだ。騎士団は自衛隊やら軍隊ではないから、このぐらいの緩さが妥当なのかもしれない。
その時ちらりと視線を振る。そこには清美の抱擁から解放されたティアラがいる。ほっと一息ついてそっ~と静かに清美から距離を取る。とそこで視線に気付いたのか、こちらを向くときょとんと小首を捻る。
正直言うと舜助は仕事の話をあまりティアラ前でしたくなかった。今回は護衛任務のようだが通常時はバクを殲滅し一般人を守護などと銘打っているが、実際行っていることはただの殺しだ。たとえ異常で異質で異端の存在であるバクも生物の一種だ。食物連鎖的な殺しではない、ただ邪魔だから殺す、『これだから人間は嫌いなんだ』と胸中で呟く。非日常中は意識を戦闘モードに移行することで余計な思考をシャットアウトしているが、日常に戻ればこの様である。
安っぽい罪悪感を胸中に満たした舜助は自嘲気味に小さく笑う。視線の先にある宝石の如く美しい蒼色の瞳に心配そうな色が浮かび上がる。それと連動して小さな唇が動いたので、舜助は咄嗟に視線を切ると騎士清美に言葉を返す。
「おい、異論反論抗議口応えはこの際いいとして質問は後でいくらでもしていいって言ったよな。行き遅れのストレスでついにボケ始め」
「小僧、だまらっしゃい」
瞬感、清美の手が閃いた。続いて風切り音がした。
転瞬、腹部に衝撃。そして激痛。瞬助は身体を丸めて悶絶する。ひとしきり咳込んだ後、腹に直撃したそれを手に取る。それは黒色のいかにも高価そうな扇子。清美の愛用している扇子だが、ただの扇子ではない。『鉄扇』と呼ばれるこれは鉄が仕込まれていて、武器といっても差し支えない攻撃力を有する。
「あれ、おかしいな。ウチはしっかりあんたに女性に年齢の話はすんなと教え付けたはずなんに」
「俺の中じゃあんたは女の類に入んねぇんだよ。けほ、けほっ。質問一、受けるかどうかはちゃんと仕事の情報、主に金銭部分を説明されてから決める。質問二、護衛任務なんてもんが直で一介の騎士である俺に回ってくるはずがねぇ。以上」
なんとか喉から声を絞り出す。痛みに残滓を腹に残しつつ要点を纏めてみた。ちらりとティアラを見ると『今のはお兄さんが悪いです』と眼で語ってきた。ちょっぴり悲しかったです。質問を受けた清美はこちらにその白く細い手を差し出してくる。どうやら扇子を返せということらしい。清美は舜助の手からそれをひったくると広げて自分を扇ぐ。
「世知辛いなぁ。真っ先にお金の話が出てくるあたり流石舜ちゃんやな。薄汚い心をしとる。それで、ああなんで護衛の仕事が回ってきたかって話やな。順を追って説明するとケンゾウ君が護衛任務をアカネちゃんにやらせようとして、そのアカネちゃんがウチに丸投げしてきてそんでウチは面倒くさそうやったけど一応お仕事だからと思うて護衛対象に会いにいったんやけど、何故か毛嫌いされてて。これはウチの手に負えんと判断して今に至るわけよ」
上手く簡略化されかつ非常に理解しやすい説明であった。そのケンゾウ君とアカネちゃんとやらはおそらく団長と副団長だろう。何度か清美が電話口でその名前を口にした所を目撃している。そしてアカネというちゃん付けされていることから女性だろうと推測される。理解は出来た。これが舜助ならこうも上手く纏められはしなかっただろう、だがしかし。
「……大体判った。でだ、上の二人はいいとして」
そこで言葉を切り、真っ直ぐに力強く清美を指差す。当の本人は不思議そうに軽く首を傾げている。その姿を目にした瞬間、舜助の堪忍袋の緖が切れた。舜助の口から苛立ちの混じった声が放たれる。
「ほとんど丸投げじゃねーか! 諦めつけるの早過ぎるだろっ。絶対その護衛対象になんかしただろ! 言えッ、言うんだ!!」
尋問官よろしく舜助は問いただす。誠に遺憾ながら志波清美は見てくれだけは良く、黙っていれば充分に美人の部類に入る容姿をしている。だから少なくとも初対面の相手に毛嫌いされることはないはずだ、清美が自らの評価を貶めるようなことをしなければの話だが。
清美はほんの数秒思案顔になると、首を捻りつつ返答する。
「んー別に何もしとらんけどな。事前に会う約束もしとったし、それなりにおめかしもしとったしなんら不備はなかったはずやけど。……強いて挙げるとするならアレやな」
言葉を切るとお茶目に小さくぺろっと舌を出すと、綺麗にウインクした。
「電話で会う約束取り付けたから実際に顔を合わせるのは初めてやったんよ。そんでその娘の家でご対面したんやけど、えらく別嬪さんでなぁ。思わず襲っちゃいました、てへっ」
「それが原因だろどう考えてもッ!」
「痛っ!」
的確な角度と速度から放たれた見事なまでのチョップだった。流石にティアラもこれはやられて当然だと思ったのか何も口出ししなかった。清美は頭を擦りつつ、その黒い瞳に涙を浮かび上がらせながら言い訳してきた。
「だってぇその女の子とっても可愛いかったんよ。姫ちゃんとタメ張れるくらいの美人さんやったの。むしろ珍しくウチが仕事したんやから褒めてぇよ」
「自覚あるんだったらいつも真面目に仕事しろよ。あとこれだけは言わせてくれ」
舜助はその声に確固とした意思を漲らせて声高らかに宣言する。
「ティアと肩を並べるほど可憐で華麗な容姿をしている奴なんて二次元にしか存在しない! 少なくとも三次元にはいないと俺は断言する!!」
「ちょ、お兄さんっ。そんなこと大声で言わないでください! 恥ずかしいですからっ」
頬はおろか耳まで真っ赤にしたティアラが恥ずかしそうに慌てていた。対して清美は舜助に冷めた視線を送ってくる。
「いや、流石にそれはないわ。ロリコンもここまでくると害悪でしかないね。あんた今、警察に通報されてもおかしくない発言しよったよ」
「うるせぇ、事実なんだから仕方ないだろ」
そうこれは変えようのない真実なのだ。だからたとえ警察に連行されようともこの発言を覆す気は毛頭ない。ティアラはもう諦めたのか浮かしていた腰を落とす。まだ顔の熱は去っていないようだ。
「理解しとると思うけどこれは団長が考案した任務や。ウチも旧友たちからの信頼を無碍にはしとうない。報酬はこれでどうや」
そう言って清美は振り袖から取り出したそろばんを弾くと、こちらにしなだれかかりながらその額を提示してくる。柑橘系の香りが鼻腔を掠めた。
「はっ!? おいおい冗談だろ、通常の巡回警備の給料より倍はいってるぞ。もしかしてこの仕事相当やばい橋を渡るとかじゃ」
「もぉそうやってすぐ損得勘定するぅ。悪いことじゃないけどな、騎士としてはむしろ長所や。そう、これはただの護衛任務ちゃうねん。今のところ期間無制限の仕事や」
「……どういうことだ」
思わず声が低くなる。この仕事、かなりスケールがでかいのではないかと勘繰る舜助。清美は身体を離すと居住まいを正して説明を続ける。
「任務が、というよりその護衛対象が特殊というか特別というか。……話変わるけど、今日の午前二時に舜ちゃんとよ、よ……縁君やっけ? 二人で二体のバクを撃退したよな」
その言葉に机を挟んで舜助の正面にいるティアラが表情を強張らせる。思わず舜助は声を掛ける。
「ティア」
「大丈夫ですお兄さん。清美さん続けてください」
ティアラはにこりと少し硬い笑顔を見せると、清美に先を促す。その表情を清美は気遣わしげに見つめていたが、気を取り直すに咳払いをすると説明を再開する。
「戦争終了からもう半年経つけど、この半年間、日本の空で一夜にバクが一体以上確認されたのは今回の件が初や。この事態を受けて団長は迅速に技術開発局にこの街を含めた近辺の市街を調査させた。流石にわずか数時間で原因の究明は出来へんかったけど、ウチはその情報を聞いてピンときてな。早朝に副団長も含めて三人で議論した。そしてある一つの仮説を立てた」
真剣な声音でそこまで説明した清美は人差し指を立てて見せる。舜助は今の説明を斟酌し、そしてその仮説に行き着いた。思わず口から呻き声が漏れる。
「なっ……!? まさかその女の子が……! 確かにバクはより強大で強烈な夢想に引き寄せられる習性を持ってるけどよ……その子の元、つまりこの街に集まってきているってことか」
「察しがええな、流石ウチの弟や。その通りや、その結論にはウチらもすぐに辿り着いた。そこでまず副団長に白羽の矢が立った」
「だけど副団長様はそれを拒否して、そんで今度は姉貴にそのお鉢が回ってきた、と……」
「あの……質問していいですか?」
そこにティアラがちょこんと挙手する。清美が頷くと遠慮気味に口を開く。
「お話は判りますけどそれなら考案した団長さんが受け持てば良いのでは? それか近隣のほかの騎士さんたちに委託するとか」
もっともな意見である。しかし何故だろう、ティアラの声がいつもより冷たいというか刺々しい気がする、と思った。舜助はティアラの意見も取り入れた上で発言する。
「まぁ団体とか組織の長は大概多忙なんだよ、何してるかは知らんけど。まぁ確かにそうだな、護衛任務なら俺みたいな中~遠距離型の騎士より近接戦闘型の騎士の方が合ってるんじゃねぇか」
「ん~ウチも最初はそう思ったんよ。ウチはバリバリの近接型やからそれ知って副団長もウチに丸投げしたんやろうし。まぁあの子の性格考えたらただ面倒くさいからってだけな気がしないでもないけど。とにかく一度ウチはそのこと団長に進言したんよ、梅や竹ランククラスのバクならウチじゃなくてもええんじゃないかって。何より面倒くさかったし」
「おい。三人中二人が面倒くさがりってどういうことだよ。俺ちょっと団長に同情を禁じ得ないんだけど」
「まぁまぁ待ちな。舜ちゃんはせかっちやなぁ。話はここからや。ウチが言うたら団長少し黙考した後、こう返してきたんよ。流石のウチも驚嘆したわ。アカネちゃんも目ぇ白黒させとったし、あの子の驚く顔は中々見れへんで」
そこで口を噤む。場に奇妙な沈黙が満ちて清美を除いた二人は固唾を飲んでその先を促す。清美はその二つの緊張した視線を受けて間を空けてからついに口を開く。
「『これは憶測の域を出ないが、それこそ確率は一パーセントにも満たないかもしれない。だが、もしかすれば近い内に松ランクのバクがその彼女を狙ってこの街に来るかもしれない』ってな」
水を打ったような静寂が場を満たした。溜められた水の重さに耐え兼ねた竹筒の尻が岩を叩きカポン、と鹿威しの清明な音が縁側の向こうの庭から聞こえてきた。風鈴がチリンと風涼な音を鳴らす。
「……流石にそれは、冗談だろ……?」
「わ、私もお兄さんと同意見です……。憶測ですよね?」
舜助とティアラは唖然とした表情で問い掛ける。当の清美は平素と変わらない声音で答える。
「彼はそんな冗談とか妄言を好む人やないねん。それに彼の勘、恨めしいほどによお当たるんよ」
「……その女の子の夢は、その想いはそんなにすげぇのかよ。バクを視認出来る人間はそれだけでその持ってる夢を誇っていいくらいだがよ、何だよその女。ノーベル賞クラスのもん抱えてんのか」
「それは……判らへんな。そういうのはデリケートな問題やから教えてもらえんかった」
いやそれ姉貴が教えてもらう前に襲ったからだろ、というツッコミが口を突いて出ることはなかった。それほどまでに今の舜助には余裕がなかった。
夢を喰うから『バク』と名付けられたあの騎士姿の異端者。安直なネーミングセンスではあるが、その名には畏怖が含まれている。その理由はバクに夢を喰われた人間は一種の無気力状態になるからだ。夢を喰われた者はその記憶とその夢に懸けた意思、つまり情熱をも食い去られてしまう。
基本バクは呼吸するかのように睡眠中の人が見る夢を食べる。この行為は人の住んでいる場所の上空を駆けるだけで行うことが出来る。だがもちろんこれだけで腹が満ちることはなく、また自己の強化も含めて夢想を喰う。
喰われた夢が強大であればあるほど損失した時の反動は大きい。睡眠中の夢を食べられた人間は起床するのが少し億劫になる程度で済むが、それ以外は廃人のような状態に陥る。生ける屍のような状態になれば放っておけば餓死か病気で死亡してしまう。その無気力期間は一週間で済む者もいれば半年、一年のもいるし最悪一生の場合もあり個人差が大きい。
そして最も厄介なのが廃人になりながらも気力を残した者だ。その気力が廃人からの復帰に使われることなく、心に穴が空いたような虚無感、絶望感から逃れようと残った気力を自殺の労力として使用してしまうケースが往々にしてある。あの時横須賀が言った人の命がなんたら、という台詞は決して誇張ではないのである。
そんな努力する者の天敵のような存在であるバクは獏討騎士団内でランク付けされていて、日本では上から松・竹・梅と分かれている。そしてさらに細分化して上・中・下、と分けられる。海外ではレベル1から5とか、ステージⅠからⅤなどと分類されている。
舜助たちが戦ったのは梅の上と竹の下クラス。この判断は心臓だったあの結晶を解析して得たデータから判定している。
そして件のバクは松クラスときたのだ。
舜助は衝撃からなんとか立ち直るとおもむろに口を開く。
「松クラスは別格だ。竹と梅が可愛く見えるくらいの恐ろしさだ。あのクラスはそれぞれ剣などの近接武器の他に特殊能力を有していると聞く。その圧倒的な力量はまさに一騎当千」
それはつまり、騎士千人が纏めて戦っても倒すことが不可能と言うことを意味する。そんな化け物がたった一人の女を狙ってこの街に襲来するやもしれんと言うのだ。
表情を硬くする二人を気遣ってか、清美は軽い調子で付け足す。
「そんな深刻そうな顔せんでも、まだそう決まった訳やない。それに、その危険性を含めても今回の案件は舜ちゃんにとっては開いた口へ牡丹餅言うてもええぐらいやで」
その声で驚愕から立ち直った舜助は訝しげに眉根を寄せる。
「なんでそうなる。松ランクを相手取るならそれこそ姉貴が受けるべき案件だろう? ……あ、そうか嫌われちっまってそれが出来ないのか。チッ、使えねぇな」
「かんにんなぁ、舜ちゃんっ。ウチだってこうなるかもしれんって知ってたら襲ったりせんかったよ」
瞳を薄く濡らし舜助に泣きついてくる清美を、ひょいっと躱す。背後でむぎゅと奇妙な呻き声がした。そちらを気にせず「それに」と舜助は続ける。
「この仕事はリスクとリターンが全然吊りっ合ってない。俺は金が好きだが命を捨ててまで得ようとは思わねぇ、生きてなきゃ使えねぇしな。ここはもういっそのこと松ランクにその子の夢喰わせれば良いんじゃねぇか。やることしたらこの街から去ってくれるかも、だぜ」
事がそう穏便に済むとは到底思えず、あまりに楽観的思考であると舜助は理解していた。それでもこんな無責任な発言をした、それは一重に面倒くさかったの一言に尽きる。金にうるさい舜助ではあるが、ギャンブラーではないのだ。
そんな舜助にティアラは柳眉を逆立てて厳しい口調で言う。
「お兄さん、お言葉ですが本当にそんなことをしてしまえば最悪の事態が起きるやもしれません。あと、お兄さんは危険な目に遭うかもしれない女の子を見捨てるような人なんですね。失望しました、お兄さんがそんな薄情な人だったなんて」
凍った眼で口から冷たい息を吐くティアラ。舜助はうぐっと喉を詰まらせ、自分の失態を深く反省する。つい横須賀のような人間の前でのみ吐き捨てる言葉を口にしてしまった。そこで舜助は事の重大性を真に理解した。
その件の女の子の夢を喰わせるということはつまり、ただでさえ強大な松ランクのバクを更に強化させてしまうということだ。下手をすればどの騎士でも太刀打ち出来ないくらいレベルアップするかもしれない、それだけの可能性がその少女の夢にはある。
損得勘定と自己保身を何より重視している(それはもう矜持の域にまで達する)舜助は、このような状況に陥ってもまだ渋っていた。そんな様子を好機と見たのかティアラはさらに追い打ちを掛けて来る。
「私、女の子を守る紳士的な人が好みなんです」
「よし、仕事を受けよう。護衛の日時と護衛対象の住所、それと要人の情報を可能な限り教えてくれ、大至急だ。早くしろ、俺は暇じゃないんだッ」
高速の心変わりだった。いや、あんな愛らしく庇護欲をそそるような眼を見てしまえばむべなるかな、という奴だ。あの瞳は例えるとすれば犬ならチワワ、猫ならマンチカン並みの破壊力を有していた。
舜助の鬼気迫る表情を見て、清美はまるで一線を引くような冷めた眼をした。
「このロリコンほんま気持ち悪いわぁ。迅速に殺処分しないといけんレベルの気色悪さや。おどれ何でまだ生きてんの……。まぁええわ、やる気出してくれたんならウチとしても好都合や。……任務開始時刻は今日の夜八時からで住所は地図渡したるから自分で行け」
そこまで説明された所で舜助は非常に難しい顔をしながら口を挟む。
「八時か……。学校終わったら真っ直ぐ帰ってきてすぐ飯作らないとな。ティアラ一人には任せておけない」
「なっ!? お兄さん、私を見くびってもらっては困ります。一人でもちゃんとできますっ」
ティアラはバンと机を叩いて腰を浮かすと、自分の胸に手を置いて主張する。その様は強がりにしか見えなかった。いやしかし、ティアラは十才の女の子にしては大人びており自立心が高い。一人で調理くらいは出来るだろうという判断をしても良いくらいしっかりしている、のだが。
――少しドジなんだよなぁ……。
どのぐらいドジかと言うと、志波家は全ての部屋が和室なくらいの和風家屋であるのだが、台所のコンロはIH仕様なのだ。にも関わらずつい先日、ティアラは中華鍋を購入してきた。使用出来ないことを知ったティアラは「炒飯作りたかったです……」と呟いていた。料理好きなら一度は憧れる調理方法である。
少し前には新しい鍋が欲しいと言っていて、どのくらいのサイズかを訊いたところだいたい18インチか20インチくらいという答えが返ってきた。
車のホイールよりでかいぞ、それ。
「名前は平沢氷華。ギター少女の平沢に氷の華と書いて平沢氷華や」
マイペースに話を続ける清美の口からその名が流れた時、舜助はわずかに眼を剥いた。知っている名だった。舜助の通う市立貝塚高校の生徒だ。
平沢氷華。二年I組に所属する女子生徒。中間考査、期末考査などのおよそテストと名の付くもので学年一位に鎮座する成績優秀者。深窓の令嬢というあざ名を有する所から類い稀なる容姿をしているのだろう。だろう、というのは休み時間毎に仮眠を取る舜助はその姿を見たことがないからだ。
「可愛ええその子と密室で二人きりなんて羨ましい限りやわ」
そう言って清美は自分の愚行を悔いるように歯嚙みする。
「密室トリックか……」
その呟きからいかに舜助が恋愛やら青春から縁のない生活をしているかが伺える。舜助に対してティアラは戦慄とした表情になる。
「ちょっと待ってくださいっ! 二人きりってその平沢さんという方は一人暮らしをされているのですかっ」
「ええ、そうやで。高級タワーマンションの最上階で一人暮らしをしているお嬢様や。とびっきりの美人さんよ」
何故かどや顔でそう語る清美。対してティアラは鋭い声で舜助に命令する。
「お兄さんこの仕事断ってください」
「なんだその高速掌返しは?」
「だって二人きりですよ! 夜の密室で……。何かあったらどうするですか!?」
顔を真っ赤にしてそう言い募るティアラ。その様を見て清美はにやりと笑い、ささっと詰め寄る。
「なんや何か起きるんかぁ。エロいことでも考えたんか? 顔が真っ赤やでぇ。詳しく言ってくれんとお姉さんわからんわぁ?」
親父くさい表情でからかいに掛かる。実に楽しそうである。ティアラは答えに窮するかのようにあうあうと口をわななかせる。舜助はティアラに助け船を出すと同時に話を切り上げる。
「ある程度は判った。じゃあこの話はここで終わりだ、俺は仕事の準備にかかる」
そう言って立ち上がろうとした舜助。しかしティアラに尋問していた清美は素早くこちらにすり寄ってきたかと思うと、耳元にその薄い赤色の唇を近づけてきた。そこから漏れたのは刃のように研ぎ澄まされた声だった。
「報告は逐一してな。ウチも一応気にかけるけどもし松ランクを発見したら緊急用通信飛ばしてな、すぐ駆けつけたる。それと彼女と舜ちゃん、中々相性ええと思うで。…………ウチは舜ちゃんの仕事のやり方には口を出さん。けどなこれだけは言っとく。……仕事に私情を持ち込んだらあかんで、いつか死ぬであんた」