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翌日

こんなに朝早くから台所に立つのははじめてかもしれない。

そもそも、台所に立つこと自体、滅多にないし。

料理のスキルなんてないけど、何を作ろうとしても失敗するというほどの不器用でもない。単に今までやってこなかっただけ…だと思う。

「えいっ」

フライパンの上に、卵を割る。

わたしが思いつく『朝食の定番メニュー』の中で、一番簡単に作れそうなものを作るつもりだ。

「ちょっと蓋をするとよかったんだっけ…?確か、黄身の膜が…なんだっけ」

小学校の調理実習で習ったことを思い出しながら…でもほとんど忘れていた。だって、7年くらい前のことだ。

「…とりあえず、なんかそれっぽいのができればそれでいいよね」

そんなクオリティを追求するほどのメニューでもないし…と言ったらこだわりのある人に怒られてしまうかもしれないけど。

「…よし、お皿に移そう」

そうしてできた二人分の目玉焼きに、トーストとちぎったレタス、ミニトマトを添えて。

一皿は食べて、もう一皿はラップをかけて、リビングのテーブルの上に置いた。


朝起きたら、思ったとおり両親はいなくなっていた。

紅華は、昨夜遅くに出掛けて行ったきり、帰って来たのかどうかすらわからない。

書斎にはいなかったから、いるとしたら寝室だろうか…?ちょっと、覗いてみる勇気がない。

まぁ、そういう人って夜行性なイメージだし、寝ているのだとしたら、寝かせておいてあげよう。

紅華が寝ている姿なんて、想像できないけれど。

「行ってきます」

誰に言うでもなく、玄関で呟く。

大学までは、電車、地下鉄、バスを乗り継いで2時間はかかる。

今日は1限から講義が入っているので、かなり早く家を出ないと間に合わない。

お弁当も作るつもりだったけれど、そんな時間もないし、まぁ学食でいいだろう。

玄関の扉を閉めて、鍵を掛ける。

そういえば、紅華はこの家の鍵持ってないけれど…彼にそんな心配、するだけ無駄か。

最寄り駅までは、徒歩15分ほど。

家から出さえすれば、そこは、いつもと変わらない日常だ。



今日の講義は3限まで。それから2時間かけて最寄り駅まで帰って、近くのスーパーで閉店時刻の8時までレジ打ちのバイト。

バイトを終えて家に帰ると、8時30分を過ぎていた。

外から見る限りだと、部屋の明かりは点いていないようだ。

鍵を開けて、玄関の扉を開く。暗い。やはり、人の気配は感じられない。

廊下を進み、リビングの扉を開いた。

「ただいま」

わたしがそう言えば、台所に立っている母が、おかえりと返してくれる。いつもなら。

人の気配のしないリビング。ただ、暗い。

「……夕食」

昨日だけのつもりだった。

今日も、作らないと。

「おかえりー」

「!!」

突然の声に驚いて振り返ると、わたしの真後ろ扉の向こうの廊下、暗闇の中に、紅華が立っていた。

「…いたんですね」

さすがと言うべきか。全く気配を感じなかった。

「うん」

紅華は笑っている。

「電気、つけていいですか?」

「もちろん。どうぞ?」

一応了承を得てから、リビングの電気をつける。

「朝ご飯ありがとう。食べたよ」

「…そう、ですか」

リビングに入ってソファの横に荷物を置く。紅華もわたしの後に続いてリビングに入って来た。

「できればお昼も欲しいかなぁ。せっかく滞在してるんだしさ」

「……」

昼食も作る予定だった。でも朝食を作るだけで思った以上に時間がかかってしまって、結局作れなかったのだ。

「明日からは」

明日は2限からだし、今日より時間はあるだろう。1限からの日は…頑張って早起きしよう。

「今日はバイトだったんだっけ?お疲れさま」

リビングから台所へ向かうわたしを見ながら、紅華はそんなことを言った。

「….どうして知ってるんですか?」

「そりゃまぁ…調べるよね?一番都合のいい日を知るためにも」

紅華は飄々と笑っている。

「それが、昨日」

「そう。君が早く帰ってくるの、想定外だったんだよ」

昨日は、4限が休講になって。

いつもより1時間30分早く大学を出たから。

「…もしわたしが、いつもと同じ時間に帰って来ていたら…」

「あのあと本当はすぐに掃除屋呼ぶつもりだったからさ、何もなくなってたんじゃないかな」

今日の朝を思い出す。そして今、台所越しにこの部屋を見渡す。

本当に、なにもなくなっている。カーペットに染み込んでいたはずの赤も、全部綺麗になっていて。本当に、全てが元通り。

「それは…」

冷蔵庫から、昨日食後に追加で切ったカレーの具材を取り出しながら。

「怖いですね」

考えた。もしそうなっていたら、きっと紅華に出会うこともなかったのだろう。

「どうして?」

紅華は、相変わらず笑っている。

「無知って、怖いです」

何も知らずに生きていくこと。考えただけでぞっとする。

「あの時間に帰ってきて良かった」

具材を炒めて、鍋で煮込む。昨日と同じ手順で。

「もっと早く帰って来ていれば両親を助けられたかも、とか思わないんだ」

「それは…」

冗談のつもりなのか。

「死体が一つ増えるだけでしょう」

まぁ、それでも構わなかったのだけれど。

「さすが」

彼の望む答えを返すことができたのか。紅華は楽しそうだった。

「わかってるね」

当然。

そう思いながら、わたしは鍋にシチューのルウを入れた。


今日はバイトで帰りが遅くなるので、簡単に作れるものにしようと思っていた。

考えた結果、昨日の具材でルウを変えただけのシチューを作ることにした。

パンをトーストして、野菜サラダのかわりにブロッコリーを茹でて…これだけあれば充分だろう。

「できました」

それぞれ二人分、テーブルに並べる。

「わお。今日は手抜きだねぇ」

「…時間がなかったので」

料理の不慣れなわたしが一から作っていたら恐らく食べられる頃には10時を過ぎてしまうだろう。

そう思って、自分なりに工夫してみたつもりだったのだが。

「あ、べつに不満言ってるわけじゃないよ?」

「時間かけて遅くなるのと、早く食べられるように簡単に作るのと、どちらがいいですか?」

嫌味ではなく、単純に疑問に思ったのできいてみた。

「どちらでも。俺は夜行性だし、どれだけ遅くなっても構わないけど。君の都合で決めればいいよ」

けれど、紅華の返答はとても無責任なものだった。

「…じゃあ、その日のわたしの気分で」

「りょーかい」

そうこたえて、紅華は席に着く。

それを見て、わたしも席に着いた。テーブルを挟んで、紅華の向かい側。

「いただきます」

紅華はそう言ってスプーンを取った。昨日も思ったけれど、見かけによらず律義だ。

「…いただきます」

わたしも彼に続いてそう言うと、スプーンを取る。

「うん、今日も美味しいよ」

「…シチューの味がしますね」

わたしが味付けをしたわけではない。

シチューのルウの味だ。普通に美味しい。

「…君ってさ、冷めてるよね」

紅華が呆れたような声で言った。

「そうですか?」

「いや、冷めてるっていうのとは違うのかもしれないけど。大学ではもっと表情豊かじゃん?」

「………」

彼はわたしの大学での様子まで知っているのだろうか。

「家族の前でも、もっと楽しそうだったよね」

「…詳しいですね」

いくらなんでも詳しすぎないかと思う。徹底的に調べる主義なのか。

「君ってさ、今緊張してないでしょ?」

紅華はトーストを片手に持ったまま、わたしの顔を覗き込むようにして尋ねる。

「緊張する必要なんてありませんから」

「まぁ、君にとってはそうなんだろうけどさぁ」

そう言って、紅華はトーストにかぶりつく。

わたしもシチューを口に運ぶ。

「俺といるときが一番楽そう、って、おかしくない?」

わたしは口にスプーンを咥えたまま、思わず一時停止した。

「…そう、見えますか?」

けれどすぐに気を取り直してスプーンを進める。悟られないように。

まぁ、無駄だろうけど。

「今どき社会で自分取り繕うなんて珍しくもなんともないけどさ」

「…取り繕う必要もないほど心底どうでもいい相手ってことですね」

そういうことなのだろう。紅華に対して自分を取り繕ったって、何の意味もない。

「そういうことなんだろうね。君にとっては」

紅華は全く気にした様子もなく、トーストをかじっている。わたしも気にせずスプーンを進める。

「でもさ、外では君は無理して対人用の自分を作っているわけでしょ?」

最期の一口を口に放り込むと再びスプーンを取り、残りのシチューを食べ始める。

いつの間にかブロッコリーも食べ終わっていた。男の人って食事のスピードが速いとおもう。

「それだけ君はこの世の中に未練があるってことだよ」

「……!」

今度こそ、わたしは完全に動きを停止させた。

「わかった?だからさ、どうでもいいなんて嘘だよ」

「…そんなこと…」

彼は面白そうにわたしを見ている。その様子になんだか苛立つ。

「…どうでもよくても、自暴自棄になんてなりませんよ。わたしは」

「それは理想があるってことだよね」

「………」

言い返せない。わたしは再びスプーンを動かし始めた。

「そういうのってさ、面白いと思うよ」

「そうですか」

そうこたえながらも、わたしはスプーンを動かし続ける。苛立つ。

「君、今怒ってるね」

彼はシチューの最後の一口を口に運んだ。

「君の感情を動かせたこと、ちょっと嬉しいかな」

そう言った後、ごちそうさまと言い加えると、紅華は席を立った。

わたしはまだ半分も減っていない自分のシチューを睨みながら、スプーンを運び続けた。



食器を片付ける。明日の朝食と昼食の準備をする。

前日に最低限のことはやっておかないと。今でもかなり朝は早いほうなのに、これ以上早起きするなんて無理だ。

紅華は二階に上がって行ったきり。書斎にでもいるのだろうか。

様子を見に行こうなんて思わない。好きにすればいいと思う。

頭を切り替えて、作業に集中する。

明日の昼食はサンドウィッチにしようと思う。そのために、具材を切っておく。

朝は…どうしようかな。今朝は目玉焼きだったから明日は…スクランブルエッグ?

スクランブルエッグなんて作ったことあっただろうか。こうやってメニューを考えてみると、自分が今までどれだけ料理を作って来なかったか思い知らされる。

「……毎日作ってれば上達するのかな」

せっかくの機会だし、利用してやろう。これを機に、料理上手に。

「こんなものかな」

ハム、キュウリ、トマト、茹で卵。

冷蔵庫に入っていたものでサンドウィッチの具になりそうなものを切ってみた。

お皿にのせてラップをかぶせて、冷蔵庫に入れておく。

「………」

ついでに、冷蔵庫の中を確認してみる。

今はそこそこ食材が入っているが、いずれ買い足さなくてはいけなくなる。

「…お金」

とりあえず母や父の財布に入っているものを使うとして、その後はどうするか。

「貯金とか…あるのかな…」

にしたって口座もなにもわたしにはわからない。

一応バイトはしているけれど、大学の時間割の関係上お小遣い程度にしか稼げない。

「………」

なんとなく気に入らないけれど、そのうち紅華に相談してみようか。

そう決めて、わたしは冷蔵庫を閉じた。



その夜。

なかなか寝付けなかったわたしは水でも飲もうかとベッドを抜け出した。

二階の自室から廊下へ出て階段を降りる。

リビングに入ると扉横のスイッチで部屋の明かりを付けた。

そして冷蔵庫の前まで行くと、水の入ったペットボトルを取り出して自分のコップに注ぐ。

リビングの壁に掛けられた時計を見ると、針は午前2時過ぎを指していた。いい加減寝ないと朝が辛くなる。

コップの水を一気に飲み干してペットボトルを冷蔵庫に戻す。

冷たい水に余計目が冴えてきた気がする。ホットミルクでも作るべきだったか。

そして目的を果たしてリビングを去ろうとしたとき、

扉の開く音ーーー玄関の戸の開く音がした。

「紅華さん…?」

何も考えず、ただ、おそらく彼だろうと思って、わたしはそのまま玄関へと向かった。

「ただいまー。まだ起きてたんだ?」

暗い玄関。黒い人影。その人影が呑気な声でそう言った。

「…おかえりなさい」

そうこたえて、ようやく気付く。

彼は、何をしに行っていた?今明かりを点けたら、黒い人影は何色に変わる?

「そのうちこの町から人がいなくなっちゃうんじゃないですか」

「同じ場所で短期間に何人もやらないよさすがに。結構遠くまで行ってきた」

暗くてもわかる彼のロングコートの光沢は、おそらくコートが濡れているから。

「それなのにわざわざ帰って来たんですね」

「まぁ、せっかく滞在地を作ったんだし?」

きっといろんな場所を行き来するのだろうに。滞在地など不便なだけではないのか。

「…コート、毎日変える気ですか?」

「これねー。今日はそんなつもりじゃなかったんだけど、楽しくなっちゃってつい。あ、でも今日はそこまでじゃないよ?」

昨日もダメにしたと言っていたのに。一体何着持っているのだろう。

「…あの」

ふと、思い付いた。

理由なんてない。ただ…そう、せっかく滞在地を作ったのだし。

「出かける前に何時ごろ帰るか言ってもらえれば、お風呂沸かしておきます」

こんな夜中にシャワーはさすがに寒いだろう。

「こんな深夜でも?」

そう言った紅華の表情は、暗いせいでよくわからない。

「出かけるときわたしが寝ていたら、起こして帰りの時間を伝えてください。帰ってくる時間には起きて待ってるので」

「…予約のタイマー付いてるでしょ?」

確かに。

わざわざわたしを起こさなくても、帰ってくる時刻にタイマーを設定しておけばいいだけ。

「…わたしを起こすこと、面倒じゃなければ」

「君の寝ている部屋に入っていいってこと?」

「……」

確かにそういうこになる。わたしは少し考えた。

「ノックしてくれれば…起きます」

よほど熟睡してない限りは。

「それにわたし、結構遅くまで起きてるので」

今日だって、こんな時間まで起きていた。

「紅華さんが面倒じゃなければ…よければ」

ご飯だけじゃなくお風呂の準備まで…しかも自分から。

なんだか急にいたたまれなくなってきた。

「…お風呂沸かしてきますね」

紅華が返事を返さないのをいいことに、わたしはその場から離れた。

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